第9話 ドッグファイト・パニック

 地上まで目測で千メートルくらいになった時、それまで耐えていた高さの恐怖がまたぶり返してきた。


 地上が近くなればいろいろなものがはっきり見えてくる。


 そのリアルさがかえって高さを意識させてしまうのである。飛行機でも高空を飛んでいる時より眼下の家々に手が届きそうな離着陸の時の方がひやりとするのと同じだ。


 いったん停止して気持ちを静めようとしても荒くなった呼吸はなかなか落ち着いてくれなかった。


 ここでばたつくと一気に墜落ということになりかねないので懸命に「落ち着いて、落ち着いて」と自分に言い聞かせる。


 が、そこで気がついた。


 降りるって、いったいどこに降りればいいんだろう。


 ここは都市部の一応は人口密集地だ。山の中と違って人目は多い。こんな時間に空から人間が降りてきたらたちまち目撃されて大騒ぎだ。高いビルの屋上でさえ誰が見ているかわかったものではない。


 といって人目につかない山の中だと今度はひびきの方に土地鑑がない。降りたはいいがバス停ひとつ見つからないのではやはり困る。


 街の中かその近くで人目につきにくい場所となるとあの市民公園の森の中が好都合だが、先ほどのドタバタのせいであそこには当分近づきたくない。下手するとまたあの連中とぶつかるかもしれない。それはいよいよもって嫌だった。


 ではどうしよう。


 学校は? 休日とはいえけっこう部活の子がいる。思いきって体育館の裏あたりにすばやく着地する手もあるが、なにもかも初めてに等しいひびきには急な加速やストップの自信がない。


 失敗すれば地面に激突して墜落するのと同じだ。


 ううーん、と考え込んだところで右手の方からかすかな機械音が聞こえてきた。


 さっと目をやるとたちまち拡大された視野の中に一機のヘリコプターが飛んでいた。かなり距離があるので見つかる心配はなさそうだったが、同時に閃いたものがあった。


 そうだ、飛行場!


 速水市の郊外には中規模のローカル空港がある。あそこなら広い割に人間は少ない。ターミナル付近はともかく滑走路の外れなら二、三キロは離れているからさっさと降りてしまえば問題ないはずだ。


 見つかっても地上を走って逃げることならもうかなり自信がある。よしそれでいこうと決めた。


 ヘリの方もどうやら空港に向かっているように見えた。ざっと二百メートルほど下を飛んでいたし距離もある。不用意に近づかなければ大丈夫だろうと思ってついていくことにした。


 はっきり目に見える目標ができたせいか自然にスピードが上がるのがわかった。


 視線をヘリに固定しているおかげで高さの恐怖もいくらかやわらぐ感じがする。


 スピード自体はもっとアップできそうだったが、風の抵抗も大きくなって体は自然と前傾する形になった。


 なるほど、どうりでスーパーマンやウルトラマンがあんな姿勢で飛ぶわけだ、と妙なことで納得する。


 ようやく地上へ降りる道筋が見えたような気がする。


 事態が急変したのは滑走路の白いマーキングが見えて安堵しかけたその時だった。


 そのまま空港に向かうと見えたヘリが急に反転するとこちらへまっすぐに近づいてきたのである。


     ※※※


 一瞬とまどったひびきはズームアップされた相手の機体に今まで気づかなかった文字を見つけて息を呑んだ。


 ○○県警察本部と読めた。


 別に悪いことをした覚えはないが、今の状況、そしてパトカーに追いかけられた今日の記憶が頭の隅をよぎって動転した。


 考える前に「わっ」とあわてて反転する。


 見つかったと思った。それも相手は警察だ。理由はともかく接近されると非常にやっかいなことになりそうな気がした。スピードを上げてその場を離れながら「まずいよ、どうしよう」とそればかりが頭の中を回っていた。


 航空管制などになんの知識もないひびきは知らなかったのだ。素人には想像もつかないほど空の交通整理が緻密に管理されていることを。


 無許可の航空機が勝手に飛び回っていればたちまちレーダーに引っかかって警告を受けることになる。


 管制から自機のすぐ後ろに未確認機が飛んでいると知らされた県警のヘリが反転してきたなどとはもちろんひびきの知らぬことだった。


「やだ、追いかけてくる!」


 まだ千メートル近く離れていたはずだが、なまじ拡大して見えるのですぐにも追いつかれそうな気がして焦った。あわてふためいて「いやあ、来ないでえ」と叫んだとたん、轟っと風が鳴った。


 ぐっと息が詰まって体中が締めつけられると同時に目が回る。


 さっき空に飛び上がった時と同じようなめちゃめちゃに振り回される感じがして周囲の景色もろくに見定めることができない。かろうじて気を失わなかったのは気絶=墜落と連想したおかげだろう。


「やめてやめてやめてー」


 夢中で叫んだところでそれらの激しい揺れがぴたりと止まった。


 おそるおそる目を開けると周囲の景色が一変していた。


 あのヘリコプターの姿はどこにもなく、まわりには大きな雲がいくつも浮いていた。太陽の光を直接浴びたその陰影が恐ろしく鮮明で美しかったが、下を見たひびきはまたおなじみの感覚に襲われた。


 少なくとも自分がさっきよりだいぶ上空まで駆け上がったことは間違いない。高所恐怖症のもたらすこわさや気持ち悪さはすでにピークに達していた。


 ——警告する——


 はっとした。またぞろパニックの芽が育ちつつあったところへ冷水を浴びたように感じて意識が鮮明になる。


 ——警告する——


「あ、なに、どうしたの?」


 ——強度限界を超えた急加速は機体の維持に重大な支障を来すおそれがある。安定した制御を推奨する——


「ごめん、夢中だったから自分でもよくわからないうちに……そんなに無茶なことした?」


 ——現在のヒビキの制御信号の品質及び強度では緩衝領域の完全な生成は困難だ。高速航行にはより高次の制御段階に移行する必要を認める——


 相変わらず難解な言いぐさだが、今はその冷徹無比な口調が心を静めるのに役立った。


「なに領域? あ、もしかしてバリヤーとか?」


 ——用語不適切。概念不一致。ただし部分的な近似値は設定可能。緩衝領域は空間障壁の副次的効果として重力制御の作用範囲内に発生する。物理的衝撃や慣性を中和することで機体を保護するための機能だ——


 説明自体はさっぱりわからないが、アニメやコミックで覚えたイメージと似たようなものと考えてよさそうだった。自分の信号とやらがもっと強くなれば飛んでいる時になんらかの力で体をガードしてくれるらしい。


 ふーん、とよくわからないながらも納得したつもりいると彼女の見えないナビは妙なことを言った。


 ——被害状況報告——


「え?」


 ——先ほどの加速で機体の一部が損傷した——


「……損傷?」


 その物騒な響きにどきんとした。被害状況にしろ損傷にしろ穏やかではない。


 ——機体後部の一次及び二次装甲が脱落。その影響で後部

表面温度降下中。短期的には航行に支障なしと推定——


 支障なしと言われてなんとなく安心したひびきだったが、脱落という言葉が気になった。機体後部って? 温度低下? 


 言われればなんとなく足が涼しいような気がする。そう思ってふと足下を見たひびきの目は一瞬点になり、ついで大きく見開かれた。


 長いきれいな白い足が見えた。


 きちんと手入れされた爪先、締まったくるぶしから膝、太ももそして……。


 ぐうっと喉が鳴り今日何度目になるかわからない悲鳴がこぼれ出た。


「ええええええーっ!」


 履いていたスニーカーやソックスはおろかジーンズもその下の下着までもがなかった。下半身がきれいにむき出しになっている。


「ど、ど、ど、どうして!」


 ——先ほどの加速中に剥落した模様——


「じょ、冗談じゃないわ、あたしのパ……どこに行ったの!」


 ——機体に電磁的探査機能がないので速度と航跡からの推測値、ヒビキのライブラリにある単位では機体右後方約二キロ、現在高度より七百メートル下方を落下中。誤差プラスマイナス二パーセント——


「たいへん!」


 言うが早いか一気に反転したひびきは恐怖も忘れて猛然と飛び始めた。


 この広大な空の中をひらひらと舞っているであろうたった一枚の小さな下着やジーンズを見つけ出せるか疑問だったが、今のひびきにはそんな悠長なことを考えている余裕はない。目を見開いて周囲を見回す。


「どこっ、どこなのっ!」


 ——右斜め前方約四百メートル——


 言われてまばたきすると白い小さなものがちらっと見えた。普段ならとても気がつく距離ではない。だが瞬時に拡大されたそれは間違いなくひびきが最優先で探し求めているものに違いなかった。


 目を血走らせて突進したひびきは風を受けてふわふわと舞っていた「それ」を確認するとさっと右手を伸ばして引っつかんだ。


 間違いない、あたしのパンツ!


 かあっと頭に血が上る感じがした。はあーよかったあ、と思う間もなく次の声が聞こえた。


 ——さらに三百メートル下方に脱落した二次装甲——


 右手にパンツを握りしめたまま急降下したひびきは風を受けて生き物のように舞っている青いジーンズを見つけると左手に引っかけてから停止した。


 大きく深呼吸をしてもまだ息が苦しい。そこであらためて自分が高度数千メートルの空の上にいることを思い出した。明らかに空気が薄い。だが胸がドキドキするのはそのせいばかりではない。


 誰も見ているわけではないが、恥ずかしさで頬が熱くなったり冷たくなったりした。よくこの広い空の中から見つけられたものだと思った。


「ありがとう、シド。見つけてくれて助かったわ」


 ——今の航行時の制御信号はこれまでより高品位かつ強度も二・四倍に増大していた。脱落した一次、二次装甲はむしろ航行に不要だったと推定される——


「とんでもないわ、これがないとたいへんなことになるの」


 内心ため息をつきながらひびきは握りしめていた下着を慎重に身に着け、ジーンズに足を通した。ベルトの穴がひとつ破れていたのはあの時の猛烈な風圧のせいかもしれない。


 高度数千メートルの空の上に浮かんだままパンツを穿いた女の子は自分だけだろう。


 スニーカーやソックスはもうあきらめていた。これだけ回収できただけでも上出来だ。もしあの恥ずかしい姿のままだったらと思うとそこから先はとても考える気にならない。


「ほんとにありがとう、シド、あなた目がいいのね」


 ——否定。映像情報はヒビキのものを補正して使用した——


「ふうん、じゃあなたはあたしの目を通してものを見てるってこと?」


 ——肯定。航法ユニットが処理する外部情報は基本的に機体が検知したものだ——


 それであたしに目を閉じるなって言ったのか。そう納得する思いでいると「あっ、もしかして」と気がついた。


「ねえ、それじゃあたしが最近遠くのものが大きく見えたりするのはあなたがそう見せてくれてるってこと?」


 ——肯定。制御主体の要求に応えるのは情報系ユニットの義務だ——


「特に要求したってわけじゃなかったんだけど……じゃあれは? 遠くの人が話してる言葉がわかるのは」


 ——同様だ。他の個体の情報発信部位を観測し、その形態から音声情報を推測してヒビキのライブラリと照合した——


 難解な用語はともかく、意味はなんとなくわかった。相手は情報処理の専門家であり、とにかくひびきがちらりとでも知りたいと思ったことには答えようと反応するらしい。ありがたいようなおせっかいなような微妙なサービスだと思った。


     ※※※


 さて帰らなくちゃと思ったが、まず自分の居場所がわからない。


 地上の景色は見たことのない街並のようだったし、少し前に見えていた富士山もどちらの方角だかわからない。雲が邪魔してだいぶ視界がさえぎられているのだ。どちらへ行けばいいのか、まずそれを知るのが先決だ。


「シド、あたし今どのへんにいるかわかる?」


 ——肯定。先ほどの急加速位置から西北西約九十キロ付近と推定、誤差プラスマイナス三パーセント——


 シドはすでにひびきの知識の中から彼女の知る度量衡の体系を学習しているようだった。いくらか誤差が大きいのは彼女自身がその正確な根拠を知らず、経験則のみの知識だからかもしれない。


「九十キロ? そんなに?」


 無我夢中だったとはいえ、ずいぶん遠くまで来てしまった。おまけにこの高さだと息が苦しくて頭が痛くなってくる。もう少し下に降りようと思ったひびきは地上までの遠さ、すなわち高さにまたぎゅっと胸が締めつけられそうになった。


 あまりぐすぐすしたくはなかった。ひびきには少し急ぎたい理由が生まれていたのだ。


 高さのせいもあるが、さっきあんな格好で飛んだせいか風の冷たさがぐんと増した気がする。おかげで——。


 まだそれほど切羽詰まってはいないものの、暗くなってから人目を避けて着地というわけにはいかなくなった。


 呼びかけた覚えはなかったがシドは敏感に反応した。


 ——ヒビキの第一目的地は《トイレ》に設定してよいのか?——


 ひびきはまた百メートルくらい落下した。


「な、なに言い出すのよ、いきなり!」


 ——ごく短時間だが、最優先の指令信号が検知された——


「そ、それはその、確かにちらっと考えたけどそんなこと女の子に向かって聞かなくてもいいでしょ」


 ——その判定基準についてはヒビキのメモリに了解可能な指針が発見できない……今検索した。名称トイレとは固有の基地施設を示す用語と推定される——


 そうですよ、そうですとも。お願いだからそんなに冷静な声で解説しないで。無駄と知りつつそうつぶやきたい心境だった。


「あたしの頭ん中がわかるなら勝手に勉強しなさいよ、トイレのことなんか女の子に聞かないの!」


 ——設定した。ヒビキの機体のエネルギー転換に伴い発生する不要物質を機体外に投棄するための整備施設と定義。ただし機体構造的に現時点での投棄も可能と進言する——


 な、なんちゅうデリカシーのない……。


 高所恐怖症とは別の理由でめまいがしそうだったが、これ以上問答しているととことん恥ずかしいことを口走ってしまいそうだったので「ま、そんなとこよ」とだけ言って飛行に専念することにした。


 相変わらず下を見ると気が遠くなりそうなほどこわかったが、これだけ経験を積めば慣れることもある。ひびきは今かなり安定した状態で飛んでいた。


 自分の目はシドにとってもカメラになっているらしいとわかったのでなるべく雲を避け、視界のひらけたところを飛ぶようにした。


 当然、下界の景色がもたらす恐怖も半端ではなかったが、速度も方向も思いどおりににコントロールできることで少しずつ耐えられるようになっていた。


「シド」


 ——なにか——


「今どのへんかわかる?」


 ——帰還目標点〈ハヤミ・シ〉西北西約六十キロ、高度二千四百メートルを毎時百二十キロで航行中。信号安定——


 てことはあと三十分か、やっと帰れるなあと思った。


 もう空港にこだわるつもりはなかった。飛ぶことにだいぶ慣れたことが街の中にでも降りる決心を生んでいた。今なら人に気づかれないほどすばやく急降下してさっと着地する自信がある。


 学校の体育館の裏には少し背の高い木が何本か並んでいた。あのあたりなら……そう考えると今日一日のたいへんな冒険からようやく解放される安堵感がわいてきた。まさかこんなとてつもない出来事が自分の身に起こるとは。


 だがなぎさの驚く顔を想像してくすっと吹き出しそうになった時、またも事態は急変した。


 びりびりと顔をたたくかん高い音が空全体を震わせたような気がした。


 最初は遠くで雷が鳴っているのかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。それは圧倒的な力で大気を引き裂く獰猛なエンジンの音だったのだ。


 不吉な高周波の凄まじい雄叫びが上空から聞こえた。


 驚いて振り仰いだひびきの視界の端を銀色の航跡が二筋、一瞬で閃き過ぎていく。


 航空機の知識などろくにないひびきにはなにが飛んでいったのかさえわからなかったが、見る人が見ればそれがスクランブル発進した空自のF—15、通称イーグルの美しく凶暴なシルエットであることに容易に気がついただろう。


 天野ひびきの不運な休日はまだ終わっていなかった。


     ※※※


 もしかして戦闘機? という認識はあった。


 ただし一般の旅客機でさえ自分には無縁と思っているひびきには戦闘機の知識など皆無だ。せいぜい空の高いところを白い飛行機雲が一直線に伸びていくイメージくらいしか思いつかない。


 だから最初に感じたのはまず大音響のエンジン音への驚き、そしてなんでそんなものが飛んでいるんだろうという素朴な疑問だ。


 だが事態がそれほど呑気なものではないことをひびきはすぐに知ることになった。


 飛び去ったと思われた戦闘機がまた近づいてきたのである。しかも二機の戦闘機はさっきよりも近いところを追い抜いていくとすぐさま反転し、またも急速に近づいてくるのだ。さすがに変だぞと思った。


「シ、シド、あれってもしかしてあたしを……」


 ——肯定——


「そんな、どうして!」


 ——情報不足につき当該機の意図不明。航行パターンからなんらかの示威行動と推定——


 不明というのがいかにも不安である。ひびきはどうしようとまた焦った。急接近してくる二機は今やそのシルエットのかなり細かいところまでがわかるほどの近さだ。その威圧感が恐ろしかった。


 わ、わ、わ、といよいよあわててひびきは逃走にかかった。


「に、逃げなくちゃ!」


 方向など考えている余裕はなかった。とにかくこの場を離れなきゃと思うひびきの意志に反応してぐんとスピードが増す。


 だがいくらひびきがスピードアップしても相手は楽々とついてくる。とても振り切れそうになかった。


「く、くるしい……」


 スピードを上げるにつれ息が苦しくなってきた。風圧もすごい。体がどんどん冷えてくる感じは痛みに近かった。これでも微弱ながらシドのナントカ障壁とやらいう力で保護されているらしいのだが、飛んでいるひびきにはとてもその実感はなかった。


 ——現在毎時約六百キロで航行中、機体強度に初期レベルの問題発生、三十パーセントの減速を推奨する——


「そ、そんなこと言ったって、あれから離れないと!」


 ——当該機は現在およそ毎時九百キロで航行中。ヒビキの制御レベルでは離脱速度に達するのは困難と推定——


 薄情なやつ、なんとかしなさいよ!


 思わず心の中で毒づいてしまうが、そうしたニュアンスが伝わるはずもなくシドは事実を淡々と報告するだけだ。


 ——制御信号の品質及び強度が上昇すれば空間障壁の展張により機体保護とそれを前提にした加速が可能——


 信号だのなんだのっていったいどうしろって言うのよ! そう叫びたいところだったがすでに声を出せる状態ではない。歯を食いしばって懸命に速く飛ぼうとするだけで精一杯だ。


 二機の戦闘機はますます近いところを飛び過ぎるようになり、その巨体がもたらすプレッシャーでひびきは高さの恐怖さえ感じる余裕がなかった。


(も、もうどこでもいいから降りちゃおう)


 知らない街だろうと今の状況よりはずっとましだと思った。一時的に高所恐怖症どころではなくなっているひびきは思いっきり下に向かってコースを変えた。


 ところが相手はそれを許してくれなかった。


 地上めがけて飛んでいるひびきの行く手をふさぐかのように高度を下げた戦闘機は彼女の目の前を飛び過ぎていったのだ。ぶつかりそうなほど近いところを通過した機影に「きゃっ」と心臓が跳ね上がる。


 実際にはそれほど近距離ではなかったのだが速度とスケール感に慣れていないひびきは反射的に飛び上がった。


 だがその頭上をもう一機が押さえるように飛び過ぎる。あわててまた高度を下げようとしたひびきの鼻先を反転した一機が通り過ぎたところで彼女の動揺は頂点に達した。

 上下に挟まれてしまったのである。


 少なくとも彼女はそう感じて愕然とした。思わず空中で停止してしまう。


 地上までの約二千メートルは今のひびきならあっという間に詰められる距離だった。事実、落ち着いて対処すれば地上に逃げることは容易だったはずだが、半ばパニックの彼女にはどうしていいかわからない。


 はひ、どうしようどうしようと同じフレーズがさっきから頭の中でリピートされていた。そこへまた二機の戦闘機が前後から近づいてくる。


 頭の中が真っ白になった。


 そのとたん、ひびきの体は猛烈な加速で真横に流れた。


 一瞬くらりとめまいがして近づいていた戦闘機との距離が一気に開く。音速を突破するドーンという衝撃音が響きわたった。


 流れ去る景色が今までとはまるで違う。ひびきは自分が雲を吹き散らすほどの速さで移動していることに唖然としていた。


「な、なに? どうしたの?」


 ——制御信号二次レベルに上昇。現在毎時約千五百キロで航行中——


 なぜそうなったのかはわからなかったが、ひびきはさっきの倍以上のスピードで飛んでいた。


 恐怖でよけいなことを考える余裕がなくなったのが逆に幸いしたようだった。制御信号とやらが一時的にブーストされたらしい。


 生身の体には耐えられないはずの速度で飛びながら、息苦しさや風圧はぐんと軽減されていた。空に舞い上がった当初は乱れまくっていた髪が今はそよ風に軽くなびくほどにしか揺れていない。


 なんにしても体が楽になったのはありがたかった。今はとにかく着地を最優先だ。


 待っていたわけではないが二機の戦闘機はたちまち追いす

がってきたのだ。なおさらよけいなことを考えている暇はなかった。


     ※※※


 だが、混乱を来していたのは相手も同じだった。


 レーダー上になんの前ぶれもなく出現して妙な挙動を示す光点。その不可解な航跡に緊張した付近の空自基地では立て続けの指示と報告が飛び交い、即座に待機中のチームにスクランブルがかかった。


 そうして飛び立った彼——世界最高水準の戦闘機パイロットとして鍛え上げられたエリートの彼にしてわが目を疑った。自分の見たものがあまりにも意外でにわかには信じられない。


 相手がもし低空で侵入する国籍不明機なら通常のスクランブル出動以上に緊張したミッションになる。かつて自衛隊にはミグ戦闘機の侵入を易々と許した苦い記憶があるのだ。


 だがそれにしてもこのようなものと遭遇する事態は想定外だった。


 目標の周囲を旋回しながら目視確認を試みたのだが、何度目を凝らしてもその形状に違和感を禁じ得ない。それは非常に見慣れた姿でありながら同時に「こんな場所」では絶対にお目にかかるはずのないものだった。


 それは何度確認しても人間のように見えた。


 大型の鳥だと思い込みたい常識と自分の視力のせめぎ合いに一瞬迷った後、彼は見たままを報告した。ほの暗い防空司令所のモニターやスクリーンの前で緊張した管制官たちが彼の報告を待っているのだ。


「こちらアンカー1、目標確認。人だ、いや人型のなにかが飛んでいる!」


 司令所のコントロールは一瞬沈黙した。


「くり返す。当該未確認機は人間型の形状を有するなんらかの飛行体と思われる」


「人間型? どういうことだ」


「目標はスカイダイブ中の人間そっくりだ。大きさも各部の形状も含めて人間に見える」


「人間が七十ノットで飛ぶか?」


 そいつはこっちのセリフだと言い返してやりたかったが、現認していない彼らには当然の反応だろうと思った。自分でさえわが目を疑っているのだ。パラシュートで降下した経験は何度もあるだけに目標の姿にはなおさら違和感が大きい。


 見たままを信じるならあれはそのような装備すら身につけていない。人間が「普段着のまま」飛んでいるように見えるのだ。


「細部はわからん、あくまでそのような形状に見えるというだけで……待て、目標増速!」


「確認した! そのまま追尾せよ」


 目標はわずか数秒で三百数十ノット(毎時約六百キロ)にまで加速した。どんなエンジンを使っているのか不明だがたいした性能だ。まだ余裕で追尾できる速度ではあったが、相手のスペックが不明である以上気を抜くことはできない。


 僚機とともに慎重に目標の周囲を飛んでいると相手は急に下降し始めた。明らかに地上を目指しているように見える。


 コントロールの指示に従って目標を牽制するべく一機がその進路に回り込み、もう一機が上空で頭を抑えようとした。


 たった二機では穴がありすぎるが速度差でかなりカバーできるはずだった。


 そこで彼らは驚愕した。


 それまでせいぜい小型の自家用ジェットほどの速度で飛んでいた目標は、一旦停止したかと思うと一瞬にして音速を超える異常な加速で離脱を試みたのである。


「ばかな! なんだ今の加速は」


 モニターしていた基地の司令所でも驚嘆のどよめきが上がっていた。


「目標増速! 約八百ノット!」


「信じられん、停止状態から一瞬で音速を超えたぞ、どうなってる!」


「アンカー1、アンカー2は直ちに追尾!」


 一気に室内の緊張が高まった。ただでさえ異常な報告に判断がつきかねていたところへ速度ゼロから瞬間的に超音速まで加速する常識はずれの機動である。どんな航空機にも不可能な驚くべき加速性能だ。形態の異常さも含めてそのスペックは最高レベルの警戒に値する。


 目標はそのままマッハ一・二ほどの速度で飛行していた。


 指示を出す防空司令所の管制官たちはここで大きな葛藤に見舞われていた。追尾せよとは言ったものの、市街地上空、しかもたかだか高度数千メートルの「低空」で超音速飛行を許可するかどうかの判断は難しい。


 騒音や衝撃波で関係各所から多大な苦情が寄せられることは確実だ。国会でたたかれる可能性もある。マスコミや行政との調整もひどくやっかいなものになるだろう。


 しかもイーグルはすでに旧世代に属する戦闘機である。


 もし当該目標がスーパークルーズ、すなわち超音速巡航能力を有する機体であった場合、アフターバーナーで莫大な燃料を消費しなければならないイーグルではどこまで追尾できるかわからない。


 だがこのような異様な挙動を示す未確認機を看過することはできなかった。


 その場の筆頭の地位にある先任管制官は覚悟を決めて命じた。追尾中の二機ならまだ速力に余裕がある。示威にしろ威嚇にしろ、できれば目標を海上まで誘導した上で決断するのが賢明だった。


 目標を牽制しつつ海上まで誘導せよ。


 妥当な指示に見えたが、これが最悪の結果を生むことになった。


 目標はなぜか市街地にこだわるような動きを見せ、二機の執拗な牽制にもかかわらずなかなか海上へ近づこうとしない。それどころかなんとか二機をかいくぐろうと異常な高機動で飛び回ったのだ。


 その結果、真下の市街地はとんでもないことになっていた。


     ※※※


「ああ、もうしつこいなあ!」


 今や明らかに自分につきまとって着地を邪魔しようとしている二機の戦闘機にひびきはうんざりしていた。


 速度差が縮まったおかげでいくらか恐怖がやわらいだといっても恐ろしいことに変わりはない。胸はどきどきするし緊張で気分が悪くなってきた。おまけにトイレの欲求もだいぶ近くなってきている。


 パトカーに追いかけられた時と同じだった。


 二機をやり過ごした直後に急降下すれば簡単に脱出できたはずである。相手の牽制に馬鹿正直に反応する必要はないのだ。誠なら「学習能力がないね」と冷たく言い放ったことだろう。


 あまり細かいことが考えられなくなったひびきは早く着地したい、の一心で二機と激しい鬼ごっこを演じていた。


 これがどれほどはた迷惑な結果を生むか彼女には知るよしもなかった。


 スクランブルの二機は異常な爆音で人々を驚かせていたが、ひびきの迷惑ぶりはその比ではなかった。地上の家々ではたいへんな騒ぎになっていたのである。


 超音速で飛ぶ飛行体はソニック・ブームと呼ばれる衝撃波を発生させる。


 しばしばジェット機が発生させるそれが大きな破裂音とともに地上の窓ガラスを割ったりすることはよく知られている。


 二万メートル近い高高度を飛んでいてさえその衝撃波が地上に達することがあるというのに、ひびきはたった三千メートル前後の低空で超音速の急降下と急上昇をくり返していたのだ。


 その結果、下の市街地ではまるで爆撃を受けたように立て続けの炸裂音が鳴り響き、そのたびにビルの窓ガラスが砕け、家々の瓦が飛び散り、川の水面には水柱が立ち上がるという壮絶な光景が続出した。


 まさに空襲である。


 意地になってどうあってもここに降りるんだというひびきのこだわりがはた迷惑を増幅していたのだ。


 原因不明の災難に人々は空を見上げたが、ひびきの動きは飛行機の見慣れたそれとはあまりにも違っていたので誰の目にもとらえられなかった。ただ上空を飛び交う二機の戦闘機がかろうじて見えただけだ。


 パトカーはサイレンを鳴らして走り回り、誰もがあわてて家やビルの中に避難する。そのパトカーの赤色灯がばんっとはじけ飛ぶに及んで運転していた警官までが車から飛び出して逃げ出すありさまだった。


 突如襲来したパニックの正体を知る者は誰もいなかった。


     ※※※


「信じられん、どうなってる」


「超音速から急停止までコンマ二秒だと?」


「あり得ん! 不可能だ!」


 司令所の大小のモニターに映し出された「目標」の動きはそれを食い入るように見つめるスタッフ全員の常識を覆す異常なものだった。攻撃ヘリをはるかに凌ぐ機動性を超音速で実現している機体など聞いたこともない。


 だが、荒唐無稽なコミックやアニメの世界にしか存在しないはずのスーパーウェポンが今彼らの前で飛び回っているのだ。スクリーンのレーダー画像にプロットされたUNKNOWNの文字がこれほど不気味に見えたことはなかった。


 すでに通常のスクランブル・スタッフだけでは判断に窮すると見て基地司令までがあわてて駆けつけていた。周辺諸国の偵察機がちょっとばかり危ないいたずらを仕掛けてきたのとはわけが違う。明らかな異常事態に司令の表情は青ざめていた。


「……米軍はなにか言ってきているか?」


 重苦しい声だった。


「いえ、当然トレースしているはずですが沈黙を守っています」


「ふん、連中この手のやつには慎重だからな。なまじ顔を出すと後々の処理がめんどうだとわかっているんだろう」


 この手のやつ、すなわち超現実的な「未確認飛行物体」への対応については日米ともにきちんとマニュアルが存在している。


 だがひとたび公式にそれを発令するとなると種々のやっかいな問題が待ちかまえていた。


 本来そんなものは「ない」ということになっているからだ。そのため時々ある遭遇事例にしても「公式に報告するかね」と問われた目撃者の大半が首を振る。


 一方、未確認機を牽制している二機のパイロットも今や必死だった。


 彼らにはより目標に接近して海上への誘導にあたるよう指示が出されたが、これは困難きわまりない指令だった。


 残存燃料もすでに不安な状況である。アフターバーナーを小刻みに使ってしのいでいるものの、そう長くは持ちこたえられないだろう。


 しかも現在でさえ高度が低すぎて下の市街地にはエンジンの爆音やソニック・ブームで被害が出ている可能性がある。訓練空域でもないのにこれ以上高度を下げての作戦行動となるとほとんど実戦だ。それはこの国では重大な覚悟を要求される決断だった。


「上は責任とってくれるんだろうな!」


 アンカー1のパイロットはいよいよ自分たちがただごとではない局面に突入しつつあることを悟った。目の前で「あれ」を見ていない連中にはこの尋常でない緊張感はわかるまい。


 目標はあらゆる意味で異常な存在である。


 常軌を逸した機動性はいまだに信じられない。挙動がまったく予測できないのだ。その動きは慣性の法則を無視しているとしか思えないほどだ。


 しかも目標のスペックはまだ不明なのだ。あんな機動でパイロットの体がもつはずがないのだが、目標はその「パイロット自身」が生身で飛んでいるように見える。


 それがはっきり視認できる自分の目がうらめしかった。


     ※※※


 そんなパイロットの焦りなど知るはずもないひびきはいよいよ切羽詰まってきた。


 言葉にする前にシドが落ち着き払って(とひびきには聞こえる)報告してくる。


 ——発生した機体内の不要物質は現時点でも投棄可能と進言する——


「おだまりっ!」


 女の子にそんなこと「進言」しないでちょうだい、そりゃプールの中よりは目立たないだろうけど……などと一瞬考えてぶるぶると首を振る。


 口車には乗っていいものと悪いものがあるとなぎさは言っていた。誘惑は堪え難い時に限ってやってくるとも。


 あいつなんでそんなこと知ってるんだろうと場違いな疑問が浮かんで消えた。


 ちらりと下を見ると、昇ったり降りたりしているうちにまた三千メートル近くにまで上昇してしまったことがわかる。このままではらちがあかないと思ったひびきは決心した。


 こうなったら少しくらいこわくてもがまんして一気に地上まで降りてしまおう。今の自分ならほんの何秒かがまんすればできるはずだ。


 いったん停止して大きく深呼吸をする。


 考えたくなかったがお腹の下の方が相当な赤信号だ。地上を見ると公園らしいひらけた場所がある。あそこにトイレがあると信じて急降下だ。


 一気に降下した。


 なるべく避けたかった垂直降下に忘れていた戦慄がよみがえる。顔が引きつるのが自分でもわかった。でもあとちょっとだけがまんよ! そう自分に言い聞かせた瞬間、視界の右端から突っ込んでくる戦闘機が見えた。


 なんで出てくるのよお、と思った。


 ぶつかるかも、とも思った。


 もうあと何秒かで地上なのにとも思った。


 それでもこのまま突っ切る勇気がなくてひびきの体は横に流れた。手を伸ばせば機体に触れることさえできそうなぎりぎりの距離である。


 またしても失敗した自分がひどく情けなくてひびきは落ち込んだ。。


     ※※※


 超音速の飛行体の後方に発生する衝撃波は飛行体が方向転換した後も直進する。


 交錯した刹那、ひびきの巻き起こした乱流と衝撃波はそのままの勢いでアンカー2の機体を直撃した。振動と破裂音、そして小さな破片が飛び散る。もしかすると当のパイロットにもそのさまが見えたかもしれない。


 その動揺と切羽詰まった報告が僚機と管制官を一気に緊張させた。


「こちらアンカー2、目標との接近離合の際に機体損傷、このまま離脱して帰投する」


「損傷? 攻撃されたのか」


「わからん、発砲されたようには見えなかった」


「損害は?」


「問題ないが、右エンジンの推力が落ちている。これ以上の作戦行動は無理だ」


 基地への帰還には支障なしとの報告に管制官は安堵したが、アンカー1のパイロットは猛然と目標に迫った。戦闘行為があったようではなさそうだが、それでも相棒の機が傷ついたことは間違いない。逃がしたくなかった。


 目標はどうしても人間に見える。そしてその人間は急降下しかけた、いわば逆立ちの状態のまま水平に飛行していた。まぎれもない人間の姿に見えるだけにその不自然な体勢が異様だった。


「ちくしょう、なんて格好で飛んでやがる」

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