第8話 墜落日和
「言っちゃなんですけどヒマですねえ」
ハンドルを握る後輩の正直な声に彼は苦笑した。定時のパトロールなんてのはたいていこんなもんさ、と言ってやりたいところだが立場上そうもいかない。
親しい先輩後輩同士であっても職務中にはけじめというものがある。この若いのもそのへんを読んで口をきけるようになれば一人前だ。
「よそ見するなよ」
それだけ言って彼は手元のペーパーホルダーに挟んだメモに二、三の事柄を書き込んだ。
その日、定時の巡回をとろとろとやる気半分程度でこなしていたパトカーの警官二人組は市民公園の脇を流れる速水川の川べりの道をゆっくりと走っていた。
週末の午前中ということでいつもよりぐっと車の数は少ない。変化がなさすぎて退屈であることも事実だ。
覆面パトカーではないので彼らの姿を見た車は一斉に遵法精神の優等生に変身する。それがちょっとだけ権力の快感をにおわせて気持ちいいが、これは大きな声では言えない。
そんないささか気抜けしたパトロールの途中で彼らはそれを見た。
道路の左側に延々と続く市民公園の外周フェンスの上から誰かが道に飛び降りてきたのだ。
そのまま一目散に駆け出した姿は年若い少女のように見えたが、三メートルを超えるフェンスから飛び降りてくるだけでも目を引く。ヘタをすると男でも足を折りかねない高さだ。
しかも彼らの経験からすると少女の走り方は明らかに「逃げ足」だった。
なにかのトラブルのにおいがした。
「見たか?」
彼は後輩の若い巡査に確認した。
「見ました。女の子なのによくあそこから軽々と飛び降りましたね、けっこう高さありますよ」
「ああ、それもわざわざ閉まってる門の脇を乗り越えてだ」
「なんかありそうですね?」
若々しいその声はすでに仕事の口調になっていた。半分だらけていた先ほどとは目つきも違う。彼らの嗅覚はすでになにごとかを予感していたのだ。
「止めてみますか?」
「ああ、やってくれ」
若い巡査は少しスピードを上げて走り去っていく少女の後ろに車を近づけた。短くクラクションを鳴らして前に出ようとする。驚いて振り向いた少女のはっとするほど整った顔立ちが印象的だった。
だが、その少女がぐんと足を速めてパトカーから遠ざかろうとすると二人は「むっ」と緊張した。
とりあえずちょっと職務質問をするつもりで近づいた彼らだったが、逃走する相手は自動的に追いかけるのが猟犬の本能だ。一瞬顔を見合わせると先輩巡査部長の無言の指示を読んで若い巡査はアクセルを踏んだ。
追いついて制止するのは簡単なはずだった。
ところが相手は意外な俊足でみるみる距離が開いていく。反射的にスピードメーターを見た巡査は思わず「はひゃ?」と意味不明な声を上げていた。
それほど意外なものを見てしまったからだが、助手席の巡査部長はその態度をふざけているものと誤解した。
数秒で追いつけるはずの相手がまだ先を走っているのは隣の後輩が悠長に運転しているせいだと思ったのだ。
「おいおい、のんびりしてていいのか」
「そ、それが……」
「しっかりしろ、逃げられちまうぞ」
「で、でも太田さん、こんなのって」
太田と呼ばれた巡査部長はそこでようやく後輩の様子がおかしいことに気がついた。不審に思ってその顔を見るといつもはのんびりしすぎているくらいのこの若いのが青ざめて目が飛び出しそうになっている。
「どうした? なにをモタモタしてるんだ、急げよ」
「あ、あの……メーター見てくれます?」
「って、お前なに言ってんだこんな時に! ほんとに逃げられちまうぞ」
「で、ですから、今この車何キロ出てるか教えてください!」
その後輩のあわてぶりがいまだに解せなかったが、目の端でスピードメーターの針を見た彼は絶句した。まばたきをくり返してそれでも見間違いではないことがわかるとぽかんとした顔になる。
「どういうことだあ?」
「わ、わかりません、でも……でもあの女の子、時速六十キロ以上で走ってます!」
巡査部長もその目で見ていながら常識が反発した。とうてい受け入れることができないのだ。そんなことはあり得ない。あり得ないはずだった。
「んなばかなことがあるか!」
「でも追いつけないんですよ、六十キロで追っかけてるのにっ」
信じられない! 夢でも見ているのかと思ったが、とてもそんな呑気な雰囲気ではない。自分たちの目がどうかしたかメーターが壊れているかのどっちかだ。無理やりそう思い込んで巡査部長は叫んだ。
「と、とにかく逃がすんじゃない、もっと飛ばせ!」
言われた巡査は引きつった顔でアクセルを踏み、気がついてサイレンを鳴らし始めた。
※※※
フェンスを越える時は恐ろしかった。
飛びすぎないようにふわりと体を持ち上げるのにはたいへんな勇気が必要だった。天井もなければ先ほどのように命綱もない、おまけにあわてて逃げ出している最中となればなおさらだ。
うまく飛び越えられた時はほっとして足下がふらつきそうだった。
とにかく危ない少年たちからは逃げ切れたはずだ。いろんな意味で安堵したひびきは百メートルほど先に架かっている橋のところまで行ったら足を止めるつもりだった。
だが、この日の天野ひびきは徹底してツイていなかった。
クラクションの音に驚いて振り向くと一台のパトカーがゆっくりとこちらへ近づいてくるところだった。
(うっそー、なんでパトカーなんかが……)
まったく事情がわからないので焦った。警察=捕まると短絡してとにかく逃げなきゃと思った時にはもう足が軽くなっていた。フェンスを越えてから自分の脚力で走っていたひびきはたちまち羽が生えたような速さでパトカーから逃げ出した。
行き交う車のドライバーたちがどれほど驚き呆気にとられたかひびきには知るよしもなかったが、彼らの大部分は自分の見た光景をを拒否した。
そんなものは見なかった、気の迷いだ。
そのように無理やり自分に言い聞かせて考えることを放棄した。
渋滞中でもないのに走行中の自分の車を走って追い抜いていく女の子など幻覚にしてもばかばかしすぎる。
むろん、ひびきにはそんなのどかなことを言っている余裕はない。赤信号の交差点を突っ切るのは髪が逆立つほどこわかった。だがパトカーはいよいよサイレンまで鳴らして彼女を追いかけてくるのである。
ひびきが馬鹿正直にずっと道なりに走っていたことも災いした。
そこから市街のもっと細かい道の中へ紛れ込むという知恵がわかなかったのだ。
ようやくこのままではまずいと気がついてすばやく左右に目をやると、道が前方で大きく左にカーブしているのが見えた。川べりの道なので流れに沿って道もカーブしている。
一瞬閃いた恐ろしい発想にひびきは蒼白になった。
こんなことを思いつく自分がうらめしかったが、すでに他のことを考える余裕はない。
ひええー、こわいよーと心の中で叫びながら、これ以上は無理というほど目を見開いて目前に迫ったカーブをにらみつける。
そのまま一気に跳躍してガードレールを蹴り、その向こうの川の流れを飛び越えるために空中に身を躍らせた。
「
いやああああ」
眼下に広がった光景に目がくらみそうになりながら、思いっきり叫ぶことで高さの恐怖を打ち消そうとした。その試みはほぼ成功してひびきの体は約三十メートルの川幅を難なく飛び超え、対岸のガードレールの向こうに着地するかに見えた。
そこで今度こそ本当にひびきの髪は逆立った。
着地寸前の彼女めがけて巨岩のように大きなトラックが突っ込んでこようとしていた!
向こう岸の様子まで確認してジャンプする余裕などあるはずもなく、そのせいで今彼女は絶体絶命の危機に陥ったのだ。
ドライバーにとっても予想だにしないハプニングだったろう。ブレーキを踏む暇もなかったはずだ。
先週の軽自動車とは較べものにならない圧倒的な迫力で巨大なシルエットはひびきにのしかかってきた。
※※※
後方で追跡していたパトカーの警官たちも信じられない光景の連続に目をむいていた。
「きゅ、九十キロ!」
運転する若い巡査の叫びはほとんど悲鳴のようだった。完全に声が裏返っている。
市街地ではパトカーといえどもハイウェイのようには飛ばせない。緊急車両にも法定速度は存在するのだ。それでもかなり無理をして追いかけているのにいっこうに差が縮まらない。
助手席の巡査部長も「ばかな! あり得ん!」とわめいていたが、現実は彼らの常識をことごとく裏切っていた。
もはやいくら否定したくてもできない。
いったいどんな仕掛けがあるのか不明だがあの小さな背中は目の錯覚でもなんでもない。決心した巡査部長は応援を呼ぶために無線に手を伸ばそうとした。
「ああっ」
若い相棒の驚きの声にはっとした瞬間、それを見ることになった。
前方のカーブに差しかかった少女がそのまままっすぐガードレールの向こうへ身を躍らせたのだ。
「跳んだ!」
「まさかっ! 川に飛び込んだのか?」
ゆるやかな登りになっていたのでそうとしか見えなかったのだが、駆けつけた現場であわてて川をのぞき込んだ彼らはなんの異状も発見することができなかった。
少女が川にダイブしてからまだ二十秒とはたっていないはずなのに川面にこれといった変化は見られない。
対岸になにかのトラブルで停車したらしい大型トラックが見えたが、もちろんそんなものが関係あるはずもない。警官たちは顔を見合わせて首をひねるばかりだった。
※※※
ぶつかる! と思ったところまでは覚えている。
だがそこから先がはっきりしない。耳元で轟々と風の音が鳴り、目が回って自分が今立っているのかどうかさえわからなくなった。
体が勢いよく転がっているようでもあり、大波にもまれて振り回されているようでもある。
悲鳴を上げたはずだが自分の声が聞こえたかどうかも定かではなかった。
あまりにもでたらめに体が翻弄されるので途中からはしっかりと目を閉じてこの異様なめまいが治まるのを待った。
高所恐怖症のひびきは当然ジェットコースターやその他の絶叫マシンにも乗ったことがないが、もしかすると今のこれがそんな感じなのかなと感じていた。
これじゃやっぱり自分には遊園地はダメだなと場違いな思いが浮かんで消える。これを楽しめと言われても自分には無理だ。よく誘ってくれるなぎさには悪いけど……。
ふと気がつくとその猛烈な大波の感覚が治まっていた。
どこにも痛いところがないのでどうやらトラックにはぶつからずに済んだらしい。
手足のふわふわした感じで自分がまた浮いているらしいとわかる。きっと先週のようにとっさに飛び退いて無事だったんだと安堵した。自然に口元がほころんでくる。
ああ、明日になったらちゃんとなぎさに話してあげなきゃ。きっと目がまん丸になって驚くだろうなあ。そう思うと楽しくてくすっと吹き出してしまう。手足を広げて「うーん」と大きく伸びをした。
気持ちがいい。
目を開けてみた。
「……」
一面の青空だった。
深い、青というより灰色に近い澄んだ空。ずっと上の方に細い雲が何本か走っていてとてもきれいだ。自分は寝っ転がって空を見ているのだと思った。
最近はじっと空を見上げていると足下が頼りなく感じてこわかったが、今はただきれいだと感じる。
ああ、こういうのも気持ちいいな。
そこで無意識に手を伸ばして地面を探った。地面でも床でもなんでもいいのだが、それはすぐ手の届くところにあるはずだった。
だが伸ばしたその手にはなにも触れてこない。
あれれと思って横向きになり、ベッド脇の目覚まし時計を探るように手を伸ばした。あまり高く浮かんでるのは嫌だからもう少し降りなくちゃと思ったのだ。
ところが——。
くるりと体を入れ替えて空を背にしたひびきはしばらく自分がなにを見ているかわからなかった。
なんだかどこかで見たことがあるような景色だとは思ったがすぐには思い出せない。
ええと、あそこに走っているのはきっと道路よね、その横が川だし。あ、あのきれいなところもしかして公園かな?
ああ、なんだと思った。
どうも見たことがあると思ったら「地図」じゃないか。見覚えのある速水市の五万分の一の地図に違いない。なーんだ、あははと笑ったところで妙な違和感を覚えた。
地図? 地図よねあれは。でもどうして目の前に地図なんかが……地図というより精密な航空写真だけど……ああ、あそこやっぱり市民公園よね、芝生がきれい……。
え、市民公園?
ひびきは理由もわからずぎょっとした。ちょっと待って、これって。
市民公園? その言葉がなにか大きな意味を持っているような気がしてなんだろうと思った瞬間、自分が見ているものの正体が閃いた。
目が極限まで丸くなったのが自分でもわかった。どくんと心臓が跳ね上がる音も聞こえた。髪の毛が生き物のように勝手に波打つのも感じた。
そして——自分が今どこにいるかもわかった。
その瞬間のひびきの感情は彼女自身にも表現不可能だったろう。一気に血の気が引いて思いっきり悲鳴を上げたような気もしたが、ひびきの高所恐怖症はそれ以上の光景に耐えられず、なにかまともな反応が出てくる前にふうっと意識がフェードアウトした。
同時に数千メートル彼方の眼下の街並に向かって天野ひびきは一直線に落下していった。
※※※
窓の外には晴れ渡った夏空が広がっていた。周囲に高い建物がないので十二階のこの部屋からだと空だけをながめることもできる。
なぎさは時にベランダに持ち出した椅子でそんな時間を過ごすことがあった。
日ごろは人並以上に活動的なキャラクターだけにそうしている時の彼女は別人のような雰囲気だ。
緑茶のペットボトルを直接くわえるしぐさは確かに中学生のそれだが、時折その瞳に瞬くのはもっと落ち着いた光である。
今なぎさの心を揺らしているのは彼女のいちばんの親友である少女の面影だ。
天野ひびきと知り合ったのは小学校の三年生に進級して同じクラスになった時のことだ。
まるで人形のようにきれいな子でびっくりしたというのが第一印象だった。なんだか胸の奥がくすぐられるような感じがして少しドキドキしたのを覚えている。
話してみると快活な楽しい子ですぐに仲よくなった。自分に向けられる笑顔があまりにも魅力的で、じゃれあっているとこの上なく幸せな気持ちになった。
一緒にいる時間はなぎさの宝物になり、飽きずにいろんなことを話して笑い合った。
授業参観で知り合った母親同士が意気投合し、はじめて彼女の家に泊まることを許された時はうれしくて前の晩から寝つけなかったものだ。
女の子同士だったがなぎさはすでに「この子は自分の恋人なのだ」と確信していたような気がする。この子の笑顔が曇るところは見たくない、そんなことにならないよう自分はこの子を大切に守ってあげなくてはいけないのだと当然のように思っていた。
その大切な少女がある時学校を休んだ。
一日、二日と顔を見ない日が続き、とうとうその週が終わっても彼女は登校してこなかった。なぎさの不安は日を追って大きくなり、しまいにはこう言って母親に訴えた。
「ねえ、ひびきちゃん病気なのかなあ。あたしお見舞いに行っていい?」
だが、いつもは明るい母がなぜか困ったような顔で言葉をにごし、今はまだちょっと、とあいまいなことしか言ってくれなかった。ちっとも事情がわからないなぎさはおおいに不満だった。
翌週になって先生が慎重に言葉を選びながらクラスのみんなにわけを聞かせてくれた。
「とても悲しいことですが、天野さんのお父さんが交通事故でお亡くなりになりました。今はまだお家の方でいろいろとたいへんな時ですから天野さんはしばらくお休みです——」
なぎさはしばらく呆然としていた。
まるで自分の父親が死んだと聞かされたようなショックだった。
あの子を辛いことや悲しいことから守ってあげなくてはと思っていたのになんてことだろう。自分の手には負えない悲劇をふりまく神さまがうらめしかった。
何日かして登校してきた彼女を見た時、なぎさはさらに衝撃を受けた。
きれいな少女だけに表情を喪失したひびきの顔はいたたまれないほど空虚だったのだ。抱きしめても本物の人形のように反応がなかった。
おしゃべりなはずの自分の口がまるで動かない。
どんな言葉をかけていいのかわからない悔しさでなぎさは泣いた。自分は今こそこの子の力にならなくてはいけないのにどうしてなにも言えないのだろう。
ああ、ひびき、しっかりして。
あたしはあなたが大好き、あなたのためならなんだってできるわ。いつだって、どんなことがあったってあたしはずっとあなただけの味方だよ。
だから帰ってきて。
あたしを見て。
今じゃなくてもいいからいつかまた笑ってあたしのことなぎさって呼んで。それまでこうして抱きしめていてあげるから……。
気がつくとすっかりあのころの心が舞い戻ってきていた。
ひびきに呼びかける自分の声がはっきりと聞こえた気がする。それは幼かったあのころの自分の想いであり、今も変わらず心の内にある。
あれから五年、先日恵美に聞かされるまで自分は頑なにあの事故の話題を避けていた。だが今ならわかる。あの幼い少女は自分が思っていたよりずっと深い衝撃に打ちひしがれていたのだ。
時があの子の傷を少しずつ癒してくれたことを当然と思ってはいけない。取り戻した笑顔がたやすく翳ってしまう可能性も決して小さくはなかったのだ。
あたしはこの幸運にもっと感謝しなくちゃいけないんだ。
最近のひびきにはあのころの危うさに似たものを感じる。昔のことを思い出したのはそのせいもあるだろう。本音を言えば今すぐかけつけてあの子の声を聞きたい。
けれどあの子も自分もあれからちょっとは成長して——そしてたぶん強くなったはずだ。
少しだけ時間を欲しいと告げたあの瞳を自分は信じなくてはならない。
「ひびき、今なにしてる?」
ベランダの向こうに広がる青空に向かってなぎさはそっとつぶやいた。
※※※
どのくらい気を失っていたのかわからない。
だが、目の前に広がる航空写真のような街並はさっきとあまり変わらないように見えた。ただひとつ違うのは自分の体がそこへ向かって一直線に落下しつつあるということだ。
これほどのパニックは想像したこともなかった。
声を限りに叫んでいるのに広大な空間に吸い込まれてほとんど聞こえない。猛烈な風圧のせいでまともに声など出せないのだ。それでも後から後から意味不明の絶叫が吹き出してくる。
その絶望的な恐慌の中で無数の記憶の断片が閃き過ぎていった刹那、ひびきはふいに悟った。
この光景には見覚えがある!
自分は以前にもこれとまったく同じものを見たことがある!
鋭い痛みのように走ったその思いに気づいた瞬間、はじけるように記憶がよみがえった。
あの時もそうだった!
突っ込んでくる軽自動車をきわどく避けたあの時のことだ。
そう、あの時とっさになぎさをかばってその体を押しやった後、自分も身を翻して車を避けようとした。そして……そしてそのまま一気に空の高みにまで飛び上がってしまったのだ。
気がついて真下の市街地を見下ろした時の想像を絶する恐怖がありありとよみがえった。その恐ろしい光景に耐えられず、あの時も自分はこうして真っ逆さまに墜落することになった。それから……。
それからどうしたろう?
わからない。強烈なデジャヴの感覚はあるのにそこから先の記憶はやはりぷっつりと途絶えている。
だが今、ひびきの前にはそうした不確かなイメージではなく現実の恐怖が立ちはだかっていた。すさまじい風圧、刻々と近づいてくる地上の景色、そしてそこへ向かって落下していく自分の体。
しまいにはまた気が遠くなって頭の中が白々と染まっていくのを感じていた。
あまりのこわさに麻痺してしまったのか、なんだか心の中がしんと静まりかえったような気がした。依然としてパニックの真っただ中にいながら、片方では変に冷静な自分が「あたしずいぶん高いところから落っこちてるなあ」などと考えているのだ。
ここしばらくの奇妙な体験の数々が閃いては流れていった。ああ、こういうのを見ちゃうってことはあたし死んじゃうんだな……。
そんな間延びした感想が浮かんだ時、ふっと声が聞こえた。
——警告する——
え?
——警告する。二十七リミタ以内に制御指令が再入力されない場合、本機体は惑星表面に衝突する。速やかな制御復帰を推奨する——
男とも女ともつかない不思議な声だった。抑揚もおかしいので聞き取りにくい。パニック真っ最中の心の半分はそれどころではなかったが、もう半分のぼんやりしている見物人のような心が少しだけ反応した。
(……誰?)
——くり返す。速やかな制御復帰を推奨する——
(ねえ誰なの? なんのことを言ってるの? 制御ってなに?)
——惑星表面との衝突を回避するためには現在の降下速度より減速、もしくは停止する必要を認める——
衝突と聞いて片方の半分眠ったような心にちかっと光が射した。それはなぜかとても意味のある言葉に思えたのだ。
(衝突ってどういうこと? あたしが空から落っこちてることを言ってるの?)
——肯定——
「教えて! それってもしかして落ちないで済むってことなの?」
思わず声が出た。謎の声のひどく難解な言葉づかいは意味不明なところが多かったが、この絶体絶命の窮地から助かるかもしれないという思いですがりついた。
——肯定。制御指令の再入力により安定航行状態へと復帰する。機体強度の範囲内で降下及び接地が可能になる——
「難しくてわかんないわ、もっと簡単に言って!」
——機体メモリ内のライブラリで該当する用語を準用するなら〈このまま落っこちるのは、いやだもん……ならば、さっさと止まらなくちゃ〉という状況と認められる——
相手の固いメッセージの中に突然聞き慣れた日常的な調子が交じるのは妙な感じだったが、ぐんと聞き取りやすくなったのは事実だ。
「そ、それならわかるわ、でもどうすればいいの? わかりやすく言って」
——同様に機体メモリ内のライブラリでは〈気絶〉もしくは〈気を失う〉という制御指令の一時的断絶によって機体が降下〈落っこちちゃう〉状態に移行した。復帰は制御指令の再入力〈自分で飛ぼうと思えばいいんだよ……だわ〉により実行される——
なんとなくわかったような気がした。
パニックでよけいな疑問や常識がきれいさっぱり出払っている今のひびきは、相変わらず心の半分では絶望にわめきながら残りの半分でこの変な声のアドバイスを聞いていた。そしてその言わんとするところもおおよそ理解できる。
要するにこのままだと地面に激突してしまうからそれが嫌なら自分で飛ぼうと意志すればいいのだ。
なるほど、そう言われれば自分には浮かぶ力があってそのせいでこんな高い空の上まで舞い上がってしまったのだ。その気になれば空中で止まることも自由に飛ぶこともできないわけではない。少なくとも地面の近くでならそれができた。
それなら——。
少しずつ頭がはっきりしてきた。
迫ってくる地面と今の高さが死ぬほどこわかったが、意識がはっきりしてしまったのでもう気を失って現実逃避することもできない。これほど恐ろしい覚醒はなかった。
「わあああ、止まって、止まって、止まってえええー」
夢中で今まで練習した浮かぶ感じを思い出そうとしてみた。自分の部屋の中でふわふわと飛び回ったあの感じ、そしてさっきながめたきれいな空を思い出してみた。
どれも自分でやったことだ。できるはずなのだ、自分には。
そう思った時、落下する途中で見た富士山がまた視界の隅にちらりと見えた。そう、あそこにだって飛んでいける、絶対にできるはずなんだ!
「ら、らくらくモードォォォ!」
叫んだ瞬間、いきなり落下が止まった。
え? と面食らうほど唐突だったが、確かに嘘のように風圧がやわらぎ耳元で轟々と鳴っていた風切り音も治まっていた。下を見ると相変わらず恐ろしくて心臓はどくんどくんと鳴っていたが、とにかく真っ逆さまの墜落状態からは脱したようだった。
上下左右どちらを見ても広々とした空間が続いていた。ひええーと情けない声がこぼれ出る。
地上まではたぶんまだ二千メートルはあるだろう。地図のように見えた街並もだいぶ拡大された感じだった。
——制御回復、機体安定——
またあの声が聞こえた。半分心が麻痺していたさっきは現実感に乏しく平気で会話していたが、こうしてまがりなりにも正気を取り戻した今は次々に疑問がわいてくる。
「あの、あなた誰なの」
当然の問いだったが相手の答はひびきの理解を絶していた。
——ラ・ナノーの汎用航法制御ユニット、形式名シド四〇九、現在は個体識別名〈アマノ・ヒビキ〉の機体に同化している——
「なんのことだかさっぱり……」
——ラ・ナノーのミラ級汎用恒星間航行跳躍船の航法と機体制御を担当する第一階梯の情報処理機構であり、短距離航行用の重力制御機能を含むユニットの総称——
「ますますわからないわ、宇宙船のコンピュータみたいなもの?」
——この機体のメモリ内ライブラリに登録されている用語ではその定義に近似値を設定可能だ——
とうとう音を上げたひびきは頭を抱えたい気分で訴えた。この相手はよほど堅い仕事をしているやつなのだろうと妙なことを考え、ついで無機質な電子回路のイメージが浮かぶ。
「ああ、もう、なんでそう難しい言葉を使うのよっ、さっきみたいにわかりやすく言ってくれなきゃわかんないわ」
——この機体のメモリ内ライブラリに登録されている用語では……——
「その前置きはもういいから! だいたいさっきからこの機体この機体って言ってるけどなんのこと?」
——現在情報入力の主体となっている固有名〈アマノ・ヒビキ〉で識別される機体を意味する——
もしやと思ったがやはり自分のことらしい。これはいったいどういうことなのだろう。
「それってまさか……あたしのこと? メモリっていうのはひょっとして記憶のこと?」
——肯定——
「つまり、あたしの知ってる言葉で話せるってこと?」
——一部肯定。合致しない概念多数。翻訳率及び信頼性は〈いまいち〉と推定される——
「ふうん、じゃあなたのこともっと教えて。あたしにわかる言葉で。もうさっきみたいな前置きは要らないから」
そのひびきの要請に奇妙な声は忠実に応えたが、硬軟入り混じった口調には多大な違和感があった。
——この場合〈ら・なのーっていう宇宙人の人たちがいて彼らのゆーふぉーの操縦を司るのが航法ユニットのお仕事なの〉であり〈コンピュータと重力制御のためのしくみをひとまとめにしたようなものかなあ〉という解釈が可能だ——
聞いていたひびきはなんとなく馬鹿にされたような気がした。相手はくだけた部分だけひびきの声色を使って聞かせてくれたからだ。
あたしってこんなに頭の軽そうな話し方しないわよ、と言ってみたくなる。同時にひとつ大きな疑問に気がついた。
「ねえ、あなたって……どこにいるの?」
今までその点に気がつかなかったのはやはり動転していたからだろう。なにしろこうしている間も地上の景色で強烈なめまいがするのだ。
——現在は固有名〈アマノ・ヒビキ〉で識別される機体に同化している——
やっぱりだ。さっきから漠然とその言いぐさが気になっていた。
「どういうことなの? あたしと同化って?」
——固有名〈アマノ・ヒビキ〉で識別される機体の……——
「ああ、いちいちめんどくさいわね! あたしのことはひびきでいいわよ」
——そのように設定する。同化とは航法ユニットが機体、この場合はヒビキの占有する空間の中に格納されていることを意味する——
「またわからないことを……まさかあたしの中にいるってこと?」
——一部肯定。ヒビキとの物理的接触はない。航法ユニットはその機構のすべてを独自の閉鎖空間内に格納し、機体固有の空間に融合することで同化する。ヒビキのライブラリでは該当する用語が未検出——
どうせあたしは頭悪いですよ、と言い返そうとすると相手はこう付け加えた。
——今、再度検索した。近似的用語を一件検出。ヒビキのライブラリでは〈とり憑く〉という用語で表現可能と推定——
げ、と思わず声が出そうになった。この異世界のコンピュータだかなんだか知らない相手にまさか冗談のセンスがあるとは。だとしてもブラックすぎてとても笑えない。今のは聞かなかったことにしようと思った。
「……やっぱりわかんないわ、でもさっきからあたしのことを機体って言ってるけどあたしはロボットでもメカでもないわよ、もちろん宇宙船でも」
——この場合〈ら・なのーってみんなメカの体になっちゃったの、だから一人一人が宇宙船そのものってわけなのよ〉であり〈航法ユニットってゆーのはさー、同化した空間の持ち主を機体としてサポートするようになってんの〉と表現可能だ——
やっぱりこの言い方はなーんかばかにされてるみたいでちょっとやだなと思ったが、なんとなく言ってることはわかった。
「でも、そんなすごい宇宙船のコンピュータがなんであたしと、その、同化って?」
——回答不能——
「答えられないの?」
——肯定。ヒビキの固有空間に同化した際の記録が消失している。原因は不明。よって回答不能——
なんだか肝心なところではぐらかされたような気がしたが、だいぶ意思の疎通はやり易くなってきた。
普段ならとてもこうはいかなかっただろう。今はまぎれもなく非常事態であり「信じられない」とか「そんなばかな」といった本来なら最も優先順位の高い反応がブロックされているようだった。
立て続けのハプニングで図太くなったのか頭がすり減って鈍感になったのかどっちかだ。後者だったらいやだなあと思った。
「重力制御……じゃあ、あたしが飛べるようになったのはあなたのせいなのね?」
——一部肯定——
「一部?」
——入力信号が散漫で安定した機体制御が困難だ。航行に対する強度の否定的傾向が安定制御に支障を来している——
「なんとなく言ってる意味はわかるわ。あたし、ひどい高所恐怖症だから」
言ったそばからまたこわくなってきた。
今は多分アドレナリン出まくりで一時的にがまんできているのだろうと思った。気分が落ち着いてきたらかえってヤバそうな気がする。
「と、とにかく話は後。どうすれば下まで降りられるの?」
——ヒビキはすでに機体制御が可能だ——
(自分で飛べってことか、ううう)
下を見るとさっきより一段と気持ち悪さが増してきた。たかだか地上数メートルで上下していたのと違ってこの高さから下向きに飛んでいくのは墜落同然の恐ろしさである。
思わずぎゅっと目を閉じるとすかさず警告された。
——映像情報を遮断した場合、ヒビキの機体では安定航行に支障を生ずる可能性が大だ——
目を開けろということだ。
やむなく瞼を持ち上げるとたちまち動悸が激しくなるのが自分でもわかった。
こわい、でも自分にはこうして空に舞い上がる力があるのだ、少なくとも墜落を防ぐコツはなんとなくわかった。だったら、と意を決したひびきは大きく深呼吸をすると「こわいよおおおお」と叫びながら地表に向かって自分の意志で飛び始めた。
比較対象になるものがないのでスピードはわからなかったものの、落ちるにまかせていた時とはっきり違っているのは自分が真下ではなく斜め下へ向かっているということだ。
それがちゃんとわかる分、かろうじて自力で飛んでいると信じることができた。
それでもこわいことに変わりはない。
ほとんど直立した姿勢のまま降下しているのもこわさの原因だったかもしれない。なるべく頭や顔を下向きにしたくなかったのである。
誰にも聞かれる心配がないので「助けてえええ」だの「死んじゃうよおおお」だのと絶叫しながら、それでも徐々にひびきは高度を下げていった。
もう家々も砂粒のような小ささではなくちゃんと屋根や窓が識別できるくらいに近づきつつある。
ようやく少しだけ余裕のできたひびきは気になっていたことを確かめてみようと思った。
「ねえ、聞こえる? あなたのことはシドって呼んでいい?」
——支障はない、設定した——
「じゃあシド」
——待機中——
「待機中?」
——機体との情報交換が可能な状態にあることを意味する——
相手が人間ではないとはいえ、これでは軍人と今風ギャルくらいギャップがある。ひびきは辛抱強く提案した。
「あのね、そういう時は『なんだ』とか『なにか』とか、あとはええと『聞いてる』とか言えばいいの」
——設定した——
「じゃあシド」
——聞いてる——
「あたし、もしかしてこの前もこんなふうに空に飛び上がったと思うの。でもどうしてもそこから先が思い出せない、あなたはその時のこと覚えてる?」
そう、どうしてもこれが気になっていた。
事故を回避して空へと飛び上がったところまでは思い出した。だがそこからなぎさの部屋で目が覚めるまで自分はどこでなにをしていたのだろう。今こうしているということはその時はちゃんと地上に帰ることができたということだ。でも自分にはその記憶がない。
——肯定。指摘された事例においてはヒビキの制御信号が断絶したままだったのでやむを得ず緊急制御に移行した——
「なにそれ?」
——ユニットの階梯に応じて許可された範囲で臨時の機体制御を行うことが可能だ——
「臨時ってつまり気絶したあたしの代わりにあなたが体を動かしてたってこと?」
それはちょっとこわいかもと思った。先ほどの「とり憑く」という言葉がなんだかシャレにならない。でもそのおかげで無事だったのだと思えば文句は言えない。
——一部肯定。ヒビキの機体各部を動作させる信号系が接続されていないので複雑な操作は困難だった。帰投中に三個体の敵対勢力と遭遇したが、これを排除の後、友好的存在であるコンノ・ナギサと接触、指揮権を移譲した——
聞いていたひびきはひやりとした。この人、もしかしてちょっと危ないこと言ってるんじゃないかという気がしたのだ。敵対勢力? 排除ですって?
——緊急制御中の行程は規定によりすべて記録保存されている。指示があれば表示する——
言下に右目の視野に先ほど見たのとそっくりな上空からのながめが映し出される。
「いい、後でいいから!」
ひびきは反射的にそう答えていた。興味はあるがなにか剣呑なものが映っているようで思わずストップをかけてしまったのだ。頭の隅をあの少年たちのイメージがかすめて消えた。
「それはなぎさに相談してからにするわ」
——了解した——
今はとにかく地上に降りることだけを考えようと思った。
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