第7話 トライアル&エラー
翌日は朝から快晴だった。
ひびきは涼しい午前中のうちに身支度を整えて家を出た。バスでほんの十分ほどの近場に市民公園がある。
都心と違って土地に余裕のある速水市ではいたるところに公園が整備されており、中でも市の東部を流れる速水川に沿って広がる市民公園は人々に親しまれていた。
交通の便がよく、広々とした敷地の北側半分が芝生の美しい公園、盛り上がった南側は遊歩道の整備された憩いの森として散歩やミニ・ハイキングにも格好の場所だ。
その一角には美術館が建設中で来年のオープンが待たれていた。
今日は好天の週末ということで訪れる市民も多い。ひびきは遊歩道の入口から少し入った木陰に立って人が途切れるのを待っていた。
すれ違う人々は例外なく彼女をふり返っていく。
大きなロゴの入ったTシャツと細身のジーンズ、半袖の白いジャケットに足下はスニーカーというごく平凡なスタイルであってもこの少女はとびきり目を引く存在なのだ。
(帽子あった方がよかったかなあ)
今日はなるべく人目につきたくなかった。面と向かってなぎさにああ言ってしまった以上、覚悟を決めなきゃと感じていた。だから——。
こうして屋外で実験する気になったのもそのためだ。もう部屋に閉じこもってはいられない。いろいろ試して気が済んだら明日なぎさに打ち明けようと思った。
そう決めてここまでやってきたのだ。
人の気配が途切れるのを待ってひびきは遊歩道から外れ、そのまま木々の間に入り込んだ。
憩いの森といっても元々は雑木林だ。コースを外れると樹木が生い茂っている場所もあればぽっかりと空き地になっている場所もある。小学生のころからよく遊びに来ていたひびきはそうした穴場のいくつかを知っていた。
しばらく木々の間を歩いてたどり着いたのは学校のプールをふたつ並べたほどの広さの空き地だった。ほんの五十メートル先には遊歩道が通っているのだが、こんなところをわざわざ見物に来る物好きはまずいない。
山の中まで行くほど余裕のないひびきにはちょうどいい実験場だった。周囲の木々は空き地の上の方まで張り出していて少なくとも大きな物音さえ立てなければ誰の注意を引くこともないはずだ。
ただし足下には雑草や枯枝に交じってガムの包み紙やタバコの吸い殻までが落ちている。入り込む者が皆無というわけではないということだ。人の気配には気をつける必要がある。
ひとつ深呼吸してさてなにから始めようかと考え、やはり先日から気になっていたあのことを確かめることにした。
いまだにあの事故の瞬間以降の記憶が戻らない。
かすり傷ひとつなかったからには——なぜか左頬が少し痛かったが——少なくとも衝突はしていないはずである。
とすると自分はとっさに車を避けたのだ。だがその直後からなぎさは親友の姿を見失った。つまり自分はあの現場から「急いで」立ち去ったということになる。それも一緒にいたなぎさでさえ気がつかないほど大急ぎで。
理由はともかく理屈ではそういうことになる。
そこで初めて考えた。それまで部屋の中でふわふわと浮かんでいた時には思いもしなかったこと——スピードだ。
学校での「らくらくモード」の発動を思うとあの時もとっさにそんな状態になったのかもしれない。そして思いがけないほどの速さで車から遠ざかったのだとしたら?
その可能性を考えて浮かんだまま急いで動けるか試してみようと思った。これは狭い部屋の中では実験できない。どうしても屋外で試さなくてはならないが、今までひびきにはその勇気がなかった。
背中のリュックを下ろして手近な木の根本に置いた。
大きく息を吸って心を静める。
絶対に高くは飛ばないと自分に言い聞かせてそっと浮かび上がった。地上わずか三十センチ。それでも目線の高さはまるで違う。
そこでもう一度大きく深呼吸をすると周囲に人の気配がないことを確かめてから五メートルほど先の枯れ木の跡に目をやった。
同時に体がすいっと歩くほどの速さで移動する。これはイメージしたとおりの反応だ。
うなずいてもう一度くり返す。やはり体はひびきの意志したとおりスムーズに空中をすべっていく。もうこの程度のことなら特に違和感はなかった。
何度か同じことを試した後、今度は空き地の端から端まで一気に移動してみた。
すると心の中で少しだけスケールアップした感じがあってひびきは自転車で走っているくらいの速さで空き地の幅を飛び越えた。
直立したままなのでまわりの景色が勝手に流れていく感じだ。これはかなり新鮮だった。
上はダメ上はダメと念じながら、それでも「面白ーい」と感じてひびきは何度か空き地の端から端まで往復した。水平移動だけならもう大丈夫かもと実感する。
今のところ力のオンオフはひびきの意図したとおりだ。これがすべてなら平和そのものだが問題はこれからである。
リュックのそばまで戻ってまた気持ちを落ち着かせた。
絶対に上に飛んじゃダメ。そう何度も言い聞かせてからおもむろに前へ飛び出す。今度は意識して「スピードアップ!」とイメージしていた。自分で駆け出すような気持ちで対面の木を意識する。
その直後、ひびきは思わず「わわっ」と声を上げていた。
それほど思いがけないスピードで体が移動し、ほとんど間を置かずに空き地の端まで飛んでいたのである。あわててストップをかけなければそのまま向こう側の立木にぶつかっていたかもしれない。
「今のって……」
着地したひびきはかなり深刻な顔になっていた。
空き地をゆっくり飛び越えていた時の心地よさはすでに跡形もなく、これはたいへんなことになったぞと考え込んでしまう。
自転車だと思っていた乗り物が実はF1だった。
言葉にすればそんな感じだった。まだ少し心臓がどきどきしていた。
もしあの勢いで飛び上がってしまったらと思うとあらためて震えがくる。それどころかあのスピードは地上でも論外だと思った。街の中をエンジン全開のレーシングカーで走るようなものだからだ。
うかつなことをすれば即大事故につながりかねない。
それがわかっただけでもよかったのかもしれない。事故が起きる前に教訓を学んだのだからここまで来た甲斐はあった。
それから慎重に三度試してそう思うことにした。
気を取り直してひびきはリュックの中を探った。もうひとつ、さらにこわい実験が待っているのだ。
怖じ気づきそうになる心を奮い立たせて取り出したのは太めの荷造り紐の束だった。本当はロープにしたかったがこれでも強度は十分なはずだった。
あたりに手ごろな木を探す。
こわくても一度は挑戦してみようと思っていたことだ。自分の体を立木につないでゆっくり上昇し、少しでも高さの恐怖に慣れることができたらと考えたのである。
いつまでも逃げてはいられない。せめて家の屋根くらいの高さが平気になればずいぶん違うはずだ。うっかり浮き上がっても対処の余裕ができる。
そう思ってどの木にしようかと周囲を見回している時だった。
なにものかのかすかな気配に気がついたのは。
緊張で背中の毛が逆立つような気がした。
注意していたはずだったが、もしかして誰かに見られていたのかと思った。さっと周囲に目をやって気配の源を探す。人の姿を見かけたらすぐ逃げ出すつもりだった。
元々ひびきは他者の視線には敏感なたちで、じっと見られている時はすぐにそれとわかる。だが今はそうした他者の目を感じなかった。なにも怪しげなものは見えないし、足音や人の話し声も聞こえない。
気のせいだったのかなと思ったところでまたかすかな気配を感じた。
四周からではない、上からだ。
えっと振り仰いだひびきは同時にズームアップされた視界の中に「それ」を見つけた。
生い茂った葉影に小さな体がうずくまっている。張り出した枝のその先に、どうやって登ったのか子猫が一匹立ち往生しているのだった。
まあ、とひびきの目が丸くなった。
いつからそこにそうしていたのかはわからないが、その猫はあまりにも細い足場に迷い込んで降りられなくなっているのだ。かぼそい鳴き声がなんとも頼りなげだった。
途中いくつもの小枝がからみ合っているとはいえ、十メートル以上の高さの枝先までどうやって登ったのだろうか。好奇心にかられたか獲物を追ってか、いずれにしろその猫はキャリア不足で進退きわまってしまったのだろう。
どうしよう、と思った。
見てしまった以上、もう知らんぷりはできない。だが……。
あの高さはひびきにとっては百メートルにも千メートルにも匹敵した。少しだけ高いところに挑戦しようと思っていたのにいきなりのこの展開である。神さまはなんて意地悪で容赦がないんだろうと思った。
あそこから下を見たら……。
あはあはと引きつった笑いが浮かんだのが自分でもわかる。頭上で子猫がまたみゅうーんと鳴いた。
「ああもう、わかったわよ、わかったからちょっと待ってて。こっちにだって心の準備ってものがあるんだから」
ひびきは泣きたい気分で覚悟を決めた。
子猫のいる枝につながった幹を見つけると手にした荷造り紐——ひびきにとっては命綱にも等しい——をその根本付近に巻きつける。余裕を持たせて二十メートルほど紐を繰り出し、用意してきたハサミで切ると端を輪っかにして左手に通した。
知らないうちに荒くなっていた息を整え、あらためて上を見上げるとそれだけで心臓の鼓動が聞こえてくるような気がした。
意を決して軽く上昇をイメージする。
ふわりと浮かび上がった体はゆっくり頭上の遭難者のもとへ向かうかに見えたが、五メートルほど上昇したところでぴたりと止まり、そのまま地上に舞い戻ってしまった。
うっかり下を見てしまったのである。
整えたばかりの息がもうぜいぜいと荒くなっていた。うずくまったその顔はすでに蒼白だ。
下を見てはいけないとわかっていたはずなのについ目がいってしまったのだ。家の屋根ほどの高さにいながら足下になにもないという感覚が想像以上にこわかった。
顔から血の気が引くという表現をこれほどリアルに体感したのは初めてだった。
「ぜ、前途多難……」
このやり方はまずいと直観した。とてもじゃないがこわすぎる。
とびきりの高所恐怖症の持ち主がいきなり十メートルも飛び上がろうとしたのがそもそも間違いなのだ。
息を整えて立ち上がるとひびきは問題の木の幹に両手を添えた。
そのまま目の前の幹の表面だけを見てゆっくり浮かぶ。小さな枝の跡や樹皮の模様、ところどころに突き出た節の形などを見るようにして体を持ち上げる。
視線をそらさず頭の中に描いた子猫の居場所まで、幹を伝い太い枝に両手を回すようにして登っていった。
この変則的な木登りはかなりうまくいった。
一気に木のてっぺんまで飛び上がるような無茶をするよりずっと確実だった。体重をゼロにできるので腕に負担がかかることもない。
腕に巻いた紐がからまないよう注意しながら登っていくと数分で最頂部の枝の付け根のところまでたどり着いた。
ひびきにとってはまさに快挙だ。
それでもまだ達成感などわいてこない。ここから先が最大の難所である。
もう目の前に太い幹はなく、鳴いている子猫に手を伸ばすには張り出した小枝の先まで行かねばならない。
わずか数メートルとはいえ、その間は否応なく下を見ることになる。下手をするとひびき自身が立ち往生してしまう可能性があった。
それこそ笑えない光景だ。もう呼吸を静める余裕もない。
「もう少しだからがんばって!」
自分にそう言い聞かせると枝先の子猫に向かって前に出た。
とたんにくらりと目が回りそうになった。
なるべくあの猫ちゃんだけを見るようにしようと思っていたのにひびきの目には自分を取り巻く空間の広さ、そして地上までの距離が鮮明に映っていた。体中の血液がさあっとどこかへ流れ出してしまうような気分だ。
貧血ってこんな感じかしら、と場違いな感想がぷかりと浮かぶ。
枝をつかんだ自分の手が頼りなく震えているのがわかった。体はちゃんと浮いているのに今にも地上めがけて落下しそうな恐怖は理屈ではない。高いところが苦手といいながらこれほどそのこわさを実感したのは初めてだった。
がまんにがまんを重ねてもうこれ以上は無理というところで左手を伸ばすと、丸まった小さな体は警戒してますます枝先の方に逃げようとする。
いくら小さいといっても小枝の先ではいつまでも支えきれるものではない。枝先が子猫と一緒にゆらゆらと上下するのを見てひびきは思わず身を乗り出した。
「お願いだからこっちにきて、ね」
伸ばした左手で軽くおいでおいでをする。震えながらこちらを見ているその猫はすでに消耗しきっていたらしく、そこで完全に固まってしまった。
にっちもさっちもいかない小さな猫の置物である。もうひと揺れで石ころのように落下しそうな気配だ。
思いきってその首根っこをつかまえて引き寄せると子猫はほとんど抵抗もせずひびきの手の中に収まった。
丸っこい体に小さな耳、白黒の長い体毛と銅色に輝く目がきれいだった。二毛のペルシャに見えたが猫に詳しくないひびきにはよくわからない。ただ野良には見えない毛並みのよさだ。子供の処分に困って捨てられでもしたのだろうかと思った。
だが悠長にそんなことを考えている余裕はない。
今度はひびきが固まる番だった。
手の中の小さな客が感じていた怯えが今はそっくりそのままひびきのものだった。地上までの十メートルちょっとの距離がほとんど絶望的な高さに思える。覚悟していたはずなのに「ひええー」と頼りない声がもれた。
下を見るたびに気持ち悪さがぶり返すので目を開けているだけでも拷問だ。危惧していたミイラ取りがミイラ状態である。
(こ、これはさっさと降りないとたいへん……)
わかっていてもなかなか体の方が言うことを聞いてくれない。本当ならひびきにはひと思いに飛び降りる力もあるはずなのだが、その案は最初から却下されていた。
この高さから飛び降りるなど論外だ。やろうと思っても手の方がつかんだ枝を決して放さないだろう。慎重に逆戻りするしかなかった。
左手に子猫を抱きかかえたまま、右手と両足をガイドにしてゆっくりと後退する。細い枝の上をそろそろと後退っていく自分も大きな猫になったような気がした。
右足が幹の感触を確認すると少しだけほっとしたが、そこで窮地を脱したらしいことを悟った子猫が手の中から飛び出そうともがいた。
「ちょっ、じっとしてなさいって」
とっさに両手で抱きかかえるようにしてつかまえたところではっとなった。眼下にまた別の気配を感じたのである。
今度は間違いなく人間だった。
枝葉の隙間から見えたのは三人の少年だった。
ひびきのいる場所からだとちょうど空き地の反対側になるだろうか。木々の間から現れたその姿はいずれも高校生くらいの年に見える。二人は半袖のTシャツ姿、もう一人はチェックの長袖のシャツにデニムの上着を羽織っていた。
こちらの姿は張り出した枝や葉に隠れてまず気づかれることはないだろうが、それでもひびきは木の上で完全に凝固してしまった。
反射的に視界がズームされ、目の前に三人の顔が浮かび上がる。一時的に高さの恐怖が押しのけられて少年たちの口元に注意が向いた。
「ほんとだって、確かに見たんだ」
チェックのシャツの少年が主張していた。茶髪を通り越した黄色い髪と冴えない顔色がいかにも不健康そうに見える。
「おれ、前にあいつを見たことあるんだよ、うちでもちょっと噂になってたし」
「確かなのかよ」
黒いTシャツの少年が問い返す。傍らの背の高いもう一人のTシャツ姿の少年も疑わしげな目で見ている。
「間違いないって。ちらっとだったけど絶対に見間違えるような子じゃないんだ」
「そんな目立つやつがなんで道から外れて一人でこんなとこに入ってくんだ? 見ろよ、妙なとこに出ちまった」
「いや、ほんとだって。ありゃ
黄色い頭の少年はそう主張したが、他の二人はやはり疑わしげだ。
だが彼らの会話を読んでいたひびきはぎくりとした。
(どういうこと? なんであの人たちはあたしのことを?)
ただでさえ緊張していたひびきはこそりとも身動きせずに彼らの口元に注目した。
黒いTシャツの少年は依然として懐疑的だった。
「確かにタクローたちがなんかその女のことでもめてたみたいだけどよ、それがこんなダセえ雑木林に都合よく現れてくれるなんて虫のいいことがあるか?」
もう一人の長身の少年も同意する。
「だよな、いつも女のことばっか考えてっから変な錯覚起こすんだ」
旗色の悪い黄色い髪の少年はそれでもぶつぶつと言い返す。
「確かだと思ったんだがな……」
「そもそもなんでまたタクローたちはそいつのこと気にしてんだ?」
黒いTシャツの少年はわけがわからんという口ぶりだった。
「知らねえよ、でもガクたちがそのせいで大けがしたとかなんとかいう噂があって」
「ああ? そりゃねえだろ、あいつらが情けねえ半端ヤローだってのは確かだけどな、いくらなんでも女に病院送りにされるほどヤワじゃなかろうが。それともその天野ってガキ、こわい姉ちゃんたちのお仲間か」
Tシャツの二人は「くっだらねー」ともう一人の連れを嘲笑した。長身の方が皮肉交じりに付け加える。
「まあ、せっかくだからタクローたちに報せといてやれよ。あいつら今、下の公園の方に来てんだろ」
「こんなのどかなところでナンパかよ、まだ昼前だってのに」
「ヒマなんだろ、おれたちもだけどよ」
笑い合って黒いTシャツの少年が携帯電話を取り出す。バカにされどおしの黄色い髪の少年はむっつりと黙り込んでしまった。
彼らの会話を追っていたひびきはひどく困惑していた。話がまったく理解できないのだ。なぜ自分の名前が出てくるのかさっぱりわからない。
誰かがけがをしたとかいう話と自分にどんな関係があるというのだろう。
ただ、事情はわからないものの彼らがあまり近づきたくない相手であるのは間違いなさそうだった。雰囲気が決定的によくない。こんな状況でなくとも出会いたくない連中だった。
殺風景な場所にたちまち興味を失った少年たちはすぐにも立ち去る気配で、樹上で固まっていたひびきはほっとした。これでやっと地面に降りることができる。
ところがそこで気がゆるんだのか、抱いていた子猫がするりと手の中から飛び出してしまった。
「あっ、待って」
思わず手を伸ばした時にはその小さな体は幹からさらに下の枝へと飛び移り、そこで足下をすべらせた。
爪を立てて体を支えようとしたが、樹皮が硬かったのか体力が足りなかったのかずるずると滑り落ちて止めようがなく、次の瞬間には足が離れて空中に投げ出されていた。
「だめっ!」
とっさに飛び出したひびきはそのまま幹を駆け降り、左手に通した紐が枝に引っかかってストップする寸前、伸ばした右手で子猫の首をつかまえた。夢中だったので恐怖を感じる暇もなかった。
間に合ってよかったと安堵した時、目を真円にしてこちらを見ている少年たちと視線が合った。
彼らは驚愕を通り越して石と化していた。
当然だろう。突如人の気配がしたかと思うと木の幹の途中に「立ち止まっている」少女と遭遇したのである。現実の光景なのにハリウッド映画で見るようなあり得ない構図だった。驚くなという方が無理だ。
三人そろってぽかんと口を開け、身動きもできずに目だけが真ん丸に見開かれていた。
黒いTシャツの少年などは手にした携帯電話をとり落としたことにさえ気づいていないようだった。
驚いたのはお互いさまだったが、立ち直るのはひびきの方が早かった。
地上まではまだ五メートルほどあったが、もうこわいなどと言っている場合ではない。左手の紐を外すと子猫を抱きかかえたまますたすたと幹の表面を歩いて地面に降り立った。
地上を悟ってまた子猫が身をくねらせたが、今度は飛び出していくままにまかせて自分のリュックを取り上げる。
背負ったところでちらとふり返ると少年たちはまだ固まったままだった。
足下に隠れてしまった子猫が小さく鳴いたのと同時にひびきは木々の間に駆け込んだ。
あわてないで、とか慎重に、といった警告に耳を貸している余裕はなかった。できるだけ急いであの少年たちから離れなければと思っていた。
彼らはなにやらひびきに対して迷惑な誤解をしているようであり、今またとんでもないところを見られてしまった。接触すればろくなことにならないのは確実だ。
遊歩道に出たところで背後にかすかな人の気配を感じた。
樹木の陰に黒いTシャツがわずかに見えたような気がする。ようやく呪縛から解放された彼らが本能的に後を追ってきたのだろうか。
ひびきは左右にすばやく目をやってやや下りになっている方の道を駆け出した。そのまま芝生の公園に直結しているコースである。
すでに足にかかる体重が半分になったように感じて思わず「飛んじゃだめぇ」と叫んだ。
力を意識するようになって以来、これほど思いきって走るのは初めてだ。すれ違う散策の人々は呆気にとられて見送るばかりである。こんなのどかな道をスプリンターのように突っ走る人間など非常識もいいところだ。
当のひびきにそんなことを気にする余裕はない。自分では気づいていないがその一歩のストライドは十メートルを超えていた。ほとんど地上すれすれを水平に飛んでいるようなものである。
あっという間にゆるい傾斜を駆け下るとそこには美しく整備された公園が広がっていた。
木陰のベンチや小さな水路、芝生の間を縫うように連なる小道が趣味のいいデザインで配置されている。少し早めのランチを広げている家族連れも目についた。まさに地方都市の平和な休日の光景だ。
足を止めて振り向いても追ってくる少年たちの気配はない。
かなり速く走った実感があったのでそうすぐには追いつけないだろうと思った。
だが後方に置き去りにしてきたトラブルはまだひびきを解放してはくれなかった。
それは彼女の後ろではなく前からやってきたのである。
※※※
のどかな公園内を行き来する人々は家族連れであったりカップルであったり、あるいはジョギング・スタイルの若い女性であったりするのだが、今そのベンチ脇に立っていた二人の若い男がこちらに近づいてこようとしていた。
その目が明らかに自分に向いていることを悟ってひびきはそっと嘆息した。
どこに出かけてもひびきを見てナンパに寄ってくる連中は絶えることがない。なぎさが一緒の時は容赦なく追い払ってくれるが、一人で買い物などしている時はうっとうしくて困る。
この二人もそういった手合だろうと思っていたのでいきなりこう言われた時は少し意表をつかれた。
「驚いた、ほんとにひと目でわかるもんなんだな。ほかの子と全然違う」
にやにやしながら声をかけてきたのは濃いめの茶髪を短く刈り込んだ大柄な少年だった。
先ほどの三人組と比べるといくらか年かさに見える。袖をまくった厚手のシャツから太い筋肉の束がのぞいてかなり精悍な印象だった。
もう一人の、こちらはいくらか線の細い長髪の少年となにやら目配せして「なっ」と笑う。
いぶかしげなひびきを見てさらに意外な言葉が続いた。
「おたく、天野っていうんだろ?
ひびきが黙っていると相手は面白そうに連れの顔を見た。意味ありげな表情が浮かぶ。
「今あっちの林の方から出てきたろ? 聞いたとおりでどんぴしゃだとわかったよ」
なにかちかっと閃くものがあってひびきは少し緊張した。
するとこの人たちはさっきの三人組の仲間なのだろうか。そういえば彼らがそんな話をしていたような気がする。だがそれならなおさらかかわり合いになるのはめんどうだ。
無視してさっさと立ち去ろうとしたが、少年はにやにやしたままひびきを呼び止めた。
「まあ待ちなって、少し話があるんだ。ちょっとくらいいいだろ」
いいわけないでしょ。
あえて無言で通り過ぎようとしたひびきの足がそこで止まった。
左手の水路の方に一人、さらに右手の植え込みの陰で二人の少年がこちらを見ているのだ。目が合うとそのまま進み出てひびきの前に立ちふさがる。気がついた時には五人の少年に前後を挟まれる形になっていた。考えるまでもなく非常にありがたくない状況だ。
(あっちゃー困ったよう、なんなのこの人たち)
たちまち鼓動が速くなるのが自分でもわかった。ひびきも決して上品な優等生というわけではないが、といって危ない連中とつきあいがあるわけでもない。少年たちの雰囲気は本能的な嫌悪の感情を呼んだ。
ふり返るとあの大柄な少年が腕を組んでこちらを見ていた。その余裕たっぷりな態度からすると彼がこの少年たちのリーダー格らしい。にやにや笑いを浮かべたまま近づいてくる。
「なっ、少し話をしようぜ。どうしてもあんたに聞いときたいことがあるんだよ。城島二高の吉見学ってやつのことなんだが」
「……」
「おれらの間じゃガクで通ってるデブいやつなんだ。それか福重史郎ってひょろっとしたの。こっちはシローって呼ばれてる」
もちろん知らない名だった。心当たりもなにもない。
知らない、と短く答えて少年たちの間を抜けようとしたがそうはさせてくれなかった。四方をふさがれて少年たちに取り囲まれてしまう。
「知らないはずはないんだ、ガクのやつはおたくのことですっかりブルっちまってる。おまけに二人とも全治三か月でまだトイレにも立てねえありさまでね、ま、事情くらいは聞かせてほしいってわけ」
そう告げる少年の声は少し険しくなっていた。余裕に見えたその態度は決して本物の落ち着きではないのだ。むしろ獲物を前にして内心の荒れを抑えきれなくなっている。口調がやや乱雑になったのがはっきりわかった。
「半端な連中だがこっちも仲間を病院送りにされてそのまま知らんぷりってわけにゃいかんのよ。やっとこさおたくの名前を聞き出したんだが、それだけでぶるぶる震え上がってたからな、よほど痛めつけられたかどうかしたんだろう。もちろんおたくが一人でやったなんて思っちゃいないよ。そっちにも兵隊くらいいるだろうからな」
とんでもない話だった。
この人たちはなにかひどい思い違いをしていると思った。ひびきのことを危ない連中の中の一人と決めつけ、その仲間(兵隊ですって?)が彼らのチームの一員を襲って大けがをさせたと言っているのだ。
これほど突拍子もない話を聞かされるとは思いもしなかった。
絶句するひびきの様子をどう見たのか、少年の目にはいよいよ剣呑な光が浮かんでいた。
「おたくなら見てくれだけで言うこと聞くやつがいくらでも釣れるだろうがな、チューボーであんまりやりすぎてっと大ごとになるぜ」
まさにめまいがするような言いぐさだ。彼らの間でどんなトラブルがあったか知らないが、これはあんまりな誤解だと思った。
よりにもよって天野ひびきがヤバい連中の親玉扱いされているのである。こんな状況でなければ憤然と抗議しているところだ。
だが今はそんな努力が無駄であることもわかっていた。そもそもこんな戯言につきあっている気力もない。
「というわけでそのへんの事情ってのを聞かせてもらえねえかな。こいつらもあんまり気が長い方じゃなくてね」
答えようもないので黙っていると少年の目がちりっと険しさを増した。
(わあ、まずいよ、この人怒ってる——言いがかりだけど)
自分の名前や顔は想像以上に彼らの間で知れわたっているらしい。今後のことを考えるとげんなりする気分だったが、今はこの場をなんとかしなくてはならない。むろん逃げるのがいちばんだ。
だが左右に目を走らせたひびきの意図に少年はすばやく反応した。
「どこに行こうってんだよ」
気がついた時にはその大きな手がひびきの肩に乗っていた。女の子を足止めするには十分すぎる力を秘めた手だ。
周囲の少年たちはそろって楽しげな目で成り行きを見物していた。
「タクロー、んなとこでキレんなよ」
「一応公衆の面前だぜ」
「穏便にな、穏便に」
口々に勝手なことを言って笑っている。単純に面白い展開を期待しているのだろう。このめったにお目にかかれないほどきれいな女の子を小突き回す楽しさで上機嫌なのだった。
行き過ぎる人々は少年たちの雰囲気にきな臭いものを感じて顔をしかめていた。むろん介入してくるほどの物好きはいない。
誰もがかかわり合いにならないよう目をそらして通り過ぎていく。なぎさならその無関心を盛大に罵っただろう。
「放して」
ひびきの短い抗議は無視された。
「放してってば」
肩をつかんだ手に力が入ってひびきは眉をひそめた。さっきの森での一件のように人前で派手なことはできないと躊躇していたが、ここではっきり「逃げよう」と決断した。少年がぐいっとひびきの体を引き寄せようとしたのが引き金になった。
反射的に「放してよ!」と強い調子で相手の体を突き放そうとする。
思いがけないことが起きたのはその時だ。
周囲の少年たちが呆気にとられていた。その少年たちを敬遠して素知らぬ顔で通り過ぎようとしていた人々までもがぎょっとして足を止めた。
相手を押しのけようと伸ばした左手の先で、少年の大柄な体が持ち上がっていた。
その両足は完全に地面から離れ、三十センチほどの高さで宙を蹴っている。
周囲が唖然とするのも無理はない。傍目には華奢な少女が大柄な少年の胸ぐらをつかんで片手で釣り上げているようにしか見えないからだ。
子猫が大型犬を持ち上げているような異様な光景だった。
驚いたのはひびきも同じだ。持ち上げているように見えても少年のシャツに引っかかった指先にはなんの負荷もかかっていないのだ。
浴室での水滴の記憶がさっと浮かんだが、まさかこんな大きな荷物まで持ち上がるとは思ってもみなかった。
「こ、この、放せよ!」
少年の声は驚愕で裏返っていた。先ほどまでの余裕が完全に吹き飛んで動転しているのだ。
それまで笑いながら見物していた仲間の少年たちも同様だ。皆一様に目を見開いてこのあり得ない光景に立ち尽くしていた。
彼らのリーダー的存在である少年は一八〇センチを超える長身であり、体重はこの少女の倍以上といってもよかった。だが——。
「ウソだろ」
「た、タクロー」
「そんな、まさか……」
顎が外れそうな間抜けな顔はいっそ滑稽なほどだった。そろって「そんなバカな!」と叫びたいに違いない。
「ちくしょっ、放せよっ」
愕然としたままわめいた少年がもう少し冷静だったならつかまれた襟首に体重がかかっていないこと、
すなわち苦しくもなんともないことに気づいたかもしれない。だがパニックに陥った少年は自分の首が締め上げられる錯覚で手足をばたつかせて抵抗した。
その手につかまれることを嫌ったひびきがちらりと手のひらの上の水柱をイメージしたのはまったくの偶然だった。心の中で「オフ」と命じる瞬間、浴室での記憶が閃いただけである。あっ、と思った時は遅かった。
その手の先であがいていた少年の体はさらに一メートルほど飛び上がるともんどりうって傍らのベンチの横に転がった。
野次馬も含めて周囲のすべての人間が絶句した。
彼らの目にはひびきが大柄な少年を片手で持ち上げたばかりか、まるで空のバッグを振り回すように放り投げたとしか見えなかったからだ。
たいした勢いではなかったものの、投げ出された少年は痛みよりも精神的な衝撃で顔色を失っていた。
あっちゃーと焦ったがひびきはあえて周囲の目を無視し、悠然とその場を離れようとした。彼らが固まっている今のうちにさっさとこの場を離れてしまおうと思ったのだ。
案の定、今度は誰もその前に立とうとはしなかった。
彼らのひびきを見る目は一変していた。この少女の名が他校にまで轟いているのは伊達ではなかったのだ。うかつに手を出せばとんでもないことになる!
その認識の大部分は偶然が呼んだおおいなる誤解だったが、少年たちの足はその場に縫いつけられたように動かなかった。
だが、ただ一人その沈黙に反抗する者がいた。
「待てよ!」
タクローと呼ばれたリーダー格の少年は、憤然と起き上がった。すでに見せかけの余裕などかけらもない。相手の手強さを思い知って全身の毛を逆立てているようだった。仲間たちの面前で醜態をさらしたと思っているのだ。
足を止めずにわずかに視線を走らせたひびきが「来るかな?」と思ったとたん、少年は「くそ!」と短く吐き捨て突進してきた。
来るわよねえ、やっぱり。
「ら、らくらくモードォ!」
小声で叫んで駆け出したひびきを大柄な少年が憤怒の形相で追いかけ、石と化していた他の少年たちもその勢いに引っぱられるように後に続いた。
休日ののどかな公園の一角で、一人の少女を追って少年たちの報われぬ追跡劇が始まった。
※※※
先頭を走る少年は今や怒りで身を焦がす思いだった。
断じて許さねえ、と決意していた。あの小娘は中坊のくせに自分をコケにしやがったのだ。
ガクたちの事情を吐かせた後はちょっとからかうくらいで済ませるつもりだったのにそれを反古にしやがった。甘い顔をしたのが間違いだ。徹底的に思い知らせてやる——そんな
罵言が頭の中をぐるぐると回っていた。
むろん、それが自分の身勝手な言い分にすぎないという自覚などない。
さっきは不意をつかれて「自分で」転んでしまっただけだ。あいつはちょっとしたトリックでおれを引っかけたのだ。もう二度とそんなペテンには乗らねえ!
あっという間にそのような理屈をつけると少年は怒りに賦活化されてペースを上げた。仲間たちは彼の足にはとうていついてこれず、すでに後方に置き去りだ。
だがそこで理性の蒸発しかかった彼の頭にもささやかな疑念がわき上がった。
追いつけないのである。
全力で走っているはずなのにたかが中学生の女の子に追いつけないのだ。それどころか前方に見える背中はみるみる小さくなっていく。信じられない俊足だ。懸命に追いかける彼を楽々と引き離して遠ざかっていく。
そんな馬鹿な、と初めて不条理な感覚が襲ってきた。
なにか変だ、これはおかしい。そうささやく内心の声が急速に大きくなっていく。二年で中退したとはいえ、高校時代ずっとラグビー部で鍛えた自分の脚力があんな小娘に劣るはずがないのに!
ウソだ、こんな馬鹿なことがあっていいはずがない!
あまりの理不尽さにめまいがしそうだった。現実にも全力疾走で肺が破裂しそうな苦痛を覚え始めていた。目が回りそうなのは酸欠のせいでもある。
くっそう、と絶望的な怒りにわしづかみにされたその時、少年はかすかな光明を見いだした。
逃げ去る少女の方向にその意図が見えたからだ。
彼らは今公園の外周に接する広い歩道に入り込んでいた。クッション性のある素材を敷きつめてジョギングやウォーキングの用途に提供されている周回通路だ。その少し外側には公園の敷地と外部を隔てる高さ三メートルほどの金網のフェンスが延々と走っている。
そのフェンスの何ヶ所かに公園への出入口となっているゲートがあった。少女はそのひとつに向かって走っているのだ。
公園の東北部に設置された四番ゲートは少女の右前方に位置している。
少年は思わぬ好機に「よし!」と勢いづいた。
なぜならそのゲートは現在整備のため閉ざされたままであることを知っていたからだ。今日ここを訪れた時、彼ら自身がそのために少し遠回りを余儀なくされたばかりだった。
ゲートといってもフェンスと同じ金網の扉にすぎないが、今は固く閉じられ、防犯のための有刺鉄線までその上を走っている。
いくら足が速くても女の身であれを越えるのは難しい。といって次のゲートまで走ろうと思えば十メートルほどバックしてまた周回通路に戻らなくてはならない。少女にその余裕はあるまいと思って少年はなけなしの体力を振り絞った。
そして快哉を叫びたい光景にぶつかった。
思ったとおり、あのいまいましい背中が閉鎖されたゲートの前で立ち往生しているのだ。
天はおれに味方した! もう逃がさねえ、と確信した。
だが喜びが苦しい呼吸を忘れさせたかと思った次の瞬間、少年は驚きで立ち止まっていた。
「そんなアホな……」
信じられなかった。あり得ないと思った。それでも現実は彼の常識を目の前で裏切ったのである。
ゲートの前で立ちすくんでいるように見えた少女はふわりと飛び上がると三メートル近い障壁を軽々と越えてフェンスの向こう側に着地したのだ。
オリンピック選手にも絶対に不可能な離れ業だった。中学のころから運動部一筋で体を使うことを知っている少年にはそれがよくわかった。
もう追いかける気力も体力も完全に失せていた。
金網の向こうで振り向いた少女の瞳に少年は寒気を覚えた。なにか得体の知れない戦慄が背中を駆け抜けていく。
ガクやシローが災厄に見舞われたのは当然だった。
今ならわかる。あれは決して手を出してはいけない相手だったのだ。
理屈抜きでそう悟った少年はその場にへたり込んでしばらく立ち上がることができなかった。
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