第6話 微熱的日常

 目が覚めると枕元に母となぎさの顔があった。


 夢を見ていた記憶もないのでいきなりのこの状況には少しとまどう。


 ただ心配そうに自分をのぞき込んでいた二人がほっと笑顔になるのを見てひびきも自然と口元に笑みが浮かぶのを感じた。理由はわからないがこれでひと安心という感覚だ。


「お母さん……なぎさも、どうしたの二人そろって」


 いつもの自分の声だったがなぎさは大仰にため息をもらした。


「よかった、その様子なら大丈夫みたいね」


「え?」


 ひびきがきょとんとした顔になるのを見て母も肩の力が抜けた様子だった。まだいくらか心配そうな表情だったが、それでも緊張がゆるんだのがわかる。安堵がその声にも表れていた。


「心配したのよ、けがはなさそうだけどほんとに大丈夫? どこか痛いところとかない?」


 そう言われてようやく今の状況に対する疑問がわいてきた。


 自分はなぜかなぎさのベッド(それはすぐにわかった)に横たわっているし、母となぎさはその自分を心配そうな顔で見つめている。しかもなぜ自分がそんなことになっているのかはわからない。ひびきは少し混乱した。


「痛いところとか別に。でも……ごめん、ここなぎさの部屋だよね? あたしどうしてここにいるの? なんでお母さんまで」


 二人はちらと顔を見合わせた後、恵美の方が小さくうなずいた。


「覚えてない? あなたはなぎさちゃんと歩いている時に交通事故に遭ったの、ううん、遭いそうになったの」


「事故?」


「そう、きわどいところでぶつからずに済んだらしいんだけど」


 なぎさもうなずいて付け加えた。


「ほら、踏切渡って少し先のところ、ケーキでも買っていこって歩いてたじゃない。そしたらお店のちょっと前のとこで」


 なぎさの言葉が頭に入ってくるのに少しだけ時間がかかったが、そこでぱちんと記憶がはじけた。こちらへ突っ込んでくる軽自動車のイメージをはっきりと思い出したのだ。


「あっ」


 思わず起き上がろうとすると恵美たちは少しあわてたが、すでに体にはどこも異状がないと感じていたひびきは「平気、大丈夫だから」と言って上体を起こした。


 周囲を見回すまでもなくなぎさの部屋に間違いない。窓の外がすっかり暗くなっているのが意外だったが、今はそれどころではなかった。


 そう、そうだった。


 あまりにも突然のことで二人ともこちらに向かってくる軽自動車を呆気にとられて見ていた。それから……。


 それからどうしたんだっけ。


「思い出した?」


 なぎさはまた少し心配そうな顔になって問いかけてきたが、すぐには答えられなかった。


 二人で歩いていたところまでは覚えている。事故直前のイメージもある。なのに肝心なところが空白のままだったのだ。


「ええと、ぶつかりそうになったところまでは覚えてるんだけど」


「うん、すごくきわどいタイミングだったよ。あんたがとっさに突き飛ばしてくれたおかげであたし無事だったんだ」


「そうなの?」


「そうだよ、でなきゃ今ごろあたしは大けがしてたと思う。覚えてない?」


 うーん、と考え込むひびきを見てなぎさも恵美も勝手に納得したようだった。


 この子は交通事故に対してナーバスなところがある。きっと本人にとっても思い出したくない出来事なのだ。それなら今はあまり刺激しない方がいい、と。


 結局、それ以上の話は後日にということになってひびきは恵美とともに帰宅することになった。いつまでも小学生の誠に留守番をさせてはおけないし、ひびき自身、特に変調を覚えているわけでもなかったからだ。


 なぎさがなにやらもの問いたげな顔をしていたのが少しだけ気になった。


     ※※※


 天野家の母娘が顔なじみの紺乃夫妻とあいさつを交わし、あわただしく引き上げるとようやく肩の力が抜けてなぎさはベッドに腰を下ろした。


 まだかすかに残るひびきのぬくもりを感じてほっと安堵の心地よさが広がる。


 よかった。本当によかった。


 あのままひびきにもしものことがあったら自分はどうなっていただろう。そう思うとたちまち心が騒ぎだすのを感じる。ひびきが自分にとってどれだけ大きな存在かあらためて思い知らされた気がした。


「やっぱ早めに押し倒して既成事実作っちゃおうかな」


 そうつぶやいてくすっと吹き出しそうになる。


 だが、その楽しげな気分も長くは続かなかった。なぎさは理論派であり、ここに至ってようやく数々の疑問が無視できなくなってきたのだ。


 今考えると事故直後からすでに天野ひびきの気配はなかった。こちらも気が動転していたのは確かだが、あの子があの場から走って逃げ出したのなら自分にはすぐわかったはずだ。


 どうやって誰にも気づかれずに事故現場を立ち去ることができたのだろう。


 しかもこんな時間までいったいどこでなにを?


 ひびきが気を失っていたのはせいぜい十分程度、その間に恵美が駆けつけたのでなにをする暇もなかったが、それでも手早くあらためた親友の様子に異常はなかった。


 ただ制服のあちこちに細かな埃が付着しているのが目を引いたくらいだ。もしかすると事故の時、彼女も転んだかどうかしたのだろうか。だが、それにもまして奇妙なのは……。


 あの子はどうやってこの部屋に現れたのだろう?


 話がややこしくなるので恵美にはぼかして説明したが、ひびきは決して紺乃家の玄関から入ってきたわけではない。それはなぎさ自身がよく知っている。


 気がつくと天野ひびきはベランダに立っていたのだ。


 ここはマンションの十二階である。玄関以外に出入口はない。非常用の扉で隣家のベランダから出入りできないことはないが、そんなところから誰かが入ってくればすぐにそれとわかる。


 ひびきはなんの前ぶれもなくいきなりなぎさの部屋のベランダに現れた——そうとしか思えないのだ。そんなことはあり得ないはずなのに否定できない。


 ではあの子はどこから? と考えるととたんに落ち着かない気分になった。


 そもそも天野ひびきはひどい高所恐怖症である。なぎさの部屋で寝泊まりすることも珍しくはなかったが、それでもベランダにだけは決して立とうとしなかった。そのひびきがなぜ突然あんな場所に?


 冷静になった今のなぎさには解せないことばかりだった。するとなんの脈絡もなく昼間のひびきの言葉が頭に浮かんだ。


 驚かないでよね、とんでもない話だから——。


 ここ何日かひびきは少し様子がおかしかった。


 一人でなにか考えているような顔はたぶん自分だから気がついたのだと思う。あの子自身も相談する気になったからこそ自分を誘ったのだ。


 いったいなにが言いたかったんだろう。とんでもない話? まさか今日の奇妙な騒ぎとなにか関係があるのだろうか。だとしても今はなるべくあの子を刺激したくない……。


(まるで移り気な恋人を想って悶々としている乙女みたいだ)


 ふとそんなことを考えてなぎさは苦笑した。


     ※※※


 誠は短く「お帰り」と言っただけで自分の部屋へ引きあげていった。


 いつもの毒舌を思うといっそ不自然なほどだったが、あるいは母から今夜はよけいなことは言わないようにと釘を刺されていたのかもしれない。だとしても弟の顔にはっきりとのぞいた本物の安堵の表情がひびきを和ませた。


「ごめんなさい、なんかずいぶん心配かけちゃったみたい」


 そう頭を下げる娘に恵美は笑って首を振った。


「ううん、無事でなによりよ。それよりお腹空いてない? なにか作りましょうか」


「ありがと、でも先にお風呂に入っていい? なんかあちこち埃だらけで。なぎさのベッド汚しちゃったかも」


「そうね、今度お菓子でも持っていくといいわ」


 うん、と返事をしたとたんひびきのお腹が小さく鳴って二人とも吹き出した。体は正直だ。


 手早く着替えて浴室をのぞくとバスタブにはちゃんとお湯が張られていた。


 天野家では小学生の誠といえども家事をこなす。あの口のへらない少年が実はけっこう有能な働き手であることをひびきは知っている。憎まれ口をたたき合っていても決して本気で衝突することがないのはそうした理解があるからだ。


「よしよし、感心感心」


 ひびきは一人つぶやいて上機嫌で湯船につかった。熱いお湯が快適でたちまち陶然となる。


「ううー、き・も・ち・いいー」


 たっぷりのお湯に沈み込むようにつかっていると近ごろ流行の半身浴などばからしく思えてくる。この気持ちよさを捨てて浅い湯に体を半分だけなんてナンセンスもいいところだ。


「やっぱお風呂は全身浴だよねー」


 独り言の口調まで幸福感に満ちてくる。


 そのリラックスした気分が幸いしたのか、ゆったりとした気持ちで記憶を探っていくと少しずつ昼間のことが鮮明になってきた。


 学校でのこと、放課後二人で歩いていた時のこと、あれこれとりとめもないおしゃべりをしたことなどが泡のように次々と浮かんできた。そうしてふいに思い出したのがなぎさの言葉だ。


 あんたがとっさに突き飛ばしてくれたおかげであたし無事だったんだ——。


 今になってようやく記憶が舞い戻ってきた。確かにあの時、自分はとっさに彼女の体を押しやったのだった。同時に身を翻して自分も車を避けようとした。それから……。


 それから先が思い出せない。


 目を閉じ心の緊張をほぐしながら考えてみてもやはりそこから先が空白になっている。


 なにがあったんだろう? と今さらながら気になった。


 恵美もなぎさも気をつかってあまり詳しいことは口にしなかった。ただ自分はどうやらあの後しばらくどこかをふらふらさまよっていたらしい。なぜそんなことになったのかはわからない。


 父の事故のことがあるので恵美たちはなるべく刺激しないようにと考えてくれたようだが、今の自分はそんなに弱くはない。


 五年前の事故は辛い思い出ではあるものの、それでもちゃんと向かい合うことのできる記憶だ。


 では今日の事故の瞬間、いやその後もいったいなにが起きていたのだろう。


 何度考えてもそこだけがぽっかりと空白のままだった。なにか心の隅で小さく瞬いているものには気がついていたが、はっきり見ようとするとぼやけてしまう。


「まあいいや」


 お湯が気持ちよすぎて今日はもうめんどうなことを考えるのはよそうと思った。どうせ週末でお休みなのだ。考えごとは明日にすればいい。


 そう思った時、目の前でなにかがきらりと光ったように見えた。


 うん? とまばたきしてみてもやはり同じだった。濡れた手のひらになにか細かいきらきらしたものが無数に見えるのである。


 なんだろうと思ったとたん自分の手がぐっとクローズアップされた。指先の指紋の起伏までがはっきり見える。手相を表す生命線だの感情線だのがまるで深い溝のようだ。


 そしてひびきは「それ」の正体に気がついて目をみはった。


 最初小さなガラス玉のように見えたそれは微細な水滴だった。手のひらの上数センチほどの空中に無数の水滴が浮かんでいるのである。


 拡大されたひびきの視野の中で、それらはぷるぷると震えながら手のひらの上を微妙に上下していた。ひとつひとつが浴室の明かりをはじいてとても美しい。まるで無数の宝石を広げたようでついついその光景に見とれてしまう。


 なんだろう、水の粒みたいだけど……。


 そのままじっと見ていると水滴はさらに上昇して手のひらとその上の高さ数十センチほどの空間をゆっくり上ったり降りたりするようになった。何度目を凝らしても錯覚ではない。実に不思議なながめである。


 そうして見入っているうちにふと気がついた。


 微妙にたわんだり揺れたりしながらゆっくり浮遊する水滴。このイメージには見覚えがあった。


 テレビで見たことのある映像だ。スペースシャトルや宇宙ステーションからの中継で空中に浮かぶ水滴を見たことがある。丸まってふるふると宙を漂う奇妙な光景が印象的だった。


 あれは無重力の宇宙空間での現象だった。無重力? すると……。


 閃くものがあってなにかがわかったような気がした。


 そう、自分の体が浮き上がってしまうあの現象は重力に関係があるのではないか。自分である程度オンオフができるということは、自分には重力をどうにかできる力が身についてしまったのではないか。その証拠に——。


 ひびきは手のひらを湯の中に沈めて意識的に「それ」をイメージしてみた。


 とたんに小さな水音を立てて高さ五十センチほどの水の、いやお湯の柱が立ち上がる。手のひらを持ち上げるとそれは湯の表面からちぎれ、見る間に丸まって宙に漂うテニスボールほどの大きさの水の球へと変わった。


 ゆっくり手を動かすと微妙に揺れながらその動きについてくる様がユーモラスだ。


 手のひらを丸めて「オフ」とつぶやくと水球は糸が切れたように落下して肩までつかった湯の表面に波紋が広がる。


 知らずに詰めていた息をふうーっと吐き出した。


「あたし、ほんとにどうなっちゃうんだろうなあ」


 考えるのは明日にしようと思っていたのにそうはいかなくなったようだった。


     ※※※


 結局、土曜日曜とひびきはほとんど外出せずに過ごした。


 一度だけなぎさが電話してきたが、日ごろの強引さはおくびにも出さず遠回しに様子をうかがうという感じだった。さすがに「ユーザー」を名乗るだけあってそのデリカシーは本物だ。


 ただ、思わぬアクシデントでなぎさにあのことを打ち明ける機会は逸したままだ。ひびきの抱えた問題は解決したわけではない。もう一度心の整理をつけて相談するつもりだった。


 そして週が明けるとひびきは元気よく登校した。


 おっかなびっくり腰が引けていた先週とは大違いで、以前のように軽い足どりで歩いていく。なぜそんなふうに自信を持って歩けるのかというと、休みの間にひとつだけよいことがあったのである。


 朝、目覚めた時に体が勝手に浮かんでいることがなくなったのだ。


 土曜、日曜、そして今朝。ちゃんとベッドの中で目が覚める朝が三日続いていた。


 たとえ浮かんだままでももうパニックの心配はなかったとはいえ、あのはしたない寝相は恥ずかしくてしかたがない。それがここへきて治まったというのは歓迎すべき進展だった。


 これが今だけのことなのか恒久的に改善された結果なのかはわからない。


 それでもひびきには「もう朝は大丈夫かも」という漠然とした印象があった。あの力は徐々に自分の言うことを聞くようになってきた。そんな感触があるのだ。


 その証拠といえるかどうかはわからないが、校舎の階段を上っている最中に体が軽くなることもなかった。


 あれはやはり足への負担を軽減するために自動的に「らくらくモード」に切り替わっていたのだろうと思った。そのくらい自力でけっこう、と自分に言い聞かせたことが効いているのかもしれない。


 教室に入ると先に来ていたミサたちが笑顔で迎えてくれた。


「おはよう、天野」


「ひびき、最近早いよねー。なんか心境の変化?」


「天変地異の前触れとか」


「いんや、このあたしの躾が行き届いてきたってことだよ」

 例によって最後のセリフはなぎさである。先週はいつになく彼女のやさしい言葉を聞くことが多かったので、ひびきはやっと日常に復帰したような気がした。


 なぎさはひと目でひびきの復調ぶりを見てとったらしく、素知らぬ顔で相棒のお尻に手を伸ばして女の子たちの歓声を誘った。屈託のない朝の光景である。いくらか力の制御に自信をつけたひびきにとっては久々にくつろげる教室だった。


 その日、神水梨香が欠席している以外には特に気がつくこともなくいつもどおりに授業が始まった。


 まだ不安な部分もあったが思いきって体育にも顔を出してみた。


 今日はバスケットのような危ない競技ではなく、クラスマッチに備えたソフトボールだったのでまあこれならと思ったのだ。それでも慎重に慎重にと心の中でとなえながらやっているとどうしても動きが鈍くなる。


「こらー、天野、まじめにやらんか!」


 そう体育教師の野太い声が飛んでくるのはしかたがなかった。


「ひびきー、とろとろ走ってないで急げー」


「ああもう、なにのんびりしちゃってんの!」


 ミサたちの声援もしきりに飛んでくるが、さすがに全力疾走はまだこわい。心の中では「急ぐな急ぐな」と命じながら、体の方は不自然に見えない程度に急いで走るなどという芸当は至難の業なのだ。

 

たったの五十分で体がぎくしゃくしてしまったひびきは「くたびれたー」とへばっていたが、事情を知らないミサたちには「手ぇ抜きまくりだったくせに」と笑われる始末だ。なぎさがなにやら意味ありげな目をしていたのが印象的だった。


(やっぱあの子の目はごまかせないかなー)


 これは早めに打ち明けておかないと後がこわいかもと思った。セクハラ大魔王のなぎさのお仕置きはちょっと遠慮したい。


 少し引きつりそうな顔でひびきはあいまいに笑った。


 それから数日はなにごともなく過ぎた。


 ふいに体が浮かび上がることもなければいきなり変なものが見えたりすることもなく、ひびきとしてはほっとする平穏な日々だった。


 ただ、神水梨香がずっと欠席なのが少し気になった。


 どちらかというと反目し合っている仲だが、顔が見えなければそれなりにどうしたのかなと思う。どうやら担任も詳しい事情は知らないようで「誰か神水のこと聞いてないか」といささか当惑気味だった。


「どうしたんだろね、梨香」


「さあ、風邪でもひいたかな?」


 なぎさはさして興味なさそうな口ぶりだった。いじいじと逆恨みで陰口をたたき続けているような相手など知ったこっちゃないねという顔だ。それでもそこだけぽっかり空いた机は少し気になる。


 きつい性格が災いしてクラスに梨香の友人はそれほど多くはなかったが、つきあいのある何人かの少女たちは少し心配顔だった。

 

その梨香が金曜日になってもまだ登校してこないことがわかるとさすがに教室でもざわさわとした気配が広がった。


 どうしたんだろね、病気かな、といった声がそこここで聞こえるようになり、担任もかなり不安げに梨香の友人たちに様子を尋ねていた。


 自宅にこもっているようだが家族からは「少し体調を崩しているから」としか説明がないらしい。今のところ直接彼女の家に出向いた者はいないようで、じゃあ明日休みだから私ちょっと寄ってみます、と誰かが手を挙げた。


 お世辞にも友好的な関係とは言いがたいが、そこはクラスメートである。普段から梨香を突き放して見ているなぎさやミサたちもいくらか気になり始めたようだった。


「体調崩したって案外ほんとなのかも」


「でも風邪で一週間も寝込む子には見えないけどな」


「家にこもりっきりっていったいどうしたんだろね」


 放課後になり、帰り支度をしながらそんなことを話していると教室の後ろのドアから意外な顔が入ってきた。隣のクラスの堺恭子である。梨香の噂をしていた一同はそのいちばんの友人の硬い表情に口をつぐんだ。


 恭子はまっすぐひびきの前まで歩いてくると不機嫌な顔のまま切り出した。


「天野さん、ちょっといい」


「え、あたし?」


「聞きたいことがあるの、あなたに」


 ひびきがとまどっているとミサとなぎさはちらりと目配せして小さくうなずいた。


 なぎさが不敵に笑って「外そうか」と言うと恭子はつっけんどんに「いいわよ、別に」とだけ言い返す。ミサは「かわいくないねー」という顔で苦笑いしていた。


「なに、あたしに聞きたいことって」


 そう尋ねると一段と恭子の顔が曇った。口元が小さく震え、きっとひびきの顔をにらみつけて言い放つ。


「あなた梨香になにをしたの」


「は?」


「とぼけないで! あなた梨香のこといじめたんでしょう。わかってるのよ」


 ひびきはもちろん、なぎさやミサまで呆気にとられて目が丸くなっていた。まさかこれほど意外なセリフを聞かされるとは思ってもみなかったからだ。


「そんな顔したってだめよ、あたしにはわかってるんだから。おかげで梨香は学校にも出てこれないのよ、ひどいじゃない!」


「ちょっ、待ってよ、どうしてそんな話になるの? あたしにはなんのことだか」


 まだ唖然としたままひびきが訴えると恭子の目にさっと怒りの色が浮かび上がった。


「とぼけないでって言ったでしょ! あなたがいじめたから梨香はあんなことになっちゃったのよ、悪いとは思わないの!」


「そんなこと言われてもなんのことだかさっぱり……ちゃんと話してくれなきゃわかんないわ、あたしがなにをしたっていうの?」


 そこでますますいきり立つ恭子を「ちょい待ち」と制したのはなぎさだった。


「恭子、あんたね、いきなりそんなこと言われたってこっちはポカーンだよ。ひびきがいじめたってどういうことさ、ちゃんと説明してくれなきゃ全然話が見えないよ」


「あ、あたしは……」


「だからそうカッカしなさんなっての。聞いてやるから落ち着いて話してみなよ。梨香がどうしたって?」


 爆発しそうだった恭子はなぎさにいなされて大きく息を吸ったまま固まっていた。


 憤懣をぶちまけたい気持ちと誰かに話を聞いてもらいたい気持ちが争っているのだ。その激しい葛藤の後、恭子がうらめしげな表情で語りだすまでしばらくかかった。


「——あたし、梨香の家に寄ってみたの。何回携帯に電話しても出てくれないしメールの返事も来なくて、それで思いきって昨日直接会いに行ったんだ。小学校の時からちょくちょく遊びに行ってたし梨香のお母さんとも仲良しだったから……もし風邪かなにかで寝込んでるんだったらお見舞いしてこようって思って」


 話し始めるとそれまでの激しさとはうって変わって恭子は沈んだ様子になった。


「行ってみるとなんだか少し変な感じだった。おばさんはとっても気落ちしたような顔で『恭子ちゃん、もしかしてあなたはなにか聞いてる?』って言うの。あたしがぽかんとしていると『ううん、いいの。梨香はちょっと気分が荒れてて部屋にこもりっきりなんだけど恭子ちゃんの顔を見れば落ち着くかもしれないわ』って言って部屋に入れてくれたわ」


「あたしはああ、そうかって思った。梨香は昔から怒りっぽくて時々人を近づけなくなることがあったから。いいことだとは思わないけど、そんな時はよく自分の部屋に閉じこもっちゃって」


 それでよくあたしが慰め役で梨香の気分をなだめてきたの——そう言った時にはもう恭子の顔からすっかり敵意が抜け落ちてしょんぼりしているようにさえ見えた。


「でもそれなら病気ってわけじゃないから少し安心した。話をして気分転換できればいつも笑って元気になってくれたから。けど今度はそうじゃなかったわ」


「梨香はベッドの脇でちんまりと膝を抱えてこっちを見ようともしないの。あたしがいろいろ話しかけても上の空だしなにを聞いても生返事で……それであたしは元気づけようといろんな話をしたんだけど、その流れで天野さんの話になったとたん梨香は真っ青になって」


 あんなの初めて、と恭子はこぼした。


 梨香は頭を抱えてぶるぶる震えだし、驚いた恭子が手を差し伸べようとすると小さく悲鳴を上げて部屋の隅に逃げようとしたのだ。


 唖然として「梨香、梨香しっかりして、大丈夫?」と声をかけると彼女の勝ち気な友人は見たこともないほど怯えて「こっちに来ないで」とくり返すばかりだったという。


「なんであんなことになったのかわからないわ。でも、でも梨香がおかしくなったのは天野さんの名前が出てからなの。間違いないわ、あたしが『天野がどうかしたの』って聞くとものすごくこわがってもうまともに話もできないありさまだったのよ。天野さん、あなた……」


 梨香になにしたのよ、とこれだけはきっぱりした調子で恭子は言いつのった。聞いていたひびきたちはその意外な話にただ顔を見合わせるばかりだ。


 真っ先に立ち直ったのはやはりなぎさだった。


「梨香はいつからそんなふうなの、おばさんはなにか言ってた?」


「こないだの……金曜日からだって。おばさんもなにか言いたくない事情があるみたいだけど、その、どうやら梨香とおばさん喧嘩したみたいで、梨香は家を飛び出しちゃったって。そうしたら夜になってから電話があって梨香が病院に運び込まれたって」


「病院?」


「ええ、そのへんのことは詳しく聞かせてもらえなかったけど梨香は気を失って救急車で運び込まれたって」


 金曜日と聞いてひびきとなぎさの視線が一瞬交錯した。もちろん心当たりなどない。恭子の話はなにからなにまで意外で聞いている三人は首をひねるばかりだった。


 救急車ですって?


 どうしてまたそんな話になるんだろうと思った。ひびきにはあの強気な少女がそこまで精神的に追い込まれる事情など想像もできなかった。


 だがそんなとんでもない話を自分のせいにされても困る。


「堺さん、話はわかったけど」


「まだとぼける気? 隠したってあなたのせいだってことはわかってるんだから!」


 恭子は憤然と言い返そうとしたが、そこでまたなぎさが割り込んだ。


「まあ待ちなって。そりゃ梨香とひびきがあんまし友好的な関係じゃないってことはあたしらも知ってるよ。でもそれを言うならあんただって普段からひびきのことは見てるだろ?」


「……どういうことよ」


「つまりあんたらが日々観察してるにっくき天野ひびきはそんなことができる人間かどうかってこと。どう? 正直この子があの強気な神水梨香をそこまでこてんぱんに追いつめることができると思う?」


「……でも梨香は」


「あんたの言うことを信用しないわけじゃないよ? でも考えてもごらん、ひびきがいくら凄んでみせたってあの梨香を震え上がらせるような真似ができると思う?」


「それは……」


「そりゃこの子だって怒ることも喧嘩することもあるかもしれないけど、梨香なら笑って張り倒すよ。あの子はそういうのには慣れてるようだからね。違う?」


 違わない。それはひびきだけでなくこの場の全員が納得した。


 理詰めに説得された恭子もそれは認めざるを得ないようだった。彼女の親友は少なくとも目の前のきれいな少女に迫力負けするようなヤワな女の子ではない。それは小学生のころからつきあっている恭子には自明のことだった。


「でも、それじゃどうして」


「わからない。あんたの話だけじゃ材料が少なすぎて。ただ証拠もないのに人を糾弾するのはまずいよ。たとえ梨香が『ひびきにやられた』って言ったとしてもそれじゃまだ半分」


「……」


「あたしらもうガキじゃないんだから『あいつのせいだ!』って言いたいんなら少し頭を冷やさないとね。そうすりゃ見えてくるもんもあるさ」

 

 なぎさは常にひびきの味方だだった。その落ち着いた説得術だけでなく、友人を気づかって乗り込んできた恭子のプライドまでも尊重しようとしている。


 ああ、やっぱこいつすごいなと思った。あのことを相談できるのはやはりなぎさだけだ。


 恭子の方も少し考え込む顔になっていた。てっきり反発してくるだろうと思ったなぎさやミサが意外なほど真剣に彼女の言い分を聞いてくれたので驚いているのかもしれない。


 さっきまでの特攻をかけるような昂ぶりはその表情から失せていた。


     ※※※


 恭子はまだ完全に納得したわけではなさそうだったが少しは気持ちが落ち着いたらしく、小さく頭を下げて帰っていった。


 なぎさと一緒に下校する間、ひびきも少し考え込んでいた。


 恭子の話が意外すぎてなにか心に引っかかる感じが離れないのだ。正直これはただごとではないのではという気がする。


 先週の金曜日からと言われたのが今になってじわじわと効いてきた。


 あの日の自分も不可解な出来事に見舞われていまだになにがあったのか思い出せないでいる。梨香の身に起きたトラブルにはなんの心当たりもないが、それでもぬぐい去れない不安が心の隅で明滅していた。


 ふと気がつくと二人してひびきの家の近くまで来ていた。


 目の前にはよく遊んだことのある児童公園の入口が見えている。そこまで来てようやくなぎさがずっとついてきていることに気がついた。いつもはもっと手前で別れるところだが、ひびきは学校からここまで自分の考えに沈み込んでいたのだ。


「あれ、どうしたの? こんなとこまで」


「別にいいじゃん」


 なぎさの目には普段の覇気と違ってなんの感情も浮かんでいなかった。


 そういえばここまでほとんどなぎさの声を聞いていない。彼女はただ黙ってひびきの後についてきたのである。ひびきより何倍も活発なこの少女には珍しいことだった。


 だがその静かな表情は言葉より雄弁に語っていた。


 それがわかるだけにひびきは少しどぎまぎして親友の顔がまぶしかった。


 なぎさは待っているのだ。


 ひびきの抱えたなにかしらの不安を察してそれを語る友の言葉を待っている。決して無理に問いただすことなくひびきの準備ができる時を辛抱強く見守っているのだった。


 この時間帯にしては珍しく人のいない児童公園の片隅で二人は見つめ合った。ひびきには息の詰まるような瞬間だったが、やがて心の中でかちりとなにかが定まった。


「少し時間をちょうだい」


 きらりとなぎさの瞳が光をはじく。


「そんなに待たせないから」


 今はそれ以上言うべき言葉が見つからなかった。


 なぎさは薄く笑みを浮かべるとさっと身を翻し、片手を軽く振ってそのまま遠ざかっていった。昂然と胸を張って歩み去る少女は立ち尽くすひびきを一度もふり返ることはなかった。

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