【伍】成虫に成れず

 久方ぶりに彼女の髪へ触れ、お湯を浴びせながらブラシで溶かしていく。

 柚荷さんを木桶風呂に入れてあげる日だったので、今日は二人で入浴をしていた。


 彼女の髪には艶やかさがあり、その美しさを引き立てるための大事な物の一つなのだと僕は思う。

 女の髪は男の度胸と同じくらい大切だ、と兄様は言っていたけど。

 されど柚荷さんの四肢を見ると、いまだ視線を背けてしまう。

 手先は二の腕で止まっており、脚は太腿までしかない。──先端が全て丸くなった奇形。

 僕はこの身を慣れなくてはならない。


 お湯に肩を落とし、共に湯舟に浸かる。

 湯に浸かると体は落ち着くが、心では変な事ばかり考えてしまう。

 一度は逃げた男を、何故この人は受け入れるのだろう。そして何故、何も言おうとしない。

 酷い男と罵られた方がまだ良いと思ってしまうが、それは傲慢と言えよう。

 僕こそなんだ。彼女がそんな可哀想に思い戻ってきたのか? はたしてそれだけで? 自らの気持ちにも気づけぬとは情けない。

 僕みたいな子供より、歳上で格好の良い殿方の方が幸せだったのではないだろうか。

 結婚する男性は年上の方が殆ど。年下も無いわけではないが、ましてや七も下の男児な訳で。

 彼女の場合も二〇はたちで結婚ではなく、まだ許嫁とは遅過ぎる。

 年齢的に一番遅く結婚した次女の姉様ですら、十八でお嫁に行ったのだ。

 相手が決まらなかったとは言え、本当に幸せなのだろうか。

 心の奥底で様々な感情が入り混じり、湯加減すらも忘れてしまった頃。


「私、今日、ちょこれいとの味が知れて、とても幸せでした」


 彼女は突然そう一言呟き、どこか凛々しい横顔で話を続けた。


「里余さん、私のせいで……あなたを不幸にしてしまいました」


 その言葉に一瞬眸が揺れた、彼女から罪悪を聞くのは初めての事だった。


「そ、そんな」

「私は余り物以下の廃棄物ですもの、甲斐田家では姉弟きょうだいで一番年上なのに、弟や妹達は先に結婚していき、取り残されてしまいました。

 ──お見合いに来てくださる殿方全員が、私との婚約をなかった事にしましたの。この体ですものね」


 反響する独白に、息が詰まりそうになる。

 僕だって今もそうだ。彼女の体を薄気味悪いと思ってしまう、その人たちとなんら変わらない薄情者。


「弟達とは小さい頃よく遊んでいたのですが、大きくなるにつれ話もしなくなって、家族でお出かけする際も女中さんとお屋敷でお留守番。お荷物になるのだから当然です」


 淡々と語られる過去、邪魔者として扱われた女性。

 彼女にとって置いてけぼりとは日常で、僕のことを咎めぬのも見捨てられて当然だと自分を批難しての許容だったのだ。


「本来は女である私がお世話をするのに、私は何もできず、男である里余さんにやってもらっている始末。

 ──お料理やお洗濯、夫の世話、相手を思いやり日々を健やかに生きて欲しい、そんな妻らしきこともできず女としても生きられない」


 あゝ、そうか、駄目だ。


「そちらも家の都合がおありでしょう......ですがもし......もし、私といるのが耐えられないというのであれば、私から婚約を取りやめるようお父様に話し合いを──」


 彼女を放してはいけないんだ。


「何を言うのですか!」


 赤子のように寄り添い、されど関係は男女として、彼女を独人ひとりにしてはならぬのだ。

 例えこれが口約束の関係であろうとも、この人は僕が支えなければならない。

 先の独白、心では「お願いだから、私を捨てないで」と本当は言いたいのだろうと感じられた。

 そうでなければ、わざわざ自分の過去を一人の童子どうじに話すまい。


二〇はたちで許嫁ができたからって何なんですか、家族に無視されるから何なんですか!

 そりゃずっと要らない者扱いされて、僕だって家の為に何をしたら良いかわからなくて……、──あっ」


 いつの間にか僕は柚荷さんの右腕を、両手で包み込む様な形で握りしめていた。

 無意識に力を込めていたことに気付き、僕は謝罪と共に手を放すと一人俯いた。

 すると微笑が聞こえ、穏やかそうな聲で話しかけてきた。


「こんな芋虫女に、そこまで言ってくれるのですね」

「じ、自分の事をそういうふうに言うのはお止めください」


 柚荷さんはくすりと笑い、「こちらへ」と僕を誘う。

 体を徐々に近づけていくが「もう少し」と何度も言われ、最終的に互いの体が密着する状態まで近づいてしまった。

 お湯と体温を感じていると、柚荷さんは右腕をこちらに伸ばし、僕の頭へと乗せてきた。

 すると二の腕までしかない丸い先端で、ぎこちなさそうにさすってゆく。

 この行動の意味合いは読めぬが、柚荷さんはどこか嬉しそうだった。


「ちょこれいとのお礼です。──こんな不祥な私を嫁に貰ってくれて、そして贈り物まで。旦那様にあげられるものは何も有りませんが、愛情なら差し上げられます。芋虫女な私でもそれくらいは有りますから」


 そうか、これは彼女なりの頭を撫でるという行為なのだ。そう思うと、感情が徐々にふんわりとしてくるような気もする。

 ここまで暖かな気分になるのも久しぶりで、この身をつい預けてしまった。

 駄目だな、支えると決めた傍から。


「ふふっ、失礼ながら、こうして見ると里余さんのお顔、まるで女性の様でお可愛らしいですね」


 む。

 その発言に対して何か言い返そうとも思ったが、継続する心地良さに負け、口を紡ぐことにした。

 こんな素敵な人が、僕のお嫁さんで良いのであろうか。

 彼女の愛情を受け取り捧げるには、まだこの心も体も未熟すぎる。

 あゝ、早く大人になって、柚荷さんの隣にいても恥じの無い漢になりたい。

 これでは母子、姉弟ではないか。

 許嫁の心地よさに溺れる僕を見ても尚、彼女は微笑むのを止めない。


「……手があったら、普通の人の様に撫でられたんでしょうね」


 そして、耳もとに囁かれた、あの切なそうなこえ

 嗚呼、彼女は、甲斐田柚荷かいだ ゆかは。


 この人が例え、絵から飛び出た肖像画の人物でも、人形師が作り出した遺作であろうとも構わない。

 彼女は、彼女だけは、僕だけの絵画であって欲しい、そう静かに臨んだ。

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【完】芋虫絵画はお嬢の一言 糖園 理違 @SugarGarden

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