【肆】蛹

 屋敷の玄関に着き、息を切らしながら僕は式台へ尻をついた。

 肩で呼吸を繰り返えしつつも体を起こし、急いで部屋に向かう。

 広い廊下を歩き、開いていた柚荷さんのいる部屋の前に立つと、強張っていた肩の力が徐々に落ちていった。


 双眸に映った光景ものは、まるで時のみを止めたかのような、時間間隔を狂わせた世界。

 柚荷さんという奇芸術を中心に畳や座卓や座布団、襖や柱、この部屋一帯が一つの絵画となっている。

 彼女は、空により夕陽の紅色べにいろに染まる庭園を出て行った時と変わらずに眺め続けていた。

 この一つの額縁せんとなっている襖溝ふすまみぞを超えてしまっても良いものかと悩む。

 侵入してしまえば何もかもを台無しにしてしまいそうで、躊躇いを捨てられない。


「そこで……何をしているのですか? 里余さん」


 その一言に、躰が矢を放った弓の様に震える。

 柚荷さんは庭園を見据えつつ話しかけ、今度はこちらの方へ顔をくるりと回した。


「おかえりなさい。そんな所にいないで、部屋に入ってくれば良いじゃないですか。……? どうかしたんですか?」


 一点の雫のように透き通った聲が、廊下に薄らと響く。

 彼女の正体は奇妙な絡繰からくる技術で産まれた、この世に一つしかない特殊な人形なのかもしれない。

 手足が無いのも、人形師が製作途中で亡くなってしまったからかも。


「……お腹がおきになりましたね」


 柚荷さんの小さな呟きで、僕は現実の世界へと戻る。

 なに変な伽話とぎばなしを連想させているんだ。

 すると緊張が解けたのか、自分の腹が空いていることにようやく気付いた。

 この時間帯なら、夕飯もお料理も既に届いているはず。

 しかし、時間から見ても少々遅い気がするな。


「ちょっと、玄関見て来ます」


 急いで玄関を見に行くと、外扉のすぐ足元に二人分の食事が置かれていた。

 こんな所に置いて帰るなんて、と少々苛立ってしまうが『いつも受け取るはずの自分がいなかったからだ』と思い、反省する。

 部屋に入って上がっても良かったのに。

 いや、会いたくないんだろう。


 ※


「お料理、冷めてしまっていますね」


 お口へと運ばせたお米を食べ、微妙そうな顔をして柚荷さんは言った。

 僕も掬って食べてみたが、やはり冷えている。

 お米は温まっておらず、汁物もまるで味のする水。

 おかずは冷めてても美味しいがやはりお米と汁物が冷めているのは、舌があまり受け付けない。

 しかしこれも全て、自分が突発的な気持ちで屋敷を飛び出してしまったからに他ならない。

 汁物を飲ませてあげていると唇から下にかけ、つーっと垂れ出す。

 茶碗を置き、首をつたり味噌濁りの水滴が着物に付着しかけるが、何とか拭き取って御召し物を汚さずに済ませた。

 そして水滴の通った曲線を描き切った鎖骨から、針の様に細く弱々しそうな首元、そして何時いつぞや食べた苺の実の様にふっくらとした赤い唇までを、傷つけぬように拭いてあげた。


 ご飯も食べ終わり、僕達は部屋で二人きりの時間を過ごしていく。

 しかし会話は一つもなく、彼女は暗くなって何も見えなくなった庭園を眺めているのみ。

 無理して話す必要もないかもしれない、だが何かきっかけが欲しいものだ。

 長い時間座っていたので足が痺れてしまい、姿勢を変えようとした瞬間、懐から物の感触を感じ取り出してみると、商店で買った貯古齢糖ちょこれいとが入ってあった。

 そうだ、今回のお詫びも込めてこれをあげるのも悪くないかもしれない。


「柚荷さん」


 僕の聲に振り向き、何用かしら。と言いたげな表情で彼女はこちらを見据えた。


「貯古齢糖……食べますか? 僕が一口、食べてしまったもので良ければですが……」

「ちょこ……れいと?」


 ……この微妙そうな反応は、流石に不味かったか。


「い、いえね、洋菓子なのは知っているのですが、こうまじまじと見るのは初めてのことでして」

「……? 貯古齢糖、食べたことないんですか?」

「はい、洋菓子類はほとんど。弟と妹たちが食べているところはよく見ていたのですが」


 弟や妹たちだけにしか食べさせて貰えなかったなんて、親方様は優しそうな人柄に見えるが、心では柚荷さんを忌み嫌っているのだろう。

 しかし、気持ち悪いと感じた自分も何ら変わらない同罪だ。他人を批判する権利はない。


「これはどの様な味がするのですか?」

「えと、うーん……糖……甘い、ですね」

「甘い……?」

「口の中に入れると普段食べているお料理などは、比べ物にならない味がお口の中に広がる、と言いましょうか……」


 貯古齢糖の味を説明するのが、これほど難しいとは。

 説明に苦戦するものは常に日常に或る物だ、とはこの事だ。


「なるほど……ご迷惑でなければ是非、それを私のお口の中に入れてくださいませ」


 その言葉に、心臓の鼓動が少し変化する。


「……わ、わかりました」


 包み紙を開けると、中の貯古齢糖が少々溶けてベタついていた。

 長い時間放置していたから、服の温度で溶けてしまったのだろう。

 そんな物を柚荷さんの口に入れるのには抵抗があったが、とうの彼女は目を輝かせながら口を開け、何処いづこかと待っている。

 御無礼と思いながらも貯古齢糖を口の中へ、そっと入れてあげた。

 薄桃の唇と歯で貯古齢糖を掴み、舌の上に運ばせると徐々に頬張り味を堪能する。

 その間、彼女は僕の方をじっと見つめていた。

 水面の様な双眸に、僕はどう見えているのだろう。『自分から一度は逃げた嫌な男』と思っているのだろうか。

 自分で喉に押し込ませると柚荷さんはおっとりとした顔色の中、目を閉じた。


「甘い……ですね」


 彼女の一言に安心を覚え、胸を撫で下ろす。

 指先に粘り付いた貯古齢糖の感触に気持ち悪さを感じ、拭き取ろうとしたところ。


「お待ちください、その指先……まだあの味が残っているんですよね?」


 突然、指先の貯古齢糖について聞いてきた。


「え、えぇ、付いてますよ」

「あの……それ、味あわせて頂けないでしょうか?」


 それは無論、僕の指先に付いた貯古齢糖に対してであって。


「…………………………はい」


 おかしな行動だと気づているはずなのに、口元へ自らの指先を差し出す自分がいた。

 僕はなぜ、これに躊躇いを持たない? はたから見たら下品なこと、それをどうして。

 唇に触れ、貯古齢糖が付いた指を舐めていくは許嫁。七つ年上の妻。

 獲物を丸のみにする蛇のように、舌も唇も離れることを知らない。

 バランスを崩しそうになり、片手で彼女の肩を支える。

 なんて軽い、どんな大人の女性よりも柚荷さんの体は米袋より空っぽだ。

 口内で唾液と舌、そして歯で混ぜられ、ねじ取られ、噛まれては触れる舌の柔らかさに僕は言葉を発せられない。


 すると、その行為は突然止まった。

 僕はそれを「もう良い」と言いたいのだと察し、口内を傷をつけぬように指を抜き取る。


「ちょこれいと……里余さん、機会があればでよろしいのですが、また買って来てもらえないでしょうか?」

「…………はい、また買ってきます」


 彼女の願いを受け入れつつ、唾液まみれになった指を拭き取っていく。

 僕はこの時、自分の頬が耳元まで火照っていた事に気付いていなかった。

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