【参】幼虫

 屋敷から一歩も休まずに走り続け、完全に呼吸が乱れると共に膝を着いた。

 近くの壁に手を置き、辺りを見渡すといつの間にか町の方まで出て来てしまっていた。

 ここまで逃げてきたのかと実感しつつも、呼吸を元の調子に戻していく。

 鉄道に乗って実家に帰ろう。何度も頼めば父上も許してくれかもしれない。

 殴られるだろうが、あの人と暮らすよりは暴力に耐えた方がまだ良い。

 すると、お腹が空いている事に気づき、久方ぶりに外出した事だしと洋菓子を食べようと思いつく。

 随分食べてないことだし、折角だから大好きな貯古齢糖ちょこれいとを味わいたい。


 少し歩くと、丁度良いところに商店を見かけ、早速立ち寄ってみることにした。

 店番のおば様へ挨拶をし、菓子棚を見ると甘糖楼きゃらめる乾蒸餅びすけっとなどが目に入り心が奪われそうになるが、貯古齢糖の魅力にはやはり敵わない。

 貯古齢糖を一枚買い、外に出ると我慢できず早速一口頬張った。

 口の中に加加阿かかおと砂糖が一つの甘味として収まり、次第に噛まずとも消えていく。これがたまらない。

 そのまま貯古齢糖を片手に持ち、人ごみの中、駅の方へと脚を急がせる。

 何度か乗った事はあるから、切符の買い方は問題ない。

 柚荷さんから逃れられる解放感からか、いつもよりも体が軽く感じられる。人々や、脚を通っていく犬猫とすれ違う足取りは軽く、未の刻に吹く風は心地よい。


 駅に入り切符を購入すると僕は椅子に座り、その時を待つことにした。

 残り三十分、帰ってきたらなんて言われるか、常に歯を喰いしばなければなるまい。

 すると目の前から赤子の泣き声が聞こえ、視線がそちらの方へと移る。

 その声に応えるよう母親は言葉をかけ、あやしている。

 母親がいくらあやしても赤子は泣くのをやめない。赤子は一人では何もできずに死んでしまうから、母親が必要不可欠なのだと母上も言って──


 ふと、柚荷さんあの人を思い出した。

 泣き続ける赤子の声が遠ざかっていく様だ、その場にいるはずなのに聴覚がそれを拾わない。

 否、既知と罪悪が五感を除去していく。


 あの赤子には四肢がある。されど、柚荷さんには四肢がない。

 赤子は話せない、しかし、柚荷さんは話せる。

 赤子はれいか一か、柚荷さんは二〇はたち

 赤子は一人じゃ食べれない、柚荷さんも一人じゃ食らべれない。

 赤子は一人で体を洗えない、柚荷さんも一人で洗えない。

 あの赤子は一人ではない、柚荷さんはずっと一人。


 ちょうど目の前に鉄道がやって来て、開いた扉から人々が次々に乗り込んでいく。

 しかし、僕は乗らなかった。

 駅から飛び出して行き、屋敷の方へと駆け戻って行く。

 その脚を、まだ未熟な躰を、逃げる時よりも速く動かせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る