第9話

 舞白さんの実家の神社に来て二日目。この日から、お祖母さんの言っていた斎戒さいかいが本格的に始まった。斎戒とは心身を清めることを指すらしい。

 斎戒は朝日が昇る前から始まる。沐浴を行うために外に出ると辺りはまだ薄暗く、布切れ一枚の薄い着物では少し肌寒い。そんな中、僕は滝壺の中に足を踏み入れた。足先に痛みに似た感覚が走る。僕は覚悟をして水の中に沈み込んだ。冷たい水に晒された瞬間、眠気でぼんやりしていた意識が覚醒する。水面に上がって一呼吸ひとこきゅう

 朝食を済ませた後、庭の見える座敷で瞑想した。座禅を組み、瞳を閉じて、頭の中を空っぽにする。これが中々難しくて、何も考えないようにしようとしても、ついつい色んなものを思い浮かべてしまう。逆に、暇過ぎて眠りに落ちそうになることもある。お祖母さんや他の巫女さんが様子を見に来ることもあるので、意識は常に保っておく必要がある。

 瞑想を終えると、今度は掃除を行った。長い廊下を何度も往復しながら雑巾がけをしたり、庭の落ち葉や枝を箒で掃いたりした。隅々まで掃除をしないとお祖母さんに文句を言われるため、急ぎながらも丁寧に仕上げた。

 その後は昼食まで神言を唱えた。達筆な日本語で記された文字列を延々と読み上げる。ただ読むだけならいいのだが、読んでいる最中はずっと正座をしているため、後半になるにつれて足の感覚が無くなっていく。正午を迎えて、いざ立ち上がろうとした時、足が痺れてしばらく四つん這いになっていた。お祖母さんは呆れた目でこちらを見ていた。

 午後になると、神楽かぐらの練習をした。神楽は神様に捧げる歌舞のことで、鈴のついた棒を持ちながら舞い踊る。動き自体はゆったりとしているが、足さばきや首の動き、果ては視線の動かし方まで、所作しょさ一つ一つを丁寧かつ優雅に行う必要がある。ずっと気を張っていたため、終わった後になって酷く疲労が襲ってきた。

 斎戒は日が昇ってから落ちるまで行う。滝行の以外は基本的に社殿の中に閉じ込められている状態だ。そのため、舞白さんのお祖母さんと数人の巫女以外に顔を合わせることがない。

 神言の読み上げや神楽の際、基本的に体は舞白さんが動かしていた。ただ、その疲労は僕も感じている。疲れた僕が少しサボったり、瞑想中にウトウトすると、お祖母さんに見つかって小言を言われることも何度かあった。


「お前さん、何しとるんかね」

「全く、だらしないねぇ」

「ほら、もっとシャキッとせんかい」


 日の出前に起きて、沐浴を済ませ、瞑想し、掃除して、神言を唱え、神楽を舞う。それが数日続いた。次第に僕はこのルーティーンにも慣れてきて、特に苦も無く斎戒をこなせるようになった。その一方、このままでは僕の体に戻る手掛かりを見つけられないのではないかと焦りを覚え始めた。かと言って、舞白のお祖母さんに僕達の現状を打ち明けることははばかられる。そんな板挟みの状況で過ごしていたある日、僕はお祖母さんに呼び出された。座敷ざしきに入ると、お祖母さんは開口一番こう言った。


「今日から一日一時間は自由にしてええ」

「え?」


 意外な言葉に僕は疑問符を発した。お祖母さんと会う度に注意されていたので、今回もまた小言を聞く羽目になるとばかり思っていた。


「正午から一時間だけ、ここから出てもええよ」

「……ありがとうございます」

「ただし、午後からはワシに付いてもらう。ええな?」

「分かりました」


 この日から、僕は十二時から十三時の間に外に出るようになった。昼食の時間も含んでいるので実際に外に出られる時間は三十分程度だが、それでも、久しぶりの外出は気分が高まる。夏の日差しは相変わらず強く、肌をジリジリと焼いてくるが、たまに吹く風が首筋を撫でて抜けていく。それが心地よかった。

 僕は気分転換として、改めて境内けいだいの探索をすることにした。初日は途中でお祖母さんに呼び止められたので、行けなかった場所が多い。奥宮はその一つだ。

 奥宮へと続く、長く緩やかな坂道を僕は早足で進んでいく。道の端には細い用水路があり、上から下へ水が流れている。左右に緑の葉がしげる桜の木が並んでいて、時折ときおり、小さなほこらや背丈を超える巨大な岩が設置されているのが目に入る。そうした場所には数枚の小銭が置いてあった。恐らく参拝者が納めたものだろう。坂の途中からは石の階段になっていた。階段一つ一つが少し大きめで、上っている間に息が上がってきた。

 階段の上にある鳥居を通り抜け、僕は後ろを振り向いた。そこからは眼下に広がる街を一望いちぼうできた。道を行き交う人や車が小さく見える。かなり高い場所まで上ってきたようだ。

 僕は息を整え、正面に向き直った。舞白さんが口を開く。


「これがうちの奥宮だよ」


 そこには古ぼけた木造のやしろがあった。素朴な外見の社は森の中に溶け込んでいて、それ自体が自然の一部になっているようだった。社の正面には両開きの扉があるが、それは閉じられており中は確認できない。

 僕はもっと近くで観察しようと社に歩み寄った。すると、社の脇で誰かが座り込んでいることに気づいた……小学生くらいの男の子だ。

 突然、舞白さんがその子供の方へ歩き始めた。近くまで寄ると、やさしく声をかける。


あおい


 男の子は驚いたように振り返った。少年の見開いた目と僕の目が合う。


「久しぶり、元気してた?」

「……舞白、帰ってたの」


 そう言って男の子はゆっくりと立ち上がった。

 葵といえば舞白さんの弟の名前だ。確かに彼の顔立ちや落ち着いた振る舞いは、舞白さんと似ている気がする。


「あれ、誰かに聞いてない?」

「聞いてない」

「じゃあ、お祖母ちゃんが言わないように言ったのかな……しばらく閉じ込められてたから」

「そうかもね」


 葵は少しぶっきらぼうに言った。どうやら、彼は祖母があまり好きではないのかもしれない。かく言う僕もあまり得意ではないが……。


「そういえば聞いたよ。最近ちょっとサボってるんだって?」


 舞白さんはからかうように言った。葵はそっぽを向いて答える。


「知らない」

「斎行が大変そうなのは見てて分かるよ」

「そう?」

「うん」


 葵の回答は端的で素っ気ない。ただ、その裏に彼が何か言いたいことを隠しているようにも見えた。僕はしばらく待ってしばらく待っていたが、結局、彼はそれを隠し通すことに決めたようだ。


「僕、そろそろ戻らないと」


 葵はそう言って、僕の横を抜けて階段の方へ向かう。僕はその場で少年の後ろ姿を見送った。

 風が吹き抜け、木々の葉が擦れて音を立てる。それを皮切りに、セミがやかましい声で鳴き始めた。

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シロの君 御崎わか @warabimoti-123

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