ゲームみたいな四択の恋(約11,500字)

譜久村 火山

第1話

 授業を終えて、2年1組の教室から出ると、窓から差し込む光に廊下が白く光っていた。そんな眩しい廊下を、秋元夏希はわずかに背中を曲げて、ポケットに手を突っ込みながら歩いている。

 すると、後ろからトットットットッと足音が近づいてきた。夏希は後ろからバッと肩を掴まれる。

「カズヤ先輩っ!」

 眩しい廊下に負けないくらい明るく、そして甘い声に夏希は振り返った。

「えっ」

 そこにいたのは、堀真奈佳だった。真奈佳とはクラスも違い、関わったことがないけれど、可愛いと男子の間で評判なこともあり、名前を聞いたことがあった。

 その彼女が、夏希を上目遣いで見つめている。

 しかし、一瞬の間があって真奈佳は顔を俯け、頬を赤らめた。夏希はそんな彼女を呆然と見つめることしかできない。

 すると真奈佳は、蚊の鳴くような声で言う。

「ごめんなさい。人違いでした」

 そこで真奈佳は回れ右をして、すぐさま小走りでその場を去ろうとするのだが、つまずいて転びかけてしまう。

 そのとき、時が止まったように夏希の視界が固まった。真奈佳は前傾姿勢で止まっており今にも倒れそうである。

 夏希は体を動かそうとするが、びくともしない。唯一、まぶただけは動くようで、夏希はパチパチと瞬きを繰り返した。

(またか)

 そうやって心の中で呟いた時に、目の前にいつものが現れた。


 ▶︎ ・体を支える

   ・「大丈夫?」と声をかける

   ・黙って手を差し出す

   ・見て見ぬ振りをする


 そんな四択の選択肢と矢印が、文字となって視界の左端に表示される。中央には相変わらず、真奈佳がこけそうなままの姿勢で止まっていた。

 夏希は、一度瞼を閉じ、そして再び目を開ける。すると、左の矢印が一つ下の選択肢に移動していた。

 そこで今度は、二度連続で瞬きをする。昔のパソコンで言うと、ダブルクリックみたいな感じだ。

 すると、矢印が点滅して選択が決定されたことを示す。

 次の瞬間、視界が再び動き出し、真奈佳がバタンと床に倒れた。

「きゃっ」

 と悲鳴をあげた真奈佳に、夏希は無意識のまま、

「大丈夫?」

 と声をかけていた。すると真奈佳は、夏希をチラッと見て再び頬を赤らめる。

「うん、大丈夫」

 とか細い声で言って、すぐに立ち上がると今度はこけない程度に走り去っていく。

 そんな後ろ姿を見えなくなるまで眺めた夏希は、胸にふっと熱いものが通るのを感じた。

 

 3年3組の教室に、授業終了を告げるチャイムと地学教師の声が同時に響く。

 すると夏希は隣の席の真奈佳に声をかけられた。慌てて、読んでいた小説に栞を挟む。いい所だったが、仕方ない。

「夏希って自習の時いつも小説開いてるけど、何読んでるの?」

 そう言われて、夏希は小説を抽斗の中へ押し込む。カバーが掛かっているから、タイトルが見られる心配はない。しかし、念のためだ。

 そして、夏希は嘘をつく。

「ミステリーだよ」

 確かに、家の本棚はミステリーが大半を占めているけれど、今読んでいた本は違った。

「なんていう人の作品?」

「えーっと」

 夏希は焦らずに、人気ミステリー作家の名前を挙げる。

「ふーん」

 真奈佳は自分から聞いてきたくせに、興味なさそうに言うと、立ち上がって前のドアから教室を出て行った。

 真奈佳の姿がなくなったのを確認して、夏希は再び小説を取り出す。表紙を捲ると、そこには『ゲームみたいに恋がしたい』と書かれていた。さらにページを進めて、栞を挟んだところにたどり着いたそのときである。

 後ろから、手が伸びてきて夏希の小説をひょいと奪った。振り返ると、真奈佳が立っていてタイトルを確認しようとしている。

「おいっ!」

 と夏希は、慌ててその小説を奪い返した。

「え〜、なんでよ〜」

 という真奈佳の反応を見るに、タイトルはバレなかったはずだ。夏希は心の中でほっと息をつく。

「それより、なんでここにいるんだ。さっき教室から出てったじゃないか」

「びっくりさせようと思って、後ろのドアから入ってきたの」

 真奈佳は悪戯っぽい笑みを浮かべている。悔しかったが、夏希は驚いてしまったので真奈佳の作戦は成功だろう。だが、夏希も小説のタイトルを隠せたので大敗ではない。

 そもそも真奈佳は、夏希が恋愛小説を読んでいることを隠していると知らないだろうが。

 夏希は思い出した。

 少し前たまたまジャンケンに負けて、夏希と真奈佳は二人でゴミ出しに行くことになった。

 そのとき、並んで廊下を歩きながら真奈佳が言ったのだ。

「夏希って、恋愛とか興味なさそうだから話してて安心できる」

 夏希は、両手でゴミ袋を抱えちょこちょこと歩いている真奈佳にペースを合わせながら、言った。

「なんで恋愛に興味なかったら安心できるわけ?」

 夏希が聞くと、真奈佳は俯いて、歩く速度をさらに落として言った。

「知ってるでしょ?もうだいぶ前だけど、私付き合ってた先輩に浮気されたの」

「あぁ、うん。知ってるよ」

 これは校内でもかなり話題になっていたことだ。

「だからもう、しばらく恋愛とかしたくないんだ。それよりも、友達とたくさん思い出作りたい!」

 真奈佳はそこで夏希の方を振り向き、大きな目をキラキラと輝かせた。

 夏希は心臓が跳ねるのを感じたが、なんと答えるのが正解か分からず、当たり障りのないことを言ったはずだ。

 そして、真奈佳はさらに続けた。

「それで、男子に好かれたいオーラぷんぷんで接してこられると、ちょっと引いちゃうんだ。でも夏希は、なんか冷めてる感じだから、楽だなーと思って」

 その瞬間夏希は、真奈佳に例の先輩と間違えられて話しかけられた時から感じていた胸の温もりとざわめきに蓋をした。そして真奈佳の前では恋愛に興味がない奴を演じなければならなくなったのだ。

 夏希は蔑むような目で自分を睨んでくる真奈佳を想像する。イメージしただけで、背中に冷たい汗が流れ、胸が握り潰されたように感じた。これが現実で起きたら、きっと自分は立ち直れないだろう。

 だから夏希は、

「なるほどね。確かに今は興味ないかも」

 と嘘をついた。

 

 翌日。チャイムとともに教室へ入ってきた倫理の教師が、

「はいー。じゃあ今日は自習にしますー」

 と言った。受験が近づいてきて、最近は自習になる授業が多い。

 夏希は抽斗から小説を取り出す。すでに、推薦や就職が決まっている生徒は、周りに迷惑をかけなければ何をしてても良いことになっている。そうはいっても授業中なので、もちろん私語や席の移動は許されない。

 だから、隣に真奈佳がいても夏希が恋愛小説を読んでいるとバレることはないのだ。そういう真奈佳は何をしているのかと、夏希がチラリと横を見ると、なんと真奈佳も小説を開いている。

 あまりの珍しい光景に、夏希は声を漏らしそうになったがなんとか堪えた。

 そして、授業終了のチャイムとともに、真奈佳に話しかける。

「小説なんて、珍しい」

 そう言うと、真奈佳は嬉しそうに振り向いて小説のタイトルを見せつけてきた。

「じゃーん。夏希がおすすめって言ってたから買ってみました」

 それは夏希が紹介した作家の本だった。昨日教えたばかりなのに、もう本を手に入れている行動力に舌を巻く。それも夏希がおすすめした物だなんて、そんなことはないと分かっていても、自分に気があるのではと期待してしまう。だが、そんな気持ちは決して顔に出してはいけない。

 大事な想いに鍵をかけたところで、真奈佳の顔を見ると、その嬉しそうな表情がフリーズする。

 嫌な予感はあたるもので、一度目を閉じ、開いた時には視界の左端に四択が現れていた。


 ▶︎ ・感想を聞く

   ・犯人を仄めかして、からかう

   ・本の魅力を力説する

   ・週末、一緒に本屋へ行く約束をする


 一番下にぶっ飛んだ選択肢があった。こんな行動を取れば、夏希が真奈佳を好きすぎて、焦ってデートに誘ったみたいになってしまう。たまにこういう絶対に選んではいけない選択肢が入っていることがあった。しかし、もう慣れたことなので、夏希は動じない。冷静に、上の三つでどれが一番良いかと考えた。読み始めたばかりのようだから、大した感想はないだろうし、本の魅力を伝えたところでお互いにメリットがない。

 だから必然的に二つ目を選ぼうと、瞬きを一度する。

 しかし、いつもなら下に移動するはずの矢印が動かなかった。夏希はさらにもう一度、より強く瞼を閉じる。だが、結果は変わらない。

 何度瞬きしても、矢印は動かなかった。試しに、二回連続で瞼を閉じても、選択が決定されることはない。その様子はまさに壊れたゲームだった。

 その時である。矢印が、下に移動した。しかしそれは夏希の意思ではない。矢印はさらに下がっていき、四つ目の選択肢のところで止まった。

 夏希の瞬きが遅れて反応した訳ではなさそうだ。やがて、矢印は選択肢の確定を示すように点滅した。

 次の瞬間には、視界が動き始める。真奈佳がさらに口角を上げたのだ。そして、夏希は意識する間も無く、口を開いていた。

「小説に興味持ったんだったら、今週末、本屋でも行かない?」

 夏希は自分の言葉が信じられず、言い終わると同時に口を両手で塞ぐ。今すぐ自分の口をぶん殴ってやりたい気分だった。

 真奈佳の言葉を思い出す。

「恋愛とか興味なさそうだから、話してて安心できる」

 夏希は視線を泳がせながらも、必死で言い訳を考える。このままでは、真奈佳との関係が終わってしまう。

 今まで、あんな面倒な行動を選んだことはなかったのに。いや、今回は自分の意思ではなく自動的に選択が行われた。まるで、ゲームのチュートリアルのように。

 しかし、夏希の言葉を受け取った真奈佳は、顔を綻ばせた。そして、前のめりに夏希の方へ身を寄せる。

「えっ、行きたい!行こうよっ」

 と椅子の上でぴょんと跳ね上がる。絶対に断られると思っていた夏希は、思わず真奈佳をじっと見つめてしまう。

「なに?どうしたの」

 と言う声に我に帰って、夏希が聞いた。

「えっ、いや、本当に行くの?」

 すると、真奈佳は屈み込んで、下から夏希を覗き込む。

「なに〜、そっちから誘ってきたんでしょ?」

 そうして、夏希の休日が一つ無くなったのだった。


「じゃあ、いくよー」

 ネットを挟んだ反対側から真奈佳が叫んだ。二人の周りを背の高いフェンスが囲んでいる。

 夏希と真奈佳はテニスコートに来ていた。

 脇にあるベンチには、紺色のビニール袋が二つ置かれている。本屋を出たところで、真奈佳が唐突に「体動かしたい」と言った結果がこれだ。

 運動用に艶やかな髪を一つに縛っている真奈佳がボールを高く放り投げる。それと同時にラケットを振り上げた真奈佳は、落ちてくるボールを思いっきり叩いた。

 美しい軌道を描いた球は、夏希がいたコートの隅ギリギリのところに落ちる。夏希も手を伸ばしてボールを追っていたが、当然届かなかった。

 今の失点で、セットを失ったことになる夏希はベンチに腰掛ける。隣に座った真奈佳が満面の笑みで話しかけてきた。

「思ったよりやるじゃん。さすが元バレーボール県選抜」

「素人をボコボコにして、楽しいか?」

 真奈佳は中高とテニス部だったのだ。

「テストの結果をいつも自慢してきた人に言われたくないね」

「自慢なんかしてないよ。真奈佳が勝手に俺の答案をぶんどって、落ち込んでただけじゃねーか」

「わざと、私が取りたくなるような所に置いてたくせに」

「なんだそれ」

 夏希は、ペットボトルの水を一気に半分くらい飲み干した。冷たい水が喉を刺激し、頭がクリアになっていく。焦茶色をした地面が、鮮明に見えた。

「ちょっとトイレ行ってくる」

 夏希はそう言って立ち上がると、真奈佳に腕を掴まれた。

「本当に?」

 と真奈佳が言ってくる。

「おい、俺は何を疑われてるんだ」

「だってこの前、授業の時に『トイレばっか行くよね』って言ったら、『3階の渡り廊下でサボってるんだよ』ってカッコつけてたじゃん」

「俺は断じてカッコつけてはないし、学校ではサボっても、今はサボる場所もなければ必要もない」

 と夏希が言うが、真奈佳は聞いておらず、iPhone31で時刻を確認して声を上げる。

「あっ、でもあと10分ちょっとでコートの時間終わるから我慢して」

 大きな瞳で見つめられた夏希は、仕方なく、うなずいた。

 すると真奈佳はニヤリと笑って、ラケットを拾い、コートに戻っていく。夏希も反対側に入った。

「じゃあ、いくよー」

 真奈佳は再び、ボールを天高く放り投げたのだった。

 

 最後のセットは粘ったのだったが、負けてしまった。真奈佳は満足したようで、ネットに寄ってきて、

「私の勝ちー」

 と夏希を煽っている。夏希は、素人だから仕方ないと澄ました顔で対応したが、心の中でいつか復讐することを誓う。

 それから二人は手分けしてコートのボールを拾い、黒い買い物かごに入れて、ラケットと一緒に、併設された体育館の中にある受付へ返した。

 外へ出ると真奈佳はまだ勝利の余韻に浸っているのか、ニコニコしている。

 遠くの空を見ると、ちょうど太陽が赤く輝き始めた所だった。高架線の奥から降り注ぐ光が、夏希や真奈佳を照らしている。

 そこで真奈佳が声を上げた。

「あっ」

 そう言って、固まった真奈佳に夏希が声をかける。

「どうしたの?」

「私、早く帰らないといけないの忘れてた」

 真奈佳は慌てたように、スマホを取り出し、何やら連絡を入れ始めた。夏希が聞くと、

「友梨たちとご飯食べに行くの」

 友梨というのは、小学校からの真奈佳の親友で、今は二人と同じ3年3組だ。

 指を高速で動かしていた真奈佳は、連絡を打ち終えると顔を上げて、

「じゃあ」

 と手を振った。

 あっけなく去ろうとする真奈佳に夏希はどこか寂しさを感じたが、仕方ないと思って手を挙げる。そのときだった。

 真奈佳の振っている手が止まる。風に揺られていた雲や街路樹も動かなくなった。夏希の視界が固まったのである。そして左端に、RPGみたいな四択が現れた。


 ▶︎ ・「じゃあ」と手を振りかえす

   ・「おう」と手をかざす

   ・「待って」と呼び止める

   ・何も言わない


 夏希は選択肢を理解すると、ダブルクリックをするように瞬きをした。今回は一番上の行動が無難だろうと考えたからだ。二番目はキャラじゃないし、四番目は人としてどうかと思う。そして、三番目は今回の選択肢では最も難がありそうである。

 しかし、やはり矢印はうんともすんとも言わない。何度繰り返しても、同じだった。どういう仕組みなのだろうか。

 するとそこで、矢印は勝手に移動していく。そして、三つ目の選択肢で止まった。あっという間に矢印が点滅し始め、次の行動が決定される。

 もはや夏希の意思など関係なく、人生を誰かに操作せれているような空恐ろしい感覚を覚えた。

 そこで、視界が動き始める。

 真奈佳が手を下ろして回れ右をし、帰って行こうとしていた。そんな真奈佳の動きに合わせて、本屋のビニール袋が擦れ、くしゃくしゃっと音を立てる。

 ポニーテールに括られた髪がかかった背中に、夏希は気付けば声をかけていた。

「待って」

 その声に応じて、真奈佳が再び振り返る。思わず、目が合ってしまった。そのまっすぐな瞳に見つめられて、夏希は言葉を失う。

「どうしたの?」

 とアニメのようなあざとい声で、真奈佳が言った。夏希は必死で頭を働かせるけれど、どんどんパニックに陥っていくだけである。

 今までの会話の流れなんて忘れてしまい、とりあえず何か言葉を出さなければという想いだけが頭を巡った。

「今日、どうだった?」

 そうして捻り出したのが、こんな言葉だった。夏希は慌てて、「あっ」と声を出す。続けて「なんでもない」と弁明するつもりだったが、その言葉を真奈佳が遮った。

「楽しかったよ!また遊ぼっ」

 真奈佳は満面の笑みで言った。その声が、いつもより低い。夏希は本心から真奈佳が楽しかったと思っていることを感じた。

 だからこそ、夏希はポカンと口を開け、ただじっと真奈佳を見返すだけになってしまう。

 そんな夏希をよそに、真奈佳は、

「じゃ、バイバイ」

 と言って、小走りで去っていく。小さくなっていく背中をずっと眺めていた夏希の目には、真奈佳の姿が見えなくなってもなお、彼女の満面の笑みが浮かんでいた。


「ねぇ、真奈佳とデートしたらしいじゃん」

 聞いて来たのは、友梨だった。夏希が校舎の外にある水道で手を洗っていると、それを見かけた友梨が近づいてきたのである。

 友梨はまだ軍手を着けて、刈った草が入ったゴミ袋を抱えていた。なぜ友梨がそんな格好なのかと言うと、保健の授業が始まる時に放たれた体育教師の一言が原因である。

「まだ大学決まってない奴は自習。推薦決まった人は、靴変えて昇降口に集合。今から草刈りをします」

 夏希はそうして強制労働に勤しみ、手についた泥を落としている所だった。

「別にデートなんてしてないよ。ただ、買い物に行っただけ」

 夏希はいつも通り、当たり障りのない声で言った。

 友梨はゴミ袋を重そうに抱えたまま、こぼれ落ちる水に両手をひたす夏希を眺めている。

「ただ買い物に行っただけで、テニスはしないでしょ」

 知っていたのか、と夏希は思ったけれど表情には出さないように努めた。そんな夏希の顔を、友梨が近づいて覗き込む。

 いきなり友梨の体育会系らしい細い目が目前に現れて、夏希は顔を逸らした。

 すると友梨も、顔を引っ込めて、代わりに夏希の耳元で囁く。

「ねぇ、真奈佳の事好きなの?」

 一瞬、流れ落ちる水の音だけが頭に響いた。視野が広くなり、目の前がパッとクリアになるのを感じる。

「えっ」

 と低い声で言って、質問の意図が理解できないような態度を取るのが精一杯だった。しかし友梨はそんなこと意にも介さないようで、

「だから〜」

 と、また同じ質問を投げかけてこようとする。

 そのとき、蛇口からこぼれ落ちる透明な水が、流れを止めた。目の前の光景が、まるで写真を見るかのように固まる。

 夏希は全てを理解して、瞼を閉じた。

 次に目を開けたとき、視界の左端には四択が映し出されていたのである。


 ▶︎ ・「そんなことないよ」

   ・「友梨って俺のこと好きなの?」

   ・黙ってその場をやり過ごす

   ・「あぁ、好きだよ」


 夏希は今までにないほどの力で、瞼を閉じる。そして、祈りと共に目を開けても、矢印は動いていなかった。

 なんとなく分かっていたけれど、このままではまずい。夏希はここ最近の流れを思い出し、どの行動が選ばれるか直感的に理解した。

 体が動かないので、夏希は心の中で溜息をつく。もし自分が予感している選択肢が選ばれた場合、この先どうなっていくのだろうか。友梨はどのように行動し、真奈佳はどのように感じるのか。

 分からないことが多すぎる。そもそも、どうしてこんな選択肢が現れるようになったのか。

 いつからこうなったのかは分からない。昔は、四択が現れてもなんとなく決定を下していたはずだ。しかしあの日、まだクラスも違い話したこともなかった真奈佳が、間違えて夏希の肩を掴んだ日から、どの選択肢を選ぶかということは夏希にとって大きな意味をなすようになった。

 あの日から変わったことはなんだろうか。そんなもの答えは一つしかなかった。

 動かない視界の中で、流れ落ちる水が自らの手に当たり弾けている。感じないはずの冷たさが、体に染み込んできた。

 あの日から夏希は、真奈佳のことしか見えなくなってしまったのだ。あの日から、抗う間も無く夏希は真奈佳に惹かれていた。

 矢印が、下へ移動する。一つ、また一つ。最終的に矢印は、一番下の選択肢で止まった。そして、選択肢が決定されたようだ。矢印は、チカチカと点滅していた。

 また、蛇口から溢れる水が流れ始める。心地よい水音が耳に戻ってきた。さらに、手の甲で弾けていく水飛沫を目で追うことができる。

 今度こそ、本当に冷たさを感じた。

「あぁ、好きだよ」

 夏希ははっきりと声に出して告げた。

「あぇ?」

 友梨は何を言っているのか理解できなかったようで、言葉にならない音を発した。夏希は手を洗い終えて、銀色の蛇口を回す。ハンカチを持っていなかったので、その場で手を振り下ろし水滴を払うが、冬の空気が濡れた手を刺すように襲った。

 その一部始終を口を開けたまま眺めていた友梨は、ドサっと持っていたゴミ袋を地面に落とす。

 そして、一歩後ずさって言った。

「本当に?真奈佳のこと好きってこと?」

 夏希は頷く。

 すると、表情を変えた友梨がグッと夏希の元へ迫った。胸ぐらを掴もうとする勢いである。

 夏希は驚きつつも、後退はしなかった。迫ってくる友梨の顔を真っ直ぐに捉える。

「本気で言ってる?」

 友梨は詰問するように聞く。

「あぁ」

 そう返した夏希から、友梨は溜息をついて離れた。

 そして、下を向き、女の子らしく膝をくの字に曲げて言う。

「真奈佳も、多分あんたのことが好きだよ」

 今度は夏希が口を開けて固まる番だった。そんな様子を、恥じらうような、疑うような視線で見ていた友梨が呆れて言う。

「気づかなかったの?」

 夏希が頷くと、友梨は続けた。

「本人は隠してるつもりというか、自分でも認めたくない感じだけど、長年親友やってる私にはお見通しよ」

 それを聞いても、夏希はどう反応すればいいのか分からず、ただ黙っていることしかできなかった。

 友梨もそれは承知の上だったのだろう。今度は手を腰に当てて、睨みつけるように夏希へ聞いた。

「真奈佳が一也先輩に浮気されたのは知ってるでしょ?」

「もちろん知ってる」

「あの子、好きになった人のことはなんでも信用しちゃうの。だから、あんた真奈佳を騙すような真似したら、私が許さないからね」

 早口気味に言い終えた友梨は、さっさとゴミ袋を持ち上げて走り去っていく。気がつけば、手の凍えなど気にならなくなっていた。

 夏希は情報の処理が追いつかず、しばらくその場に立ちすくんでいたが、やがて前へと足を踏み出す。

 砂利を踏みしめる心地の良い音が、耳に残った。


 3階の渡り廊下から、夏希は学校の駐車場を見下ろした。午後の日差しが、校長先生の高級車を照らしている。そこで、iPhone31で時刻を確認した。まだ教室を出てから、それほど経っていない。

 トイレに行ってきますと告げて教室を出て来たが、まだしばらく時間を潰しても問題なさそうだ。

 すると、コンッコンッと足音が近づいてくる。ここは滅多に人が通らないはずだ。ましてや授業中に、ここで生徒どころか教師とも遭遇したことはない。

 誰だろうかと思いつつ、夏希は先生が来ることを想定して言い訳を考える。

 しかし、姿を現したのは真奈佳だった。

「なんで」

 と夏希は言ったが、真奈佳にはこの場所を教えたのだった。

 真奈佳は腰の後ろで手を組んで、上目遣いのまま跳ねるように歩み寄ってくる。

 そして、バレーボール一個分くらいの距離まで近づいたところで唐突に口を開いた。

「ねぇ、私の事、好きなの?」

 なんとなく予想をしていた気がする。今日一日、真奈佳は素っ気ない態度をとっていた。何か話しかけても、返ってくるのは一言だったのだ。そんなソワソワした空気感から、友梨から何か聞いたんだろうと容易に想像できた。

 そこで、視界が固る。両側の窓から、十分すぎる光が差し込む廊下にあざとい笑みを浮かべる真奈佳が似合っていた。今すぐにでも写真を撮りたくなるような光景だが、あいにく夏希の体は動かない。

 目を瞑ると、次の瞬間には視界の左端にRPGのような四択が現れる。


 ▶︎ ・「好きだよ」

   ・「別に」

   ・「何、急に」

   ・「そんなわけねーだろ」


 夏希はまた、選択肢を見ただけで何が選ばれるか分かった気がする。夏希の意思に関係なく、次の行動が決定されるようになってから、選ばれたのはいつも夏希が一番嫌だと思った選択肢だった。

 でも、そのおかげで真奈佳との関係が変化したことも感じている。

 自分で四択を選んでいた時は絶対、休日に遊びに行ったり、友梨に真奈佳が好きだと打ち明けたりしなかった。しかし、一番嫌だと思った行動を強制的ではあるが実行したおかげで、真奈佳にまた遊ぼと笑顔を向けられたし、友梨から真奈佳が自分のことを好きだということも聞けたのだ。

 思い返せば、ここ数日は高校3年間で最も楽しかったかもしれない。もう満足だった。きっと次の一言を放てば、真奈佳との関係は終わるだろう。でも不思議と悔いはない気がする。

 そのときだった。

 頭の奥が、もやもやして、キーンとした閃光のような痛みが走る。頭の中に雑音が流れ始め、音量を増していく。

 やがてそれらのノイズが、人の喋り声であると分かった。どんどん、言葉が鮮明に浮かび上がってくる。

「やあ、秋元夏希くん」

 頭の中の声が言う。そしてなんと、夏希も意識の中で声を出すことができた。

「誰ですか?」

「今まで勝手に君の行動を決めていた者だよ」

 その声は爽やかで落ち着いた大人の雰囲気を感じさせた。しかし、なぜかまるで録音した自分の声を聴いているような違和感を抱いてしまう。

 すると、頭の中の声は続けた。

「聞きたいことは色々あるだろうけど、いつか分かるだろうから、今ここでは言わない。それより、勝手に君の人生を決定してすまなかったね。もうここから先の人生で、君たちに私たちが介入することはないよ。だから、がんばってね。後は自分で選ぶんだよ」

 その言葉が消えると同時に、頭のもやもやと痛みはすっきりとフェードアウトする。

 夏希は全く理解が追いついていないけれど、やらなければいけないことは直感で分かった。どうやら次の行動は、自分の意思で選ばなければならないらしい。

 目の前の四択に、意識を集中させる。一度瞬きをすると、矢印は一つ下に移動した。久しぶりの感覚である。

 そのままそこで、ダブルクリックをするように瞬きをしたくなってしまう。

「別に」

 最も無難な選択肢であり、かつての自分なら間違いなくこれを選んだだろう。しかし、本当にそれいいのかという疑念があった。

 このまま無難な行動を取れば、きっと真奈佳との関係性はこれからも続いていくだろう。でも、それは夏希が望む形ではない。一生、自分を偽り、演じながら真奈佳と関わっていかなければならないのだ。

 友梨の言葉を思い出す。

「真奈佳を騙すような真似したら、私が許さないからね」

 何より、夏希自身が嫌だった。これ以上、真奈佳のことをなんとも思ってない自分を演じることが。自分自身と真奈佳に嘘をつき続けることが。

 どこの誰かもわからない人が、行動を選択してくれたおかげで気づいたことがある。

 人生は、行動を変えるだけで簡単に変わってしまうのだ。

 今まで、めんどくさいとか、嫌だとか、失敗したくないと思って避けてきた選択肢を取ってみて、それは思ってた程悪いものじゃなかったと気づいた。

 テニス終わり、帰る直前に見せた真奈佳の笑顔が浮かぶ。心の底から笑っている真奈佳を、夏希はあのとき初めて見た。

 それは、本屋に誘うという行動を選択した結果だ。

 ならば今回も、最も困難な選択肢を選ぶ価値はあるのではないか。そう思いついたら、夏希は気持ちが変わってしまう前にと、瞬きを2回する。矢印は、一番下の選択肢まで移動した。そして、もう一度強く瞼を閉じる。力いっぱい閉じた瞳を、解放した瞬間、矢印は元の位置にあった。

 夏希は心の中で深呼吸をすると、ダブルクリックするように瞬きを2回する。

 行動が選択されたようで、矢印が点滅した。

 やがて視界が動き始める。

 真奈佳は、瞬き一つせず上目遣いで夏希の顔を覗き込んでいた。夏希も、真っ直ぐに真奈佳を見返す。

 その真剣な表情に何かを感じ取ったのか、真奈佳が上目遣いをやめ、後ろで組んでいた手を解きスカートの横に持ってきた。

「真奈佳」

 夏希が名前を呼ぶ。

「うん」

 真奈佳が応えた。

「真奈佳のことが、ずっと前から好きでした」


「ふぅー」

 秋元夏希は、安堵の溜息をついた。そのまま、リビングのソファに深く沈み込む。機械に向かってテレビ消してと声を上げれば、目の前の画面が暗転した。

 すると、真奈佳がコーヒーをテレビの前のテーブルに置いてくれる。

「ありがとう」

 と夏希が言うと、真奈佳は嬉しそうに微笑んで隣に腰掛けた。

「これで、高校生の私たちが結ばれたのね」

「そうだな。これからもあの二人にはたくさんの困難があると思うが、なんとななるだろう。今俺たちが、こうして並んで座っているのがその証拠だ」

「それにしても、過去の自分の人生に介入できるゲームなんて時代も進んだものね」

「でも、おかげで俺の行動は変わり、真奈佳と結婚できた。恋のキューピットも時代と共に変わるんだよ」

「あら、キザなセリフ言っちゃって」

 そう言うと真奈佳は、変わらずあざとい視線を向けてくる。夏希は、照れ隠しのためにコーヒーを啜った。唇の先から温もりが全身に伝わっていく。

 ほんのりとした苦味と幸せを噛み締めるようにして、夏希はコーヒーを飲み込んだ。

「おいしい」

「ふふ、でしょ」

 と会話を交わすと、夏希は真奈佳の手に自分の手を重ねた。真奈佳は少し照れたように俯きながらも、指を絡めてくる。

 その笑顔を見て、「好きだ」と言おうとした瞬間、夏希の視界が固まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゲームみたいな四択の恋(約11,500字) 譜久村 火山 @kazan-hukumura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ