第9話 大宮ソニックシティ
いちかの暮らす六畳ぽっちの小さなリビングには、今朝から静謐な時間が訪れていた。
部屋の隅に置いたシングルベッドの上で、彼女は眠り姫のように微かな寝息を立てている。
盆の時期で人が出払った学生アパートも、普段と打って変わって静かだった。
とっくに高く上がった陽射しは、レースカーテンを透かして音もなく忍びこみ、部屋の埃を浮かして遊んでいた。
しかし、それもすぐに終わる。
一匹の蝉がバルコニーに飛び込み、今まで遠い環境音だった鳴き声が、解像度高く部屋を貫き始めたからだ。
「……いやうるさ」
ブランケットの中で、いちかはようやく起き上がった。
くしゃくしゃの顔で脳の起動を待ち、テレビ台のデジタル時計に開き切らない目をやる。
時刻は十二時過ぎだった。これが夏休みの素晴らしさだ。いちかはグッと上に伸びる。
すると、ブブブと枕元のスマートフォンが震えた。
確認すると、ロック画面には、通知の文面がずらりと並んでいた。
『おはよ!』
『大丈夫⁉』
『死んでるなこれ……』
『ヤマノ、今日だからね!』
『午後一発目が僕たちだからね!』
『十四時半だからね!』
雄也からのチャットだった。
ここ数日ずっと熱い誘いを受け続けていたいちかだったが、結局起きたのは、遅刻ギリギリの時間だった。
というより、わざとこの時間まで寝過ごした自覚すらあった。
寝て、寝て、現実から逃げる。
それは去年のコンクール後の数ヶ月と同じ感覚だった。
気が重い。
「……はぁ」
とりあえず顔を洗うかと立ちあがると、テーブルに足が当たって、上に積まれていたとんでもない量のCDが硬質な音を立てて崩れた。
それらはすべて、雄也が貸してきたものだった。
グレンミラー、カウントベーシー、バディリッチ、マリアシュナイダー等々。
知らないミュージシャンの名前が机から崩落している。
まるで彼のビッグバンドに対する愛といちかへの厚意が溢れているかのよう。
別にあの子が勝手に渡してきただけだし……
そう思っても、その山脈を眺めていると、雄也の憧れに輝く瞳を思い出してしまった。
純粋にビッグバンドが好きで、ヤマノとかいう大会が好きで、誰かに自分たちの演
奏を聴いてもらいたくて仕方ないのだ、彼は。
いちかは昨日も散々やった悩みを再考し始めたが、最後に口をついて出たのは自嘲のため息だった。
「バカだな。また傷つくだけだぞ」
いちかはスマートフォンを手に取ると、
――行く。
と一言だけ打ち返すと、雄也からのスタンプ連打でブーブー鳴るスマホを布団の上に投げ、洗面台へ向かった。
行くのであれば、間に合わなければ……
寝癖を治す。歯を磨く。着替える。
あらゆる準備を手早く行い、いちかは家を飛び出した。
向かう先は、埼玉県さいたま市。
コンクリートに染み込む蝉時雨が、反射熱と共に人を蒸す街。
大宮駅西口の二階を出て、ロータリーを囲むビル群に見下ろされながら、いちかはぼやいた。
「あっつ……」
真上から刺す直射日光と下からの照り返しに汗を拭う。
歩行者用デッキは太陽に近すぎる。
たまらず地上の日陰に降りても、茹だるような蒸し暑さからは逃げられなかった。
「まだぁ……?」
いちかは項垂れながら、スマートフォンで再び地図を確認すると、自分の位置を示す点が、目的地のすぐ前に来ていることに気づいた。
帽子の影から、その全容を見上げ、その大きさに少し目を瞠る。
白を基調とした三つの建物が、眼前に聳え立っていた。
周囲の建物より飛び抜けて高い、大きな存在感を誇るオフィスビル。
大通りに面し、奥行きがあり、全体がピアノのような形をしたホール。
平たく高く、滑らかな曲線が生物的な、ビル直結のホテル。
それら三つの建築群を、背景の夏空が爽やかな印象に仕上げている。
――大宮ソニックシティ。
大学生ビッグバンドの晴れの舞台がそこにあった。
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