2ND CHORUS:大学生活編
第8話 大学
東京駅から電車で一時間。さらにバスで山を登ること二十分。
桜の名所でもあるその場所は、春頃には一面見事な桃色に染まっていた。
この四月からいちかの母校となった東央大学が誇る自慢の景色だ。
県大会での失敗後、第一志望が絶望的になるほど受験にやる気を無くしたいちかが、急遽滑り止めとして選んだのがこの私大だった。
調べるまで名前も知らなかった大学だったが、いちかはこの選択を楽観的に受け止めていた。
それほど偏差値の低い場所でもないし、距離があるが都心へのアクセスも悪くない。
そしてなにより、吹奏楽部の誰の志望校でもないというのが最大の利点だった。
ここでなら、仲間と顔を合わせないので、罪悪感を思い出すこともないだろう。
そう思っていたのに……
誤算だったのは、白上美雪が同期で入学していたことだった。
入学式で目撃したときの光景を、いちかはまざまざと思い出せる。
彼女の純白の肌は、ダークスーツに浮き立ってまるで発光しているかのようだった。
美雪もいちかほどではないが、夏の敗北後、学校も抜けがちになり、動向が掴みにくい生徒の一人だった。
しかし、よりにもよって部長が同じ大学とは……
美雪の美貌は同期の口の端にすぐ上ったので、いちかの耳にも自然に入った。
不幸中の幸いか、彼女はいちかと同じ経済学部ではなく、文学部のようだ。
その瞬間、文学部棟には極力近づかないことをいちかは心に決めた。
あとはうっかりの遭遇にだけ気をつければ、広いキャンパスだ、そう出くわすこともないだろう。そう願っている……
◇
山の頂上から街を見下ろすように君臨する東央大学は、実家から通うには遠すぎたので、必然的に一人暮らしをすることになった。
最初は家事に苦戦したものの、意外とすぐに慣れた。
相変わらず物も少ないし、省エネ思考。当初は挑戦していた料理も諦め、今やコンビニが冷蔵庫代わりだ。
他の新入生たちは、合コン、麻雀、飲み会など、爛れた誘惑に飲まれていったが、いちかはあえて友達を作らなかったために、波風の立たない大学生活が送れていた。
去年の夏以降、グループと名のつくものにトラウマに近い恐怖を覚えるようになっていたいちかは、大学では、自発的ぼっちとでも言うべきスタンスを己に課し、貫いていた。
何も見ず。
誰の目にもつかず。
ただ大学に行っては帰るだけの生活は溶けるように過ぎ去っていき、あっという間に夏休みになっていた。
サークルに入る気もなく、友達もいないいちかは、長期休みらしい予定をひとつも入れず、ただ、ゼミの夏期講習を受けるために大学へ通い続けていた。
他にやることもないので、通学も苦ではない。
そんないちかの何も起こらない日常が突然ひっくり返されたのは、八月に入ってすぐ、陽炎の昇るほど暑く、風のない日のことだった。
いちかが普段通り、講習から真っ直ぐ自宅へ帰ろうと、学部棟のロビーに降りたとき、
「待って、いちか!」
背後から声がした。
この大学で、いちかを呼び捨てにできる人間は、美雪の他にひとりしかいない。
振り返ると、同じゼミ生の早乙女雄也が、階段をバタバタと駆け降りてくるところだった。
「帰るの早いよぉ〜」高く甘い声音で彼は言う。「終わって振り返ったら、もういないんだもん。びっくりしたよ」
雄也は、同期生から『女子の中の女子』と称される男だった。
女系家族で育ったせいか、柔らかい雰囲気で、見た目も身長も声も幼げ。女子学生たちにはマスコット的な人気があった。
腕相撲ならいちかが勝つだろうが、女子力勝負なら負ける自信しかない。そんな同期だ。
「ごめん。で、なに」いちかがつっけんどんに尋ねる。
「いちかさ、ジャズ興味ない?」
「ジャズ?」
「僕ね、ビッグバンドの部活入ってるんだけど、三日後にコンテスト出るの! だから、来てくれないかなぁって」
「コンテスト……」
なぜこの男は、繊細なワードばかりついてくるのか。
苦い顔をするいちかを、雄也は不安そうに覗き込んだ。
「ダメ? 興味なし?」
「いやその前に、なんで私……?」いちかは困惑して聞いた。「私たち、そんな喋ったことないでしょ」
「だって、吹奏楽部だったんだよね?」
「え、なんで知ってるの……」
「この前、白上さんって人と仲良くなったんだよ。同じ高校だったんでしょ?」
思わずいちかは呻いてしまった。
避けに避けて、四ヶ月も無事でいたのに、まさかこんな繋がり方をするなんて。
呪われているのか……?
雄也が鞄から取り出したペットボトル――アセロラドリンクだった――を傾けながら、何気なく言った。
「楽器できるなら絶対楽しいって。特に吹奏楽部出身なんて、色んな意味でひっくり返るよ。ね? しかもタダ! お願い!」雄也は顔の前で両手を合わせた。
「コンテストなのにタダなの……? あ、小さい会なのか」
「ううん。でっかいけど、僕の奢りってこと」
言うが早いか、雄也はいちかの手に紙のチケットケースを押し付けた。
「いやちょっ……まだ行くって言ってないんだけど!」
「だって、他の人は夏休みでもういないんだもん」
「いや困るって」
チケットを返そうにも、彼は手を背中に回して、フフン、としてやったりな顔を見せる。
もう返品を受け付ける気はないようだ。
「……貰っても、行かないと思うよ」
「いいよ、あげたものだから。好きにしてよ」
彼は、チケットの強制譲渡というミッションを達成すると、階上にたむろする他の女子グループの元へ、あっという間に帰っていった。人気者である。
いちかはため息をついて、手に収まるチケットを眺めた。
押し付けられたせいで紙のケースはひしゃげていて、中のチケットが顔を覗かせている。
『YAMANO BIG BAND JAZZ CONTEST』
それが大会名のようだった。
◇
好きにして、と言った割には、彼はその夜、いちかに情報と熱に満ちた長文チャットを何通も送ってきた。
いちかは勘づく。
これは初心者を沼にひきづり込もうとする、オタクの動きだ。
実際、彼はどうやらこのコンテストの熱狂的ファンであるようだった。
――ヤマノは大学生ビッグバンドの甲子園とも言われてて、全国から超上手い人たちが集まって演奏するの! もうすっっっごくカッコイイんだから!
――そもそもビッグバンドってのは、簡単に言えば十数人でやるジャズで(物によってはラージアンサンブルとも言うんだけど)、よくテーマパークで演奏してたりテレビ番組のBGMにもなってたりするから、いちかもきいたことあると思う!
――とにかく来たらわかるから。特に元吹部なら絶対驚くから。絶対来てね? ね?
チャットは終始こんな感じだ。好きにさせる気が一切ない。
いちかは、自室のちゃぶ台に放り投げたチケットをもう一度眺めた。
音楽そのものが、捨てても捨てても帰ってくる呪いの人形のようだった。
しかも今度は、美雪の名前すら引っ提げてきた……
「もう関わりたくないんだけどな……」
いちかの呟きを聞く者は、部屋には誰もいなかった。
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