第35話 吹き損ね

 セルリアンが用意してきた全ての演奏は終わり、メンバーは客に呼ばれたり、撤収作業したりと、再び忙しく動き始めた。


 いちかは未だにどこか夢見心地だった。

 まるで、体だけが勝手に動いているかのよう。


 無我夢中だった。正直演奏はあまり覚えていない。

 でも、ミスはしなかったはずだ……


 見ず知らずの客の何人もが、すれ違う度にいちかの演奏を褒めてくれた。

 その都度、胸の奥にじんわりと暖かさが広がり、人心地がついた。


 初めてのソロ披露がここで、本当に良かった……


 暖かい気持ちを覚えつつ楽器を片付けていると、突然、ぶーっ、というトランペットの吹き損ねの音が店内に響いた。


 テーブルの下から音のする方に首を伸ばすと、五、六歳程度の女の子が、顔を真っ赤にしながら手にしたトランペットに息を吹き込んで、嵐のような音を鳴らしていた。

 この短時間で音が出るようになったのは、結構凄い。


 しかし、何より驚いたのは、そのトランペットが、あろうことか碧音の相棒であることだった。

 それどころか、碧音はサングラスを外してしゃがみ込み、


「そう、ゆっくり息を入れて」

 と、女の子に吹き方を教えている。


 いちかは信じられないような気持ちでそれを眺めた。

 子供が自分の楽器を持ったら、間違いなく怒るタイプだと思ったのに……


 子供が音を鳴らす間に碧音がピストンを押して、鳴っている音の高さを変えてやると、途端に子供の表情が輝いた。

 碧音は、その顔にわずかに微笑んで返す。


 いちかは呆気に取られた。

 これが日向子の見てる一面か……


「これほしいっ」幼女がねだる。

「だめだ。これは俺の大事なもんだから」

 碧音はやんわりと幼女の小さな手から楽器を引き離すと、仕舞う前の手入れをし始めた。


 いちかは後ろから忍び寄って、


「碧音さん、てっきり子供苦手かと思ってました」

「あ?」碧音は渋い顔をしてみせる。「別に苦手でも得意でもねぇけど……楽器始めた頃を思い出しただけだ。別にそれだけ」


「やっぱり小さい頃からやってたんですか」

「あ?……まぁな。ちょうどあれくらいだ」彼は親の元へ帰っていった幼女を顎でしゃくる。「翠が楽器やってんの見て、親にねだったんだ」


「じゃあ、ずっと二人でジャズやってたんですね。かっこいいなぁ……」

 感嘆すると、不意に碧音の顔がこわばった。


 彼は無表情で、乱暴に答えた。


「……違ぇよ。翠がジャズ始めたのは高三からだ」

「あれ?じゃあ、元はクラシックだったんですか?」

「……あぁ」

 口から溢すような、小さな呟き。

 彼の視線は床に注がれていたが、その先にはただ、蓋の開いた空の楽器ケースが、中身が飛び込んでくるのを待っているだけだった。


「二人とも、帰るよー!」

 翠の明るい声に、ふたりは我に返った。


 碧音はトランペットを手早く仕舞うと、


「行くぞ」


 といちかを置き去りに出口へ向かっていった。


 いちかはその背中を不審に思いながらも、自分の楽器を取りに戻った。





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