第83話 天才
演奏序盤をバンドは勢いのままに突き抜けていった。
非の打ち所もない、最高の出だしだ。
頃合いを測って、碧音が相棒のトランペットを手に前に出ていった。
ソロ用スタンドマイクの前につくと、いつものようにピストンを弄ぶ。
いちかはサックスを吹きながら、彼の背中を上目遣いに見上げた。
さぁ、見せてやれ、碧音さん――!
後ろを任されたバンドが、ソロパートまで全速力で突っ込んでいき、まるで碧音を発射するかのように、ソロ前で突然急ブレーキをかけた。
ブレイク――
碧音はその無音の隙間に、静かに息を吹き込んだ。
瞬間、聴衆の意識が彼の世界に一気に引き込まれたのを肌で感じた。
彼が歌うのは、深く鮮やかな青い世界。
ステージは一瞬にして、彼の独壇場と化す。
去年、観客席から見たあの美しい青空の幻想を、いちかはもう一度目の前に見る思いがした。
あぁ、この人は本当に……ずるい人……
碧音のソロは、徐々にボルテージを上げ、佳境には目も眩むほど熱く激しくなっていた。
その熱量にリズム隊も合わせ、ついていく。
しかし、その中に一台だけ、異質な音を立てる楽器があった。
ピアノだ――
バンドの右前から飛んでくる翠のバッキングは、明らかに"トんでいた"。
ソロを盛り上げ、煽り立てながら、トランペットの一音から更なるハーモニーの色彩を展開する。
突き上げられるように、碧音の演奏はさらに途方もない高みへ登っていく……
もはや、主役をすら飲み込まんとする翠と碧音との激しいバトルだった。
いちかが呆気に取られていると、グランドピアノの奥から注がれる熱い視線と目が合った。
翠が演奏しながら、手振りして何かを伝えようとしている。
いちかには、その意図が瞬時に読み取れた。
翠さんが、ソロを欲しがってる……!
正直、困惑した。
当然予定にない。突発でバンドが対応できるのか。
それになにより、あの依頼演奏の光景が、蒼白な顔と真紅のドレスの惨劇が、頭を掠めていた。
こんな大舞台で失敗したら、彼女のダメージはどれほどになる……?
本当に、やらせていいのか……?
しかし、期待全開で凝視してくる翠の視線を受けていると、いちかは思わず苦笑してしまった。
今の彼女は、まるで初めて楽器に触った子供のようだったから。
あまりに夢中で、楽しそうだったから。
翠さんを、最後まで走らせてあげたい――
そう思った。
いちかが頷いてみせると、顔を輝かせた翠が椅子から跳ねるように立ち上がり、リズム隊に指示を出し始めた。
いちかも振り向いて、ホーン隊に伝える。
「もう一周!翠さんソロ!」
メンバーは一様に驚愕の色を浮かべた。
しかし、それも束の間。
全員が好戦的な光を瞳に宿す。
そう。
翠の雄姿が見られることを誰よりも望んでいたのは、ここにいる全員なのだ。
絶対に成功させてやる、という覇気がバンド中に溢れた。
いける――!
いちかは興奮を抑え、細心の注意でバンドを指揮しながら、碧音のソロ終わりと入れ替えに翠をソロパートに迎え入れる準備をした。
あと四小節……二小節……一……
ゲート前で猛る競走馬のような翠の音楽が、バンドの最前線に飛び出した。
――その瞬間の彼女の演奏は、どのように表せばいいのだろう。
客も、演者も、一人として唖然とする以外には何もできなかった。
彼女のために開かれたソロの空間を埋め尽くしたのは、音の機関銃。
まるで、弾かない時間が勿体無いとでも言うように、彼女はトップスピードで弾きまくった。
芽吹きなんていう生優しいものでも、再生なんていう清廉なものでもない。
抑圧から解放され、喜びの雄叫びをあげるそれは、まさに野生の本能だった。
翠はそのとき、間違いなく、このホールの中心だった。
圧倒的な技術と、奇想天外の発想から放たれる怒涛の音の絨毯が、聴く者の感情を右へ左へ翻弄する。
不意に彼女の指がもつれると、聴衆が息を呑む。
それさえ活かして立て直すと、あっと驚き興奮する。
今や、彼女の一挙手一投足がエンターテイメントとなっていた。
天才は、ステージ上で再び目覚めたのだ――
ホールのほぼすべての人間が翠に注目する中。
ただ一人、いちかだけは、ソロからバンドの持ち場に戻った碧音をじっと見つめていた。
彼は今、トランペットを口に当てては、何も吹かずにまた降ろすという動きを何度も繰り返している。
サングラスの下からボロボロと溢れる幾筋もの涙が、ステージライトに反射して煌めいていた。
何度拭っても、光の筋は消えない。
周りのメンバーが涙をこらえて気丈に吹き続ける中、ひとり喉をしゃくりあげ、今にも崩れ落ちそうに震えていた。
頑張れ……碧音さん……頑張れ……
いちかは指揮をとりながら、祈りを込めて強く念じた。
彼が予選で言ったように、自分達は、コンテストの出場者である前に、演奏者なのだ。
リードトランペットが吹けなくなってしまえば、ビッグバンドジャズという音楽は、死んでしまう……
碧音はサングラスを外して涙の跡を乱暴に擦ると、深く息を吸い、ついに演奏に参加し始めた。
その音に、もう迷いはなかった。
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