第80話 レースのシュシュ
受付を済ませたいちかは、荷下ろし作業をしている会場裏に赴いた。
車で来た広大と夏雄に参加者用リボンを渡しつつ、手が足りなければ搬入を手伝おうと来たのだが、人数は既に充分いるらしい。
仕事のないいちかは、道の脇に避け、ひとり、学生たちの活気づく声を聞きながら外の様子を眺めた。
暗い会場裏から覗く空は、全体が発光していると錯覚するほどの眩しさだった。
外では、輝く日差しの下を、高校生たちがふざけ合いながら歩いている。
頭をよぎるのは、一昨年、テレビ画面を通して見た甲子園球場の空……
今年もちょうど今頃、やっているはずだ。
後ろから人の近づく気配がしたので、いちかは邪魔にならないよう端に身を寄せた
しかし、その人影はいちかの真横で足を止めた。
鼻腔をくすぐる花の匂いが、隣の人物が誰かをいちかに教える。
美雪だった。
彼女は話し出さず、ただいちかと同じように街の様子を見つめていた。
こっちから話しかけた方がいいのだろうか……
でも、何を話せば……雑談のネタ……雑談のネタ……
いちかが話の切り出し方を考えていると、
「川に飛び込んだって聞いたとき」美雪がポツリと呟いた。「私、いちかのことずっと舐めてたんだって気づいたの」
「え」
いちかは思わず振り返った。
しかし、美雪は目を合わせない。ただ、前を向いて、話し続けた。
「セルリアンに入って、いちかが苦戦してるのを見ながら、私は先を見透かしてる気でいた。どうせバンドは変わらないし、いちか自身も変わらないだろう、なんて」
苦々しげに、自嘲気味に、呟く。
「でも、いちかは、死にかけてまで自分を変えたし、周りも変えた。それでようやく、そういえば私といちかは別の人間だった、って思い出したの。バカだよね、当たり前なのにさ。私のやってたことは、他人を勝手に自分のレベルに落として、決めつけてただけ。ほんと、偉そうで見当違い……」
「そ、そんな……ていうか、川に入ったのだって、私そんな大層なこと考えてなかったよ。熱で頭おかしかっただけ」いちかは手を振って否定する。
「それでも、空気が変わったのは事実でしょ」美雪は淡々と語った。「私は僻むだけだったけど、いちかはずっと純粋だった。だからきっと今、いちかはこの会場にいる」
いちかは、美雪のどこかすっきりした横顔に、不安を覚えた。
「もしかして、今日でセルリアン辞めるつもり……?」
「どうだろ。本番見て決めようかなって気分」
美雪が首を傾げる。
「い、一緒に出ようよ、ヤマノ。来年はさ」
「……ありがと」
いちかの誘いに美雪は微かに笑うと、おもむろに小さなビニール袋をいちかに差し出した。
「はい」
「え。なに、これ?」
「プレゼント」
プレゼント⁉美雪さんから、私に⁉
受け取ったそれをのぞき込んで、いちかはさらに目を丸くした。
中には、白い大きなリボン型のシュシュがひとつ入っていた。
手に取ると、レースの生地が花開くように広がる。
昔、サックスパートで買ったものより、ずっと大人っぽく、洒落ていた。
「……無くしたなら、新しいのがいるかと思って」
そう言う美雪の顔は、わずかに赤らんでいた。
照れた顔など初めて見た……
いちかは驚愕しながら、同時に悟った。
自分が避けていなければ、この人のことも、もっと早く知れていたのかもしれない。
今からでも向き合えば、なれるだろうか……本当の友達に……
「あ、あの、ありがとう……」
受け取ったシュシュで、入院後からずっとおろしていた髪を括る。
久しぶりに上がった首筋に、爽やかな風が通り抜けた。
「頑張って。舞台袖で応援してるから」
美雪が花が綻ぶように微笑む。
「……うん!」
いちかは、その笑みに向かって、力強く頷いた。
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