第73話 ただいま


 雪の降る三月下旬の早朝は、厳しく冷たい。


 真冬に逆戻りしたかのような世界に凍えながら、独り部室に赴いたいちかは、外気温との差に驚いた。


 クリーム色に黄ばんだエアコンから、ゴォと暖気が吐き出され続けており、すべての窓は結露で白く曇っている。

 電気もついておらず、誰かいた形跡もない。

 誰か、つけっぱなしで出たんだろうか。なんてもったいない……


 全員への謝罪行脚を終え、久しぶりに戻った部室は、不思議と新鮮に感じた。


 なんとも形容し難い歴史の香りを嗅ぐと、初めてここに足を踏み入れた頃が色や音、雰囲気まで鮮明に思い出される。


 壁には、定演後に作った、部員たちの目標を寄せ書きした模造紙が今も貼られていた。


 これこそが、今日訪れた目的だ。


 いちかはそれを壁から慎重に剥がし、カーペットの上に広げる。

 少し悩んでからペンを取ると、真ん中に大きく書かれた『本選出場!』の文字の上に、『みんなで』と付け加えた。


「……よし」

 いちかはそれを満足げに見下ろす。

 それは小さな変化だったが、それだけでいちかの中の目標は別物だった。


「絵も描いちゃお」

 いちかがもう一度身を屈め、四隅に落書きを始めたそのとき、誰もいないはずの部屋から、


「んおぉおお……」

 男の野太い声がした。


「ギャアッ――何?誰?」


 リズム隊の方から聞こえてきたはずだ。

 いちかが音の出どころを探していると、床に無造作に放られたウッドベースのソフトケースが、幼虫のようにモゾモゾと動いているのが見える……


 凍りつくいちかの前で、チャックが開き、ヌルッと顔を出したのは広大だった。


「ウワァッ!」

 いちかはまた叫んでしまった。


「んあ……?いっちーか。おはよう」

「な、なんてとこ入ってるんですか⁉寝袋じゃないですよそれ!」

「そうなの?てっきりベースが入れられるタイプの寝袋なんだと思ってたに」

「何をアホな……え、一人ですよね?他のケースは?」


 広大の横にあるソフトケースの膨らみをビビりながら押してみるも、それらは柔らかく下まで沈んだ。

 どうやら無人のようで安心する。


「ケースにはいないけど、人はいるぞ、あそこに」

 広大が背後を指差した方を急いで見やると、トランペット隊の椅子の上で夜鶴が気配もなく寝ていた。

 菩薩のように穏やかな表情の彼女は、胸の上で手を結んだ美しい寝相を維持していて、そのまま出棺できそうだった。


「なにしてるんですか、先輩たち……」いちかが呆然としながら聞く。

「いやぁ、昨日急に翠がな、人がいる前で弾きたいっていうから付き合ってやったのよ」なめくじのように這い出ながら、広大が言った。


「えっ……」

「でも途中で飽きたから、んじゃ久々に麻雀やるかってなって。あ、部室に麻雀があることはみんなには内緒だぞ。あと、ちゃんと夜間使用の申請はしたからな」


「麻雀はいいんですけど……翠さん帰ってきてるんですか?」

「おう、昨日の朝な。なんだか、ずっと実家の方で恩師とリハビリしてたらしいぞ」

「そうだったんだ……」


 いちかはそれを喜んでいいのか、それとも反省の材料とすべきなのか、よくわからなかった。

 折れてしまった心を、もう一度持ち直したということだろうか……


「いっちーは何してたんだ?」

 広大が床に置かれた模造紙やペンを覗き込んだ。


「えっと……目標を変えたんです。本選出場は私の目標で、独りよがりだったなって気づいたから」

「んー、まぁそんなこともないと思うけどな」そう言うと、広大の目がいちかの描いた絵に注がれた。「ところで、この絵はクマだな?」

「カエルです」

「なるほど。俺も描いていい?」

「どうぞ」


 広大が筆をとり、描き始めたのは、何かしらのロボットだった。

 やけに手慣れていて上手いのだが、段々と模造紙が、まるで小学生の卒業アルバムの最後のページの雰囲気を醸し始めた。


「何しとん……」

 暗い声に振り向くと、いつの間にか夜鶴が真後ろに立っていた。


「声低っ……」

 広大が呟く。


 体を引きずるように歩く様はいつにもましてダウナーで、普段から三白眼の重たいまぶたは、今はほぼ開いていないに等しかった。

 二つ上の先輩の不機嫌そうな様子に、いちかは焦った。


「すいません、起こしちゃいましたか?」

「別に」夜鶴は欠伸を噛み殺しながら返事する。「眠っ……」

「先生も描くか?」


 広大が差し出したペンを受け取ると、彼女も座って描き始めた。

 寝起きの機嫌が悪そうな描き手とは正反対に、描かれる動物たちは明るくキュートだった。


「これ何?タヌキ?」

 夜鶴がいちかの絵を指差して言う。

「カエルです……」


 そのとき、防音扉のレバーが下がる音が広い部室中に響いた。


「ふーっ、寒い寒い」

 コンビニのビニール袋を手に、髪についた雪を払いながら入ってくる綺麗な女性。

 いちかにとっては久しぶりに見る翠だった。


「お、二人とも起きたー?」

 と言いながら、翠の視線が、E年二人に挟まれているいちかに移って、彼女は目を見開く。


「あ、いちかちゃんだ!帰ってたの!」

「あ、はい。ただいまです……」

「体調はもう平気なの?実家で休んでたって聞いたよ?みんなで集まって何やってるの?あ、お絵描き?いいなぁー、私も描くー」


 彼女の口が間髪を入れずに回り続け、誰も答えを言わない内に、模造紙の反対側に座って描き始めた。


 いちかは彼女の状況をよっぽど聞きたかったし、謝りたかった。

 が、殊更明るい彼女を前にして、暗い話は相応しくないような気がして、いちかは口を噤んだ。


「あれ?」翠の視線がいちかの手のあたりに注がれる。「私、こんなこと書いてたんだ」


 そこには翠が十二月に書いた寄せ書きがあった。

 『みんなで楽しく頑張ろう♪』という丸文字が紙の上で踊っている。


「うーん、悪くはないけど……今とは違うなぁ」

 そう言って彼女はいちかの隣まで来ると、過去の目標を躊躇なく二本線で消し、

「……こうだ」

 と、覆いかぶさるようにして、書き直し始めた。


 翠は満足げに体を起こすと、新しい目標が書かれていた。


『もう一度ステージに立つ』


 簡潔なその言葉には、深い意味と決意が詰まっていた。

 万感の想いを込めて、いちかは口を開いた。


「翠さん」

「んー?」

「おかえりなさい」

「……ただいま!」


 翠は、以前と変わらない屈託ない笑顔で答えた。





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