第72話 クッキー
「まだ家にいた方がいいんじゃないの?」
母が車を駅まで走らせながら、助手席のいちかに再三尋ねたことを再び聞いた。
「ううん、もう大丈夫」
いちかは笑って首を振る。
このやりとりも、今日何度目か。
退院後、一時的に実家に戻ったいちかは、病み上がりという名を背負って帰ってきてしまったために、家族からは大変手厚い扱いを受けていた。
食事はデザートが付いて部屋まで配膳され、階段の昇り降りで倒れないか心配される日々。
しかし、若い体が復活するには数日とかからず、早々に時間を持て余してしまったいちかは、一週間後には自分の賃貸へと帰ることに決めたのだった。
「でもまだ一週間でしょう?学校始まるまでゆっくりしていけばいいのに」
信号待ちをしながら、母が言う。
「もう充分だよ。それにやることあるから」
「そう?ならいいけど……心配な子ねぇ」
母は眉を寄せて、ポツリとボヤいた。
一週間ぶりに帰った自室に荷物を置くと、そのままの足でセルリアンの仲間一人ひとりの元へ向かった。
連絡がついた人から順に、対面で謝罪していくためだ。
ほとんどの部員は、会うなりいちかの身体の心配をしてくれたが、エリカだけは、火を吐くように苛烈だった。
「退院おめでと。で、だからなに?」
玄関先で、部屋着の彼女は冷たい怒気を放っていた。
「はい……」
恐ろしさに震えつつ、いちかは頭を下げ続けるしかない。
「いちかは治っても、翠はまだ実家からすら帰ってきてないよね」
「うん……」
「お前は翠の敵、つまりエリカの敵なの。翠のこと返してくれる?ホント、よくエリカのとこ来れたね」
いちかは何も言い返す言葉を持たなかった。
碧音がどう言おうが、翠にトドメを刺してしまったのは自分に違いなく、壊してしまったのは翠の二十二年の人生そのものだった。
「翠が前みたいに弾けるようになるまで、エリカは部活戻らない」そう言うと、エリカは苦々しげに顔を歪めた。「ま、トラ入れればいいんだから、痛くも痒くもないだろうけど」
「エリカが納得しないなら、大会は出ないよ」
「それどういう意味?エリカのせいでみんな出れないよって脅し?」
「そ、そうじゃなくて……!」いちかは慌てて否定すると、力なく俯いた。「誰か欠けるくらいだったら、大会なんか出たくない……みんなで出ないと何にもならないから……」
しばらく無言が続いた。
また怒られるだろうかと恐れていると、
「……遅いんだよ、手遅れになってから気づいても」
舌打ちとぼやきが頭上で聞こえた。
頭を上げると、腕組みしたエリカが、厳しい目でいちかを見下ろしていた。
「もし翠が帰ってきても、絶対無理させんなよ」
「うん、約束する」
「いちかより、圧倒的に翠の方が大事だから。なんかあったら、お前の方辞めさせるから」
「うん、わかってる」
「……ならいい。勝手にすれば」
エリカの腕組みが、軽いため息と共に解かれた。
「クッキー食う?」エリカは唐突に言った。
「……え?」
「翠にあげるつもりで焼いたんだけど、帰ってこないから」
「あ、えっと……もらっていいなら」
いちかが答えると、エリカは冷蔵庫を開け、クッキーを二袋渡してきた。
ハート柄の包装紙を赤いリボンで丁寧に結んでいて、商品としても売れそうな愛らしさ。
「凝ってる。可愛い」
「そうっしょ。翠用だもん」エリカは当たり前のように話す。
「なんか、本当に好きだよね、翠さんのこと」
「……好きだけど。悪い?」
そのとき、彼女の耳がパッと桜のように色づいた。
それを目にしてようやく、いちかも同期の心に気づき、自分を叩きたくなった。
あぁ、またバカだった……
私、ずっと軽く考えていた……
脳内の雄也が『いちかって、びっくりするくらい無垢だよね』と呆れた顔をして笑っていた。
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