第70話 覚めた夢
夢――
夢の中で、いちかは、歌うように呟いていた。
「ワン、トゥ、ワントゥスリィッ――!」
右手を上げると、雷鳴の如く鳴り響く、管楽器の咆哮。
トランペット、トロンボーン、サックスの音がホールを制圧する。
左手をリズム隊に向けると、指の動きに操られるようにベースとドラムスが蠢き始め、ピアノとギターが彩った。
場所は、大宮ソニックシティの大ホール。
ヤマノの本選で、いちかたちは演奏を披露している。
喜びが満ちてくる。
私、ついにこの舞台に立ったんだ……!
――夢の大音響をかき消すように、小さなピアノの音が聞こえてくることにいちかは気づく。
穏やかに口ずさむような、優しいメロディー……
脳が深呼吸を始め、夢から覚め始める。
薬っぽくどこか懐かしい独特の匂いがして目を開けると、ステンレスのレールに囲まれた、床のような見た目の天井が見えた。
保健室だ……小学校の……
ポロンポロンといじらしいピアノの音は、夢から繋がるように鳴り続けていた。
いちかは身体を起こす。
すると、小学生よりずっと成長した身体が持ち上がり、鋭い頭痛が目の奥に火花を散らした。
「いッ――たぁ……」
痛みに眉間を寄せながら、同時に自分が見慣れぬ病衣を着て、点滴の管に繋がれているのに気づいた。
ここは保健室ではなく病院で、自分は今、十九歳の大学生だと思い出す。
苦々しい記憶が、芋づる式に戻ってくる。
そう、碧音が捨てたラッパを追って、川に入って、それから……
「なんで――ケホッ」
言葉を発しようとすると、喉がひどく乾燥していて咳き込んでしまった。同時に、頭に激痛が走る。
「イテテッ……ハァ、なんでこんなとこにいるんだろ……」
ベッドを囲う厚手のカーテンの外では、ピアノの音の隙間を埋めるように、誰かの咳き込む音や、パタパタと忙しなく歩く足音などが聞こえていた。
今日は何日で、今は何時で、あれから何時間経ったのか。
碧音のトランペットは無事なのか。
ヒントをくれる物はベッド周りには見当たらない。
「いちか?」不意に外から声がかけられ、いちかは飛び跳ねた。高校から聞き馴染んだ声だった。「起きた?入っていい?」
「は、はいっ」
カーテンの先に、スズランのように白い顔を覗かせたのは美雪だった。
「……おはよう」彼女の声色はいつもと変わらなかったが、凛々しさは影を潜めていた。「身体、大丈夫?」
「う、うん!あ、いや、頭は痛いけど……」
「そう」
美雪は相槌を打つと、次の言葉を探すように、薄い唇を微かに開いたり閉じたりしていた。
「どうしたの?」
「いや……」
美雪は、それでも何か言いたげに佇んでいたが、
「……看護師さん呼んでくる」
と言って、カーテンを開きっ放しのまま、いちかの前を駆け去っていった。
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