第67話 潮時


 橋の上では、車の往来は激しく、人通りはほとんどなかった。


 荷台を揺らして走るトラックや乗用車が、ヘッドライトをギラつかせて、いちかを追い抜いていく。


 ポツポツと一定間隔に、細長い橋上灯が寂しげに立っている。


 光量の多い橋とは対照的に、川面はまるで底の見えない穴だった。


 背後の走行音に混じって届く水音だけが、湛える水の量と流れを伝えている。


 理由もなく、闇の川を眺めながら歩いていると、橋の真ん中に知った顔の先客がいて、いちかはたじろいだ。


 サングラスを外した彼は、楽器ケース片手に、橋の下をじっと眺めていた。

 青白い光に晒された姿は、歩行者のいない道で異様に目立っている。他には一人もいない。


 いちかは刺激しないように後ろから近づいて、声をかけた。


「碧音さん……?」


 彼は飛び上がって驚いた。


「わっ!おま、なんでこんなとこにいんだよ!」

「碧音さんこそ、何してるんですか」いちかは恐々尋ねた。「まさかその、早まっちゃダメですよ……」

「あ?んなわけねぇだろ」

 鼻で笑って一蹴する。が、その割には、碧音の視線はすぐに川の向こうに戻っていた。

 その横顔には影が色濃く落ち、憔悴して見えた。


「あいつ、先生のとこ行くっつってたろ」


 頷く。

 翠からかかってきた電話のことだ。


「あれは、ピアノの師匠のことだ。諦めるときは先生に断りに行くってずっと言ってた」

「じゃあ……」


 碧音が小さく頷いた。


「あいつはもう音楽をやめる。多分セルリアンにも帰ってこねぇよ」

「そんな……」

「だから俺もやめる」


 いちかは耳を疑った。


「ど、どうして碧音さんがやめる必要があるんですか!」

「俺のせいだから、全部」


 二人の後ろを車が光の線を描いて去っていく。

 いちかは彼の言葉が理解できなかった。


「なんで……翠さんに依頼を受けるように無理強いしたのは私だし、ずっと治そうとしてたのは……」


 碧音が横目にいちかを一瞥した。

 その視線には諦めや疲れが現れていた。


「あいつが高二のとき、コンクールと、友達との遊びの予定が被ったんだ」

 彼はポツポツと独り言のように話し始めた。「世界規模のバカでかい賞なのに、あいつ友達の方に行くって駄々こねた。だから、俺がやめさせた。バカじゃねぇのかって。今考えると、ただの嫉妬だな」


 おもむろに、碧音はガチャンと欄干に両腕を乗せた。

 黒い楽器ケースが橋の外側にぶら下がり、見ている方の肝が冷える。


「で、コンクールに送り出したら、ぶっ壊れて帰ってきた。初めて出来た普通の友達が、あいつにとってはコンクールより大事だったらしい。振り返れば、兆候なんていくらでもあった」

「ほ、本当にそれが原因なんですか……?そんな小さなことで……?」いちかは信じられない気持ちで聞いた。

「母親に、今からでも遊びに行けるかって泣きながら聞いたんだってよ。腕は暴れまくってんのに。充分だろ」

 ハハと自嘲する。

 いちかにとっては初めて目にする碧音の姿だった。


 遠くを見つめる彼の瞳は、街明かりを取り込んで、うつろに光っていた。

 表情はやつれ、年齢よりずっと老けて見える。

 一人で橋を降りるという選択肢は、いちかにはもうなかった。


 この人は早くここから逃さないといけない……


「あの、そろそろ寒くないですか?帰りましょう、ここに用はないですよね?」

「熱あんだろ、お前が帰れよ」碧音が鼻で笑う。「俺はケジメつけねぇと」

「翠さんがやめたって、碧音さんはやればいいじゃないですか!」

「このまま続けて、この先はどうなる?俺一人がプロになって、演奏活動の話をあいつの前でするのか?そんなことできる訳ねぇだろ……ここが潮時だ」


 いちかは、力が抜けて座り込みそうだった。

 結局、碧音のこれまでの努力も、意地も、水泡に帰したのだ。


 ここがゴール。誰も救われない終わり。


 どうにかして碧音を思い止まらせたくても、何の言葉も出てこない。


「なんつーか、悪かったな、色々巻き込んで。お前が気に病むことじゃない。忘れろ」

 彼は前を向いたまま、いちかに話しかけた。


「……まぁ、楽しかったよ。今までありがとな」

 最後の言葉は、いちかに言ったのか、楽器に語りかけたのか。


「あっ!」


 彼が放り投げた宝物は、いちかの伸ばした手をすり抜けて、夜の闇へ吸い込まれるように落ちていった。





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