第62話 連絡
悪夢のような大失敗の後、医務室に運ばれた翠は、落ち着き次第碧音に連れられて帰宅した。
翌日の部室に、二人の姿はなかった。
帰省中の人も多く、恵まれた部室の広さが今は寂しい。
いちかの瞼の裏には、ドレスの赤さと報道陣のフラッシュが焼き付いていた。
元天才ピアニストが久々に公の場で弾くとなれば、ただの私立大学の新棟お披露目式よりは話題性がある。
依頼は、初めからそれが狙いだったのだ……
いちかはそんなことにも気づかなかった自分を殴りたかった。
あれでは、翠をわざわざ壊しに行かせたようなものだ。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見ると、呼び出し元は碧音だった。
「もしもし」
「お前、翠と連絡ついてるか」
開口一番に彼は尋ねた。
「いえ、昨日から既読もついてないです……」
「今翠の部屋の前にいんだけど、いくら呼んでも返事がねぇんだよ」
「留守……?」
「部屋の電気はついてる。気にしすぎだとは思うんだが、昨日のこともあって、なんか……」
普段からは想像もつかない気弱な声色に、不安は充分伝染してきた。
いちかの胃のあたりで、ザワッと何かが騒いだ。
「今から行きます」
慌てて動き始めたいちかに、他のメンバーも何事かと集まってきた。
結局その場にいた全員が、翠の家へ向かうこととなった。
・・・
翠の下宿先は、正門前の坂を下ってすぐ左手にある学生アパートの二階にあった。
道路に出ていた碧音と合流し、彼女の部屋にゾロゾロと向かう。
呼び鈴を鳴らし、ドアをしつこく叩いてみるが、碧音の言う通り返事はない。
アパートの裏側の空き地に回り、部屋を見上げてみると、閉まっているのはレースカーテンのみで、奥からシーリングライトの光源が透けて見えていた。
「石でも投げてみる?」ゆうゆが小学生のような提案をする。
「いやそれは……」
「あら、お客さんがたくさんいるわねぇ」
背後の声に全員が飛び跳ねて振り向くと、空き地を歩いていたのは老婦人だった。
還暦はとうに過ぎているだろうが、足腰は真っ直ぐ立ち、ニコニコといちかたちを眺めている。
全員が一律に――ゆうゆは口を手で抑えながら――お辞儀をした。
老婦人は勝手知ったるというようにアパートの敷地を横切り、小さな倉庫の中に消えていった。
「あれって大家さんじゃないですか?」さくらが小首を傾げた。
「事情を話せば、鍵を開けてもらえるかも」美雪が倉庫をじっと見つめながら言う。
「なら、俺聞いてきますわ」
隼人が何の気負いもなく倉庫へ歩いていくと、土いじり道具を持って出てきたお婆さんに話しかけた。
「こんちはぁ。大家さんすか?」
「えぇ、そうですけど」
「入り口の花壇、めっちゃ綺麗っすね。俺びっくりしちゃいました」
「あらそう?」
「やっぱ育てる人に似るんすかね。俺このアパート住みたいっすわぁ」
「女性限定よここ」
年齢も性別も違う初対面の人間と会話を延々に続ける隼人を、一同は驚愕と尊敬の眼差しで眺めた。が、次第に話の長さに辟易とし始める。
任せておこう、と全員で翠の部屋の前に戻ると、しばらくして彼も帰ってきた。
「ネギ味噌煎餅もらいましたわ」隼人がお菓子のパックを持ち上げた。
「何しに行ったの?」美雪が容赦なく突っ込んだ。「鍵は?」
「あ」
「なにやってんの!」ゆうゆの金切り声が飛んだ。「今すぐもらってきて!」
「や、おばちゃん畑行っちゃった。車で……」隼人が申し訳なさそうに頭に手を置いた。「『昨日ドタバタ物音がしてたわぁ』ってことっした」
「お煎餅じゃ鍵は外せないよ……」ゆうゆが顔を顰める。
「させっ。でもネギ味噌っすよ?」
「あおくん、合鍵を持ってないんですか?」
さくらの視線を受けた碧音が、苦々しげに首を振った。
「さすがにねぇよ。実家ならあるかもしれねぇけど」
「け、警察呼びますか……?」芳樹が恐る恐る発言する。「お、大袈裟かな……」
「でも、もしかしたら一刻も早い方がいいかもだし……考えたくないけど」
小さく零れたゆうゆの言葉に、全員の頭を冷たい想像が覆った。
春の訪れを喜ぶ世界の中で、この七人だけが別の季節を生きているようだった。
そのとき、いちかのポケットから再び着信が鳴り響いた。
「あっ!」いちかは画面を見て声を出すと、スピーカーモードで通話に出た。「翠さん?」
「ごめーん、着信今気づいたぁー」
こもった音の先で、聞き慣れた声が謝っていた。
どうやら外にいるらしく、彼女の後ろは車の走行音や駅アナウンスなどで騒々しい。
「お前今どこにいんだ!連絡も寄越さねぇで!」碧音が横から怒鳴る。
「ごめんごめん、今実家に向かっててさ。急遽決めたから、忙しくって」
「とりあえず連絡ついて良かったです」いちかが尋ねる。「いつまでいる予定ですか?」
「決めてないんだ。ごめんね」
翠が謝る。
何はともあれ、無事が確認できた。
部員たちがホッと顔を見合わせる中、碧音だけが暗い声で聞いた。
「……先生に会うのか?」
「あー」翠の声が少し止まった。「うん。もうさすがにね。挨拶しないと」
碧音は何も言わない。ただ顔は白く、硬い表情をしていた。
「ごめん、バス来ちゃう。とりあえず、帰る日決まったら連絡するね」翠が口早に伝える。「それじゃみんな、またね!」
電話は一方的に、ぷつりと切れた。
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