第61話 取り返しのつかないこと
その日から翠が練習を始めると、クラシックに疎いいちかでも知っているような有名曲が、毎日部室に流れるようになった。
本番までに用意された期間はたった一週間だというのに、翠の演奏持続時間は一日ごとにみるみる伸びていく。
彼女の弾く姿を観察していると、集中力に圧倒された。
いかに部室が騒がしくとも、弾いている間は何も聞こえていないかのようだ。
本番三日前からは、学内ホールを借り、部員を客としたリハーサルを何度も行った。
周りの心配もどこ吹く風。
翠がパフォーマンスを失敗することは結局一度もなかった。
行ける――
いちかは確信していた。
・・・
テープカット当日は、春の訪れを感じるような健やかな快晴に恵まれた。
いちかが現場の新中央棟へ赴くと、先客の姿が目に付く。
「あ、碧音さん」
声に振り返った碧音は、いちかの姿を下から上に眺め、眉を顰めた。
「お前、大丈夫かよ……」
厚着で着膨れ、顔にはマスクと冷えピタを装備した、赤い顔の女。
それが今のいちかだった。
「いやぁ、なかなか治らないんですよね。でも、微熱だし、なんてことないです」
「……あっそ」碧音は興味なさげに答えると、新棟前を指差した。「これ、どう思う」
その示す先を目にして、いちかは顔を曇らせた。
「……なんで」
歴史を感じる建物ばかりの東央大学にあって、久しぶりに建てられた現代的で巨大な新棟。
その前には、多数の報道陣がいた。
十社ほどだろうか。人数にすればさらに多い。
いちかは、狼狽した。
来てもせいぜい地元紙くらいだと予想していたのに。
無名な私立大学のお披露目式が、こんなに注目を受けるか……?
開始時刻が来て、式は予定通り始まった。
報道陣の前に立った学長がスピーチをし、学生代表や来賓と並んで新棟前でテープを切る。
続いて、来校者一同は新棟の中に案内され、いちかたちもその後をついていった。
入り口を抜けた者は一人残らず、上を見上げた。
大概の飲食店ならすっぽり入るほど広い玄関ホールは、数階層上まで吹き抜けになって、開放感に満ちている。
新築の独特な匂いがするその建物を端から端まで見回すと、入口右手に黒く光るグランドピアノと、その横に立つ一輪の赤い薔薇に気づいた。
翠だった。
大ぶりな花弁のように開いた真紅のドレスに身を包んだ姿は華やかで、普段の茶目っ気は鳴りを潜めている。
翠はいちかと碧音の視線に気づくと、柔らかく微笑んでみせた。
今の彼女は、新棟を彩るひとつの調度品だった。
「ただいまより、記念の演奏を行います。東央大学の四回生の門沢翠さん。曲目は……」
司会が原稿から翠の名前を読み上げると、聴衆がざわついた。
突然色めきだち、露骨にシャッターを切り始めた取材者もいる。
全身に嫌な予感が走った。
みんな、知っているんだ。
いや、まさか知っているから来たのか……?
翠は柔和な表情を崩さずお辞儀をすると、ピアノの前に座った。
演奏を待つのは、リハーサルの三倍ほどの人数。
ホール内がしんと静まり返る。
翠は少し息を整えると、両手を鍵盤の前に突き出し、弾き始めた。
澄んだせせらぎを思わせる、流麗な演奏。
極めて冷静に、確実に、彼女の指は動いていた。
どうかこのまま、と祈ったそのとき……
カシャッ――
吹き抜けのただっ広い空間に、シャッター音が耳障りなほど響き渡った。
その一瞬は、まるで時が止まったかのようだった。
ピアノの音列は突然ぐしゃりと潰れ、頓死する。
翠の手が鍵盤の上で暴れ始めていた。
彼女は手に手を重ねて宥めようと試みるが、止まらない。
次第に震えは腕にまで上ってくる。
この場にいる全ての人間が異常を察した。
ざわめき、顔を見合わせ、まるで凍えるように蹲って腕を抱えこんでいる翠に、シャッターが追い打ちのように切られる。
いちかが呆然と立ち尽くしていると、横の碧音が飛び出していった。
我に返り、いちかも慌てて駆けつける。
翠の蒼白な顔が、真っ赤なドレスに冷たいコントラストを成していた。
目が、吐息が、恐怖を訴えている。
「ごめんね……期待してくれたのに……ごめんね……」碧音といちかの姿を認識すると、翠は壊れた機械のように謝り始めた。「やっぱりダメだった……ごめん……」
「そんなのいいですから……」
「立てるか」
碧音の言葉に翠が頷く。
いちかと碧音で翠の両脇を支えて、立ち上がらせると、再びシャッターが切られた。
「おい、カメラ向けんな!」碧音が来場者に怒鳴った。
駆け寄ってきた職員に案内され、いちかたちはホールから見えない場所へと移動する。
いちかは翠の体を支えながら、その重さと現実感に、全身から血の気がひいていくのを感じた。
もしかして私、取り返しのつかないことを……?
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