第60話 演奏依頼
怜と美雪とのラーメン会の後、見事に高熱を発したいちかは、結局丸二日休まざるを得なかった。
インフルエンザは陰性で、翌々日には平熱の範囲まで下がったが、まだ身体の芯には氷が埋まってるかのような悪寒が残っている。
そのため、上着やダウンジャケットを何枚も重ね着し、マスクをつけて部活に出たが、火照ったダルマのような姿は、当然他の部員たちに心配させた。
「あったかくしてるんで」いちかは周りを囲む人々にくぐもった声で答える。
「そうは言っても、もう一日休んだ方がいいんじゃない?拗らせちゃうとまた……ん、なんかニンニク臭くない?」翠が不思議そうに空中を嗅ぎ回る。
「すいません、鬼木家直伝の健康法で……」
「ぶちょーさーん」
翠が鬼木家健康法について聞く前に、ゆうゆが後ろから声をかけた。
「あのさぁ、今日DMで演奏依頼が来てたんだけどさ……」
ゆうゆの言うDMとは、セルリアンジャズオーケストラ公式SNSに来るダイレクトメッセージを指している。
ゆうゆはSNS運用担当で、演奏会情報の投稿や、時たま来る依頼の受け付けをしていた。
翠は勢いよく答えた。
「受けましょう!コンボ?ビッグバンド?」
ゆうゆは複雑そうな表情で首を振る。
「ううん。その……翠一人に弾いてほしいって……」
部屋にいる人間が、一人残らず固まった。
「そ、それはどちら様から……」翠も狼狽を隠せないまま聞き返す。
「ここ」ゆうゆは真下を指差した。「東央大学」
・・・
その後ゆうゆが説明したところによると、四月から使われる新中央棟の落成記念のテープカットで、クラシックを演奏をしてほしい、ということだった。
翠は不思議そうに首を傾げた。
「でも、ピアノのことなんて聞かれたことないよ。入試も別に一般だし」
「なんか、学長が合宿所の管理人さんに、合宿のときの翠の動画見せてもらったんだって」ゆうゆが横から補足した。
「あぁ。ありゃ凄かったからなぁ」広大は能天気に述べる。
「断ろう」翠はキッパリと言った。「私、別にプロじゃないし。今の私より弾ける人もきっといるし。もったいないよ」
「それで納得させるのは、難しいのでは?翠さんの経歴を知ることは簡単ですし」
さくらの意見に、璃子も苦い顔で頷いた。
「ていうか、クラシック弾いてくれって言ってきてる時点で、恐らくバレてるよね……」
横でじっとやり取りを聞いていたいちかが、ゆうゆに尋ねた。
「それって、いつ、何曲演奏することになるんですか?」
「んとねぇ……テープカットは三月二十三日で、一曲弾いてって」
あと十日ちょっと。
いちかの頭は計算を走らせ、ひとつの結論を導き出した。
「翠さん、この依頼受けませんか」
「えぇ?」翠の顔に戸惑いが走る。「でも……」
「人前に立つチャンスだと思うんです」いちかは力説し始めた。「最近は長く弾けるようになってきたし、この依頼も合宿と同じで、身内のステージじゃないですか。いきなり外で試すより、いいと思うんです」
「うぅむ……」
悩む翠を前に、いちかは祈る気持ちだった。
心の扉を開けるためにはショックが必要と言ったのはヤブ医者だったが、言葉にはそれなりの説得力があった。
普段とは違う負荷やストレスによって視界が開けることはある。
段々と回復してきたとはいえ、地道に続けて完全に復調するまでにはどのくらいかかるのか。そもそも復調はできるのか。
合宿で再び現れた彼女の才能は片鱗だったが、それでさえ、圧倒的な表現力と技術力、そして個性があった。
非凡な彼女をもう一度発掘できるのは、今は私たちだけ。
やる価値はあるはずだ。
「あおは、どう思う……?」
翠が振り向いて尋ねた。
彼はゆうゆの報告があってから、部室の後方でじっと腕を組んで黙っていた。
が、目を上げると一言呟いた。
「悪い話じゃねぇと思う」
「……そっか。そうだね」翠は碧音の言葉を聞くと、おどけたようにガッツポーズをしてみせた。「私、やってみる」
いちかはホッと息をつき、目を瞑った。
これが、翠とセルリアンの光明になってくれることを信じて――
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