第52話 沁みる拍手
合宿三日目。外がとっぷりと夜に包まれた頃――
部員たちは談話スペースの飾り付けや、多目的室の掃除をしたりと慌ただしく動いていた。
彼らの身なりも、ラフな部屋着ではなく、この日のために用意したステージ衣装になっている。
合宿最後の夜には、管理人夫婦が周辺住民を呼び、その前でミニコンサートを行うのがセルリアンの恒例行事となっていた。
今は、彼らを迎える準備中だ。
談話スペースから楽しげな笑い声が聞こえる中、いちかだけは思い悩むような顔で、多目的室に客用の椅子を並べている。
ふと気づくと、翠が椅子出しを手伝ってくれていた。
「ワクワクするね」翠が言う。
「そう、ですかね……?」いちかの口調は暗かった。正直、不安だらけだ。
「だって初めて合宿でビッグバンドできるんだよ?」翠が苦笑いする。「今まで、ジャズオーケストラですっていいながら、コンボやってたからね」
「確かに……」
「でも、今はこんなに仲間がいる」
翠は壁を見透かすかのように前を向いた。
開け放したドアからは懇談スペースにいる部員たちの会話が流れ込み、その先の玄関ホールの方からはドタバタと子供が駆け回るような足音が聞こえてくる。
明るく、騒がしく、心地よい音――
「私ずっと憧れてたんだよね、大編成のバンド」翠は自分の出した椅子に座りながら言った。「セルリアン復活させた当初は、ジャズ研に変えればって話もあったんだけど。でも諦めなくて良かったよ」
「どうしてそんなにビッグバンドにしたかったんですか?」
いちかは当然の疑問を口にした。
コンボ中心のジャズ研究会にしておけば、人数は少なくて済む上、編成も自由度が高い。再スタートの形態としては現実的だ。
「それはね、私のワガママ」翠は昔を懐かしむように目を細めた。「ピアノって基本的にずっと一人なのよ、練習も本番も。だから、オケとか吹奏楽とかやってる人がずっと羨ましかったんだよね。仲間いっぱいでいいなぁってさ」
いちかは同じように椅子に座り、静かに聞き入っていた。
一人では音楽が作れない管楽器奏者にとって、それは最もかけ離れた悩みだった。
どこか浮世離れしている翠から、多少なりとも人間らしい話が出るのは嬉しくもあり、意外でもある。
「だから、大学は人がいっぱいいるとこに入ろうって探したんだけど……ピアノってさぁ、びっくりするくらい大編成には入らないの!ピアノがいつも必要で、しかも大所帯の団体って何か思いつく?」
「確かに……あんまりないかも」
「でしょう?だから、自分でビッグバンド作るしかなかったってわけ」
「なるほど」
「定演で辞めてたら、夢半ばだった……いちかちゃんのおかげで、ちゃんと叶ったよ。ありがとう」
相変わらず、不意に真っ直ぐ気持ちを伝えてくる。
いちかは胸を突かれ、照れ隠しに聞いた。
「翠さん、今日テンション高くないですか?なんだか、楽しそう」
「バレた?なんか今日ずっと、いい調子なんだよ。久しぶりに音楽楽しいって感じ」
翠の笑顔には、まるで初めてピアノに触れた少女のような輝きが迸っていた。
そのとき、玄関ホールの方から老若男女大勢の声が届いてきた。
「来たね」翠はすぐに多目的室から顔を出し、指示を飛ばした。「みんな終了!お迎え組以外は席戻ってー!」
・・・
管理人によると、来場する地元の人々は年々増えているそうで、今回は十五人に上った。
年齢層は、下は三歳、上は九十歳の驚くべき振り幅だ。
学祭のような翠目的の客は見受けられず、代わりに、常連の集団が去年からいる部員たちと親しげに話していた。
この人たちは皆、普段と違う夜を過ごそうと、縁遠い大学の合宿所まで足を運んでくれたのだ。
いちかは素直に感動し、気合が入った。
ミニコンサートでは、夏雄のMC――事故の話をすると、おばあさんに拝まれていた――を挟みつつ、定期演奏会でやったレパートリーをいくつか披露していった。
客席もソロごとに歓声を上げて盛り上げてくれ、演奏のボルテージもすぐに最高潮。
ホームグラウンドというような、暖かい空気だ。
――が、最後の曲に差し掛かった途端、バンドの空気がビリっと張り詰めた。
客席に伝わってしまうのではないかというほどの緊張感……
全員の譜面台に広げられているのは、ヤマノ予選曲の譜面。
この三日、散々演奏してきた曲だ。
できることならば、有終の美を……
「ワン、ツー、ワンツーッ!」
スタートを切った人前での初演奏は、いちかの思いとは裏腹に、おぞましいほどの出来だった。
音はあちこちでよく外れ、タイム感はバラバラ。
碧音のソロの裏では、管楽器がバッキングの入りを間違える。
いちかでさえもその波に呑まれ、サックスソリの指が過去一番に回らない。
ソリを終え着席したいちかは、悲壮な表情で吹き続けた。
最悪だ……
演奏後に客から送られた拍手は、傷に塩を塗ったみたいに沁みた。
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