第44話 雪の花


 大学に入学してから、これほど緊張したときはない。


 三限の授業が終わると、いちかは約束の場所へ向かい始めた。


 生協を横目に階段を上がり、三階へ。

 そのフロアは、学生たちの休憩室だった。

 空きコマを持て余した学生たちが、机に突っ伏して仮眠したり、友達とカードゲームをしたり、スマホを弄ったりで、時間を潰している。


 そんな中で、彼女は目立って見えた。


 ひとり窓際に座って本を読んでいる姿は、曇りガラスで和らいだ陽光に優しく包まれ、まるで西洋絵画のよう。

 姿勢正しく、長いまつ毛の下で物憂げな視線を落とし、彼女の周りは静謐に満ちていた。


 そこにはかつての熱血など、見る影もない。

 夏同様、会うだけで劣等感がぶり返し、緊張で手が汗ばんでくる。


 しかし、今日は私だけの問題ではないといちかは覚悟を決め直した。

 やらなければ……


「ひさっ……ゲホッゲホッ……久しぶり」

 初手から、喉が締まって声が裏返ってしまった。


 彼女は大きな瞳を本からいちかに移し、まじまじと見つめた。


「夏休みぶり。元気そうだね」

「うん、元気……」

 彼女は本をハンドバッグの中にパチンとしまうと、いちかの頭を一瞥して言った。


「そのシュシュ、高校のときのやつ?サックスで買ってた」

「よ、よく覚えてるね」

「ふーん」彼女は意味ありげに目を細めた。「で、話って何?」

 いちかは美雪の対面の席に座ると、ふわっと花の匂いが、いちかの鼻腔をついた。


 心の中で深呼吸する。


 勇気を奮い起こすのだ……


「えっと……実は私、結局ジャズバンドのサークルに入ったんだ」

「雄也が言ってたから知ってる」

「あ、そっか。それで、ちょっとドラムの人が怪我しちゃってね。クリスマスに定演があるんだけど、美雪さんにエキストラで乗ってもらえないかなぁ、なぁんて……」

「定演ね。懐かしい単語」

 美雪は椅子の背にもたれると、一瞬思い巡らせる素振りを見せてからあっさりと言った。


「別にいいよ。ジャズとか知らないけど」

「わっ、あ、ありがとうございます!」

 いちかは手を合わせ、頭を下げた。

 そして、続きが出てこない。しばらく二人で見つめ合う。


「それだけ?」

 美雪が怪訝そうに眉を寄せた。

 定演に乗ってもらえるだけでも大収穫だ。感謝は尽きない。


 だというのに……


「その、実はそれだけじゃなくて」

 唾を飲み込んで喉が鳴る。


 いちかは美雪に、それ以上を求めようとしていた。


「夏のコンクールみたいなのが、ジャズバンドにもあってね。私それに出ようと思ってて」

「へぇ」

 いちかは、あたかも机の木目に話しているかのように首を垂れていた。

 彼女が今どういう顔をしているか、確認するのが怖い。


「だけど、ドラムの人の怪我が、五月の予選に間に合うか分からなくて。だから、美雪にそこまで一緒に乗ってもらえたら嬉しいな、って――」

「本気で言ってる?」


 いちかは既に後悔していた。

 絶対に怒ってる……


 一番誘う資格のない人間が、一番誘っちゃいけない人を誘ってしまった。


 言うんじゃなかった。なぜ欲張ってしまったのか。


「あ、もちろん、無理は承知で聞いてるんだけど、あの……コンクールのとき怒られた私が何言ってるんだ、って思ってると思うんだけど……」

「うん、思ってる」

「うぐっ……」

「でも、それだけ本気ってことでしょ」

 恐る恐る頭を上げると、彼女の視線とかちあった。

「行けるの?」

 まるで目の奥にある思考を探るように、美雪はいちかをじっと見ている。


「どう、かな……まず人数集めないと出場できないし、楽器歴浅い人多いし、厳しいとは思う」

「でも行くつもりなんだ?」美雪が首を傾げる。

「……うん。行きたい」

「ふーん?」


 上向きに長いまつ毛が、ひとつふたつとはためく。

 いちかは息を詰めて彼女の白い首筋を見つめる。


 しばらくして、美雪は簡潔に言った。


「いいよ。参加する」

「嘘っ⁉」

「誘った人が何驚いてんの」

「いや、ごめん。てっきり断られると思ってて……でもその、すごく嬉しい。一緒に頑張ろう。いや、わたしが頑張ろうとか言える義理じゃないか……その……」


 一人で話し続けるいちかを見て、美雪はポツリと呟いた。


「私も嬉しい」

「へ……?」


 彼女は一片の雪の花が降ってきたように、初めて仄かに笑った。





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