第40話 昔話
翌日、いちかは山から人里へ降りるバスに乗り、駅前へと向かった。
十二月の休日はどこか慌ただしく、街中は気の早いクリスマスの装飾で彩られている。
指示された通り、駅の入口には碧音と翠の姿があった。
翠は、いちかを見るとニコニコと嬉しそうに手を振ったが、碧音は心なしかぶすっと不機嫌そうに見える。
彼にしては珍しく大きなバックパックを背負っていた。ヤンチャな服装には絶望的に似合っていない。
「とりあえず来ましたけど、どこかに行くんですか?」
いちかが尋ねると、翠は目を丸くした。
「あれ?あお、話してないの?」
「あぁ」
翠は呆れたというように目頭を押さえた。
「あのね。今日は、私の治療についてきてもらおうと思って呼んだの」
治療――
その言葉は、翠の過去を知った今、重く響いた。
「え、いいですけど、なぜ……」
「色々話したいことはあるけど、時間ないから行きながらにしましょうか。では、出発進行!えいえいおー!」
翠は先頭切って改札に向かっていく。
「お、おー……」
いつにもましてピリピリしたオーラを発する横の男には触れないようにしつつ、翠の後についていった。
・・・
都内に向かう急行電車に乗っている間、彼女はあっけらかんと過去と現在のことを語った。
ほとんどはインターネットで知った通りだったが、文字で読むのと、翠自身の口から語られるのとでは、現実味がまるで違った。
「イップスのでっかいやつ、みたいな感じでさ。一分くらい連続で弾いたら、もう手が震えちゃってダメ」
翠が右手を軽く振ってみせる。
「でも、バンドのときは……?」
「実はね、うまくサボってるの。バレてないでしょ?」悪戯っぽくウィンクした。「でも、それも今は主役じゃないって頭が判断してるから出来るのかも。多分精神的なものだからね」
「それって、一人でステージに立つのが怖い、とか?」
「うーん、怖くはないんだよねぇ。心は準備オッケーなんだけど、体がダメ、みたいな。なんなんだろうね?ね、あお?」
「分かってたら、こんな苦労してねぇよ」
仏頂面を崩さない碧音に、翠は楽しそうに笑った。
先ほどから彼女は遠足に行く子供のように無邪気で、これではどちらがイップスに苦しんでいるのかわからない。
いちかは今日ずっと気になっていたことを尋ねた。
「どうして私、ここに呼ばれたんですか?そんなプライベートなところ、他人が見ていいものでも……」
「それ、あおも言ってた」
翠がくすくす笑う。
「でも、隠しごとは不誠実な気がしてさ。いちかちゃんはあおを連れてきてくれたのに」
電車は次の停車駅をアナウンスする。いちかたちの目的の駅だ。
「まぁでも、今日で治るかもしれないけどね」翠が車内液晶を眺めながら言った。
「本当ですか⁉」
「すごい先生らしいよ。何人も復活させたって。代わりに、あおのバイト代数ヶ月分飛んじゃったけど」
「え、これ碧音さんがお金出してるんですか?」
「うん。ずっとね」
翠が少し切なそうに微笑んで言う。
いちかは窓際に立つ碧音に目をやった。
彼はじっと車窓に流れる景色を見つめたまま動かなかった。
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