第37話 一大事
「ようこそ、セルリアンジャズオーケストラへ!」
この一週間、この翠の言葉を何度聞いたことか。
ドラマー不在にさすがの危機感を抱いた部員たちは、力の限りエキストラ候補を呼んできた。
頑張れば出てくるものだと感心していたが、内実はほとんど騙して連れてこられた人や、既にイブの予定が入っている人ばかりで、結局参加可能な人間は一人も現れなかった。
いちかは友達がいないことを口実に、勧誘活動を見て見ぬ振りし続けていたが、候補者が部室を去っていくたびに、ジリジリ追い詰められるような感覚を覚えていた。
言わねばならないのだろうか……しかし、できれば言いたくない……
そんな切迫した日々の中で、芳樹が候補者を一人連れてきたことで、部内はちょっとした騒ぎになった。
「パンくんが⁉」
翠が驚愕して入口ドアを開けると、確かにそこには芳樹と、見知らぬ男子大学生が立っていた。
「にゅ、入学する前に少しだけ組んでたバンドの人で……他大なんだけど、ダメ元で聞いたら、来るって……」
「しゃーっす!」
芳樹が連れてきた男は、典型的なチャラい男子大学生という外見だった。
スキニーなパンツを履き、髪はマッシュ。若い男が我が世の春を正しく謳歌しているという印象。
誰もがどこかズレているセルリアン男性陣にはいないタイプだ。
「コミュ障がコミュ強を連れてきたに……」広大が大きく目を見開いている。
「ありがとう、来てくれて!じゃあ、まずはクリスマスイブの予定を教えて――」
翠が誤解を生みそうなことを聞き始めたとき、唐突に彼が、
「おぉ、マジホンモンじゃーん」
と遮った。
彼の目線は翠にある。
「えっと、何か……?」翠が聞く。
「門沢翠っすよね?昔テレビで見たんだよ。俺、芸能人初めて会ったわ!」
いちかは二人を交互に見比べた。
翠の笑顔が固まっている。
芸能人……?
「芸能人ではないんだけどな……」
「は?芸能人っしょ、テレビ出てたんだから」
「いやいや……」
彼は翠の否定などお構いなしに話し続けた。
「この前、偶然まとめ記事見てさぁ。門沢翠!懐っ!と思って読んでたら、写真にこいつ映ってんの」肩を掴まれた芳樹のふわふわした髪が横に揺れる。「だから、はぁ?と思ってチャットしたらドラム足りねぇって言うから、運命じゃね?ってなって。ってか、雰囲気変わったっすね。どうしてテレビ辞めちゃったんすか?」
彼が口を閉じると、静寂だけが残った。
「えーっと、そういう契約だったからかな」翠は苦笑いを浮かべて、ドラムの席を手で示した。「とりあえず中にどうぞ」
「お邪魔しまーっす」
招かれるまま部室に足を踏み入れた彼の前に、立ち塞がった者がいた。
碧音だった。
彼をサングラスの下から睨み、威嚇している。
「……何?」ドラマー候補の男は、眉根を寄せる。
「帰れよ。てめぇはいらねぇ」碧音が冷たく言い放った。
「あぁ?」彼は不快感を隠さなかった。「いきなり失礼だろ。つか、お前誰だよ」
「帰れ」
碧音はそれから一言も発さず、石のように動かない。
しばらく二人はメンチを切り続けていた。
が、痺れを切らした男が舌打ちをし、
「……そのサングラス、何?似合ってねぇよ」
と捨て台詞を吐き、部室を去っていった。
芳樹が「ご……ごめんなさい……!」と部室に叫んで、その後を追っていき、扉が閉まると、緊張の糸が切れたように部員たちの口からため息が漏れた。
「何だったんだ、あいつ……」広大が頭を掻きながらベースの元へ戻っていく。
「でもイケメンだったよねー。残念」璃子がその後をつきながら言った。
「イケメンならなんでもいいんかお前は?」
「よくないけど半減はするでしょ」
それぞれが自分の元いた場所へと帰っていく中、いちかだけが呆然と立ち尽くしていた。
頭には疑問が駆け巡っている。
芸能人……?
まとめサイト……?
「碧音」
冷たい怒気を孕んだ声色が部室に響き、全員の動きが固まった。
「どうして追い返したの。せっかく来てくれたのに」
振り返ると、翠が全身から暗い気を放ち、碧音をじっと睨んでいる。
いちかは目を丸くした。
いつもニコニコと温厚な翠の怒る姿など初めて見た。静かに怒るタイプのようだ。
相対した碧音は、鼻で笑った。
「あんなの入れてうまくいくわけねぇ。自分を餌にすんじゃねぇっていつも言ってんだろ」
「あれくらい大したことじゃない」
「世間知らずが一丁前に何言ってんだ」
翠はじっと睨んだまま、まだ物言いたげだったが、対する碧音は平気な顔で、
「タバコ休憩」
と一言呟き、部室を出ていった。
当事者以外は、時が止まったかのようだった。
「……ごめんね!さぁ、練習再開しよう!」
面を変えたように笑顔に戻った翠が、パンッと手を叩く。
それは魔法の溶ける合図で、部員たちは何事もなかったかのように、楽器の準備にいそしみ始めた。
困惑の渦中から抜け出せないのは、いちかだけだった。
テナーを組み立てている雄也の隣に座り込み、小声で尋ねた。
「一体何が起こったの?」
「……いちかって、びっくりするくらい無垢だよね」雄也は真顔で感嘆する。
いちかの不満そうな顔を見て「いや良いこと良いこと」と役に立たないフォローを入れてから、雄也はコソッと耳打ちした。
「翠の名前をネットで調べればわかるよ」
「何か事件とか……?」
すると、雄也はカラカラと明るく笑った。
「そんなことじゃないよ。ちょっと話題になっただけ。……本人としては一大事だろうけどね。じゃ、お先に」
雄也はテナーサックスをストラップに繋ぐと、いちかを置いてサッサと逃げてしまった。
いちかはしゃがみ込んだまま、ピアノに向き合う翠を盗み見た。
いつもと変わらない姿勢正しい背中は、何も教えてはくれなかった。
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