第33話 ボロのトランペット


 しかし、練習する間はなかった。


 翌日、碧音から呼び出され、部室につくや、彼から楽譜を突き渡されたからだ。


 それは、アドリブが出来ないいちかのために用意されたソロ用の譜面――通称『書き譜』――だった。


 一晩で作られたものだろうが、五線譜の上は音符で真っ黒。

 しかも、それが全部で三枚……


「あの、あと一週間ちょっとしかないんですけど……」いちかが恐る恐る尋ねる。

「だから?早く準備しろ」

 そう言うと、碧音がパラパラとトランペットを鳴らしてアップし始めた。

 こちらを見向きもしない。


「日向子には優しいのに……」いちかはボソッと独りごちた。

「あぁ?なんか言ったか?」

「いえ……」

「……あいつは初心者なんだから当たり前だ。お前ならこれくらい吹けんだろ」


 驚きに目を瞠る。


 え、何、今の……

 一応、認めてもらえてる……?


 チョロいいちかは、やる気になってしまった。


 その日の練習は、二時間ノンストップだった。

 初見の楽譜を吹き、ダメ出しを喰らい、碧音の模範演奏を聞き漏らすまいと耳を澄ます。


 休憩と言われたときには、いちかの頭と体はヘロヘロだった。


「まぁ、少しはマシになったな。本番までに暗譜しとけよ。楽譜ガン見なんてクソダセェの、客に見せらんねぇから」碧音は手近な椅子にドカッと座って言った。

「うす……」

 いちかも自席に座りながら思い直す。


 やっぱりもう少し優しくてもいいのでは……


 碧音はトランペットについた皮脂をクロスで拭いていた。

 いちかも長いこと楽器をやってきたが、これほど頻繁に手入れする人に会ったのは初めてだった。


「そのトランペット、いつから使ってるんですか?結構ボロですけど」

「言い方考えろよお前」碧音は呆れたように息を吐くと、天井を仰いだ。「……もう十年以上だな」


「じゃあ、最初の楽器?」

「あぁ……最初だっつってんのに、翠が勝手に親と選んできたんだけどな。マジふざけんなよって感じだったわ。姉って生き物はなんでこう自分勝手なんだ、弟を道具としか思ってないのか……譜面作れだの教えろだの……」

 勝手に怒り出し、ぶつくさと愚痴をこぼし始めるのを聞きながら、いちかは訝しく思った。


 碧音のレベルは、相当練習を重ねないと行き着けない境地だ。

 そんな練習を何年もすれば、楽器はピストンの摩耗や金属疲労で少しずつ扱いにくくなっているはず。


「でもずっと使ってるんですね」

「まぁ、相棒だからな」

 ニヤと笑った碧音に、いちかは悔しくも少し感動してしまった。

 サックスを埃まみれにしていた過去の自分が恥ずかしい……


「それに、いい子だったしな、俺は。気に入らなくても妥協できたんだ、大人だから」

 そう言って、碧音はいちかの驚愕した顔に気づいて憤慨した。


「んだよその顔。いい子だろうがよ、人の選んだ楽器で我慢したんだから」

「はい。だから、なんでこうなったのか……あっ」

 滑った口を抑えるが、後の祭り。


「……休憩終わりだ。さっさと立て」

 碧音が、コード進行だけの音源を再びスピーカーから流し始めた。


「早くないですか⁉まだ十分も経ってないんですけど……」

「充分だろ」碧音はにべもなく突き放す。


 絶対当てつけだと思いつつ、いちかは急いで立ち上がっていた。


 中高の部活で染み付いた、体が勝手にスパルタについていってしまう習性は、どうやら未だに取れないようだった。





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