第32話 依頼コンボ
歓迎会から数日後、依頼コンボの参加者全員が部室に呼ばれた。
メンバーはリズムセクションの翠、広大、夏雄、芳樹の他、フロントマンとして、碧音、夜鶴、いちかの三人。
同級生は芳樹くらいで、あとは全員先輩だ。
今年のセルリアンはC年が半数なので、珍しく先輩に囲まれているこの状況がいちかには少し贅沢に思えた。
一番手として、碧音がリズム隊と段取りの確認をしている間、いちかは隣で犬のように大欠伸している夜鶴をチラチラと盗み見た。
いつも気だるげで全身真っ黒のカラス族の先輩。
独特の雰囲気で近寄りがたく、いちかから話しかけたことはなかったが、質問するなら暇そうな彼女しかいなかった。
「あの、私コンボの曲って、どういう仕組みなのか全然知らなくて。一から教えてもらってもいいですか……?」
「んあー?」夜鶴は三白眼でいちかをぼぉーっと眺めてから答えた。「ええよ。まず曲って、コード進行とメロディーから出来てるんやけどーって言って分かる?」
「一応吹部で教わりました。コードは和音のことで、それが移り変わってくのがコード進行……」
「うん。ジャズの楽譜ってな、こんなんなんよ。えーとスタンダードブックはどこやったっけ……あったあった」
夜鶴がハコメンの下から雑誌大の黒くて厚みのある本を取り、適当なページを開いて手渡した。
そこには、一ページに収まる程度の譜面が載っていた。普通の曲より圧倒的に小節数が少なく、普通に吹けば一分経たずに終わりそうだ。
「短い……でも、ジャズの曲ってもっと長いイメージです」
「これは一回吹いたら終わりやなくて、アドリブのときはリズム隊がこのコード進行だけをずぅっと繰り返すんよ」夜鶴が紫のネイルをした人差し指を五線譜の上に滑らせる。「最後まで行ったらまた始めからって何周も回すから、長くなる」
「へぇ……じゃあこのメロディーはなんですか?」
いちかが譜面に書かれた音符を指差す。
「これがテーマって言うて、演奏の初めと終わりにみんなで吹くお決まりのフレーズみたいなもんやね。初めにテーマ一回、アドリブ何周も、終わりにテーマ一回、が基本の形って思っとったらええよ」
「はぁ。ジャズってループものだったんですね……」
いちかが神妙な顔で呟くと、夜鶴が軽く笑って言った。
「しかも最終回は第一話と同じとこに戻ってくるしな。熱い展開や」
ちょうどドラムの周りでは、碧音たちが通しで演奏を合わせていた。
確かに、碧音がトランペットを吹く裏で、リズム隊は同じ展開を律儀に繰り返している。
気づいてみればなんてことない。
ずっと『ジャズはわからないもの』という先入観が邪魔していたようだった。
そうなると、いちかは当然、もう一つの長年の疑問の答えも知りたくなった。
「アドリブって、どうやって吹いてるんですか?感性?ひらめき?」
「んあー、一応ルールがあるんよ。このコードならこのスケールが使えるーとか、この音はむっちゃ外れて聞こえるーとか」
「それが分かれば私でもできる、ってことですか?」
「分かって吹けたら、プロっちゅーか、音大の先生やね。ツーファイブワンって言われて、いっちーどう思う?」
「……変なカウントダウン」
「うん、理論の話は忘れてええわ。まずは耳コピして技を増やすとこから」
「了解です」
「いちかちゃーん」
声がして振り向くと、翠が手招きしていた。
ピアノの元まで駆け寄ると、翠はいちかの手にあるスタンダードブックに目を止めた。
「あ、もう黒本持ってる。これ夜鶴の?」翠が聞く。
「ちゃうで、部室の」
「それじゃ、これそのまま貸すからさ。ここからやりたい曲選んできてよ。今日のいちかちゃんはそれでおしまい。ドロンしても結構」
翠が本を指差して言った。
「あ、はい」
ドロンて……
・・・
その夜、翠から託された異文化の本を引っ提げて帰ったいちかは、持っているCDのなかで、本に掲載されていたタイトルを片っ端から聞いてみた。
今までは聞いても聞いても理解できなかった曲たちも、ルールを知った今ではその全貌をハッキリ掴むことができる。
この曲は全体で何小節で、コード進行はどう付けられていて、テーマはどこまでで……
まるで楽譜とルールは、ジャズの世界の案内人のようだった。
高校から始まり、ようやくその入り口に立った気分だ。
やってみたい曲はたくさんあった。が、練習期間を考えれば、難しいものは選べない。
取捨選択していくと、ひとつ丁度良さそうなものが見つかった。
"On Green Dolphin Street"
奇妙で愛らしいタイトルのその曲は、メロディも伸びやかで美しく、いちかにも聴きやすかった。
そして何より、テーマの音数が少なくて、簡単そうだ……
いちかは譜面を写真を撮って、翠に送った。
『これってどうですか……?』
翠から迅速に既読がつき、返事が飛んできた。
『バッチグー!ソロはあおに準備させるから、テーマだけ練習しておいて!』
バッチグーて。
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