第28話 一年ぶりの本番
学祭二日目。
屋台は昨日以上の苛烈を極めたが、奮闘の結果、在庫は全て売り切れ、十四時には店を閉めることができた。
本番まであと二時間。
シフトに入っていた部員たちは、第三部室棟に駆け戻った。
部室にはエキストラも集合し、フルバンド一個分のメンバーで満ちていた。
それでも二十人にも満たないのだが、いちかにとっては初めて訪れたとき以来の、圧巻の光景だ。
やっと……やっとビッグバンドで本番ができる……
それだけで至上の喜びだった。
この日のためにレンタルしたバンに楽器や立て看板などを載せ、林の中の一軒屋にすべて運び込む。
会場設営の仕上げ、リズム隊の音響チェックが終われば、後は客を待つだけ。
学内総出のお祭り騒ぎが一軒家からは一切聞こえないことだけが、大きな不安だった。
「どのくらい人来てくれるんだろ」いちかが天井を見て独り言を言う。
「全然来ねぇかもな」
隣を見ると、エキストラの鬼木怜がビーフジャーキーを噛みちぎりながら立っていた。
翠の知り合いで、バリトンサックスを引き受けてくれる常連の他大生。
今年のヤマノにも参加していた、楽器の上手な人だった。
「普通に歩いてたら見つからねぇもん。アタシもさっき迷った」
放言しながら、豪快に笑う。
背が高く、野生感があり、パチンコと酒と競馬が好き。
芳樹は初対面からビビり散らかしていたし、いちかの第一印象も、深夜のドンキホーテか、アマゾネスの戦士だ。本人には言ってない。
ただ、話してみれば竹を割ったようで、意外と接しやすくもあった。
「視界に入らねぇと、覗いてみっかってなんねぇもんな。こんな隠れた場所じゃ、有名でもねぇ限り誰も来ねぇよ」
「ですよね……」
「ま、緊張しなくて済むから、いいんじゃねぇの」
怜がカッカッと笑う。
「開場しまーす!」
受付担当のゆうゆの甲高い声が飛ぶ。
同時に、雑多な音が混じり始めた。
複数の足音、紙を捲る音、多数の雑談。
部員たちは狐につままれたように入口を見る。
外から一軒家の中へ、人が流れ込んできていた。
「……何?お前らいつ有名になったん?」怜が入り口の様子に目を離さず言う。
「悪い意味ではずっと有名だったんですけど……」いちかも困惑して答える。
続々と入ってきた客に、セルリアンの面々は慌てて席に着いた。
――が、開場から数分経っても途切れない動員に、今度は慌てて立ち上がって会場中から椅子をかき集めてくることになった。
客層も不可解だった。
半数は大学生以下に見えたが、残りは学生時代などとうの昔であろう人々ばかり。
会場の一番後ろには――腕章をつけているので、広報担当か何かだろう――カメラを構えた学生も立っていた。
屋台やチャリティ演奏での宣伝が功を奏したのだろうか……
なんにせよ、かねて予想していた注目度とは様変わりしてしまった。
ふと、いちかは自分の手の震えに気づいた。
じっとりと汗が出て、指先が冷たい。
思えば、一年以上に渡って逃げ回ってきた『本番』である。
緊張をほぐすように、手のひらを揉み、息を吐く。
練習はした。大丈夫……
扉の閉じる音に目を上げると、受付作業を終えたユラとゆうゆが、頭上に丸印を作って小走りでこちらに向かってきていた。
ずっと壁に寄りかかり、不機嫌そうに会場を眺めていた碧音も、リードトランペットの位置に戻ってくる。
満員の客席の前に、フルバンドが揃う。
いよいよだ……
・・・
演奏開始は、ちょうど西日が差し始めた頃だった。
「ワン、トゥー……ワントゥ、ワントゥスリッ!」
夏雄のカウントから、ハイテンポな音楽が会場中に弾け飛んだ。テレビでも流れる有名な曲だ。
とっつきやすさを第一に考えたセットリスト。
今日の客入りからしても正解だったようで、反応が良い。
雄也がソロから帰るとき、雄也はいちかと目を合わせ、ウィンクしてみせた。
サックスを咥えながら、わずかに笑ってしまう。
おかげさまで、楽しいよ……
曲の勢いに乗って、セルリアンの演奏はぐんぐん上昇していき、気づけば最後の曲を迎えていた。
璃子のMCが観衆に伝える。
「最後なので、先にソリストの紹介をします。トランペット、門沢碧音」
ソロ用マイクの前で、碧音が客席に頭を下げる。バンドでお揃いのTシャツなので威圧感は減っていたが、いつものサングラス姿だ。
「それではお聞きください。I Remember Clifford」
ドラムがブラシで刻む緩いリズムの上で、バンドがイントロを演奏する。
穏やかで、切ない曲調。
その上に、碧音が年季の入った自分のトランペットに息を吹き込み始めた。
――その瞬間、空気が一変するのがわかった。
まるでここにいる全員が、息を呑んだかのようだ。
ガラス玉のように繊細で、透明な輝きを放つ演奏が、窓から差す夕暮れの残光とともに、会場中を照らしている。
いちかもハーモニーの一部として、彼の演奏を邪魔しないよう注意深く吹きながら、彼の背中を驚きの目で見つめた。
やっぱりこの人、すごい……
碧音のソロは、最後の一音まで、客席を惹きつけてやまなかった。
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