第8話 大学


 東京駅から電車で一時間。さらにバスで山を登ること二十分。

 桜の名所でもあるその場所は、春頃には一面見事な桃色に染まっていた。

 この四月からいちかの母校となった東央大学が誇る自慢の景色だ。


 県予選後、第一志望が絶望的になるほどやる気を無くしたいちかが、急遽滑り止めとして選んだのがこの私大だった。

 調べるまで名前も知らなかった場所だったが、いちかはこの大学への入学を楽観的に受け止めていた。


 それほど偏差値の低い場所でもないし、距離があるが都心へのアクセスも悪くない。

 そしてなにより、吹奏楽部の誰の志望校でもない大学への進学は、しがらみを清算する良い機会に思えた。


 ここでなら罪悪感を思い出さなくて済む。


 山の頂上から街を見下ろすように君臨する東央大学は、実家から通うには遠すぎたので、必然的に一人暮らしをすることになった。


 最初は家事に苦戦したものの、すぐに慣れた。

 相変わらず物も少ないし、省エネ思考。当初は挑戦していた料理も諦め、今やコンビニが冷蔵庫代わりだ。


 他の新入生たちは、合コン、麻雀、飲み会など、爛れた誘惑に飲まれていったが、いちかはあえて友達を作らなかったために、波風の立たない大学生活が送れていた。

 つまりは、自発的ぼっちというわけだ。


 ただひとつ誤算だったのは……白上美雪が同期で入学していたことだった。


 入学式で目撃したときの光景をいちかはまざまざと思い出せる。

 彼女の純白の肌は、ダークスーツに浮き立ってまるで発光しているかのようだった。


 美雪も、いちかほどではないが、学校も抜けがちになり動向が掴みにくい生徒の一人だった。

 しかし、まさか同じ大学とは……


 不幸中の幸いか、彼女はいちかと同じ経済学部ではなく、文学部だった。

 彼女の美貌は同期の口の端にすぐ上ったので、いちかの耳にも自然に入った。

 文学部棟には極力近づかないと、いちかは決意した。

 あとはうっかりの遭遇にだけ気をつければ、広いキャンパスだ、そう出くわすこともないだろう。そう期待している……


・・・

 

 何も見ず。誰の目にもつかず。


 ただ大学に行っては帰るだけの生活は溶けるように過ぎ去っていき、あっという間に夏休みになっていた。


 サークルに入る気もなく、友達もいないいちかは、ただ、ゼミの夏期講習を受けるため、大学に通い続けていた。

 他にやることもないので、苦でさえない。

 

 問題は、八月に入ってすぐ、陽炎の昇るほど暑く風のない日に端を発した。


「待って、いちか!」


 いちかが普段通り、講習から真っ直ぐ自宅へ帰ろうと、学部棟のロビーに降りたときだった。

 この大学で、いちかを呼び捨てにできる人間は、美雪の他にひとりしかいない。

 振り返ると、同じゼミ生の早乙女雄也が、階段をバタバタと駆け降りてくるところだった。


「帰るの早いよぉ〜」高く甘い声で彼は言う。「終わって振り返ったら、もういないんだもん。びっくりしたよ」


 雄也は、同期生から『女子の中の女子』と称される男だった。

 女系家族で育ったせいか、柔らかい雰囲気で、見た目も身長も声も幼げ。女子学生たちにはマスコット的な人気があった。

 腕相撲ならいちかが勝つだろうが、女子力勝負なら負ける自信しかない。そんな同期だ。


「ごめん。で、なに」いちかがつっけんどんに尋ねる。

「いちかさ、ジャズ興味ない?」

「ジャズ?」


 いちかはその単語に顔を顰めた。夏の黒歴史が芋づる式に発掘されてしまう。


「僕ね、ビッグバンドの部活入ってるんだけど、三日後にコンテスト出るの!だから、来てくれないかなぁって」

「コンテスト」


 なぜこの人間は、繊細なワードばかりついてくるのか。

 苦い顔をするいちかを、雄也は不安そうに覗き込んだ。


「ダメ?興味なし?」

「いやその前に、なんで私……?」いちかは困惑して聞いた。「私たち、そんな喋ったことないでしょ」

「だって、吹奏楽部だったんだよね?」

「え、なんで……」

「この前、白上さんって人と仲良くなったんだよ。同じ高校だったんでしょ?」


 思わずいちかは呻いてしまった。

 避けに避けて、四ヶ月も無事でいたのに、まさかこんな繋がり方をするなんて。呪われているのか?


 雄也が鞄から取り出したペットボトル――アセロラドリンクだった――を傾けながら、何気なく言った。


「楽器できるなら絶対楽しいって。特に吹奏楽部なんて、色んな意味でひっくり返るよ。ね?しかもタダ!お願い」雄也は顔の前で両手を合わせた。

「タダ?……あ、小さい会なの」

「ううん。でっかいけど、僕の奢りってこと」

 言うが早いか、雄也はいちかの手に紙のチケットケースを押し付けた。


「いやちょっ……まだ決めてないんだけど」

「だって他の人は夏休みでもういないんだもん」

「いや困るって」

 チケットを返そうにも、彼は手を背中に回して、フフン、としてやったりな顔を見せる。

 もう返品を受け付ける気はないようだ。


「貰っても、行かないと思うけど」

「いいよ、あげたものだから。好きにして」


 彼は、チケットを渡すというミッションを達成すると、他の女子グループに呼ばれ、あっという間に去っていった。人気者である。


 いちかはため息をついて、手に収まるチケットを眺めた。

 押し付けられたせいで紙のケースはひしゃげていて、中のチケットが顔を覗かせている。

 YAMANO BIG BAND JAZZ CONTEST。

 それがコンテストの名前のようだった。


・・・


 好きにして、と言う割には、彼は情報と熱に満ちた長文チャットを大量に送ってきた。


 いちかは知っている。

 これは初心者を沼にひきづり込もうとする、オタクの動きだ。

 実際彼は、どうやらこのコンテストの熱狂的ファンであるようだった。


『大学生ビッグバンドの甲子園なんだよ!全国から上手い人たちが集まって演奏するの!すごくカッコイイんだから!』


『ビッグバンドは、簡単に言えば大人数でやるジャズで(物によってはラージアンサンブルっても言うんだけど)とにかく十数人くらいでやる音楽です。楽器の編成はね』


『とにかく来たらわかるから。特に元吹部なら絶対驚くから。絶対来て?ね?』


 チャットは終始こんな感じだ。


 もう一度チケットを眺めた。

 音楽そのものが、捨てても帰ってくる呪いの人形のようだった。

 しかも今度は、美雪の名前すら引っ提げていやがる。


「もう関わりたくないんだけどな……」

 いちかの呟きを聞く者は、自室には誰もいなかった。





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