第7話 夏の終わり
いちかは再びコンクールの椅子に座っていた。
客席は墨汁で塗りつぶしたように真っ黒。
指揮台を見ると、女児に人気のプリンセスのドレスに身を包んだコーチが間髪入れずに指揮を振りだした。
慌てて楽器を構えようとするが、手元に楽器はない。修理に出してしまったんだった。
指揮に合わせて他の部員たちが吹き始めた音楽はノイズだらけで、いちかは絶句してしまった。
また、彼女に怒られてしまう……
いちかは、ドラムの席に座っているはずの美雪を恐る恐る振り返った。
が、そこにいた美雪は身も世もなく泣いていた。
いつの間にか周囲は人気のない階段になっていて、踊り場で号泣する彼女をいちかは見上げていた。
遠くからくぐもった声が聞こえてくる。いちかを呼んでいる。萌絵だ。手を叩こうとして……
――パンッ!
いちかは驚いて目を覚ました。
いちかがいたのは、ホールではなく、自室のベットの上だった。
真夏の日差しで、部屋の空気は蒸し暑い。
「いっちゃーん?いつまで寝てるのぉー?」階下から母が叫んでいた。「お母さんたち、買い物行ってくるからねー」
いちかは仰向けになったまま、返事もせずそれを聞いた。
「おねえ、最近ずっと寝てんね」弟のくぐもった声も微かに聞こえる。
「やっぱりショックだったのかしらねぇ」
母の呟きと共に、扉が閉まる音がした。
いちかはむくりと体を起こし、壁掛け時計に視線をやった。
針は十三時を指している。
夢は何も思い出せず、ただ、侘しさが胸に残っているだけだった。
「……あっつ」
べたついたTシャツの首元をはためかせながら、いちかは一階へと降りていった。
・・・
電気が消された居間は薄暗く、全員出かけたのか、家のどこからも物音ひとつしない。
いちかは冷蔵庫を開け、『おねえの』と書いてある牛乳パックとコップを手に、テレビの前に座って電源をつけた。
すると、スピーカーから思いがけない歓声が上がった。
「これは大きい!入るか!」
画面に映っているのは野外球場。
ライト方向に大きく上がった白球が満員のスタンド席の上を飛ぶ。
その軌道は惜しくもポールの横を通ってファールとなったが、客席のボルテージが急上昇したのは明らかだった。
「甲子園か……」
いちかは野球に詳しくはなかったが、なんとなく目が惹かれて、その様子を眺めた。
ゲームは両校同点で九回裏を迎えており、二死二塁。先程のファールでフルカウント。
カメラは、声の限りにコールする応援団や吹奏楽部、祈るようにグラウンドを見つめる女子高生と写していき、バッターボックスの四番打者に帰ってきた。
「田上くんは幼稚園の頃から甲子園に出ることを夢見ていました。キャプテンによるサヨナラなるか」
アナウンサーの淡々とした声が語る。
ガタイがよく、落ち着いた表情を崩さない彼が自分と同い年とは、いちかには到底信じられなかった。
こんな大舞台で、一発逆転を期される最終回で、国中の注目を浴びているというのに、それを超越した場所に彼は立っているようだった。
「美雪みたい……」
映像は投手に切り替わる。
炎天下に何度も汗を拭い、かなり辛そうだった。
「さぁ、六投目」
投手の投げたボールは、ストライクゾーンから再び快音を招いた。
まるで球場が跳ねたかのようなどよめき。
美しい弧を描きながら、打球はレフトスタンド側へ飛んでいった。
「あー」
いちかはリモコンを手に取る。
劇的なサヨナラホームラン。勝負は決まったのだ。ファンの間では伝説になりそうだが、いちかに興味はない。
決着がついたらチャンネルを変えよう。
そう思ったが――ボールはなかなか落ちてこなかった。
「高く上がったボールは……しかし風で煽られたか?レフト追っている!」
アナウンサーの叫びに呼応するかのように、声援が再び盛り上がった。
外野手が目を疑うほどの速さで走っているのに皆が気づいたのだ。
スポーツ刈りの丸い頭が弾丸のように白球の軌道へ食らいついていく。
「え、無理でしょ」
呆然と見ていたいちかの前で、前のめりに駆けていった彼は、左端ギリギリに落ちてきたボールに飛びつき、そのままの勢いで球場の壁にぶつかる。
が、彼は自分の体など構わず、真っ先にボールは落ちていないことを審判に見せた。
「アウト!まだ終わらない!終わらせない!延長です!」
大歓声の中、外野手が仲間に叩かれながらベンチに下がっていく。
攻撃側でも、帰ってくる四番にチームは何かを笑顔で叫んでいた。
いちかは、自分でも理由が分からず、ただ、テレビの前に釘付けになってしまった。
が、すぐに視界がぼやけ始め、手のひらにぼたぼたと落ちる水滴によって、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
「あはは……なんで泣いてるんだ……」
拭っても拭っても、涙は止まらず、嗚咽さえ漏れてくる。
それは、悔し涙だった。
「バカだなぁ……なんで負けても平気だったのか、やっとわかった……」
あのとき感じなかった後悔が今更込み上げてきて、抑えようがなかった。
「走れたのに……最初から……追おうともしなかったからだ……」
テレビからは、再び応援歌が聞こえ始める。
彼らの夏はまだ終わらない。
その事実に、いちかは膝を強く抱えて、泣き続けた。
「なんで私……あんな風に……全力で走れなかったのかなぁ……」
こうして、いちかの最後の夏は終わった。
画面の先の球児たちとは対照的な、たった独りの平凡で悲しい終わりだった。
― 第一章 高校編 了 —
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