第2部 最終話

渡辺の苦しみはとどまる事を知らなかった。

細かいニュアンスの音が聞き取れなかったのだ。

「これじゃ駄目じゃないか」

「雄二、もう、後戻りできないのよ」

「いいから、ほっといてくれ」

「雄二……」


バーン ガーン


ピアノを打ち鳴らす音が悲しく聞える。


そして、ギリアホールでのデビューリサイタルを迎えたのだ。

しかし、雄二は自信喪失に陥っていた。

「雄二、頑張るのよ。雄二はセンスがあるのだから、感性で弾くのよ」

「ああ、わかった……」


リサイタルのプログラムは第1部と第2部にわかれていた。

舞台に渡辺は登場した。ホールの聴衆は期待を胸に膨らませ拍手の嵐が鳴りやまなかった。

それは、渡辺にとっては残酷な事であった。


うおおお、パチパチパチパチ


そして、静かに演奏が始まったのだ。


やっぱり、弾けないじゃないか……

音が聞き取れない。集中するんだ。


「おや、彼の演奏は雑じゃないか」

「そうだな。あれでよく、ギリシャ国際コンクールに優勝できたな」

「そうだな」


聴衆はざわめきはじめた。渡辺はそのざわめきだけが耳に焼き付き演奏にならなかったのである。


ひけないじゃないか、馬鹿野郎


「ああ、駄目だ、駄目だ、話にならない。一部が終わったら帰ろう」

「そうだな」


そして、第一部が終了した。聴衆は誰もいなくなった。

その時であった。


「お兄ちゃん。頑張って」

「先生、頑張って」

「渡辺さん、頑張ってください」


理恵子、琴音ちゃん、水江さん、どうして……


渡辺は我が目を疑った。そこにはまぎれもなく理恵子と琴音に水江がいたのだ。


どうして、理恵子がいるんだ……


渡辺は演奏会より、理恵子が生きていたのに驚きを隠せなかった。

そこに、ピアノの調律師の田中が現れた。


「実は……渡辺さんに申し訳ない事をしました」

「どうして、理恵子が生きているのですか?」

「それはですね。今までのいきさつをおはなしします」

「お願いします」

「理恵子さんは確かに私が乗っていた馬車にはねられました。しかし、幸いに軽傷ですんだのです。私はすぐさま、病院に連れて行って手当をしてもらいました。先ほども申し上げたとおり、軽傷で済んだのですが、実は頭を打ってしまって、そのせいか記憶をなくしてしまったのです。原因はわかりませんでした……」

「どうして?私が病院へ行った時は少女が出血で亡くなったと聞きましたが、なぜですか?」

「亡くなったのは私の娘でした。実は私の娘は意図しない相手と結婚することになっており、それを悲観して自殺したのです。渡辺さんが聞いたのは私の娘のことでしょう」

「そんな、でも、どうして、理恵子を私の家に帰してくれなかったのですか?」

「それは、先ほども申し上げましたとおり、記憶をなくして、どこに住んでいるかすら、わからなかった事と亡くなった娘と理恵子さんがよく似ていたので、私の娘として育てました。名前すら憶えていなかったので、百合子と名付けました。そして、琴音さんと仲良くなったのです」

「でも、どうして、今は記憶があるのですか?」

「それは、奇跡でした。今日は調律のためにアメリカに来ていたのですが、それを聞いた琴音さんが、どうしても行きたいというので、理恵子も一緒につれてきたのです。そこで、渡辺さんの演奏を聞いて記憶が蘇ったようです」

「そうだったのですね。理恵子……会いたかったよ」

「お兄ちゃん」

「先生、おめでとう。花束を受け取ってください。そして、先生が元気であるように折り鶴を持ってきました」

「ありがとう、琴音ちゃん」

「水江さん……」

「渡辺さん、会いたかったです、でも……」

「雄二、もういいわ」

「どうした?ミレーゼ?」

「私がもう身を引くわ。雄二が愛する人は水江さんだという事がつくづくわかったわ。もう別れましょう」

「ミレーゼ……」

「いいの、ありがとう、雄二。愛しているわ。日本に帰って水江さんと幸せになって。あの屋敷は雄二が自由に使ってちょうだい。日本でピアノ教室でもしてね」

「ミレーゼ……」

「いいの、雄二といて、幸せだったわ。それじゃ‥…水江さん、雄二を支えてあげてね」

「ミレーゼさん……」


渡辺はギリシャの地を離れ日本に住むことになったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕日に写る君 虹のゆきに咲く @kakukamisamaniinori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ