第6話 翼

琴音の家の近くに小川があった。

琴音はいい事を思いついたのだった。それは渡辺を想って作った折り鶴を小川に流すことだった。流せば海にたどり着いて渡辺の元へ祈りが届くと思ったようだ。


「理恵子、いい事を思いついたの一緒に来てくれる?」

「うん」

「ここの小川からね、折り鶴を流すの。そうしたらね、私の好きな先生が怪我をしなくてすむのよ」

「うん、うん」

「百合子だけに教えるね、実はね……」

「うん」


健気な渡辺の元へ届くのだろうか?


渡辺といえば、アメリカデビューを控えていた。ギリシャ国際コンクールで優勝者は世界各国でのリサイタルが用意されていたのだ。

その最初は世界でも権威のある、アメリカのギリアホールであった。

日本人で、初めての演奏であったこともあり、世界的にも注目を浴びていた。

それだけに、渡辺のプレッシャーは大きかった。

渡辺は果たして自らが演奏できるか悩んでいたのだ。


「雄二、何をそんなに思いつめているの?」

「ああ、僕がギリアホールで演奏できるだろうか?」

「何を弱気な事を言っているの」

「どうせ、コンクールで優勝したのはマエストロが審査員だったからじゃないか。所詮、僕の力じゃない」

「そんな事はないわよ。もっと自分に自信をもって」

「わかった」


丁度その頃だった。僕の身に異変が感じられたのは。

それはミレーゼとのレッスンの時であった。


「雄二、そこのフレーズはもっとソフトに弾かないと駄目よ」

「ミレーゼ、ここは柔らかく弾いているつもりだよ」

「そんな事はないわ。演奏が荒いわ」


もしかして……そう僕は思った。

日常生活では不自由しないが、音楽家にとって致命的である聴力が欠けているのではと、そう思ったのだ。

理恵子もそう言う気持ちだったのだろう。

僕はその時、理恵子の本当の辛さが分かったような気がした。

そして、僕の心の弱さを感じた。

これじゃいけない、これじゃいけないと思いながらも、弾けないじゃないか。

僕はどん底に落とされたような気持ちになった。

これで、ギリアホールでどうやって弾ける。

聞こえないじゃないか、細かいニュアンスが聞き取れないじゃないか。

僕は苦しみ始めた。不思議なものでそう思うと、より弾けなくなっていった。


「雄二、最近、どうしたの?」

「いや、気にすることはないわよ」

「いえ、何かいつもの雄二と違うの」

「そうかな?」

「そうよ、演奏もなんとなくおかしいわよ」

「ミレーゼ、僕の演奏を聴いて何も感じないかな?」

「やっぱり、もしかして、聴力に異常があるんじゃない?」

「そうだよ。最近、少しだけど聞きづらくなってきたんだ」

「そんな、後1月もすれば、アメリカのギリアホールでの初演よ……」

「だからだよ」

「雄二、雄二の感性で弾くのよ、少しのニュアンスの違いなら今までの感覚で弾くのよ」

「そうだね。そうするしかないよね。もう、ギリアホールは待ってくれないからね」

「そうよ」


そして、僕の苦痛の練習が始まった。


「雄二、琴音ちゃんから手紙が来ているわよ」

「見せてくれ」

「いいわよ」


川崎先生へ


先生、お元気にしていますか?

私はお友達の百合子と仲良く元気で頑張っています。

先生も頑張っているでしょ。

先生は頑張る子が好きだって言ってたから、頑張っているの

学校じゃね、辛いこともあるのよ

先生も辛いことがあっても大丈夫よね

先生、頑張って下さいね。

あまり長くかくと、婚約者の人から怒られるからね


琴音より


「雄二、手紙の中身を読ませてもらったけど、可愛いじゃない。雄二も頑張るのよ。応援しているのは私だけじゃないわ。みんなのために頑張るのよ」

「そうだね、ミレーゼ」

「どうしたの、泣いているの?」

「いや、違うよ。気のせいだよ」


ありがとう、琴音ちゃん。明日から頑張るよ。

先生も頑張るよ。


しかし、現実はどうなのだろうか?

この時は渡辺には予測もできなかったのだ。

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