第5話 悲しみ
声をかけたのは通りすがりの老人であった。
「どうして、君は崖の上に立っているんだ。危ないじゃないか」
「それは……」
水江は今までの出来事を老人に話した。
「私は以前に娘を亡くしてしまった。それは自殺だったよ。君がそこから飛び降りたら、きっと家族が悲しむじゃないか。生きていれば、必ずいいことがある。だから生きなさい。もう二度とこのような事をするんじゃないよ」
泣き崩れる水江だった。そして、老人は水江の家まで送り届けた。
「お姉ちゃん……」
「ごめんね、琴音。私達は渡辺さんの事を忘れて頑張らないとね」
「そうよ。お姉ちゃん。川崎先生は思い出の人でいいじゃない」
「そうよね」
お互いに慰め合う二人であった。
一方で、渡辺はコンクールを迎えていた。
予選は全て通過して、本選へ向かったのだ。
渡辺には辛い過去があった。
理恵子という名の年の離れた妹がいたのである。
ある日のことだった。
「お兄ちゃん、学校でね、先生の言うことが良く聞こえない時があるの」
「それは、理恵子がつかれているからだよ。最近は風邪をよくひいていたから、そのせいじゃないかな?」
渡辺は最初はそう思っていた。
それは、渡辺がピアノの練習をしている時の事。
「お兄ちゃん、一緒にピアノを弾いていい?」
「ああ、いいよ。何を弾くかな?」
「学校で習った曲を弾きたいの」
「じゃあ、弾いてごらん」
「うん」
「どうして、理恵子はそんなに大きな音で弾くのかな?もっと優しく弾いた方がいいよ」
「お兄ちゃん、このピアノは古くなったのかな?」
「どうして、そんな事をいうのかな?」
「だって、音が小さいでしょ。壊れたの?」
「理恵子……」
この時にやっと渡辺は理恵子が難聴であるという事に気づいたのだった。
理恵子のことを思うと不憫でならなかった。家族とも相談して、翌日に隣町の耳鼻科の病院へ連れていったのだった。
病院の待合室で待っていた時のことだった。
「川崎さん、診察が始まりますから中にお入りください」
理恵子はその言葉が全く聞こえず反応できなかった。渡辺が診察室に連れて行ったのだ。
「お嬢ちゃんが理恵子さんかね?」
理恵子はほとんど、聞こえないのか反応しなかった。
「お兄さんでしたか、一度聴力の検査をしてみましょう」
「はい」
当時の現在のような検査機器はなく、懐中時計の音で調べるという方法であった。
「検査結果はどうでしたか?」
「それが、ほとんど、聞き取れないのです。このままじゃ、残念ながら聴力を失うでしょう」
「そんな……」
渡辺家は悲しみに包まれたのだった。
特に理恵子を可愛がっていた渡辺にとっては辛い結果となったのだ。
悲しみは留まる事を知らなかった。
渡辺が住む町では祭りが開かれていた。
以前から理恵子は祭りを楽しみにしていた。
「お兄ちゃん、お祭りにいきたい」
その頃は理恵子は全く聞こえる事なく不自由な生活を送っていた。
そして、身振り手振りで家族は理恵子に伝えていた。
街は賑やかで、金魚すくいなどの出店が多く並んでいたのだ。
道路の向こう側に綿菓子を売っている出店があった。
理恵子は綿菓子が好きだった。
「お兄ちゃん、あの、綿菓子が食べたい」
「少し待っていてね、お兄ちゃんが風船を買ってくるから、ここで待っていてね」
渡辺は聴力が失われていることを一瞬忘れてしまったのだ。そして反対の方向を向いて風船を買いにいった。
その時だった
キー
「危ない」
バン
馬車にはねられたのである。
「おい、お嬢ちゃんが馬車にはねられたぞ」
渡名はあわてて、馬車の方へ向かった。
しかし、馬車は何もなかったように走り出していってしまった。
理恵子がそこにいなかったため、近くの人へ尋ねたのだった。
どうやら、馬車に乗って行った人がすぐさま、連れてかえったとのことだった。
「多分、病院へ運んでいったんじゃないかな。あんた、お兄さんか?近くの病院を探してみるといいんじゃないか?」
「ありがとうございます」
渡辺すぐさま、隣町まで探しにいった。
「この病院に若い少女が怪我をして運ばれてきませんでしたか?」
「いえ、そのような方はいらっしゃいませんよ」
渡辺はあらゆる病院を探し回ったが、最後に行った病院で残酷な結果を聞いた。
「ああ、先程、血まみれになった少女が運ばれてきたよ」
「それで、その子はどうなったのですか?」
「ああ、間もなく息を引き取ったよ」
「そんな……」
「ああ、むごい最後だったな……」
「亡骸はどこにあるのでしょうか?」
「それは、馬車に乗った方が連れて帰ったよ。本当に可哀そうだな」
渡辺はコンクールの本選が近づくにつれて、悲しい過去に襲われたのだった。
コンクールの結果は渡辺が優勝であった。
しかし、渡辺の心は晴れることがなかった。
悲しい想いが襲ったのであった。
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