最初で最後の大人買い

陸村信人

ほんのちょっとの贅沢、でも私にとって最初で最後の「大人買い」

朝からの曇り空は、夕方からみぞれ混じりの雪になっていた。

ミサコは、気が付くと通勤経路の途中にあるケーキ屋さんの前に佇んでいた。

ウィンドーごしに見えるショーケースの中のショートケーキたちをぼんやりと眺めていた。


もう3日もろくに食べていない。お腹は減っているはずなのに、食欲がない。

家に帰っても、自分を迎えてくれる人は誰もいない。いつも真っ暗で冷え切ったアパートの部屋。


母親はミサコが3歳の時に病気で亡くなった。父親は去年、「ハローワークに行く」と言って家を出たまま帰ってこない。携帯電話も繋がらず、警察に捜索願いを出したが、行方知れずのまま。


だけどミサコにはわかっていた。父親はもう帰ってこないことを。


父親がいなくなってひと月後、多額の借金があることを親戚のおじさんから聞かされた。お金を借りた先が身内だったおかげで、借金の厳しい取り立てはなかった。

しかし初めのうちは気の毒がってくれていたおじさんやおばさんも、父親が帰ってくる見込みがないことがわかってくると、だんだん冷たくなってきた。


しかたがない。悪いのは全部自分たちなんだから。わかっているけど、やっぱりつらい。親切にお金を貸してくれた身内の人たちに迷惑をかけていることが、申し訳ない。


ミサコは高校を卒業して2年、地元の小さな工場で働いていた。

働くことは嫌いじゃない。しかし生まれた時から手足に障害があり、一人前の仕事がこなせない。


それでもコツコツ真面目に仕事に励むミサコに、職場の人たちは同情的だったが、社長さんはミサコがミスをしたり、ミサコのせいで仕事が滞ったりした時は、露骨に迷惑そうな顔をした。


今日びのことなので、面と向かって「辞めろっ」などとは言われないが、今度また何かミスをしたら、それを理由にリストラされるのではないか、といつもビクビクしながら仕事をしている。


今日もちょっとしたミスをしてしまった。社長さんに嫌がられるのも怖いが、職場の人たちに迷惑をかけるのはもっとつらい。


しかも、折りからの物価高による原材料費の高騰により、工場の経営は厳しく、ミサコのお給料は入社以来全く上がっていない。


「給料が出るだけありがたいと思ってもらいたいよ!」誰に言っているのか、社長の大きな声の独り言が、ミサコの耳に届く。自分に言っている、と思えてしまい、聞こえないふりをしながら手先の作業に集中しようとする。


そんなお給料も、借金を返していくと、いくらも残らない。給料日前になると、ほとんど食事が取れない生活が、もう何ヶ月も続いていた。


このままあの寒いだけの家には帰りたくない。でも他に行くあてもない。


「このままいっそ死んじゃおっか・・・」


いつもは何となく人ごとのように思い浮かぶこんな言葉も、今日はなぜかようやく導き出された最終結論のように、ミサコの頭の中に消えずに残っていた。


工場からの帰路、しんしんと降る雪の中、不自由な足を引きずるように茫然と歩いていたミサコは、気が付くとケーキ屋さんの前に佇んでいた。


おしゃれでかわいいケーキ屋さん。工場の帰り途、何度も入ってみたいと思ったけど、工場作業で薄汚れた自分には不似合いな気がして、今まで一度も入ったことはなかった。

財布にはなけなしの千円札一枚。何かの時用にとっておいた今の全財産。

これでケーキは買えるのだろうか。今までケーキを自分で買ったことなど一度もなかった。


もうどうでもよかった。短い人生だったが、せめて最後は幸せな気分で終わりたい。


ミサコにとって人生最初で最後の大人買い。


「でも、こんなんでも大人買いって言えるのかな」自嘲気味に頭の中で呟いた。


「いらっしゃいませ」


高校生のバイトかな・・・、かわいらしい女の子がにっこりと笑いながら声をかけてくれた。


「店内でお召し上がりですか?」


「店内で食べられるんですか?」


「はい。うちは喫茶もやってますので。」


「喫茶って、どんな・・・」


「コーヒーや紅茶、オレンジジュースなんかですけど、うちのコーヒーって美味しんですよ。」


ミサコにとってコーヒーは、家にある父親が飲んでいたインスタントのものがすべてだった。

コーヒー=苦い、という印象しかなかったし、今まで自分から進んで飲もうと思ったことは一度もなかったが、「コーヒーとケーキのセット」という響きが、なんともおしゃれに感じられた。

なんだか自分も人並みの女の子になれたような、そんな少し浮き立つような気持ち、いつぶりだろう。


人生の最後にふさわしい。ここに思い切って入ってみてよかった。

でも、千円で足りるのか? 急に不安になり、女の子の店員さんに尋ねてみた。


「あの、ケーキセットって千円で足りますか?」


「うちのショートケーキはどれも500円までなので、大丈夫ですよ。お好きなケーキをどうぞ。」


ホッとして、ケーキを選ぶ。一番高いのは「イチゴショートスペシャル」。大きなイチゴが3つものっている。

こんなケーキ、マンガでしか見たことがない。


「じゃあ、イチゴショートスペシャルとコーヒーのセットで。」


「ありがとうございます。980円になります。」


全財産を使い切ってしまった。本当にもう何も思い残すことはない。晴れやかな気分だった。


「あの、うちのお店のスタンプカード、お持ちですか?」


「えっ?」


「500円でひとつ、スタンプを押していて、10個たまると500円割引しているんです。カード、作りましょうか?」


もう二度と来ることのないケーキ屋さん・・・。


「あっ、えぇっと、結構です。」


「はぁーい。じゃあ、あちらのお好きなお席におかけ下さい。すぐにお持ちします。」


はじめてのおしゃれなケーキ屋さん。はじめてのケーキセット。

ミサコはドキドキしながら、席についてお店の中を眺めていた。

人生の最後にほんのちょっとの些細な幸せ。不意にミサコの目に涙がこみ上げてきた。


「あのぉ・・・」


不意に後ろから先ほどの女の子の店員さんが、声をかけてきた。


慌てて涙を拭って振り向くと、


「これ、よかったら使って下さい。」


と言って、タオルを差し出してくれた。


「あのぉ、服が雪で濡れているみたいで・・・。」


「あっ、ありがとう・・・」


女の子は少し恥ずかしそうに、カウンターへと戻っていった。

かわいい女の子に優しくされて、うれしくなった。

今まで同情されることはあっても、優しくされることはあまりなかったような気がした。


その逆に、自分がひとに優しくしたことってあっただろうか。ミサコはこれまでの自分を思い返した。


自分が不幸せであることだけが、常に頭の中を占めていて、人を幸せにすることなんて今まであまり考えてこなかった。そんな余裕もなかった。


けど本当にそうかな・・・。

ちょっとした優しさが、結構ひとを幸せな気分にさせるってことに、今更ながら気付かされた。


「お待たせしました。閉店前なんで、イチゴひとつ増やしときました。」


「あっ、ありがとう。それとタオル、ほんとにありがとう。」


渡したタオルをふたつにたたんで、女の子はにっこり笑ってカウンターに戻って行った。


あったかそうな湯気の立っているブラックコーヒーと、イチゴが4つも乗っかっているショートケーキ。

ミサコにとってはなにものにも代え難い贅沢だった。まずケーキのクリームをスプーンですくってひと口。


「美味しい・・・」


お腹は空いていないはずだったのに、思わず心の底から言葉がもれて出た。

甘みが口いっぱいに広がった。今まで食べたどんなものより、甘く美味しかった。

その口のまま、今度ははじめてのブラックコーヒーをひと口すすった。


「えっ・・・」


苦いと思っていたコーヒーが、なんだか甘く感じられた。それでいて口の中がスッキリして、またケーキの次のひと口が美味しく感じられた。いつまでもこのケーキとコーヒーのループが無限に続いてほしい、そんなことを思いながら、ミサコはできるだけゆっくりと時間をかけて至福のひとときを楽しんだ。


生きてるって素敵なことだなぁ・・・。ミサコは生まれてはじめて生きていることの素晴らしさを感じた。


これから先も、きっと周りの人たちに迷惑をかけていくことになるかもしれない。でも、そんな自分でも、周りの人たちを幸せな気持ちにさせることはできるはずだ。


それに、辛い毎日の中でも、ほんのちょっとでも幸せを感じられることはきっとある。


それは自分からつかみに行かないと、自然に落ちているものじゃない。このお店のケーキセットのように、案外身近なところ、少し背伸びをすれば十分手に届くところにあるような気がした。


ケーキセットを食べ終わるころ、鉛のように重苦しい雲のかかっていたミサコの心の中には、薄日が差し込んできているような気がした。


「さぁてと、あと2日、何を食べて生きていこうかなぁ・・・」


そんなことを思いながら、この前近所のあばあさんが言っていた、市役所の福祉事務所のことを思い出していた。


自分から動き出さなきゃ・・・。


お会計でレジに行くと、女の子が笑顔で迎えてくれた。


「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです。」


「ありがとうございます。また来てくださいね。」


「はい。あっ、それと・・・」


ミサコは女の子に負けない笑顔で言った。


「スタンプカード、やっぱり作ってください!」

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最初で最後の大人買い 陸村信人 @komekomemako

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