第7話 『戦後文明論』中国の間違い① 天安門事件

中国は私の父らの時代なら、日本との戦争と内戦。私の時代なら、文化大革命による混乱、中国は貧しく、大変だった。建国の父が毛沢東なら、今の中国があるのは鄧小平だ。そして二人の間を繋いだのは周恩来だと答えても、中国の人で叱る人はいないと思う。


改革開放が軌道に乗って中国が豊かになり出したのは、2000年代、胡錦涛の時代になってからである。今や、日本を抜いてアメリカに次ぐ2番目の経済大国だ。2番は大変だ!何かと叩かれる。日本も同盟国ながら貿易摩擦戦争で随分叩かれ、さっぱり調子を崩してしまった。もっとも、浮かれバブルの自業自得もあったけど・・。

習近平になって10年、中国は随分と態度がデカくなった。「中国の夢」「中国統一」らしい。国民は大して急いで統一を求めている様子もない。やっと訪れた豊かな生活をエンジョイしたいみたいに私には思える。

 でも、アメリカが過剰に叩くと、国民のナショナリズムに火が付きかねない。その飛び火はJAPANに及びかねない。それが、冷静にと取りなすどころか、一緒になって煽り立てている。政府と国民は必ずしもイコールではない。そこを見誤ってはいけない。アメリカの中国政策には戦後一貫性がない。島が中国だ、大陸が中国だと二転三転している。


長くなるので、先に結論を書く。

統一と云う意味では中国革命は終わっていない。現在の世界状況で台湾を武力で統一できるだろうか。ふたつの海峡に橋を架けるとしたら、天安門の総括・再評価は避けて通れない課題だと私には思える。



中国の間違いとして挙げるなら、天安門事件を挙げる。必ず総括する日が来ると私は信じている。鄧小平は走資派と叩かれ、放逐されてもしぶとかった。改革開放もロシアとは違って経済特区を作って慎重に進めた。国民向けの談話もユーモアもあり簡潔で分かり易かった。好きな政治家だ。でも、民主化要求と革命とは違う。人民軍と思っていた人民に鉄砲を向けた決断は間違っている。

鄧小平の何処が間違ったのか、改革開放を進めるのに最もいい人材を彼は見つけ、抜擢したのである。胡耀邦である。共産主義青年団(共青団)第一書記、陝西省第一書記などを歴任したが、文化大革命が始まると実権派と批判されて失脚。1977年鄧小平の再復活にともない、党中央組織部長に就任、文革の清算を担った。81年華国鋒が解任され、胡耀邦が後継の党主席(その後総書記に変更)に就任した。81年鄧小平軍事委員会主席・胡耀邦総書記・趙紫陽首相によるトロイカ体制が確立され、「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」と鄧小平が語るほどだった。


それが一転して更迭、一中央委員に降格された。何があったのか、胡耀邦とはどの様な人物だったのか、天安門事件とは、二つある。一つ目は周恩来の追悼を巡って、二つ目は胡耀邦の追悼を巡って、いずれも追悼を巡ってである。私は中国人民を信じている。私が彼を評価するのはここのところだ。1980年5月にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、ラサで共産党幹部らに対する演説で、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させた。信仰の自由の保障、チベット語禁止の解禁等の改革を行った。党の間違いを素直に認めた政治家を中国では知らない(その後、胡耀邦が更迭されたのちこれらは取りやめになった)


1987年1月の政治局拡大会議で胡耀邦は総書記を解任された。86年に起きた学生デモに理解を示したことだった。党の原則「反ブルジョア民主化」に反すると云うのだ。89年心筋梗塞のため倒れ死去した。胡耀邦は人民服ではなくて西側の背広を真っ先に着込み、フォークとナイフを使う、合理的なことは何でも取り入れるタイプであった。来日したとき唯一広島を訪れた中国指導者でもある。それが長老左派(8元老)の批判を受け、失脚につながった。もはや批判と云うより嫉妬である。

天安門事件(第2次)の発端は、胡耀邦の追悼集会であった。五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日に北京の学生・市民10万人がデモと集会を行った。ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言を行ったことで、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚した。学生の運動は知識人、市民らにまで広がり、人民日報の記者までもが「言論の自由」のプラカードを掲げて天安門に参加しているのをTVで観るまでになった。


保守派8元老らの強硬意見、彼らは表では鄧小平の改革開放には異議を唱えなかったが、改革開放には抵抗を示していた。筆頭は陳雲、計画経済の元締めであった。死ぬまで一歩も経済特区には足を踏み入れなかったという。8人の中の一人に習近平の父がいる)あくまで改革開放を進めたい鄧小平は軍主席として武力鎮圧を決断した。

この運動が激化した分岐点は人民日報(党機関紙)の社説であった。社説は、『必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ』と掲載した。学生たちの運動を動乱=反党、反政府運動と規定したのである。これは8元老のみならず鄧小平がそのように見たということである。


実は天安門事件は二つに分かれる。前回は1976年4月の周恩来総理の追悼を巡る騒動である。江青らの4人組と経済・技術面で現代化を進めたい周恩来と鄧小平らは激しい権力闘争を行っていた。4人組に近い華国鋒政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止した。これに民衆が怒って当局と激突した。これは文革の尻尾を持った反4人組運動でもあった。この騒乱は『反革命動乱』とされ、鄧小平は4人組にこのデモの首謀者と指弾され再び失脚したのである。全ての職務を剥奪された。この時に胡耀邦も追放されている。

しかし、同じ年の9月に巨星毛沢東が亡くなる。後ろ盾を失った4人組は形勢が逆転。の天安門事件は『偉大な大衆運動』として名誉回復されたのである。鄧小平は再び返り咲く。

二つの天安門を巡る大衆運動を読者はどう見るか?何とも皮肉である。一つはこの運動で復活を鄧小平は果たし、復活した鄧小平は二つ目の運動を反政府動乱とて鎮圧した。


毛沢東も主席を退いて(させられて)、劉少奇や鄧小平らに任せられなかった。

鄧小平は胡耀邦や趙紫陽を抜擢し、彼らがやり易いよう、私ら老人組は引っ込もうではないかと保守派の8人を引退(元老的な名誉職とした)させた。鄧小平は党序列第1位にはならなかったが、実質実力者として存在し続けた。8人を引退させた後も党軍事委員会主席の席は持ち続けた。鄧小平の老練なところである。

彼にして、何故二人を守ってやれなかったのか、経済の改革開放が先、政治改革はその後。まず食べる口、わたしはこれに対して口の役割は二つ「食べる口と物いう口」と答える。妻に云わせるともう一つ、「KISS」らいしい、愛も大事と云うことか。

鄧小平自身が「ブルジョワ民主化」に反対の立場であったことだと考える。ブルジョワ民主化は言論の自由、そしてその先は複数政党制に行きつくと。彼の中ではやはり共産党ー国家ー国民と云う順番なのだろう。これを逆転するには彼は時代的にも限界であろう。なら、次に任せるしかなかったのにと思うのだ。


鄧小平はこうも語っている

「中国は特に今は経済発展に注意力を集中させなければならない。形式上の民主を追求したら、結果的に民主は実現できず、経済的発展もまた得られず、国家の混乱を招く。私は『文化大革命』のひどい結果をこの目で見てきた。中国では人が多いから、もし今日デモをやり、明日デモをやることにしたら、365日毎日デモをやることになり、経済建設などできなくなってしまう。もし我々が現在10億人で複数政党制の選挙をやったら、必ず『文化大革命』の『全面内戦』のような混乱した局面が出現するだろう。民主は我々の目標だが、国家の安定は絶対に保持しなければならない。」一理、もっともらしいが・・


これは、毛沢東が起こした紅衛兵の運動と、天安門での学生・民衆運動とを同質に並べた論理である。


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