第2話 アメリカの間違い② 封じ込め政策

『バルト海のシチェチンからアドリア海のトリエステに至るまで、鉄のカーテンが大陸を横切って下ろされた。中欧及び東欧の歴史ある首都は、全てその向こうにある。」と有名な鉄のカーテン演説(1946年3月米国ウエストミンスター大学で)をしたのは、戦勝国首相でありながら野党党首となったチャーチルであった。この発言に続いたのが翌年3月に出されたトルーマン・ドクトリン(共産圏封じ込め政策)である。

 チャーチルは老練な政治家である。共通の敵を作ることによってアメリカを巻き込む考えであった。あのウォーレスは「鉄のカーテンを引いたのはスターリンではなくてチャーチルだ」とイギリス外交を批判している。イギリスがイギリス帝国の権益を確保するためにアメリカをソ連との対決に引き込もうとしていると警戒心を高めたのである。「中東の石油をめぐる英ソの争いにアメリカは巻き込まれてはならい」としている。

 

 ヤルタ会談で細部は別にして戦後世界の大枠は決められた。それは米英ソの勢力圏の確定に他ならない。英ソ間で戦後の欧州を巡って激しい綱引きが行われた。アメリカ(ルーズベルト政権)は東欧についてはソ連の勢力拡大は認める方向であった。ウォーレスはアメリカに勢力圏があるようにソ連の勢力圏も認める。二つの勢力圏で一つの世界が彼の考えであった。封じ込めによって二つの勢力圏・二つの世界になってしまった。ウォーレスからみれば、トルーマンはチャーチルにまんまと乗せられたことになる。。

 ウォーレスは,戦争は,根本的には共産主義ではなくて「貧困」から生まれるものだと考えた。「欠乏,人種差別,搾取のあるところではどこでも,共産主義は成長する」のだから,「共産主義と資本主義のどちらがより多くの物と精神的な安寧を提供できるかを平和的に競争したらよい」とした。社会主義にも一定の理解と寛容を持った彼(ニューディール派)ならではの言葉である。その裏にあるのはアメリカ資本主義への絶対的自信である。但しその資本主義は民主的進歩的でなければならいとする。民主的進歩的とは「不況と戦争をなくし、人々を豊かにするもの」である。当然トルーマンの封じ込め政策への批判は激しくなり、46年9月トルーマンによって商務長官を解任された。1948年には民主党を出て新たに結成した進歩党から出馬したが2.4パーセントの票しか獲得できなかった。

 チャーチルはその後再度首相に復帰したが、もはや時代は彼のものではなかった。48年の大統領選に勝ったトルーマンであったが、国内的には赤狩りのマッカーシズムが吹き荒れ不安定、朝鮮戦争では核使用を主張したマッカサ―を解任(後にシビリアンコントロールの範例として評価されたが)、対中国弱腰外交と批判され、何よりマッカサ―は第2次大戦の英雄であった。人気低下で再選の見込みはないと判断したトルーマンは不出馬を決断した。

 その後冷戦はあの悲惨なベトナム戦争、キューバ革命後のキューバ危機(核戦争寸前)、その後のデタント(平和共存路線)を経てソ連の自壊まで45年続いた。


最後にチャーチルの鉄のカーテン演説の続きを見てみよう

『東ヨーロッパ諸国では、いずれもきわめて小規模であった共産党が、いまや優位に立ち、実力以上の権力を与えられて、いたるところで全体主義支配の確立をはかっております。ほとんどあらゆる場合に警察が幅をきかせ、これまでのところチェコスロバキア以外には、真の民主主義は見当たらないといった状況であります。』


ソ連は崩壊したのだから、封じ込め政策は成功した?崩壊させられたのか?自壊したのか?ウオーレスの言うように共存して豊かさを競う平和的な競争の果ての結果だったのか、2大大国の直接対決の戦争はなかったが、この間どれだけの命が失われたか・・。

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