第20話
西日の差し込むリハビリルームにモーターの音が木霊している。大樹は何かに取りつかれたように、もう一時間くらいずっと電動ウォーカーに乗っかったまま歩き続けている。
理学療法士のトレーナーはもう何度も、終わりにしましょう、と言っているのに、彼はその度に、もうあと少しだけ、と言って止めようとしなかった。額からはとっくに汗が噴き出して、Tシャツにもじんわりと汗が滲んでいるのが見える。そんなに根を詰めて大丈夫だろうかと、見ているほうが心配になってくる。
電動ウォーカーの隣の平行棒はがらんとしていた。まるでミーちゃんは、毎日大樹と一緒に歩いた空間をそっくりそのまま剥ぎ取って、一緒に天国まで持っていってしまったかのように、彼女がいつもいたところだけぽっかりと穴が空いている。
リハビリルームのドア口に突っ立って、沙希は大樹が頑張っている様子をぼんやりと見つめていた。大樹は時々こちらへ視線を送ってくる。目が合うと、彼は控え目な笑みを浮かべた。大丈夫、と少し頭を傾げて気遣ってくれる。
ようやく大樹が電動ウォーカーから降りてきた。
無言でグーにした手を彼に向かって差し向ける。大樹も無言のままグータッチを返した。この遣り取りがここのところの二人の挨拶代わりになっていた。
大樹は車椅子に沈み込んだ。西病棟へと彼を送っていく。
連絡通路は橙色に染まっていた。ちょうど夕陽が高台の向こうの山の尾根に沈みかけている。炉の中の鉄の塊みたいに、真っ赤な丸い球が燃えている。
「沙希さん、ちょっと止まって」
大樹が言った。窓の外を指さしながら彼は続けた。「あれ、何か思い出さない?」
窓の外に目を遣った。「夕陽のこと?」
「ほら、よく見てみて。あの太陽、少し楕円形に歪んでいて、ここから見ると、ちょうど山の稜線と鉄塔と電線がきれいな三角形に見えるよね?」
「ほんとだ」
「でしょ?それで、青々とした山が背景で、赤く染まった空が何だか不思議な感じでぼんやりと浮かんでいるみたいに見えない?」
「ほんとだ、見える。不思議な感じだ」
「何か思い出さない?」
「えっと…」じっと頭の中を覗き込んだ。そして声をあげた。「ハンカチだ」
「正解」
「あのデザインにそっくり」
「でしょ?あのデザイン、本当は僕が思いついてパパに提案したんだ」
「そうなの?前はたしか、お父さんが考えたって言ってたよね?」
「まだ沙希さんと出会ったばかりだったから、変な子供だと思われると嫌だなって、それで嘘ついた」
「そう…」
二人はしばらくの間、窓の外の真っ赤な情景を眺めていた。連絡通路の人波が途絶え、病院の喧騒が遠くのほうで木霊している。
「大樹君」沙希は震える声を絞り出すように言った。「あのデザインってどういう意味だったっけ?」
大樹は顔をあげてこちらを見つめた。気のせいか、眸が微かに潤んでいるようだ。
「三つの図形が重なり合った部分は〈目に見えぬもの〉を表してるんだ。三角形のところが〈かつて存りし今無きもの〉。丸い部分が〈今在りて消えゆくもの〉。そして背景の青が愛だよ」
秋の海に白浪がたっている。光り輝く水面と真っ青な秋空を水平線が真一文字に横切っているさまが、まるでポップアートのポスターみたいだ。
葉の落ちた桜の幹に手をついてこんなふうに海を眺めていると、看護師だった母の後ろ姿がまた脳裏に蘇ってくる。明子は時おり自宅の庭から海を見つめていることがあった。月夜の晩。炎天下の午後。朝靄に包まれた春の日の明け方。
家族の誰一人、明子に尋ねたことはなかったけれど、なんとなく皆が感じていたと思う。彼女が桜の樹の下に佇むのは、病院で誰かが旅立ったときのことなのだと——。
だが本当は、それだけではなかったのかもしれない。桜の樹の下で佇む彼女の瞳には、目の前に広がる海を越えて、もっと遠くの情景が映っていたのかもしれない。いまはそんな気がしてならない。
始まりがあれば終わりがある。出会いがあればいつか必ず別れのときが来る。永遠に輝き続けるものなど何もない。
頭ではわかっている。だが嘘であってほしい。どうしようもなくそう願っている自分がいる。
そして戸惑う。そんな理不尽な願いによって、何か大切なものから目を背けているのではないだろうか。目の前の輝きに、ただまっすぐに目を向けなくてはならないのではないか。きっと眩しさに目を瞑ってはいけないのだ。頭ではよくわかっている。ただ——。
「ああ、やっぱりここか」
突然の声に我に帰った。振り向くと、貴宏が白衣のポッケに両手を突っ込んで立っていた。口元に小さな笑みを浮かべている。
貴宏は石畳の階段をのぼると隣に立って海に目を遣った。
「探したよ。おかげで休憩時間、一〇分損した」
「ごめん」微笑もうとしがたうまく笑顔にならなかった。「どうしたの?何かあった?」
「市民ホールだそうだ」
「え」
「お披露目リサイタル、市民ホールに決まったんだそうだ」
驚きで声が出なかった。貴宏はまっすぐ海を見つめていた。
「どういうこと?いつ決まったの?」
「詳しいことはわからん」彼は難解なパズルを前にした少年みたいに眉を顰めて言った。「まあ、向こうは政治家の父親がついてるからな」
「そんな…。こちらに何の相談もなく?」
「ま、そだな」
「せっかく大樹君とデュオが弾けるようになったのに、私、出られないんだ?」
「ああ」
「ひどい」
貴宏は目を細めて水平線の彼方を見つめている。潮風が彼の前髪を揺らしている。
「でもまだ完全に望みがないわけじゃない」
沙希は顔をあげた。貴宏の横顔をじっと見つめる。
「何かいい考えでもあるの?」
「いや、全く」
「またそれか」
溜息が漏れた。でも不思議と気持ちが落ち着くのはどうしてだろうか。変わらないもの。ブレないもの。どこかにしっかりと根を張って、どんな濁流にも流されないもの。安心して掴まっていられるもの。自分にとって、貴宏はいつの間にかそんな存在になっている気がする。
彼の横顔を見つめながら言葉を待った。だが貴宏は固まったまま動かなかった。どうやら本当に何の考えもないらしい。
腕時計に目を遣った。それから諦めて言った。
「もうそろそろ戻らなきゃ」
石段を降りかけたところで、貴宏が、あ、と声をあげて振り返った。
「沙希ちゃん」
「なに?」
「戻る前にメイクし直すの忘れるなよ」
「はあ?」
「ひどい顔してるぜ」
「言われなくてもわかってます」
「そっか。でも子供たちがお化けが出たって大騒ぎするとまずいからな」
両手を前に出して幽霊の仕草をしている貴宏が滑稽で思わず笑ってしまう。また貴宏のいつもの道化に乗せられてしまった。
「でもオレもそっちのほうが好きだな」
「え?」
「大樹と約束したんだろ?」
「えっと…何のこと?」誤魔化そうとしたが無駄だった。
「いつも笑ってるってさ、あいつと約束したんだろ?」
「聞いたんだ」
「ま、いちおう主治医だからな」
「関係ある?」
そう呟きながら、連絡通路から夕陽を眺めながら大樹と交わした遣り取りが蘇ってくる。
「僕ね」と彼は言った。「ミーちゃんと約束したんだよ」
「なにを?」
「彼女がいなくなっても笑っているって」
「そう」
「だから沙希さんも約束してほしいんだ。僕に何かあってもいつも笑っているって。虫のいいお願いかもしれないけどさ」
「わかった」
「いろんなことがあったけど、僕、沙希さんと出会えてよかったと思ってる」
「……」
何も言えなかった。感傷的になって、プロらしく振る舞えない自分が情けなくて仕方がなかった。やっぱり看護師失格だ、と思った。
「オレも、泣いている沙希ちゃんより、笑ってる沙希ちゃんのほうが好きだな」
貴宏は海のほうを向いたまま言った。
ふと、さっきまでずっと胸のうちで絡まっていた思いが言葉になって口から出ていく。
「ねえ、ツンツル、私たちって、うしろを振り返ることも、前を向くこともできない気がするんだ。じゃあいったいどうすればいいんだろう?ただひたすら、目の前のことだけ見つめていればそれでいいの?何だかもうよくわからなくて…」
思わず石段の途中でしゃがみ込んでしまった。
「私、あの子がいなくなったら、もうやって行けないよ」
ついに言ってしまった。頭の中で言葉にならないようにずっと堪えていた気持ちが油断をした隙に出ていってしまった。口にした途端に言ってしまったことを後悔した。自分の弱さが本当に嫌だった。
蹲ってスクラブの袖に顔を埋めていると、すぐ隣に温もりを感じた。大きくて長い腕に肩を抱き寄せられた。
「大丈夫、アイツは絶対死なないよ」
分厚い掌が背中をさすってくれている。
「オレが絶対に行かせやしないよ」
いつもの彼の馬鹿げた自信が嬉しくてたまらなかった。
「だから沙希ちゃんは安心してればいいんだよ」
その言葉についに涙腺が崩壊してしまったらしい。顔を埋めた白衣を涙で汚してしまっているのが申し訳なかった。貴宏に何度も謝った。だが声にはならなかった。
翌日、居ても立ってもいられなくて、昼食を済ませたあと家を出た。
自転車を漕いで、町の反対側の住宅地を目指す。まるで十五年前のクリスマスイブの晩にタイムスリップしたみたいだった。
途中、コートの中のスマホが鳴った。自転車を停めて画面をチェックする。健翔からメッセージが届いていた。
「沙希さん、こんにちは。お会いしたいです。今晩のご都合は如何でしょうか?」
ファータ・デラ・フォレスタで食事をした晩以来、健翔とは会っていなかった。彼からは毎日のようにメッセージが送られてきていたのだが、なんやかやと理由をつけて断り続けていた。
彼のことは好きだった。たぶん、とても、と言ってもいいくらいに——。だがこのまま前に進んでよいとは思えなかった。
兄の代わりでも構わない、矛盾していたっていい、という彼の言葉が蘇ってくる。
人を好きになるのに正しい理由も間違った理由もあるはずがない。しかし——。
「お誘いありがとうございます。あいにく、明日の晩から夜勤が続くので、今晩は家で大人しくしていないといけないんです。ごめんなさい」
三回読み直し、送信ボタンを押し掛けたところでふと指先が止まった。
「…ごめんなさい。わたしも健翔くんに会いたいです、とても」
最後に書き添えてじっと画面を見つめた。そんな気を持たせるようなことをどうしてわざわざ書いてしまうのだろうか。自分のほうがよっぽど矛盾している。
消すか、残すか——画面を凝視したまま身体が固まった。
結局、迷った末にそのまま送信ボタンを押した。その瞬間、押してしまったことを後悔した。
そろそろ目的の場所が近づいて来た。
沙希は自転車から降りて、スマホを片手に自転車を押し始めた。画面上の地図アプリを見ると、Rainbow Music Clubはもうすぐそこだった。
すっかり葉が落ちて針金のような枝が絡み合った銀杏並木を進んでいくと、高い塀に囲まれた洋風の白い家があった。地図アプリが、目的地周辺です、と示している。門扉を見ると教室名が刻まれた横書きのプレートがあった。
深呼吸を一つすると、インターフォンのボタンを押した。返事はない。音楽教室が始まる前の午後の早い時間ならきっと会えるだろうと思って行き当たりばったりで来てみたが、やはり不在だろうか。そう思っていると、インターフォンから、はい、という声が聞こえた。
たぶんもうカメラにこちらの姿は映っているはずだ。それ以上何も言わないのは、あまりの驚きで声が出ないせいだろうか。それとも、帰れ、という意味なのか。
居心地の悪さに居たたまれず、とりあえず用件を伝えた。
「大須賀です。お話したいことがあって参りました。少しだけお時間を頂くことは可能でしょうか」
カメラが無言でこちらを見つめている。迷っているようだ。
長い沈黙のあと、どうぞ、と声がして、門扉の鍵が自動で外れる音がした。ありがとうございます、と礼を言って重たいドアを押して中に入った。
玄関で出迎えたのは、意外にも和服姿の年配の女性だった。やさしそうな笑みを湛えた目元が礼子にそっくりだ。間違いなく彼女の母親だろう。
「大須賀沙希さんね?よくいらしてくれたわね。さあ、お上がりになって」
思ってもみないやわらかな出迎えに戸惑いながら、失礼します、と言って、下ろし立てのような高級スリッパに足を通した。埃ひとつない長いフローリングの廊下を彼女のあとについていく。普段から和服を着ているのだろうか。彼らは別世界の人たちなのだということを改めて痛感させられる。
「さあ、こちらへ」
通されたのは十畳ほどの応接間のようだった。部屋の中央に白い皮の四人掛けのソファが並んでいる。沙希はその一つに腰を降ろした。
「いま御茶をお持ちしますわね。あの子もすぐ参りますので」
「どうぞお構いなく」
礼子の母は小さく頭を下げると部屋から出ていった。
見知らぬ町で迷子になった子供のように、心細くて仕方がなかった。じっと座っていると静寂の重みに押しつぶされそうな気がして、思わず腰をあげて窓のそばに近づくと外に目を遣った。
手入れの行き届いた中庭のテラスに午後の陽光が氾濫していた。名も知れぬ小鳥の番がテラスに置かれたメタリックな椅子の縁にとまってこちらを見つめている。
ふと、窓辺のキャビネットの上に一枚の写真を収めた額縁があるのが目に入った。顔を寄せてみる。途端に胸が締めつけられた。
あの写真だった。菅野ピアノ工房で貴宏が見たという写真と同じものに間違いなかった。
グランドピアノの前でカメラに顔を向けている四人の子供たち。手前左手の床に座っている少年が菅野の息子さんだ。まだあどけなくて、照れ臭そうにはにかんだ笑みを浮かべている。その隣でピースサインをして零れ落ちそうなくらいに大きな笑みを浮かべているのが健翔だ。
そしてそのすぐ後に立っているのが礼子。貴宏が言っていたように、動揺しているせいか目が泳いでいるみたいに見える。そしてその隣にいるのが——。
十五年ぶりに目にする彼の姿。あの日以来、一日たりとも途切れることなく記憶の中で思い浮かべてきた彼の横顔。記憶の中の彼そのままのような気もするし、思い浮かべて来た彼よりもずっと大人びているようにも見える。あっという間に目の前が霞み、慌ててポシェットからハンカチを取り出して目元を拭った。大樹からもらったハンカチが濡れてしまった。
ドアが開いて、礼子の母が部屋に入ってきた。御盆に湯飲み茶碗が二つ乗っていた。窓のほうを向いて再び目元を拭った。呼吸を整える。
背中に手の温もりを感じた。いろんなことを経験して来た人の掌だけが持つ独特なやさしさが伝わってくる。
「大変だったでしょう」
やさしい声にどうしようもなくなって、大粒の涙がボロボロと溢れ出てしまった。二、三度首を振るのが精一杯だった。
どのくらいのあいだ背中をさすっていてくれたのか、よくわからなかった。ずいぶん長い間のように感じられた。
「つらいときには、またいつでもいらしてね」
「すみません。ありがとうございます」
彼女は静かに部屋を出ていった。
なんという皮肉だろう。よりに寄って礼子の母にこんなにもやさしく癒されるとは…。
ソファに座り直し、前を向いて呼吸を整えた。ポシェットからコンパクトを出して覗き込むと、目元のアイラインが流れ落ちてひどい顔をしていた。急いで応急手当てをする。すると音もなくドアが開いた。内心、息が漏れた。
礼子は相変わらず美しかった。市民ホールのロビーで出会ったときと同じで、アクセサリーの一つもつけていなければ、化粧もほとんどしていないらしい。それなのに匂い立つような品のある華やかさに包まれている。この人には、ウチもソトも、ウラもオモテもないのかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだ。
礼子は向かい側のソファに腰を下ろすと顔をあげた。
「お話というのは、いったいどのような?」
余計な挨拶は要らないということらしい。ならば一気に切り込んでみるしかない。
「お披露目リサイタルが市民ホールに決まったと伺いました」
礼子は一息ついてから、そのようですね、と言った。
内心、声が漏れた。他人事のように惚ける作戦だろうか。
「一言くらいこちらに相談してくださってもよかったのではありませんか?」
彼女は窓のほうに目を遣って、しばらくじっと外を眺めた。その横顔を穴が開くほど見つめる。
すると礼子は窓のほうを向いたまま言った。
「なぜそこまで病院でのリサイタルに拘るのかしら?」
「べつに病院に拘っているわけではありません。私はただ、自分たちもお披露目コンサートに参加させて頂きたいと言っているだけです」
礼子は正面を向くとテーブルの上の茶碗に手を伸ばした。
「自分たち…ですか」
そう言って静かに茶を啜った。口元にうっすらと何かを蔑むような笑みを浮かべている。
「そうです」激しい怒りが込み上げてくるのをじっと堪えながら、感情を押し殺した声で言った。「病院の子供たちや、健翔君の施設の子供たち、それから私も含めて、自分たち、です。それってそんなにおかしなことですか?」
礼子は茶碗の中に視線を落としたまま言った。
「でもお子さんたちと一緒ということになると、やはりどうしても病院のチャペルでということになりますでしょう?先日佐藤先生に申し上げたこと、お聞きになっていらっしゃらないかしら?とにかくあのチャペルでは音の面で不可能です」
彼女の内から出てくる言葉をじかに耳にして、ようやくその真意がわかったような気がした。彼女がどうしても受け容れられないのは、きっと小児科や施設の子供たちの演奏なのだ。チャペルの音が悪いと彼女が言い張っているのは、子供たちとの共演を避けるための口実なのにちがいない。
たしかに子供たちがリサイタルに参加すれば、幼稚園児の演奏会程度のものになってしまうかもしれない。礼子のようなエリート音楽家からすれば、そんな者たちと共演するのはプライドが許さないのかもしれない。その気持ちはわからなくもない。でもだからと言って、完全に排除しようとするなんて——。
「わかりました。では市民ホールでのコンサートに私たちも少しだけ参加させて頂くのはどうでしょうか?」
礼子は俯いたまま茶を啜った。沙希は続けた。
「正直に言うと、小児科の子供たちの中にはかなり重病の子もいるので、全員を市民ホールに連れて行くのは無理かもしれません。面倒を見るスタッフが足らないと思いますので。たぶん健翔君の施設の子供たちも同じかもしれません。でも何名かだけでも一緒に参加させて頂くことはできないのですか?」
「だってそんなこと無理でしょう?」礼子は顔をあげて言った。突然の強い口調に驚かされる。「あなた自身がいま仰ったように、施設の子供たちがコンサート中にザワザワとお喋りをしたり通路を走り回ったりしたら、いったい誰が面倒を見るのですか?あなたの病院のお子さんたちが、当日体調が悪いからといって急に休んだり演奏が奮わなかったりしたらどうするおつもりなの?」
「ほんの数曲だけ、前座でも構わないんです。それでもダメですか?」
「前座ならひどい演奏でも許されると思っていらっしゃるの?音楽ってそんなに甘いものではないわ」
語るに落ちるとはまさにこのことか。やはり彼女はどうしても子供たちを受け容れられないのだ。心の中で大きな溜息が漏れた。
「わかりました」と沙希は言った。「では市民ホールで共演させて頂くのは諦めます。そのあとはどうですか?先生の音楽教室が市民ホールでリサイタルを行ったあとに、今度はピアノを病院のチャペルに移してコンサートをできないでしょうか?」
礼子は感情を露わにしてしまったことを後悔するように居住まいを正すと、再び湯飲み茶碗に視線を落とした。
「さあ、それはどうかしら…」
「奇跡のピアノがその後でどうなるのかご存じではないのですか?」
「震災伝承館に展示されるということは耳にしました」
「コンサートのあと、すぐにですか?」
「詳しいことは存じあげません。ただ、市民ホールから病院へピアノを移すのはかなり大変なのではないかしら。ご存じの通り、ピアノの移送には高額の費用がかかりますし、簡単ではありませんから」
礼子は嬉しさでいまにも笑い出しそうな表情を浮かべた。もう心が折れそうだった。
「大樹君と約束したんです」最後の望みにかけてみる。「一緒にリサイタルで演奏しようって。もう何回か合同練習もしていて、演奏もだいたい完成しているんです」
そして自分の心の傷も、まるでミーちゃんが一緒に天国へ持っていってくれたかのようにすっかり癒えていた。だがそのことは伏せておく。
「大樹君はうちの教室の大切な会員様ですし、人様にお聞かせするレベルにも十分に達しています。ですから、あの子には演奏してもらいます。それでいいでしょう?」
意図的に話をずらしているのだろうか。いくら話しても一向に噛み合わないことに苛立ちが募る。
「ではせめて、私も市民ホールで大樹君と一緒に演奏させて頂けないでしょうか?」
「それは…」礼子はまた窓の外に目を遣った。まるで中庭のテラスに答えがあるかのように。「前例がないことですから、わたくしの一存ではお答えできません。相談してみないと——」
「相談…ですか?」
「ええ」
「どなたに?」
「教室に通っている子供たちの保護者の方々や、それ以外にもリサイタルには色々な人たちが関わりますから」
「でも、最終的にお決めになるのは先生ではないのですか?」
礼子は顔をあげてこちらを見た。口元にいくらか笑みを浮かべている。
「自分さえよければよろしいのかしら?」
「は?」
「あなたお一人だけ例外を認めるわけには普通いかないでしょう?どうしてそんな簡単なことがお分かりにならないのかしら」
心が折れた。
彼女が本当に排除しようとしているのは子供たちなんかではなかった。この自分なのだ。十五年前、天翔の指揮に合わせて伴奏をすることになっていた卒業式。どうしてももう一度あのピアノを弾いてみたい。テレビであのピアノのことを知ってから、胸のうちにずっと秘めてきた強い思い。この人の瞳には、そんな自分の切望がありありと映っているのだ。そして何としてでもそれを叶えさせまいと必死なのだ。
沙希は徐に腰をあげた。一礼をしてドアに向かった。一秒でも早くこの家から立ち去りたかった。
ドアノブに手を掛けたときだった。待って、と後から声がした。
驚いて振り返った。この期に及んでいったい何を言い出すのだろうか。
「でも…」礼子はこちらの足もとに視線を向けながら言った。気のせいか、目が虚ろになっている。「例外を認めても構いません」
「…」
「もし、健翔のことを諦めてくれるのなら…」
驚きのあまり耳を疑った。
「礼子さん、あなた、自分が何を言っているのか、わかっているんですか?」
「あの人には私がいないとダメなの。あなたには務まらないわ」
「務まるとか務まらないとか、そういう話ですか?」
「だってあなたが追い求めているのは健翔ではないでしょう?あなたが求めているのは天翔よ」
「礼子さん、それはあなただって同じじゃないんですか?」
壁のポスターが引き裂かれたあとのような沈黙が応接間を覆った。互いに袋小路に追い込まれた小動物のように睨み合った。
「失礼します」
小さく呟くとその場をあとにした。
自分勝手なのはよくわかっていた。だが、健翔からの誘いを断ってしまったことが悔やまれてならなかった。
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