第21話

 奇跡のピアノの修理が滞っているという話が聞こえてきた。

 ピアノは、鍵盤を押すとその奥にあるハンマーが下から弦を叩くようにできている。弦のもう片方の端は駒と呼ばれるパーツで支えられていて、駒は響板という大きな板の上に乗っかっている。そうやって、ハンマーに打たれた弦の振動が駒を介して響板に伝わり、響板が空気を振動させることで大きな音がなるのだ。

 奇跡のピアノはいったんは修復が終了したかに見えた。数え切れないほどの難題を、菅野が一つ一つ丁寧に乗り越えていったおかげだ。しかし、どう調律しても本来の音色が戻って来なかった。

 菅野によると、駒の部分に不具合があるらしかった。もう一度解体して駒全体を取り替える必要があるのだが、そのためにはピアノごと工場に送らなければならないのだという。

 ピアノ工場は静岡県内にあり、結局、説明のために健翔が一緒について行くことになった。本来なら菅野が行くべきなのだが、代わりに彼が行くことになったのだという。どうやら菅野は、ここのところずっと昼も夜もなく修理に精を出していたらしく、そのせいで体調を崩してしまったらしい。菅野自身も、並々ならぬ思いを込めてあのピアノのために頑張ってくれたのだ。

 東京首都圏では、少し前からH5N1ウィルスの変異株が猛威を振るっていた。健翔の身が心配で仕方がなかった。

 市民ホールでのお披露目リサイタルの日程は、まだ正式には決まっていなかった。ただ由美から聞いた話では、Rainbow Music Clubではリサイタルに向けて生徒達が猛練習しているとのことだった。来月か再来月くらいには開かれますのでしっかり練習しましょう、と、礼子が目の色を変えて子供たちを指導しているそうだ。


 そんななか、大樹の具合が悪くなり始めていた。

 朝の検温では微熱が続いていた。右腕に転移した悪性腫瘍を標的にして、週に一度だった放射線治療が毎日になった。いったんは打ち切られていた化学療法も再開され、生え揃い出していた髪がまた抜け始めた。

 大樹には相変わらず転移のことは知らされていなかった。だが、治療方法が変わったことで彼が薄々気づいているのは明らかだった。放射線の標的も一目瞭然だった。それでも彼は知らない振りをして、いつも通り気丈に振る舞っていた。

 彼は最近よく笑うようになった。過去と未来の何年か分の笑顔を一気に纏めて振りまいているみたいに。リハビリも頑張っていた。そしてチェロの練習にもことさら熱心に取り組んでいた。

 合同練習も定期的に続けていた。自分が市民ホールのリサイタルに参加できないことを沙希はまだ伝えていなかった。もしかすると、彼はもうそのことも知っているのかもしれなかったが——。

 彼はきっと、一人で演奏することになったとしても落ち込んだりはしないのだろう。チェロは彼にとっての生き甲斐なのだ。たった一人でもチェロを独奏すると、彼は自分でそう言ったのだ。

 生まれたときから、彼が数多くの人々に支えられてきたのは間違いない。それでも彼は、いつだって一人だったのだと思う。孤独だったという意味ではない。彼はいつも自由だったという意味においてだ。彼はいつだって一人自由に生きてきたのだと思う。そしてこれからも、彼は自分の気の赴くままにどこにでも流れてゆき、どんな場所をも照らし出すのだと思う。


 何日かして、久しぶりに面会ラウンジで由美と面談をした。

「本当に何から何までお世話になってしまって」彼女はそう言って深々と頭を下げた。「沙希さんがいなかったら、あの子もここまでやって来られたかどうか——。本当に感謝しております」

「そんな、およしください」沙希は顔をあげるよう仕草した。「あんなことがあったのに、ここまで自分のことを受け入れて頂いて…。こちらこそ、大樹君に救ってもらってばかりで——」

 ラウンジには二人の他に人影はなかった。ブラインドから差し込んだ西日がテーブルに落ちていた。開けっぱなしの窓の隙間から、微かにチェロの音が聞こえてきた。

「なんとか今度の発表会まで持ちこたえてくれるといいのですけど…」

「え?」と沙希は言った。「今度の発表会って——お披露目リサイタルのことですか?」

「ええ」と由美は言った。「佐藤先生に、万一の場合に備えるように言われましたので。もしかしたらって…」

「そうですか…」

 かろうじてそう言葉を絞り出したが、ショックでそのあとが続かなかった。

 主治医の言葉は重い。保護者にそう告げられたとすれば、何があってもおかしくない状態ということだ。目の前が真っ暗になって、面談はなんとなく尻切れトンボのまま終了した。

「大丈夫、沙希さん?」

 別れ際には逆に由美から気遣われてしまった。本当に情けなかった。

 夕方、勤務を終えて病院を出る前に大樹の部屋に立ち寄った。帰る前にどうしても顔が見たくなったのだ。

 だがノックをしても返事がなかった。

「大樹君、入るよ?」

 静かにドアを開けて病室に入ると、ベッドの周りに珍しくカーテンが引かれていた。カーテンを押しのけて中を覗いた。

 彼は目を閉じてベッドに横になっていた。一瞬ひやりとしたけれど、寝息を立てているのがすぐにわかって胸を撫で下ろした。

 こんな時間に寝ているなんて珍しい。お腹の上には本が乗っかったままで、寝息に合わせて微かに上下している。ニット帽を被っていない顔を見るのは久しぶりだった。薄くなった毛がひな鳥の頭みたいに見えた。毎日顔を合わせているのでかえって気づかなかったのかもしれないが、改めて見ると頬のあたりがだいぶ痩せこけたような気もする。

 音を立てないように病室を出ると自転車に乗って家路についた。

 ペダルを漕いていると貴宏の言葉が蘇ってきた。

「大丈夫、アイツは絶対死なないよ」

「オレが絶対に行かせやしないよ」

 頭の中で貴宏を罵倒した。このあいだはあんなに自信たっぷりに言っていたではないか——。

 ピアノの修理が滞っていると聞いたとき、礼子が動揺する姿を思い浮かべて溜飲を下げてしまった自分が恥ずかしかった。自分の愚かさに呆れた神様が罰を与えようとしているのかもしれない。そんな気がしてならなかった。

 なんとか大樹にリサイタルで思う存分チェロを弾かせてあげたい。それを観客席から思いきり聴きたい。どうかリサイタルがもうすぐ行われますように——。都合よくそう願わずにいられなかった。


 翌日、昼休みになってコートを羽織って中庭に出るとスマホが鳴った。通知画面を見ると健翔からのメッセージだった。

「沙希さん、こんにちは。安心してください、今日はお誘いのメッセージではありません。その代わりによい知らせと悪い知らせがあります」

「よい知らせ」と「悪い知らせ」という文字に視線が吸い寄せられた。何だろう。本当は、海の見えるいつもの場所まで行こうと思っていたのだが、近くにあったベンチに腰を下ろした。

「まずは、よい知らせから。

 奇跡のピアノの修理がついに完了しました。

 駒のパーツは、工場の皆さんが猛スピードで作ってくださったおかげで、たったの一週間でこちらに届きました。それから菅野と二人で組み立て直し、昨日整音まで辿り着きました。明るくて、やさしい澄んだ音がします。たぶん一五年前の音色が蘇ったと思います。沙希さんにも早く弾いてもらいたいです」

 飛び上がりガッツポーツしたくなるほどの歓喜に全身が震えた。一秒でも早く大樹に伝えたい衝動に駆られる。

 だがメッセージにはまだ先があった。スマホ画面に目を戻した。

「では、悪い知らせを——。

 H5N1に感染してしまいました。

 一昨日の朝、全身がだるく、熱を計ると八度五分ありました。そしてついさきほど病院で検査を受けてきたところです。軽症なので自宅で二週間自主隔離ということになりました。静岡へ行った帰りの高速で、東京のサービスエリアに立ち寄ったのがいけなかったかもしれません。幸い菅野は陰性でした。これで沙希さんとも二週間はお会いできません。というか、会ってくださいというしつこいメッセージが二週間は来ないので、沙希さんにとってはよい知らせかもしれませんね」

 市内で初めてH5N1ウィルスのクラスターが起こったのは、それから一週間後のことだった。障害児支援の施設内で児童たちが立て続けに感染してしまったのだ。

 感染経路の調査が行われた。感染した児童たちには明らかな共通点があった。クラスターが起こる三日前、彼らはある人物と数時間一緒に遊んで過ごしていた。

 ある人物とは、もちろん健翔だった。

 地元コミュニティのSNS上では彼に対する誹謗中傷が始まっていた。「マスクをしっかりとつけていなかったらしい」「いや、マスクはつけていたが、児童たちと素手で手を繋いでいたのが原因だろう」「数日前に東京へ出掛けて遊んでいたという話だ」「どうしてそんなにダラシ無いのか」「何故もっと人のことを考えて行動できないのか」「最近の若者は本当に怪しからん」

 一度火のついた攻撃はどんどんエスカレートし続けて、感染の前線から数千キロも離れた遠い場所まで弾が飛んでくるみたいだった。

「ボランティアと銘打って、実は政治活動らしい」「障害児を利用するとは笑止千万」「某良家の御曹司で、半分プー太郎みたいなもの」「東京の音大では箸にも棒にもかからずに何年間も遊び歩いていたらしい」「お兄さんは震災で亡くなったあの某天才児で、弟は比較にならないほどのただの凡人」

 ふうっと、深い溜息が漏れた。

 どこまでも平穏で、誰も彼も皆いい人そうな人たちで一杯のこの町のいったいどこに、そんな負のエネルギーが溜まっているのだろうか。本当に不思議で仕方がなかった。菅野ピアノ工房の常連の依頼人たちが、他のところへ調律を依頼し始めているという話を聞いたときには、唖然として言葉が出なかった。

 いずれにしても、市内中で感染が急速に広まっているのは否定しようのない事実だった。聖マリア病院でもあっという間に病床が埋まり、沙希が勤務を始めたときと同じような緊急体制に切り替えられた。

 一週間ほどして、朝、家を出ようとすると貴宏からメッセージが届いた。

「おはよう。今日、昼食休憩のときにチャペルに来てほしい。よろしく」

 また何かあったのだろうか。そのことが気になってしまい、午前中は時間が経つのが妙に遅く感じられた。また不注意なミスを犯さないように仕事に集中するのが大変だった。

 ようやく昼休みになった。沙希は昼食も取らずにチャペルに向かった。

 礼拝堂に入っていくと貴宏がピアノの前で待っていた。

「よう」

 彼はそう言って手をあげた。

「どうしたの?また何かあった?」

「ははは。オオカミに出くわしたアライグマみたいな顔してるな」

「もう冗談はいいから、早く言って」

 貴宏は白衣のポケットに両手を入れたままステンドグラスを見上げた。今日も聖母マリアがやさしげに微笑んでいる。

「ピアノの修理が完了したのは健翔君から聞いてるだろ?」

「うん」と沙希は目を逸らしながら言った。ここのところ貴宏が健翔のことを口にするたびに妙に緊張する自分がいた。

「それで、市民ホールでのお披露目リサイタルが来月開催で決まりかけているらしい」

「そう」

 力なく呟いた。やはり礼子が言っていた通り、本当に来月か再来月に開かれることになったということか。きっとすべては彼女の思い通りに進んでいるに違いない。こちらがどう足掻こうと、最初からどうすることもできなかったのだ。

「おいおい、人前でそんなにガッカリした顔したら看護師失格だぜ」

 内心溜息が漏れた。

 貴宏の明るさには本当に感心するばかりだ。苦境に陥っているのを楽しんでいるようにすら見える。誰とも交わらず、図書館に籠もって勉強ばかりしていた小学校の頃のあの暗い面影はもう跡形もなく消えてしまったみたいだった。

「ツンツルは脳天気でいいなあ」

 そう口にしたあとで、しまった、と内心で呟いた。

 たぶん彼はことさら明るく振る舞っているだけなのかもしれない。なぜならそれが——いつも笑っているということが——きっと、彼の生き方だからだ。それが、母子家庭の家で幼い頃から努力を重ねてきた彼が辿り着いた一つの答えだったからだ。

 そういえば、彼は前に、震災後は県外の施設にいた、と言っていた。あの時は余裕がなくて尋ねることができなかった。だが、施設とは何のことだったのだろう。何度か河川敷で見かけた彼の母親や弟はどうしているのだろう。そんな大切なことが今頃になって気になり始めた。

「ねえツンツル」沙希は苦し紛れに言った。「昔のこと覚えてる?よく屋上で私が円谷君のことを待ってたとき、いつもふと現れて励ましてくれたよね?」

「もちろん覚えてるさ」貴宏はこちらへ振り返った。珍しくちょっと真剣な表情を浮かべている。「沙希ちゃんからもらった手作りのチョコレートのこともよく覚えてるよ」

 言われてからハッとした。そう言えばそんなことがあった。バレンタインデーのことだった。万が一の望みにかけて天翔を屋上で待っていた。だが彼はやって来なかった。その代わりに貴宏が姿を現したのだった。「このあいだはありがとう」というメッセージカードが入った包みを迷った末に彼に渡したのだ。

「円谷にあげるつもりだったのが、オレのところに回って来たんだよな」 

 彼はそう言って微笑んだ。

「ごめん、ツンツル」

 やはり彼にはすべてわかっていたのだ。誤解されるかもしれないなんて躊躇していた自分が本当に愚かしく思い出された。

「それでも嬉しかったぜ、あれは」

「え」

「御返ししてなかったよな。ホワイトデーってやつがあと数日で来るってところで震災が来ちまったからな」

「うん」

「お返しする。あの時の御礼に。いまから」

「は?」

 いったい何を言っているのだろうか。

「これさ、さっきからここにあるのに全然気づいてないよな」貴宏はそう言ってピアノのそばに近づくと、楽譜台の横のあたりを指さした。「さすが沙希ちゃん、天性の天然だな」

 見ると楽譜台の横のスペースにタブレットが横向きに置かれていた。近づいて画面の中を覗き込むとこちらに向かって誰かが手を振っていた。健翔だった。

「何なのこれ?」

 思わず貴宏のほうへ振り返って叫んだ。

「だから御礼だってば」彼はそう言って笑っている。「さっきからずっとこちらの様子は映ってたんだ。いつ気がつくかと思ってたんだが——」

「どういうこと?」

「いや、別にどういうこともこういうこともなくて」

「声も聞こえているの?こちらの声、健翔君に?」

「もちろん」

 貴宏はそう言ってタブレットの画面に指を振れた。すると健翔の声が聞こえてきた。

「沙希さん、こんにちは。だいぶお久しぶりですね」

 画面に目が釘付けになる。健翔の顔を見るのはあの晩以来初めてだった。かろうじて笑顔を浮かべているが、顔の肉がすっかり落ちてどんよりと憔悴し切っている。ネット上でありとあらゆる非難が自分に向けられていることも知っているのだろう。

 彼はさっきからずっと、自分と貴宏が天翔の話をしているのを聞いていたのだと思うと顔が熱くなった。しかもあのバレンタインのチョコレートの話までしてしまったのだ。

 言葉を失って呆然としていると、耳元で貴宏が囁いた。

「落ち込んでいる彼を励ますのが沙希ちゃんの役目だ。そのチャンスをオレが与えてやる。それがオレからの御礼だな」

 二人の男性から見詰められて、胸の鼓動が波打っているのがわかった。貴宏がピアノの椅子を手前に引いて座るように促した。言われるままに腰を降ろした。

 貴宏は何も言わずタブレットを手に取ると、ピアノの左手に置かれた椅子の上に立て掛けた。そして、自分はその向こうのベンチに半立ちの姿勢で腰かけた。健翔のために何か弾けということなのだろう。

 突然のことに気が動転していて、とてもピアノを弾けるような状態ではない。横目でタブレット画面に視線を遣ると、健翔がこちらを見つめている。その向こうでは貴宏が腕組みをしてこちらを眺めている。

 沙希は瞳を閉じた。鼓動が激しく波打っている。目蓋の裏側を色々な感情が絡み合ったまま流れていく。

 やがて頭の中に、本町第二小の屋上で天翔とともに聴いた『別れの曲』の古い録音が流れ始めた。ザラザラという古いレコードの雑音に続いて、女性たちのコーラスが始まる。沙希は鍵盤に手を置くと、ゆっくりと『別れの曲』を弾き始めた。

 天翔との思い出の場所が次々と頭の中に浮かび、そして消えていく。海岸沿いの公園、体育館の舞台、そして屋上へ昇る最後の階段。時を経れば経るほどますます記憶が鮮明になっていくのが不思議だった。

 『別れの曲』のメロディーに乗って、天翔の笑顔や、掌の温もりや、彼のあの匂いが蘇った。普段なら必死で目を瞑り、見て見ぬふりをしている心の隙間がどんどん大きく広がっていく。

 健翔の気持ちは本当に嬉しかった。だが、やはり彼にはこの空白を埋めることはできないのだ。なぜなら彼は、あの頃そこにいなかったから。兄の代わりであっても構わないと、どんなに彼がそう言っても、あの頃の記憶を共有していない彼との間には埋められない溝がある。人間って、そんなに簡単に誰かの代わりになれるものじゃない。皮肉にも、彼のためにピアノを演奏しているうちに、そのことがはっきりわかった気がした。

 『別れの曲』は最後の小節に近づいた。再び主題のメロディが繰り返される。不思議と孤独を感じた。

 寂しかった。誰もいない穴の底で一人切りで蹲っているみたいな暗い気持ちになった。孤独って思い出を分かちあう者がいないことなのだ、と思った。自分にはあの頃の記憶を共有できる人は貴宏を除いて誰もいなかった。本当に一人だった。

演奏を終えた。タブレットからいくらか籠もった拍手の音がして、礼拝堂の中に響き渡った。

 振り返ると、ベンチに貴宏の姿がなかった。彼が腕を組んで腰を掛けていた辺りが妙にがらんとして見えた。

 折角のムードを台無しにする下らないジョークが聞きたかったのに、もう彼はそこにいなかった。

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