第18話

 演奏が始まると、沙希は開演前の動揺が嘘のように何もかも忘れ、チェロの音に心を奪われた。

 無伴奏チェロ組曲、第1番ト長調。プレリュードが始まると、体が震えた。アルマンドが終わり、クラントからサラバンドへと、八十近くになっても少しも衰えを見せないヤノフスキーの運指の正確さに、聴衆の目は釘付けになった。そして、すっかり白くなった長い髪を振り乱しながら、ヤノフスキーはメヌエットからジーグへと、六つの組曲を弾き終えた。それから小休止を挟み、第2番ニ短調、第3番ハ長調まで、プログラムはあっという間に終わってしまった。

 本当ならそこで閉演になるはずだった。けれど、意外なハプニングが待ち受けていた。

 いつまでも拍手が鳴り止まなかったせいだろうか、ヤノフスキーが再び舞台に姿を現した。今回のリサイタルでは、アンコールは予定されていなかった。事前の案内にも態々そう謳われていたので、席を立ち始めていた聴衆たちは驚いて慌てて座り直すほどだった。どうやらヤノフスキー本人がもう一曲弾きたいと願い出たようだ。

 舞台中央の椅子に着席しなおすと、ヤノフスキーは会場をゆっくりと見渡した。それから僅かに俯くと、瞳を閉じた。彼が黙祷を捧げていることはすぐに聴衆に伝わった。会場全体を静寂が包み込む。沙希は目を閉じた。目蓋の裏側に暗闇が広がった。何も考えられなかった。無心で闇の中を見つめた。

 目を開けると、ヤノフスキーはまだ目を閉じていた。少しすると、彼はゆっくりと目を開けた。それから、彼の視線が会場左手のどこかに向かって注がれるような気配がした。単なる気のせいかもしれなかったが、思わず視線の先に目を遣った。礼子の横顔が見えた。彼女は凜とした姿勢で、舞台のほうをじっと見つめていた。

 ヤノフスキーが演奏を始めた。信じられないことに、サン=サーンスの『Le Cygne』だった。ピアノ伴奏なしでこの曲がチェロで独奏されるのを聴くのは初めてだった。咽び泣くようなチェロの音が会場に木霊する。哀しくて、やさしくて、切なくて、温かくて、無数の感情が込み上げ、絡み合い、消えていく。途中からとうとう堪えきれなくなって、涙が溢れ出てしまった。もうヤノフスキーの姿もよく見えなかった。ただ、チェロの音が心の奥深くまで染み込んで来るだけだった。

 ふと、隣座席からハンカチが差し出された。

「ありがとう」

 小さくそう呟いて受け取ったハンカチは、すでにびっしょりと濡れていた。


 コンサートが終わると、二人は無言のまま市民ホールをあとにした。

 もう見つからないだろうと諦めていたものが偶然見つかったときのような感動がしみじみと続いていて、話すのを忘れていたのだ。そしてそれは、健翔にとっても同じようだった。

「やだ。大樹君たちのこと、すっかり忘れてた」

 沙希が思い出したようにそう言ったときには、二人はもう駅前でバスを降りるところだった。

「うわ、そうでしたね」と健翔は目を大きく開いて言った。

「それに、健翔君、ヤノフスキーさんに御挨拶しなくてよかったんですか?」

「ああ、それもありましたね」

「いまから戻っても、もう遅いかな?」

「うーん、ちょっと厳しいかもしれませんね」

「ごめんなさい」

「いえいえ、そこは沙希さんが謝るところではありませんよ」と健翔は苦笑した。「ヤニスは幼い頃から兄のことをとても可愛がっていたんです。僕が行っても、代わりにすらなりませんよ」

 やはり彼は礼子が開演前に口にしたことを気にしていたのだ。彼の口から、どうせ、という言葉が出てこなかったのがせめても救いだった。

「それより沙希さん、まだお時間大丈夫ですよね?知り合いのイタリアン・レストランがあるんです。よろしければ一緒に夕食を如何ですか?」

 次々と訪れる浮ついた出来事に戸惑った。しかしそれを拒むだけの潔さを持ち合わせているわけでもなかった。腹のそこに生じている疚しさを横目に、

「そうですね。折角ですし、ではお願いします」

 と言って、これ以上ないくらい慎ましやかに御辞儀をした。

 健翔は笑みを浮かべて言った。

「よかった。では、歩くとちょっとありますので、タクシーで行きましょう」

 二人はタクシーに乗り込んだ。健翔が行き先を伝えると、運転手は頷いて車を発進させた。駅の裏手の住宅街のほうへ向かっているらしかった。

 健翔はケータイを取り出すとレストランに電話をかけ、これからお伺いします、と伝えていた。タクシーは住宅街の坂を昇り始めた。ピアノ工房があるのと同じ方角のようだった。

 沙希はスマホにメッセージを打ち込んだ。

「ごめんなさい、健翔君ともう駅前まで来てしまっていて。大樹君は大丈夫ですか?」

 送信ボタンを押した。

「佐藤先生にですか?」と健翔が言った。

「そうです」

「大樹君、大丈夫でしたかね?」

「わたしもそれが心配で——。でも、きっと大丈夫です。何かあったらすぐ連絡が来るはずですので」

 健翔は笑みを浮かべて小さく頷いた。

 少しすると、タクシーが停車した。高台の中腹あたりの住宅街だった。丘の斜面に沿って洋風のこぎれいな家が何軒か並んでいて、そのうちの一軒の庭先にイタリア国旗のロゴが入った看板が出ていた。

 ドアを押して中へ入ると、白いコック服とコック帽を身に纏った店主らしき若い男性が出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 そう言って男性は健翔に向かって右手を差し出した。健翔は握手をしながら、

「ちょっと御無沙汰しちゃったかな」

 と言って微笑んだ。

「いえいえ。さあ、こちらへどうぞ」

 二人は湾の夜景が見下ろせる窓際の席に案内された。静かに凪いだ夜の海が月明かりに照らされて幻想的な黒さを漂わせている。見慣れた海のはずなのに、見たこともないような新鮮な情景に小さな溜息が漏れた。

「マスターの彼、本町第二小の同級生なんですよ。大学を出てからイタリアで三年間修行して帰って来て、一年くらい前にこの店を開いたんです。味のほうは僕が保証しますよ」

 店内には他に数組の客がいた。テーブルの上に点されたキャンドルの明かりが、薄暗い店内をやわらかく包んでいる。何かのピアノ曲が静かに流れていた。

 少しすると、マスターが白ワインのボトルを持ってやってきた。慣れた手つきでコルクが抜かれ、グラスにワインが注がれていく。

「いつものやつでよろしかったですかね?」

「ええ」と健翔は言った。「沙希さん、ワインは大丈夫でしたかね?」

「あ、はい。では少しいただきます」と沙希は言った。

「BGM、いつものに変えますね」とマスターが言った。

「お気遣いなく」

「いやいや、自分も健翔の顔を見ると、どういうわけか聴きたくなっちゃうんですよ」

 彼はそう言い残して厨房へ姿を消した。少しすると、ピアノ曲から何かの歌曲へと音楽が変わった。

「この曲、覚えていますか?」と健翔が言った。

 沙希は黙って耳を澄ませた。それから、あ、と声を発した。

「『妖精ヴィッリ』です。プッチーニの。初めて沙希さんと出会ったとき、僕が聴いていたやつです。あの工房で」

 旅立つロベルトについていけない寂しさをアンナが歌い上げている。哀しげなソプラノが薄明かりの店内に静かに流れている。

「実は、このお店の名前、ファータ・デラ・フォレスタ——イタリア語で、森の妖精っていうんですよ」

 健翔はそう言って微笑んだ。

 もしかすると、その店名は彼がつけたものなのではないのだろうか。そう尋ねようとすると、ちょうどマスターが前菜を運んで来て会話は途切れてしまった。

「ヒラメと新かぶのカルパッチョです。いい魚が入ったものですから」

 そう言って彼は皿を並べた。

「お連れの方は、何か苦手なものなどございますか?」

「えっと、あ、私?」

 沙希はそう言って顔をあげた。久しぶりに口にしたアルコールがもう回ったようだ。頭が少しぼうっとしている。もともと酒にはあまり強くない。

「ええ」とマスターは微笑んだ。

「全く、何も。強いて言えば、バナナの皮だけはいつも残しますけど」

 酔ったせいだろうか。そんな言葉が口から出てしまった。言ってから恥ずかしさで余計に頭が熱くなった。

 それを聞いた二人の男性は顔を見合わせて笑った。

「わかりました。では、お任せということでよろしいですかね?幸い、バナナの皮は切らしておりますので、ご安心ください」

「ええ、それでお願いします」と健翔は笑いを堪えながら言った。

 何か話題を変えたくて、マスターが再び厨房に消えると沙希はすぐに言った。

「こちらへはよくいらっしゃるんですね?」

「そうですね。まあ、時折ですが」

「レストランに来て、お料理をお任せするのなんて、私、初めてです」

「そうですか?」と健翔は微笑んだ。「まあ僕もいつもそうしているわけじゃありませんよ。友人のお店なので、偶々ですよ」

 ふと会話が途切れた。健翔はワイングラスを傾けながら窓の外の夜景に目を遣った。

 さりげなく彼の横顔を盗み見た。夜景の灯りが瞳に映って、ゆらゆらと揺れている。綺麗な目をしていた。見ていると吸い込まれそうだった。

 再び胸の鼓動が高鳴り始めた。

「今日はありがとうございました」と健翔は小さな声で言った。「本当に楽しかったです」

「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」と沙希は返した。「本当に素晴らしい演奏でした」

 健翔はいくらか微笑んで、また窓の外へ視線を向けた。胸の奥に何か言いたいことがあるのに、なかなか言葉にならない——そんな顔をしていた。ぎこちない沈黙が二人を包んだ。

 沙希は健翔の言葉を待った。BGMでは、旅立ちの時が来たロベルトが悲しみに暮れるアンナに再び愛を誓っていた。

 何かを思い出したように、ふと健翔がこちらを向いた。それから言った。

「本当は今日のリサイタル、レイちゃんから誘われていたんです。あ、いや、礼子先生から——」

 彼の口から出て来た唐突な言葉に、沙希は飲みかけていたワインをグラスから零しそうになった。

「大丈夫ですか?」と彼は言った。

「大丈夫です、レイちゃんで」沙希は微笑んだ。

「すみません」

「全然」

 さっきから彼が言おうかどうか迷っていたのは、そんなことだったのか——。

 本当は他の女性から誘われていたのを断って、あなたをお誘いしたのです。相手からそう言われて素直に嬉しいと感じる女性などいるわけがない。彼だって当然そんなことはわかっているはずだ。だったらどうしてわざわざそんなことを口にするのか、不可解だった。

 健翔は顔をあげて、ワインを口にしながらぼんやりとBGMに耳を傾けている。ロベルトのテノールが悲痛な思いを歌い上げていた。

「でも」と沙希は健翔を見つめながら言った。「だったらどうして礼子先生と行かなかったんですか?どうして私なんかを誘ったりしたんですか?」

 やはり酔いが回ってしまったようだった。そんな女子高生のようなことを口にしている自分がひどく遠くにいるように感じられた。自分の人生が誰かに乗っ取られ、勝手に生きられていく感覚がいっそう強まっていく。

「それはもちろん」と健翔はすぐに応じた。気のせいか、少しだけ声が上ずっている。「沙希さんとまたお会いしたかったし、沙希さんと一緒にヤノフスキーが聴きたかったからですよ」

「本当に?」

「本当ですよ」

「本当に、本当?」

「本当に、本当ですよ」

 じっと彼の瞳の奥を覗き込んだ。もしかすると、遠回しに告白されているのだろうか——。そう思うと、歓喜と疑念が交互に押し寄せた。体が火照り、頭の中がひどく熱かった。

 ふと、開演前に礼子が口にした言葉が脳裏を掠めた。お兄さんの代わりに——そう彼女は言った。彼女は健翔が傷つくのを百も承知で、口元に笑みを浮かべながらそう言ったのだ。

 健翔はまるでこちらの心のうちを見透かしているかのように続けた。

「今回、レイちゃんがどうしてもと言って、ヤノフスキーを東北にも呼んだのです。彼も以前から来たがっていましたし——。レイちゃんは幼い頃からヤニスとは知り合いなんですよ。兄がヤニスに可愛がられている隣には、いつも彼女がいましたからね。僕はそんな二人を遠くから見ていただけなんです」

「そうだったんですね」

 沙希は健翔の顔を見つめた。

 ひどい女だと言って礼子のことを責めるのは簡単だった。実際、心の中はそうした気持ちに占領される寸前のところにあった。しかし、自分だって人を傷つける言葉を嫌と言うほど口にして、嫌と言うほど人を傷つけてきたのだ。だから自分にもよくわかる気がした。それは気持ちの裏返しなのだ。

 きっと口にすべきではないのはわかっている。だが、衝動を抑えきれなかった。

「礼子先生、健翔君のことが好きですよね?」

「え」

「ごめんなさい」と沙希は目を逸らしながら言った。「開演前のお二人を見ていてそう感じたんです。違いますか?」

 健翔は沙希の顔を凝視した。それからワイングラスに視線を落とすと、無言のままじっと何かを考えていた。

 焦ってはいけない。ゆっくり彼の言葉を待てばいい。そう自分に言い聞かせた。

 やがて健翔は独り言のように呟いた。

「たぶん、そうなのだと思います。ただ——」

「ただ?」

「ただ、ちょっと重たいっていうか——」

 沙希は黙って頷いた。それから言った。

「礼子先生の気持ちが、ですか?」

「そうですね。なんて言ったらいいのか——」健翔は一瞬口籠もり、それから言った。「つまり、彼女が見ているのは僕ではない気がするのです」

 そこまで行ってようやく我に返った。馬鹿な問いを発してしまったことに後悔の念が沸き起こった。もういいよ。その先は言わなくていいよ。心の中で咄嗟に呟いた。

 だがもう遅かった。健翔は窓の外をぼんやりと見つめながら続けた。

「彼女が見ているのは——兄です」

 予想通りのその言葉は、思っていたよりずっと奥深くにまで突き刺さって来た。

 健翔と出会って以来ずっと、気づいていたことだった。自分の瞳に映っているのも、彼ではなかった。いつだって兄の姿だった。それでもいいと思っていた。どんなに僅かであったとしても、心の隙間を埋めてくれるのなら、代わりだって構わないと思っていた。だがそんなことあっていいわけがなかった。いま、ようやくそのことに気づかされた。

 ウエイトレスが料理を運んで来た。まだ大学生くらいだろうか。白黒のストライプ柄のヴェスト・エプロンがよく似合っていた。

「黒毛和牛の煮込み、マッシュルーム風味と、ジャガイモとサルシッチャのオーブン焼きでございます。お好みで胡椒をどうぞ」

 女性は小さく御辞儀をすると、すぐにまた厨房へ戻って行った。

「辛気くさい話になってしまいましたが、さあ、冷めないうちに食べましょう。お取りしますよ」

 健翔はそう言って微笑むと、料理を取り分けてくれた。

「ありがとう」と沙希は言った。

 サルシッチャを頬張ると、肉汁の甘みが口一杯に広がった。これまで味わったことのない美味しさだった。

 少しの間、二人は黙って料理を口に運んだ。ナイフとフォークの音が静かに木霊した。

 ワインは白から赤に変わった。健翔は沙希のグラスにワインを注ぎながら言った。

「沙希さん、結構お強いんですね」

「いえいえ」と沙希は言った。「そんなことはないんです。今日はどういうわけか、するする体に入ってくるっていうか——」

 健翔は小さく笑った。それから続けた。

「実は今日、もともと僕とレイちゃんのことをお話ししようと思っていたんです」

「え」

「無神経な奴だなって呆れたと思いますけど——。さっきもほら、すごく驚いていたから」

「あ、いえ。そんなには——」

 確信犯だったのか。いったいどういうことなのだろうか。

「兄を失ったあと」と健翔は続けた。「うちの家は——もちろんどこの御家庭もそうだったと思いますが——何もかもが変わってしまいました。会話が途絶えて、それまではいつも何かの音楽に満たされていた家の中は、まるで真夜中の砂漠みたいにしんとしてしまって、冷たい静けさに包まれるようになりました」

 彼はナイフを動かす手を止めて、窓の外に目を遣った。いろいろな思いが彼の脳裏を過っているのがわかった。少しして彼は続けた。

「震災から一年くらい経ったある夜、二階の部屋から降りてくると、僕は誰かが泣いている声を耳にしました。僕はそっとリビングのドアに近寄りました。泣いているのは母でした。しくしくと、本当に悲しそうな声で母は泣いていました。向かいのソファに父が座っているらしく、時々ぼそぼそと母を慰めるような声が聞こえました。僕は胸が一杯になりました。僕は母のことがとても好きでしたから。息子の自分が言うのもなんですけれど、母はやさしくて、人格者で、いつも笑っている、そんな素敵な女性でした。僕はいまにも溢れ出しそうになっている涙を拭おうとポケットからハンカチを出しました。そのときでした。ドアを通じて、母の言葉がはっきりと聞こえました。母はこう言いました。あの子が天翔の代わりだったらよかったのに——」

 健翔はワイングラスを手に取ると、喉元に流し込むように一気に飲み干した。それからまた続けた。

「もちろん僕は、自分の耳を疑いました。それまで彼女の言葉はほとんど聞き取れなかったのに、どうしてその部分だけそんなにはっきり聞こえて来たのだろう?本当は幻聴だったのではないだろうか?勝手に自分でそう聞き間違えただけではないのだろうか?僕は咄嗟にそう考えました。それは幻聴であったとしても少しも不思議ではなかったのです。なぜなら僕自身が、震災後、毎日毎日、全く同じことを考えていたからです。自分が兄の代わりだったらよかったのに——。僕は崩れ落ちるように床の上にしゃがみ込みました。そのあとのことは、よく覚えていません。気がつくと僕はベッドの中にいて、窓から白い朝日が差し込んでいました」

 健翔はうっすらと笑みを浮かべていた。それは、この十五年間の彼の思いがはち切れそうなくらいに詰まっている、そういう笑みだった。いますぐ椅子から立ち上がり、手を伸ばして彼の身体に触れたい衝動が全身を駆け巡った。

「それから少しして、僕は子供心にある決心をしました。僕は兄の代わりに死ぬべきだった。でも神様は僕に逆の運命を生きるように命じられた。それなら僕は、生きて兄の代わりになろう。僕はそう心に誓いました。それから僕は自分にできる精一杯の努力をして、兄の代わりになろうともがき苦しみました。兄が進学するはずだった東京の音大付属の中学校にも進学して、そのまま音大へと進み、兄と同じ指揮者を目指して頑張り続けました。ですが、僕の才能はたかが知れていました。所詮、どれほど頑張ったところで兄の代わりになんてなれるわけがありませんでした。兄がどれほどの才能に恵まれていたか、いまさら僕が語る必要はないでしょう。兄は天才でした。そして多くの神童たちがそうであるように、兄は夭折したのです」

 『妖精ヴィッリ』はクライマックスに差し掛かっていた。幽霊となって生き返ったアンナのソプラノが、蝋燭の明かりに揺れる店内に静かに木霊していた。

 健翔は続けた。

「僕はただの抜け殻でした。兄の代わりを目指せば目指すほど、僕はただ、自分ではない誰かになっていくだけでした。兄に近づくことなんて、たったの一歩もできなかった。本当につらい日々が続きました。できることなら死んでしまいたい。何度もそう思いました。でもそれは僕には許されていませんでした。なぜなら僕に与えられた運命は死ぬことではなく、生きることだったのですから。僕は真っ暗な森の中をいつまでも彷徨い続けていました。いったん迷い込んでしまった森の闇はどこまでも深いものでした。僕は誰かになろうとして、結局誰にもなることができないまま、ただ自分を見失い続けました。出口があるとは思えませんでした。閉ざされた闇の中を、このまま永遠に彷徨うしかないのだと思っていました」

 沙希の脳裏に、仮設住宅の四畳半が蘇った。閉ざされたままのシャッター。引かれたままのカーテン。夜なのか昼なのかもわからないまま、じっと蹲っていたあの十年間。出口のない深い森の中に迷い込んでしまったというあの感覚。まったく同じ頃、彼もあの森の中を彷徨っていたなんて、本当に信じられなかった。しかも暗闇の中で二人が追い求めていた人は紛れもなく同じ一人の人間だったのだ。不思議な巡り合わせに、ただただ言葉を失うばかりだった。

「僕が森の中を彷徨っている間ずっと、僕のそばでいつも見守ってくれている人がいました。その人がいなかったなら、いまの僕はなかったかもしれません」

「それが礼子先生だった…」と沙希は言った。

 健翔は頷いた。

「誰にも言い出せずに苦しんでいる僕に向かって——実際、僕は、僕自身に向かってすら言い出せずにいたのだと思いますが——指揮者を諦めるように言ってくれたのは彼女でした。正直、その言葉を初めて聞いたとき、僕は再び自分の耳を疑いました。いったいこの人は何ということを言い出すのだろうかと、信じられない気持ちで一杯になりました。そして激しい怒りが胸のうちに込み上げました。彼女の頬を思い切り叩きたい衝動を堪えるのに必死で戦わなければならないほどでした。もしここで止めてしまったら、自分のこの十年間の苦しみはいったい何だったのか?人の気持ちも知らずに、どうしてこの人はそんなに簡単にそんなことを口にできるのだろうかと、僕は心の中で怒り狂いました。僕はあまりの怒りからしばらく彼女と連絡を取ることすら拒みました。もう二度と顔も見たくない。本当にそう思っていました。しかし——」

 健翔はふと視線を落として、テーブルの上のキャンドルに目を遣った。彼の瞳に蝋燭の炎が映って揺れた。彼は炎を見つめたまま続けた。

「しかし僕の脳裏には、彼女の言葉がまるで種痘のように刻み込まれていました。僕は一人、暗い部屋の中で何度も彼女の言葉を反芻し続けました。そして一月ほど悩み続けていたある晩、どこか遠くから水の音が聞こえてくる気がしたのです。僕はその音にじっと耳を澄ましました。どこかの山肌から、人知れず水が湧き出でているんです。それは美しい水でした。冷たくて、どこまでも透明で。溢れ出た水はやがて沢となり、樹木の根元をゆっくりと流れ始めるのです。そして、苔むした岩や枯れ朽ちた木々の根の間をすり抜けるようにして、水はどこかに向かって流れていくのです。僕はそれから何日もの間、真っ暗な森の中を流れていく水の音に耳を澄まし続けました。そしてある晩、水が流れていく遠く先のほうに、一条の光が差し込んでいるのが見えたのです。それは、目を逸らせばいまにも消えてなくなりそうな、ひどく微かで、淡く、儚い光でした。けれどもそれは美しい光でした。眩しくて、純粋で、澄み切っていて。僕は、それは兄だと思いました。あの日、兄の最後のとき、小学校の屋上にほんの一瞬だけ差し込んだあの光のことが僕の脳裏を過りました。きっと兄は光になって天上へ昇っていったのだ。僕はそう思いました。そしていま、その兄が、真っ暗な森の中で彷徨い続けている自分に向かって、光を照らしてくれているのだ。僕はそう感じました。そしてようやく僕は、東京の音大をやめて東北に帰ろうと決意しました。僕には兄が呼んでいる気がしてならなかったのです。もういいから、帰って来いよ。兄はそう呼んでいました。水と光でいっぱいのこの故郷の地に、もういいから、帰って来いよ——」

 健翔はそこまで話すと唐突に沈黙に落ちた。沙希は、ごめんなさい、と小さく呟くと、化粧室へと席を外した。

 鏡の中には化粧が流れ落ちてしまったひどい顔が映っていた。BGMが微かに聞こえてくる。アンナの澄んだソプラノがロベルトへの怨念を高らかに歌い上げていた。

 化粧を整えて席へ戻ると、意外にも健翔はマスターと楽しそうに話し込んでいた。

さっきまでの虚ろな瞳が嘘のように、晴れやかな笑顔を浮かべて彼は言った。

「沙希さん、甘いもの、召し上がりますよね?マスターが作るイタリアンジェラートが絶品なんですよ。是非食べていってください」

 沙希は内心呆気にとられながら、

「はい。では是非」

と言った。

「今日は、ピスタチオのジェラートを御用意しております。もうお持ちしますか?」

「うわっ、ピスタチオですか。沙希さん、これが本当に絶品なんですよ」健翔は満遍の笑みを浮かべて言った。「少し早いけど、もう頂いちゃいましょう。マスター、お願いします」

「かしこまりました」

 マスターは小さく御辞儀をすると厨房の中へ姿を消した。

 沙希は密かに健翔の様子を窺った。彼は窓の外へ目をやりながら、にこやかな表情を浮かべてワイングラスを傾けている。

 数分前と打って変わったこの晴れやかな顔はいったい何なのだろうか。礼子とのことを自分に明かしたせいで、何かしら心の整理でもついたということなのか。彼にとって、天翔のことはもう過去のことに過ぎないのだろうか。

 少しすると、マスターがピスタチオのジェラートを運んできた。淡い黄緑の色合いが鮮やかで、思わず目が釘付けになった。

「イタリア、シシリー産のピスタチオを使用しております。お口に合いますかどうか。どうぞ召し上がれ」とマスターは言った。

 沙希はスプーンの先でジェラートを掬うと、二人の男性が見つめるなか、ゆっくりと口の中に頬ばった。その瞬間、美味しい、と声が漏れた。

「ありがとうございます」とマスターは言った。

「美味しい」と沙希は繰り返した。「これ、本当に美味しいです。お世辞とかではなく、本当に、感動的な美味しさかも…」

「ね、言ったとおりでしょう?」

健翔は珍しくこれ以上ないくらいに自慢げな表情を浮かべた。

「ああ、食べさせてあげたいなあ」

 沙希はそう言いながら溜息をついた。あまりの美味しさに、何も考えずに言葉が漏れてしまった。

「それは」と健翔は言った。「誰にですか?」

「子供たちにです。小児科病棟の」

「なるほど」と健翔は言った。それからいくらかの間を置いて彼は続けた。「そうだ。いい考えを思いつきました。チャペルでお披露目リサイタルを開いたときに、子供たちに食べさせてあげたらどうでしょう?もちろんファータ・デラ・フォレスタには正式に注文をするということで。子供たち、きっと大喜びしますよね?うわっ、それって我ながらいい考えですよね?ね、沙希さん、どうですか?」

 海岸沿いの公園で彼と出会ったときのことが沙希の脳裏を過った。子供たちのことになると、彼自身が一人の無邪気な子供のように何の憂いもなく輝き始めるのだ。

「でも…」と沙希は口籠もった。

「でも、何ですか?」と健翔は言った。

「お披露目リサイタルをチャペルで開けるかどうか、まだわからないし…」

「あ、そうか」と健翔は驚いた様子で言った。

 呆れた。彼はそのことをすっかり忘れていたらしい。貴宏なら、絶対できるよ、と強引に言い張ったかもしれない。二人はたぶん正反対の性格なのだ。

「あの、失礼ですが、お披露目リサイタルというのはいったい——」

 話を聞いていたマスターが言った。

「ああ、すみません」と健翔は言った。「本町第二小の体育館にあったピアノの話ですよ。ほら、前にうちで預かって修理しているというお話をした」と健翔は言った。

「ああ、奇跡のピアノのことですね」とマスターは応じた。

「そうです。あのピアノが修復された暁に、コンサートを開こうとしてるんですよ」

「そうだったんですね。それは楽しみだなあ」マスターの顔が綻んだ。

「そうでしょう?」と健翔も微笑んだ。「ただ、ちょっと話が拗れてしまっていて——」

「拗れて?」マスターは怪訝な表情を浮かべた。

「是非うちの病院のチャペルで開かせて頂きたいって、そう思っていたのですけど——」と沙希は言った。

「紹介が遅れましたが、沙希さんは聖マリア病院の小児科の看護師さんなんです」

「ああ、なるほど」とマスターは頷いた。「それで、そちらのお子様たちにうちのジェラートをということですね?ようやく話が繋がりました」

「ただ」と沙希は躊躇いがちに言葉を繋いだ。「他にも、あのピアノを引き取りたいと仰っている方がいて——」

「はあ、なるほど」マスターはそう言ってぼんやりと健翔の様子を覗った。

 健翔はマスターの顔をまじまじと見据えると、はっきりとした声で言った。

「礼子さんですよ」

 マスターはキョトンとした顔を浮かべた。「竜石堂様が?」

「ええ。どうしても市民ホールでやりたいと言っていて——自分の教室の生徒さんたちだけでね」

 健翔はそう言って苦笑した。

 心優しい彼は決して言葉にこそしないけれど、やはり小児科の子供たちや、彼がボランティアをしているユーカリ学園の子供たちがコンサートに入れてもらえないことを心よく感じていないのだ。珍しく彼の言葉にその思いが滲み出ていた。

 マスターはきっとそのことを訊いて来るだろう、と思った。だが彼は全く別の話をし始めた。思いもしない意外な話だった。

 マスターは突然何かを思い出したように、あっ、と大きな声をあげた。

 沙希と健翔は驚いて彼の顔を見上げた。

「そうか。彼女だったんだ。どうして今まで気づかなかったんだろう」

 マスターはどこかを見つめながら独り言のように呟いた。気のせいか、いくらか顔が青ざめている。

「えっと、マスター」と健翔は苦笑した。

「あ、いや、失礼しました」と彼は小さく頭を下げた。「実は、あることを思い出しまして」

「なにか礼子先生と関係のあることですか?」と沙希は尋ねた。

「はい、おそらく。いや、きっとそうに違いありません」

「マスター」健翔は痺れを切らしたように言った。「よかったら話してもらえませんか?」

「ええ、わかりました」とマスターは答えた。それから小さく深呼吸をすると、彼は続けた。

「実は、あの日——つまり、三月一一日のあの日のことですが——自分は地震の直後にいったん学校に戻ったんです。もう公園に向かう坂道を登りかけていたのですが、途中で忘れ物に気がついたものですから。すでに津波警報のアナウンスが盆地に何度も鳴り響いていて怖かったのですが、でもあの時はまさかあんな津波が来るなんて夢にも思いませんでしたし、急いで走って行ってくれば三〇分くらいで戻って来られるはずだから、まあ、大丈夫だろうと。それで、全力で走り続けて、商店街を越えて、学校まで辿り着きました。玄関口は下駄箱がめちゃくちゃに倒れていました。あの階段口に飾られていた犬の絵を覚えていますか?あの絵も床に落ちてひどい状態になっていました」

 マスターはそこまで一気に話すと、一息ついた。

 沙希の脳裏には、あの日、自分の頭の上に崩れ落ちてきた下駄箱や、その下に埋もれてしまった鞄の姿が蘇った。あのとき、ほとんどすれ違うようにしてこのマスターがそばにいたのだろうか。そう考えると不思議な気持ちで胸がいっぱいになった。

 マスターは続けた。

「それから三階の教室まで忘れ物を取りに行きました。教室の中は机や椅子が床に倒れて散乱していて、うしろのロッカー棚も倒れていました。忘れ物はそのロッカーの中に入れてあったのですが、ロッカーを起こすのにかなりの時間がかかりました。重たくて、途中で心が折れそうになりましたが、どうにか起こすことができました。それから大急ぎで階段を駆け下りて学校の門を出ました。その頃までには学校に残っていた先生たちや他の生徒たちもみな避難してしまっていたみたいで、辺りには他に誰もいなくなっていて、相変わらず津波警報が鳴り響いていますし、とても怖くなってきて、恥ずかしい話ですが走りながら半べそをかいていました。まだ小学校四年生でしたし、正直、少しちびっていたと思います。御食事中に大変申し訳ありません」

 マスターは苦笑しながら、小さく頭を下げた。いま彼の脳裏に、あの日の光景がまざまざと蘇っているのが手に取るようにわかった。それにしても、いったいこの話が礼子とどう関係しているのだろうか、と再び不可解さが募った。

「それで、人気のない通りを全力で走り続けて、ようやく商店街の入り口に差し掛かった辺りだったと思います。後から軽トラックが走って来たんです。荷台に何かいっぱい物を積んでいて、青いビニールシートが被さっていました。トラックは自分のすぐそばまで来ると停車しました。助手席のドアが開いて、中から、乗れ、という叫び声が飛んできまして、自分は、すみません、と言ってトラックに飛び乗りました。運転していたのは見ず知らずの中年男性でした。たまたま通りがかって乗せてくれたのだと思います。驚いたのは、助手席にすでに誰かが乗っていたことでした。髪の長い少女でした。当時、名前までは知りませんでしたが、朝礼などで見かけた覚えのある上級生の女子だということはわかりました」

「それがレイちゃんだったということですか?」

 健翔は興奮した調子で言った。

「たぶん」マスターは頷いた。「というか、間違いないと思います」

 沙希は耳を疑った。とにかく驚きで声が出なかった。

 信じられなかったのは、礼子のことではなかった。青いビニールシートを被せた軽トラックのことだった。間違いない。それは父、広哉の車だ。地震の直後、父が礼子とそんな接触をしていたなんて、広哉本人からも聞いたことはなかった。まったく思いもしない意外な話に、酔った頭がさらに混迷を増していった。薄明かりの店内がメリーゴーランドのようにグルグルと回転しているような気がしてならなかった。

「どうしてレイちゃんがそんなところにいたんだろう?」と健翔は首を捻った。

「わかりません」とマスターはすぐに応じた。「ただ、なにか様子が変でした。もちろん、あんな状況でしたから誰だって気が動転していて当然なのですが、それにしてもあのときの彼女は普通の状態ではなかったと思います。自分が助手席に飛び乗ったときも、ほんの一瞬こちらをチラリと見ただけで、自分と運転手の男性の間で蹲るようにして、何も言わずにただ黙ってフロントガラスを見つめて泣いていました。自分のほうも命からがらでちびっていましたし、助かったという安堵から今にも泣き出しそうな状態でしたので、彼女が泣いているのもそのときは全く気に留めませんでした。しかしあとになってよくよく考えてみると、あのときの彼女は何か別のことで泣いていたような気がし始めたのです。それが何だったのかはもちろん知る術もありません。ただ、前を見つめながら何かを両手で握り締めていました」

「何ですか?」と健翔が言った。「その手に握り締めていたものというのは?」

「はい。たしかこれくらいの長さの」マスターはそう言って両手で仕草をしてみせた。「白い棒みたいなものです」

 沙希は再び耳を疑った。

 間違いない。それはタクトだ。いまこの瞬間も自分のこのポシェットの中に入っているタクトだ。震災の二日前、自分が天翔から盗み取り、そのあと誰かが自分から奪い取った白いタクトだ。それを礼子が地震の直後に手に握り締めていた——。ということは、自分から奪ったのはやはり礼子だったということなのだろうか。

 にわかに信じられなかった。あの日の前日、礼子は卒業式の予行練習の間ずっと自分のすぐ目の前の席に座っていたのだ。やはり礼子の取り巻きの誰かが盗って、それを後から彼女に渡したのだろうか。その可能性は否定できなかった。

「あれは」とマスターは続けた。「指揮棒だったのかなあと——そのことがさっき頭を過って、それですべてが繋がった感じがしたんです。健翔のお兄さん、たしか卒業式で指揮をすることになっていませんでしたか?もちろんあの奇跡のピアノの伴奏で」

「そうです」と沙希は声を絞り出すように言った。「ショパンの『別れの曲』を合唱するはずでした。伴奏は私がする予定でした」

「ああ」とマスターは声をあげた。大きく口を開けている。「いやー、そうだったんですね。やっぱり本当に全部繋がっているっていうか。いやー、驚きました」

 なにか狐にでも抓まれたような気持ちで沙希はマスターの顔を呆然と見つめた。健翔の様子を窺うと、彼もまた不可解な表情を浮かべてマスターを凝視していた。

「申し訳ありません。長々と話し込んでしまいまして、大変失礼致しました」

 マスターはそう言って深々と頭を下げると、また厨房の中へ姿を消した。

 残された二人の間に得たいのしれない混沌が横たわっていた。『妖精ヴィッリ』は幕を閉じ、別のピアノ曲が静かに流れていた。

 沙希はピスタチオのジェラートを頬張りながら、父の横で泣いていたという礼子の姿を想像せずにはいられなかった。不思議な感覚だった。口の中は色鮮やかな味わいに満たされているのに、頭の中に思い浮かぶ記憶の断片はどれもみな煤けたモノクロ写真のようにピントがぼやけていた。

 礼子が軽トラックに拾われたのは、沙希が学校を去った後のことのはずだった——。朦朧とした頭でぼんやりとあの日の記憶を辿っていると、ふと、礼子と天翔はあの時まだ学校に残っていたのではないか、という考えが浮かんだ。

 もしかすると、あのとき二人は学校で会っていたのではないだろうか。ひょっとすると、二人は屋上にいたのではないだろうか。もしそうだととすると、二人はそこで何をしていたのだろうか。いったい彼女はなぜ泣いていたのだろうか——。そんな考えがすっかり酔いの回った頭の中を延々と巡っていた。


 支払いを済ませると健翔はウエイトレスの女性にタクシーを呼んでくれるように言った。彼女は、かしこまりました、と頷いてすぐにどこかに電話を掛けた。それから、円谷様、十五分ほどで参ります、と言った。

「ありがとう」と健翔は微笑んだ。それから沙希に向かって言った。「タクシーが来るまで、ちょっと外に出て風に当たりませんか?二人とも少し飲み過ぎましたよね?酔い覚ましにどうですか?」

「そうですね」と沙希は言った。「いい考えかも」

 二人は席を立つと、ドアを押して外に出た。

 ひんやりとした山の空気が火照った頬に気持ちよかった。道沿いにいくらか下っていくと、道路脇に小さな休憩所があった。木製のベンチが置かれ、周囲はコンクリートの塀で囲まれていた。

 酔った身体を支えているのが辛くなり、塀にもたれ掛かった。組んだ両手の上に頬を乗せて、ぼんやりと盆地を見渡す。橙色の灯りが湾の入り江を照らしていた。海の上に真ん丸の月が浮かんでいる。

 ふと背中に重みを感じた。

「え」

 咄嗟に振り返ろうとすると、長い手が腰の周りに伸びてきて、背中に顔が押しつけられる感触が伝わって来た。

「健翔君…」

 咄嗟に声が漏れた。抱きしめられてみると、自分が彼のことをずっと求めていたことが自明の事実のように意識された。心臓が波打つ音が耳のすぐ後ろで聞こえる。歓喜に全身が痺れ始めた。

 耳元にふわっと吐息を感じた。彼のあの匂いが澄んだ山の空気に溶け入るように周囲に漂っている。耳朶に唇が押しつけられると、思わず息が漏れた。

 熱い。男性の唇がこんなに熱く柔らかいことに体が勝手に感銘を受けている。心と体が分離していくような奇妙な感覚にどんどん打ちのめされていく。

 唇はゆっくりと首筋に移っていった。やわらかな彼の皮ふがしばらくの間うなじを弄んでいる。コンクリートの塀に両手をついたまま、目を閉じて、なされるがままに彼を受けとめた。夢のような甘い感覚に頭がおかしくなりそうなのをぐっと堪えた。

 やがて、そっと両肩に手が掛けられ、やさしく、けれど抗しがたい力によって、彼へ向かって振り返らされた。大きな瞳がすぐ目の前に浮かんでいる。覗き込むと、深い森が広がっていた。誰かになろうとして、誰にもなれず、自分を見失い続けた少年の影が森の奥で見え隠れしている。駆け寄って抱きしめたい衝動で再び体が震える。

 熱い吐息がゆっくり近づいてきた。指の先で顎先が持ち上げられた。瞳を閉じた。胸の鼓動が激しく木霊している。心のどこかで待ち侘びていた瞬間が現実になろうとしていた。歓喜のあまり溢れ出しそうになっている涙をぐっと堪える。

 ふと、目蓋の裏の森の奥深くに光が差し込んだ。眩しかった。ひどく微かで、淡く儚いのに、とにかく眩しかった。光はどこまでも純粋で、澄み切っていて、美しかった。そして次の瞬間、白い輝きの向こうにもう一人の少年の姿が見えた。澄んだ瞳。やさしい微笑み。頬に触れた指先の柔らかな感覚。そしてあの匂い。

 沙希は目を開けた。

「ダメ…」

 微かに顔を背けると、触れ合う寸前の唇が擦れ違った。

 心も体もひどく熱かった。ひどく混乱していた。

 しばらくの間、二人は頬と頬を合わせたまま、微かに届く潮の音にじっと耳を澄ませていた。

 やがてどこからか冷たいものが沙希の頬を伝ってきた。彼は掠れた声で耳元で囁いた。

「僕のこと、嫌いですか?」

「そんなこと、あるわけないよ」と小さな声で呟いた。

 彼は息を潜めて自分の言葉を待っているようだった。沙希は続けた。

「健翔君、礼子さんのことが好きなんだよ。あなたのお話を聞いていて、そう感じたよ」

「そんなことはありませんよ」と彼は囁いた。「僕が好きなのは沙希さんです」

 彼を抱きしめる手に思わず力が籠もった。

 彼はきっと、自分でも気づかないうちに自分の気持ちに嘘をついているだけなのだ。ただ、それでも嬉しいことに変わりはなかった。人から好きだと言われることでこんなにも癒やされるのなら、言葉の裏側に気持ちなどあってもなくてもどっちだって構いやしない——そんな馬鹿げた考えが熱い頭の中をぐるぐる回っていた。

「私も健翔君のこと、好きだよ」沙希は耳元で囁いた。「でも…」

 沈黙が二人を包んだ。凪いだ海も、夜空に浮かぶ星も、囁き合う二人の言葉にじっと耳を傾けている。

「大丈夫ですよ」健翔は静かに沈黙を破った。「もう何を聞いても傷つきませんから。というか、全身傷だらけで、これ以上傷つく場所がないっていうか——」

 彼が笑みを浮かべるのがわかった。胸が締めつけられて思わず背中に回した手で彼の頭を何度か撫でた。柔らかな髪の感触が指先に伝わってくる。彼にはすべてがわかっているのだ。言葉にして、いったい何の意味があるのだろうか。

 声にならないまま胸の内を浮遊している言葉が彼には聞こえたみたいだった。

「僕はそれでもいいんです」と彼は言った。「代わりでも、僕はいいんです。沙希さんと一緒にいられるのなら、自分が誰かの代わりだとか、本当の自分じゃないとか、そんなことは僕にはどうでもいいことなんです」

「でも」と沙希は囁いた。「健翔君、矛盾してるよ。お兄さんの代わりを演じることにあれほど苦しんだはずなのに、どうして?そんなの、辛過ぎだよ。そんなの、健翔君が可哀想過ぎだよ」

「ダメですか?」

「え」

「矛盾してたら、ダメですか?」

「そんな…」

「沙希さんに僕のほうを向いてもらえるなら、僕は兄の代わりを演じ続けたってへっちゃらですよ。あの日、本町第二小の屋上で、兄は沙希さんに告白するつもりだったんです。でも兄にはそれができなかった。兄はきっと、最後の瞬間まで沙希さんにそのことを伝えたかったと思います。あのとき差し込んだ光は、もしかすると、兄が沙希さんへ送ったメッセージだったのかもしれません」

 沙希は言葉を失った。耳を疑う。彼を抱きしめる手に力が籠もった。体も、頭の中も、ひどく熱かった。

「だから、僕が兄の分まで代わりに伝えます」健翔は沙希の頭に手を回しながら言った。「沙希さんのことが好きです。どうしようもないほど、好きです」

 顔をあげた。すぐ目の前に彼の顔があった。屋上でイヤフォンを片方ずつつけて天翔と『別れの曲』を聴いたときと同じくらい、いま彼は近くにいた。彼の匂い。彼の息づかい。自分の中に侵入されている感覚。何もかもが、あの日、青い空の下にあったあのときのまま、いますぐ目の前にある。沙希はそう感じた。


 もう空が白みかけていた。アパートの階段を昇りかけたところで、またスマホが鳴った。画面を見ると貴宏からだった。

 咄嗟に辺りを見渡した。貴宏はまたタクシーで近くまで来ていて、どこかからこちらの様子を覗っているのではないのだろうか。

 だが、通りはがらんとしていた。電信柱のうしろにも人影は見当たらなかった。

 小さな溜息が漏れた。それから、なぜがっかりしているんだろう、と思った。

 沙希はメッセージを開いた。

「こんな時間にわるい。立て続けに応急手術が続いちまって、気づいたら夜明けだった笑。大樹は大丈夫だから、安心してくれ。あいつ、コンサート後のほうが具合いいくらいだったよ。じゃ、またあとでな」

 夜勤でもないのに、どうやら彼は徹夜してしまったらしい。

 ドアの鍵を取り出そうとポシェットの中に手を伸ばした。いつものようにサイドポケットの底に白いタクトが見えた。その瞬間、心の中がざわついていることにはっきりと気づいた。沙希はドアノブを回す手をとめて心のうちを覗き込んだ。

 無性に貴宏に会いたかった。肝心なときに彼がそばにいないことが腹立たしかった。

 靴を脱ぐとそのまま浴室に入って、全身に纏わりついた戸惑いを洗い流すかのように熱いシャワーを浴びた。

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