第17話

 ちょうどアパートの駐輪場に自転車を停め、鍵を掛けたところでコートのポケットがブーンと振動した。スマホを取り出して画面を見ると、円谷健翔、と表示されている。

 お披露目リサイタルの件は、チャペルと市民ホールとの間で相変わらず綱引きが続いていた。その件を口実に貴宏が間に入り、二人の間でも連絡を取り合ってほしい、と言って取り持ってくれたおかげで、沙希と健翔は何となく遣り取りし始めた。まだ二人きりで会ったことはない。だがここのところ遣り取りする間隔が狭まってきていた。

 沙希はアパートの階段を昇りながらメッセージを開いた。

「こんばんは、お疲れ様です。この間お話したヤニス・ヤノフスキーのコンサート、パンデミックも一時的に落ち着いているということで、予定通り開催されるそうです。ご一緒に如何ですか?ちょっと急なお誘いになってしまって…」

 世界的チェロ奏者であり、親日家でも知られるヤニス・ヤノフスキーのソロ・リサイタルへの招待だった。

 部屋に入るとコートも脱がず、ポシェットから手帳を取り出した。ページを捲り、予定をチェックする。あいにく、その晩は夜勤が入っていた。

 念のため、ネットでコンサートの日程を検索した。福岡を皮切りに、大阪、東京と続き、それからこの東北の地に立ち寄って、札幌へと移動する。各地とも一晩のみのツアーで、その夜を逃せばもうチャンスはなかった。

 ヤノフスキーは、五年前にも来日して市民ホールで演奏するはずだった。だが、震災十年の節目となるその年、世界はコロナウィルスのパンデミックに見舞われ、コンサートは中止となった。十五年目の節目となる今年、再びH5N1ウィルスが猛威を奮い、コンサートは今回も流れそうになっていた。それが、なんとかできることになったのだ。

 五年前と言えば——沙希はまだどん底にいた。

 仮設住宅の四畳半に引き籠もって、暗いトンネルの中を彷徨っていた。四六時中締め切られた窓のシャッター。引かれたままのカーテン。真っ暗だった。いつまで経っても出口なんて見つかりそうもなかった。

 そんなとき、ヤノフスキーの奏でる『《動物の謝肉祭》白鳥』をよく聴いた。ピアノとデュオのあのチェロの音にどれほど癒やされたことだろう。そしてラフマニノフ作曲の『ヴォカリーズ』。引き籠もっていた十年近くの間、何千回、何万回と、文字通り数え切れないくらい、あのチェロとピアノの旋律に耳を傾けた。

 いま、その演奏を生で聴くチャンスが巡ってきたのだ。考えると気が遠くなった。どこか非現実的で、奇跡的な巡り合わせのようにすら思える。

 そんな夢のような催し物に出掛ける資格が自分にないことはよくわかっている。謹慎が明けてからまだ日も浅かった。あんなことがあった後で、何事もなかったかのように男とのデートを楽しんでいる——そんな陰口を叩かれるのが目に浮かぶようだった。しかしそんなリスクを負ってでも、どうしても行きたい。その気持ちを否定するのは不可能だった。

 沙希は迷った末にメッセージを送った。

「お誘いありがとうございます。ヤノフスキーのコンサート、是非行きたいです。御返事、一日だけ待ってもらえますか?ごめんなさい」

 翌日、昼食休憩に入ると佳奈に声をかけた。

「佳奈さん」

「ん?どうしたの?顔が真っ青だけど、また何かあった?」

「いえ…あの、来月の十日なんですけど、夜勤を変わってもらえたりしませんか?」

「あ、そういうことか」佳奈はホッとした表情を浮かべ、ちょっと待ってね、と言って手帳を取り出した。「えっと、来月十日は——あ、ゴメン、その日、久しぶりに彼氏と約束があるんだよね。ちょっと無理かなあ」

「そうですか…」沙希は力なく言った。

「ホント、ごめん」佳奈は申し訳なさそうな顔を浮かべている。「ちなみに、理由を訊いてもよい?」

 沙希は逡巡した。断られてしまったのだから本当のことを言う義務はない。だが嘘をつくのも気がひけた。

「知り合いからコンサートに誘われたんです。ヤノフスキーのリサイタルに」

 佳奈は、ふーんと言ってぼんやり頷いた。それから思い出したように言った。

「あ、それってひょっとして市民ホールでやるやつ?」

「そうです」

「それって、有名なチェロ奏者の人?」

「そうですね」

「間違いない。そのコンサート、大樹君も行きたがってたやつだ」

「え」沙希は内心軽いショックを受けた。「そうなんですか?」

「佐藤先生に行ってもいいか訊いてみるって言ってたけど…どうなったんだろう?」

「そうなんですね」

「でも、どっちにしても、ゴメン、その日はちょっと——」

「大丈夫ですから、気にしないでください」

 沙希は努めて明るく軽い調子で返事をすると、休憩室のソファから腰をあげた。

佳奈に断られたこともショックだったが、それ以上に大樹がコンサートのことを自分に一言も言ってくれなかったこともキツかった。

 彼とは少しずつ溝が狭まってきているような気がしていた。だがきっと、自分が一方的にそう感じているだけなのだろう。彼のほうでは自分には大切なことを話す気にならないに違いない。そう思うと、また気が滅入った。

 その晩、勤務を終えて帰宅すると、沙希はキッチンのチェアに腰を下ろした。スマホを手に取って、健翔へ送る断りの文言を考えた。どんよりとした暗い言葉しか思いつかなかった。何度も溜息が漏れた。

 ふと、スマホが光った。通知画面を見ると、佳奈からだった。

 訝かしい気持ちでにメッセージを開いた。

「えっと、今日言ってた件だけど、彼氏の都合でデート流れたから、夜勤代わってあげられるよ」

 読んだ瞬間、嬉しさが込み上げた。絵文字をいくつも着けて返信すると、すぐにレスが来た。

「困ったときはお互いさまってことで。この借りはいつか返してもらうからね笑」

 すぐに健翔へのメッセージを打ち始めた。数分前までは悲しみに暮れた断りの文面だったのに——。人生、本当に不思議なものだ。

「こんばんは。昨日のコンサートの件ですが、夜勤を代わってもらえることになりました。是非ご一緒させてください。楽しみにしています」

沙希は送信ボタンを押した。少しすると健翔から返信が来た。

「返信ありがとうございます。よかった。僕も本当に楽しみです。詳細は追って御連絡します。取り急ぎ御礼まで」


 翌朝、勤務開始前の更衣室で、沙希はちょこんと御辞儀しながら改めて佳奈に礼を述べた。

 佳奈は、ま、いいっていいって、と手を振った。

「それにしても」と沙希は言った。「彼氏の都合って大変ですね」

 すると佳奈はスクラブを着ようとする手を止めて、まじまじと沙希の目を覗き込んだ。

「あんたさあ…」

何だろう。何かが気に障ったようだ。何の意味もない軽い言葉に過ぎなかったのだが——。そのことで彼氏と喧嘩でもしたのだろうか。

 戸惑っていると佳奈は続けた。「ま、いいや。さて、今日も一日頑張らなきゃ」

 佳奈は両手でガッツポーズをすると更衣室から出ていった。

 そろそろ朝の申し送りの時間だった。急いでナースステーションに向かった。すると廊下で貴宏と鉢合わせになった。

「よ、おはよ」と彼は手をあげた。

「おはようございます、佐藤先生」

 沙希は小さく会釈して、そのまま横を通り過ぎた。すると後ろから声がした。

「よかったね、沙希ちゃん」

 沙希は立ち止まった。徐に振り返る。

「コンサートの誘いが来たんだって?」

 心臓がドキンと音を立てた。

「どうして知ってるの?」

 貴宏は微笑んだ。まるでいい手が入ったポーカーのプレーヤーのようだ。

「ま、病院なんて狭い空間だからな」

 きっと佳奈から伝わったのに違いない。口止めするのも変だったので何も言わなかったのだが、結構口の軽い先輩にちょっと驚かされる。

「ま、楽しんでこいよ」

 貴宏はそう言うと行ってしまった。いつもならもっと色々と話しかけてくるくせに、今朝は妙によそよそしかった。

 佳奈と言い、貴宏と言い、胸のうちに何かを秘めているのに、そのまわりを注意深く迂回するみたいに言葉を選んでいた。


 コンサート当日がやって来た。

 その日はちょうど、大樹がチェロのレッスンに外出する曜日と重なっていた。午後の処置の時間が終わると、いつものように西病棟の玄関口まで大樹の車椅子を押していった。

 結局、コンサートのことは誰も口にしないままこの日を迎えた。

 佳奈から大樹もコンサートに行きたがっていたという話を聞いたあと直接本人に訊いてみたのだが、彼ははっきりとした反応をしないまま話はうやむやになってしまった。それ以来、コンサートの話は何となく避けてきたのだった。いまになって突然、今晩のリサイタルのことを言い出すのも変だった。このまま黙っているのがベストなのだろう。疚しさが胸に込み上げそうになるが、なんとか必死でやり過ごした。

 玄関口では由美が車を回して待っていた。貴宏がチェロのケースを後部座席へ運び入れた。気のせいか、大樹はどこか緊張している様子だった。

 車が発進した。大樹は門を出て見えなくなるまでずっとこちらのほうを眺めていた。普段あまり目にしない光景だった。

「さてと」と貴宏が言った。「そういえば、沙希ちゃん、コンサートって今晩じゃなかったかな?」

 たったいま偶然思い出したかのような言い方がいかにも態とらしかった。

 沙希は無言のまま貴宏をじっと観察した。

「もしかして緊張してるのか?」貴宏はそう言って人差し指をこちらに向けた。「ようやく訪れた恋のチャンスだもんなあ。緊張するのも当然だ」

 沙希は呆れた顔を浮かべて苦笑した。

 一度死にかけた人間にいまさら恋もへったくれもありはしない。しかしそれなのに、貴宏の言う通り本当に緊張している自分が愚かしかった。

 夕方、勤務を終えると、病院前からバスに乗り駅前まで行った。そこから別のバスに乗り換えて、市民ホール前で降りた。開演まであと三十分くらいあった。ちょうどいい時間だ。

 市民ホールのロビーは人の波で活気に満ちていた。待ち合わせ場所のラウンジに行く前に、沙希は化粧室に滑り込んだ。

 鏡を覗き込む。勤務帰りなのでそんなにお洒落はして来られなかった。とはいえ、みすぼらしい格好でピアノ工房を訪れてしまったときの汚名を挽回するチャンスであることに変わりなかった。そう思うと、突然のように胸の鼓動が高鳴り始めた。

 結局、朝、遅刻ぎりぎりの時間まで迷いに迷った末に選んだのはワインレッドのワンピースだった。こうして見るとそんなに悪くない。ポシェットからパールのピアスを取り出して着けてみる。いつも由美が着けているのにインスピレーションを得て、この日のために買っておいたものだ。由美ほどの気品はないが、シンプルなパールの作りがワンピースの濃い赤とよくマッチしている。いずれにしても、健翔にはもうスッピンまで見られてしまっているのだ。失うものは何もない。

 それから、またふと我に返った。

 鏡の中には健翔との再会に浮き足立っている自分が映っていた。その姿を望遠鏡を覗き込む人のように静かに眺めている自分がこちら側にいた。そしてその二人の自分のどちらをも素直に受けいれることができない自分がまた別のどこかにいた。どれもこれも気にいらなかった。赤の他人の人生を誤って生きてしまっているような違和感があった。自分とは無関係な他人によってとっくに賞味期限が切れている自分の人生を無理やり生きられてしまっているような支離滅裂な感覚が纏わり付いて取れなかった。ひどく興奮しているのに、どこまでも醒めていた。すべてが虚しいと感じているのに、心のどこかで一途に何かを期待している自分もいる——そんな感じだった。

頭の中が混乱したまま、化粧室を後にして売店前のラウンジに向かった。どんなに醒めていようと待ちに待った瞬間が迫ってきていることに変わりはなかった。心臓が破裂しそうなくらい全身の血が波打っている。

 廊下を抜けて売店前に出ていくと、細身の男性が一人がけのソファに足を組んで座っているのが目に入った。胸の鼓動が最高潮に達している。このまま引き返したい衝動にすら駆られる。

 人混みの中をゆっくりと近づいていく。彼は前を向いていて、まだこちらに気づかない。どうやら彼も少し緊張気味のようだ。そのせいだろうか、いつも以上に横顔に兄の面影が漂っているような気がしてならない。ようやくこちらに気づいた。彼は手を振ってソファから立ち上がった。

 健翔はダークグリーンのスーツに、黄色とブルーのレジメンタル柄のタイをしていた。アカデミー賞にノミネートされた若手俳優のようだ。強烈な瑞々しさに目眩すら覚える。

「お待たせして、ごめんなさい」

 少し手間で立ち止まり小さく頭を下げた。

「いえいえ、僕もいま来たところですよ」

 健翔は微笑みながらこちらに歩み寄った。思わずハッとする。

 近い。彼は躊躇なくこちらの空間に侵入して来て、そのまま抱きしめられるのではないかと思うくらい、ぎりぎりのところで立ち止まった。相変わらずの近さだ。いい匂いもする。だが、ピアノ工房で初めて出会ったときのような間違いはもう犯さない。それは他の誰の匂いでもない。間違いなく彼の匂いだ。

 ざわざわとした心境の中で言葉を失っていると、健翔が言った。

「そのワンピース、とてもよく似合っていますね」

 それを聞いて迂闊にも頬が熱くなるのがわかった。単なる社交辞令でしかないのはわかっていても、嬉しいと感じている自分がいることは否定できなかった。子供のように無邪気に喜んでいるのも、死にかけた人間が服を褒められたくらいで嬉しがっているのも、何もかもが恥ずかしかった。

 開演の時間が迫り、二人並んで一階席へ向かう通路を進んでいった。そして、反対側からホール入り口に向かってきた人並みを見て、沙希は思わず声をあげた。

 絨毯の敷き詰められた廊下の向こうから、音もなくスルスルと一台の車椅子が近づいてきた。こちらに気づくと、車椅子の少年は控え目に手を振った。

「大樹君」

「沙希さん、こんにちは」

 大樹はそう言って跋の悪そうな表情を浮かべた。

 車椅子を引いていた由美が薄笑いを浮かべながら頭をさげて挨拶をした。見ると、午後に病院を出るときに来ていたのとは違う、よりフォーマルなワンピースに着替えていた。

「そういうことだったんですね」と沙希は唸った。「由美さんまでグルだったんですか?」

「ごめんなさい、沙希さん。騙すつもりはなかったのですけれど」

「サプライズってやつですよ、沙希さん。ね、先生?」

 そう言って大樹は車椅子の後方のほうに視線をやった。

 沙希は大樹の後方に目を向けた。人混みの中から姿を現したのは貴宏だった。

「奇遇というやつは本当に恐ろしい」

 彼はそう言って大袈裟に頭を搔く仕草をした。彼も白衣からダークグレーのスーツに着替えていた。スーツ姿を見たのはそれが初めてだった。思いのほか似合っているのに驚いた。

「もしかして健翔君も知っていたんですか?」

 沙希は健翔を一瞥しながら言った。

「すみません。皆さん、沙希さんを喜ばせようと思ってらしたんですよ」

「どうして私が喜ぶんですか?」

 思わず声が漏れた。不当な嫌疑をかけられた容疑者のような声だった。

 四人の表情が微かに翳るのがわかった。自分と大樹の間にあったことは、当然、健翔にも伝わっているのだろう。自分ではそんなつもりはなかったのだが、きっと周囲には酷く落ち込んでいるように映っていて、それで自分を励まそうと皆で仕組んだということだろうか。有り難い気持ちがないわけではない。だがそんな気遣いにかえって余計に傷つけられた感じがした。そして、素直に感謝の言葉を口にできない自分にも嫌気がさした。

 一瞬生じた気まずい間を取り除こうとするかのように貴宏が話題を変えた。

「健翔君、その節はどうも。ピアノの修復のほうはその後どうですか?」

「佐藤先生、またお会いできて光栄です。ピアノのほうは一難去ってまた一難という感じですが、少しずつ前進はしています」健翔は貴宏の合図を受け取ったとでもいうように笑みを浮かべて言った。「ところで先生、スーツのほうもよくお似合いなんですね」

「そうですか?」貴宏はスーツの襟元を正しながら言った。「こう見えても、大学時代はスーツのサトウって呼ばれてたんですよ」

 それを聞いた大樹がすかさず、閉店セールかよ、と言葉を繋いだ。今度はそれを聞いた三人が声を立てて笑った。

 沙希は彼らの遣り取りを痛々しい気持ちで眺めていた。申し訳なさが込み上げる。

 だが本当のサプライズはそのあとにやって来た。

「あれ?先生は?」

 大樹は体を捻って車椅子の後方のほうに顔を向けた。行き交う人の波の中に誰かを探している。

「先生、はぐれてしまわれたかしら…」と由美も振り返って人の流れに目をやった。

 嫌な予感で全身の血が逆流し始めた。そして次の瞬間、人波の中からハッとするような美しい女性が姿を現した。

 思わず言葉を失った。複雑に絡み合った様々な感情を越えて、その美しさにごく単純に呆気にとられた。

 所々にレースのあしらわれたシンプルなフォルムの黒のドレス。内巻きにカールされた艶やかな長い黒髪。アクセサリーは一つも着けていないのにかえって細い首筋や耳元に視線が吸い寄せられてしまうのは、透き通るような肌の白さのせいだろうか。そして、よく整ったその顔立ち。ほとんどノーメイクではないかと疑われるほど薄化粧なのに、匂い立つような華やかなオーラに包まれている。

 清楚。気品。サラブレッド。そんな言葉が頭に思い浮かんだ。それらの言葉はこの人のために創られたのではないかと思わずそう思いたくなるような佇まいに、見ているほうはただただ萎縮してしまうのだ。化粧を塗りたくって、少しでも自分をよく見せようと意気込んでしまったことが悔やまれて仕方がなくなってくる。

 十五年前のクリスマス・イブの晩、彼女は絵本の中から飛び出してきたお姫様のようだった。いま、彼女は写真集から切り取られたどこかの国のプリンセスとでも言ったらいいだろうか。とにかく、そのどことなくロイヤルな雰囲気に圧倒されるばかりだ。

「沙希さん、ご紹介させてください」と由美が言った。「こちら、いつも大樹がお世話になっている竜石堂礼子先生です。先生、こちらが噂の大須賀沙希さんです。お二人は直接お会いするのは初めてですよね?」

「ちょっと、噂って…」

 沙希はそう言って苦笑した。初めてですよね、という由美の問いかけに内心ひどく動揺していた。どう答えていいのかわからないのを誤魔化したのだ。

 すると礼子もその問いかけには答えなかった。代わりに、貴宏のほうに目を遣ると、口元に皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。

「患者に演奏会への外出を勧めるなんて、本当に素敵なお医者さんだこと」

 なるほど、そういうことだったのか。ようやくすべてが府に落ちる。裏で貴宏があらゆることに手を回していたのだ。きっと佳奈が突然夜勤を代わってくれたのも彼が動いたからに違いない。

「それでレイちゃん」と健翔が言った。「ヤニスには挨拶できたのかな?」

 その言葉を聞いて、また軽いショックを受けた。

 十五年前、薬局の軒先で天翔が口にした、レイちゃん、という言葉がふと耳元に蘇った。それから、貴宏が語っていたピアノ工房のオフィスに飾られていたという写真のことが脳裏を過った。本物の幼馴染みたち。しかも、サラブレッドの幼馴染みたち。そんなことを勝手に想像して勝手に圧倒されている自分にも傷つく。

「さすがに開演前はそっとしておいてあげないとね」と礼子は静かに言った。「終わったら、ゆっくり御挨拶に行こうと思ってるわ。ケンちゃんも一緒に如何かしら?」

「えっと」健翔はこちらのほうを一瞥しながら言った。「まあ、それは成り行き次第ということで…」

 動揺が露わになっているのが自分でもわかる。だがどうすることもできない。

「そう?」と礼子は言った。「ヤニスも貴方に会えたら喜ぶはずよ。お兄さんの代わりにね」

 その言葉に思わず健翔の表情を窺った。彼女に他意はないのかもしれない。そうだとしても、なんという酷い言い方だろう。

 健翔は何も言わず、ただ苦笑しただけだった。

「さあ、皆さん、そろそろホールの中へ」

 貴宏が明るい調子で言った。

 由美が車椅子を押して大樹とともにホール内に入っていく。そのあとに礼子が続いた。

 見ると、貴宏はその場に立ったまま大樹に向かって手を振っていた。沙希の視線を感じたのか、彼は言った。

「俺は万一オペが入るとまずいんで、ここで待ってるんだ」

 貴宏に申し訳ない気持ちがして立ち尽くしていると、健翔が言った。

「さあ、沙希さん、行きましょう」

 彼にエスコートされるままにホール内に入ろうとすると、徐に貴宏が近寄って来て耳元で囁いた。

「虎穴に入らずんば虎児を得ずってやつだな。沙希ちゃんは、何も考えずに楽しんでおいで」

 彼はそう言って沙希の背中をやさしく押した。

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