第14話
謹慎処分が明けた日の朝、沙希は高台の聖マリア病院を目指して自転車を漕いだ。
一〇日前、もう二度と来ることはないだろうと思って後にした病院の門。地獄から戻って来たような気持ちで再び通り抜ける。それから、いつものように西病棟裏手の駐輪場に自転車を止めた。
初めて出勤したときよりも緊張しているのがわかる。いったいどんな顔をして同僚のスタッフや子供たちに会えばいいのだろうか。そして大樹とどんな再会を遂げたらいいのか。考えると気が遠くなった。今朝もギリギリの時間まで迷っていた。もうどこにも自分の居場所などあるはずがない。職場だけでなく、世界中どこにも——。
これまで自分の身を護ってきたメッキが全身から剥がれ落ちて、生身の自分が剥き出しになっているような感覚に襲われた。とくかく落ち着かない。そして、とにかく恥ずかしかった。誰にも会わせる顔などない。
正面ラウンジを抜けて西病棟のエレベーターで八階まで上がった。更衣室でアンパンマンのスクラブに着替えていると、何名かの同僚スタッフから、おはよう、と声を掛けられた。だが身体が震えてうまく返事ができなかった。ぎこちない愛想笑いを浮かべて小さく会釈するのが精一杯だった。
あれほどのことをしでかしておいて平気な顔をして職場に復帰しようとしている自分に、皆内心呆れているだろう。自分が逆の立場だったらそう思うに決まっている。自分だって戻ってくるつもりなどなかったのだ。いまさらながら、なぜ来てしまったのかと足もとの震えが止まらなくなった。
俯きがちにナースステーションへ行くと、ちょうど朝礼が始まるところだった。沙希は他のスタッフが整列している少し後ろに静かに加わった。斜め前にいた佳奈が気がついてこちらに視線を向けた。夜勤明けのようだ。心配そうな表情を浮かべて、頑張って、と唇が動くのがわかった。
正面のモニターを見ながら全体の申し送りが行われ、それが終了すると看護師長がスタッフの正面に進み出てこちらに向き直った。彼女は看護師たちの表情を窺うように一人一人順番に目を向けながら、患者に対する思いやりと命の尊さに関するいつもの言葉を口にした。
自分はここにいてはいけない、という思いが再び胸に押し寄せる。一刻でも早く立ち去りたいという気持ちと必死で戦わねばならなかった。
話を終えた看護師長は、どういうわけか無言のままその場に留まっていた。いつもなら合図とともにスタッフたちがそれぞれの持ち場に散っていくのだが、看護師長からの合図がなかなか出なかった。
「今日はもう一言、お話しさせてください」と彼女は徐に口を開いた。もう許してほしい、と沙希は内心呟いた。
「過去に向き合うのは辛いことです」看護師長は続けた。「私はあの日、自宅にいた母と、保育園に預けていた娘を失いました。母はすぐに見つかりましたが、娘はいまも見つかっていません。なぜあのとき、病院を抜け出して娘を助けにいかなかったのか、いまだに後悔しない日はありません。皆さんの前にこうして立っているこの瞬間も、私はまだ自分を責め続けています」
「仕事中、ここの子供たちを見ていると、よく自分が娘のことを思い出しているのに気づきます。正直に言いましょう。そんなとき、子供たちに癒されるどころか、辛くて仕方がなくなるのです。何もかもが無意味に思えて来てしまうのです。そして逃げ出したくなります。毎日毎日、必ずといっていいほど逃げ出したくなる瞬間があります。そして本当に、今日こそ逃げ出そうと心に誓うんです」
「自分の弱さが嫌で仕方がありません。情けなくて仕方がありません。ですが、自分の弱さに嘘をつく気にもなれないんです。その気持ちに嘘をつくのは、娘に嘘をつくような気がしてならないんです。そして娘にだけは絶対に嘘をつきたくないって、そう思ってしまうんです。だって、娘にはもうその嘘を問い質すことができないのですから。私がつく嘘に娘はただ黙って騙され続けるしかないのですから。それだけはしてはならないって、いつもそう思っています。生き残った者たちは消えていった者たちに対して絶対に嘘をついてはならないんだって、私はいつもそう思っています」
「無責任だと思われるかもしれませんが、明日の朝、私はもうここにいないかもしれません。もうどこか遠くへ逃げ出してしまっているかもしれません。皆さんの前でこうしてお話しするのも今朝が最後になるかもしれません。ですから、皆さんだって、いつ逃げ出してもいいのですよ。そのことで誰も皆さんのことを責めることはできないんです。皆さんを責める権利や資格は誰にもないんです」
看護師長はそこで沈黙に落ちた。どこか宙を見つめている。
少しして、彼女は「ただ——」と再び口を開いた。「もうあと一日だけ、もうあと一時間だけ、いいえ、もうあと五分だけ、その場に踏みとどまってみませんか?そうすれば子供たちの笑顔が見られるかもしれませんよ。そのときには、踏みとどまってよかったと、きっと感じることができるんじゃないかって思うんです」
「そしてそれは子供たちにとっても同じことなんです。子供たちもいつも逃げ出したくて仕方がないんです。ただ子供たちが私たちと違うのは、彼らには逃げたくても逃げる場所がないということです。私たちと違って、彼らは戦うことを運命づけられているのですから」
「でも、どうか彼らにも、もうあと五分だけ、いいえ、もうあと五秒だけ踏みとどまるように言ってください。そうすれば、彼らも皆さんの笑顔が見られるかもしれないのです。皆さんは、いまは微笑むことができないかもしれませんが、五秒後ならできるかもしれないのです。五秒後なら、子供たちが与えてくれたのと同じくらい大きな笑顔を彼らに与えることができるかもしれないでしょう?そう思いませんか?」
「長くなりました。私からは以上です。今日も一日頑張りましょう」
その言葉を耳にすると、スタッフたちは一礼をしてからそれぞれの持ち場へ散っていった。
どんよりとした気持ちを抱えたまま、沙希は朝の検温のため大樹の個室へ向かった。看護師長の言葉は耳元に余韻したままなかなか離れなかった。
彼女が被災していたことを耳にしたのは初めてだった。その言葉が自分に向けられていて、自分を励まそうとしていることは痛いほどよくわかった。しかしだからといって、あの日彼女が経験したことをあんなふうに人前で話してしまうなんて——。
亡くなった者たちに嘘はつきたくない、という気持ちはわかるような気がした。だが自分の心の内をあんなふうに公の場で吐露してしまうのは何か違うと思った。そうすることで、彼女は亡くなった者たちに対して何かひどいことをしている気がしてならない。
そして、ただ同じような状況というだけで、何かを分かち合うようにやんわりと仕向けられる——。そこに一番の違和感があった。
看護師長の苦しみを理解することなど、たぶん自分には一生かかってもできない。そして、自分の中に巣作っている真っ黒な闇を誰かと共有することだって、絶対にできやしない。それなのにそう仕向けられるのは、しかもやんわりと遠回しにそう仕向けられるとなおのこと、ひどく暴力的であるような気がしてならなかった。
看護師長の気持ちは嬉しかった。時間を割いてプライベートな思いを吐露してくれたことに感謝の気持ちがないわけではなかった。だが、看護師長と自分の間の溝は少しも埋まらなかった。むしろ、二人の間には埋められない溝が横たわっているということがいっそう鮮明になっただけだった。
いったんマイナスのほうに傾いた気持ちは、どんどんエスカレートしていくものだ。子供たちだって頑張っているのだから、看護師の我々も頑張らなくてはならない、どこにも逃げ場がない子供たちを置き去りにして自分だけ逃げ出すなど、決して許されることではない——。結局のところ、彼女の言葉にはそんな説教臭さがぷんぷん漂っていた。そして、そんなことは重々承知している、と沙希は思った。
大樹の部屋に辿り着く頃までには、看護師長への反感の気持ちさえ芽生えていた。あんな当てつけがましい言葉を、他のスタッフの前で声を大にして言う必要があったのだろうか。終いにはそんなことまで頭を過った。
傷口に塩を塗られてしまった。やはり来なければよかったという後悔の念が、いま一度胸に押し寄せる。
沙希は大樹の部屋の前に立った。いよいよ彼と対面しなければならない。いったいどんな顔をすればいいのだろうか。頭の中はひどく混乱していた。
ドアをノックした。いつもの癖でそのままドアノブを掴んで扉を引こうとすると、はい、という声が聞こえた。
中から返事が聞こえたのはそれが初めてだった。
戸惑いで頭の中が余計に混乱する。気持ちを入れ替えたことを示そうとしているのだろうか。だとすれば、ひどく態とらしいことだと思った。あれほど互いに怒りと憎しみをぶつけ合ったあとで、そんなに簡単に気持ちを切り替えられるわけがなかった。子供だからといって簡単に受け入れられるものではない。
そっと扉を引いて中に入った。ドア口を抜けて部屋の奥へ入っていくと、上半身を起こした体勢で大樹がじっとこちらを見詰めていた。
気まずい沈黙があった。力一杯何度も叩いてしまった白い頬がそこにあった。自分がいまどんな顔をしているのか、鏡の中を覗き込みたい衝動に駆られた。さぞかし愚かしい表情をしているに違いない。だが不思議と謝る気にもなれなかった。謝るなんて、あまりにも白々しく感じられた。赦しを乞うくらいなら、最低の人間のままでいるほうがマシだ、と思った。どうせ一度死んだ身なのだ。明日にはもう逃げ出しているかもしれなかった。いまさら謝ったって何の意味もありはしない。
ぎこちない沈黙がかなり長く続いた。だが二人とも目は逸らさなかった。
ようやく我に返って、沙希は大樹に体温計を差し出した。彼は右手を出して体温計を受け取った。病魔に冒された右腕だった。そのことは彼にはまだ告知されていなかった。大樹はパジャマの胸元を押し広げて脇の下に体温計を押し込んだ。
結局その朝、二人は一言も言葉を交わさなかった。それでも、とにかく再会だけは果たされた。
似たような日が数日間続いたあと、謹慎が明けて初めて大樹のチェロ・レッスンの日がやって来た。午後の処置の時間が終わると、沙希は大樹の部屋に立ち寄った。
部屋に由美の姿はなく、大樹は一人でリハビリ用の服に着替えているところだった。やはり今日も、彼はレッスンに行かないらしい。
沙希はドア口で突っ立ったまま、黙って彼の様子を眺めていた。大樹はこちらを一瞥しただけで何も言わなかった。またいつもの気まずい沈黙が部屋を覆った。
ベッドに腰掛けた体勢で、彼がパジャマの上を脱いでリハビリ用のTシャツを頭から被ろうとしたときだった。うまく手が通らず、右腕が奇妙な角度で捻れたまま袖の入り口に引っ掛かった。Tシャツが中途半端に彼の頭を覆っている。痩せ細った右腕が何度か力なくバタついた。いったん手を抜こうとしているのだが、袖に手首が引っかかったままなかなか抜けないらしい。
捻れ曲がった右腕を目にすると、身体に鋭い痛みが走った。沙希は思わずベッドに駆け寄ると、Tシャツの袖を広げ、手首を掴んで袖を通してやった。
「ありがとう、沙希さん」
大樹は目を逸らしたまま小さな声で独り言のように言った。
彼から礼を言われるのも、名前を呼ばれるのも、初めてのことだった。
何も感じないわけではなかった。だがこんなことくらいで二人の間のわだかまりが解けるのは安易すぎる、と思った。あんなことがあったあとで、こんなことくらいでどうにかなるはずがない。
ただ——。
彼の腕の感触が指の先に生々しく残っていた。何週間か前よりも、ぐっと痩せて骨ばった感じがした。皮膚の潤いも消えて、枯れ朽ちて散った落葉のようにがさついていた。
その肌に触れた途端、停止し続けていた時計が再び進み始めたような感じがした。突然、それまで堰き止められていた砂時計の砂が再び落下し始めたみたいだった。もうわずかしか時間が残されていないのだという考えが突然胸に迫ってきた。堰き止められていた色々な思いが押し寄せてきて、言葉が溢れ出るのをどうすることもできなかった。
「佐藤先生がチャペルでコンサートを開きたがっていること、知ってる?」
久しぶりに彼に対して発せられた声は自分のもののような気がしなかった。それでもようやく言葉が紡がれたのだった。
「うん、知ってるよ」と大樹は言った。
「本町第二小のピアノがね、いま修理中なんだよ」
「うん。ネットでニュース見たよ。奇跡のピアノでしょ?」
沙希は頷いた。
「修復が済んだら、うちの病院で引き取ってチャペルでお披露目リサイタルをしたいって、佐藤先生がそう言ってるの」
「うん。僕も先生から聞いたよ」大樹は顔をあげて沙希の顔を見た。「いい考えなんじゃないかな」
「本当?」と沙希は言った。「だったら練習しなきゃだよね?もう何週間もレッスンに行ってないし、夕方の練習もしなくなっちゃったよね?腕がなまっちゃうんじゃないかな?」
大樹は再び目を逸らした。それから言った。
「僕は、出ないから」
「どうして?」思わず強い口調で訊き返してしまった。「チェロ、やめちゃったの?唯一の生き甲斐って言ってたのに、やめちゃったの?」
大樹は何も言わずにどこかを見詰めていた。
焦りと苛立ちが同時に込み上げて来た。せっかくまた言葉を交わし始めたばかりなのに、言うべきでない言葉がまた口から飛び出しそうだった。必死で我慢した。しかし堪えられなかった。
「それじゃあ、もう生きてる意味なんかないよ」
言ってから、自分で自分の言葉に傷つけられた気持ちになった。ズドンと、心臓に弾を撃ち込まれたような感じがした。
大樹は顔をあげるとこちらを見て苦笑した。寂しそうな微笑みだった。
無性に彼を抱きしめたくなった。ついこの間は気が狂ったように叩きまくったその白い顔を、今度は自分の胸のうちに抱きしめたくて仕方がなかった。自分の身勝手さに呆れた。頭がどうかしているとしか思えなかった。
「チェロを弾かなくなったのはアッシュビーのことが原因じゃなかったの?あんなにしっかりとお墓まで作ってあげたのに、それでもまだチェロをやめなきゃダメなの?」
大樹は再び顔を俯けてどこかをぼんやりと見詰めていた。それからまた独り言のように言った。
「違うよ、沙希さん」
彼はそれ以上何も言わなかった。車椅子に身体を移すと、沙希の脇を抜けて個室を出ていった。
大樹がチェロをやめてしまった本当の理由がわかったのは、それから数日後のことだった。
彼より少し前に入院して来て手術を受けていた三つ歳下の女の子がいた。彼女は皆からミーちゃんと呼ばれていた。
二人には色々な共通点があった。小学校に入学したばかりのミーちゃんは、以前の大樹と同じで、ほとんど学校に通えていなかった。両親が震災後も地元に留まり、それからミーちゃんを身籠もった点も大樹と似ていた。そしてミーちゃんが患っていたのも大樹と同じ左大腿横紋筋肉腫だった。
ただ彼女の場合は病気の発見が遅れたせいもあって、大樹のように患肢を温存することはできなかった。
二人はリハビリセンターで何度か一緒にリハビリをしている間に仲良くなったようだった。ミーちゃんのいる六人部屋と大樹の個室はフロアが違っていたし、術後ミーちゃんはプレイルームにも出て来なくなっていたので(彼女は人前に姿を現すのにまだ抵抗を感じていた)、二人が顔を合わせるのはリハビリルームくらいしかなかったのだと思う。
ミーちゃんは大樹のことをひどく慕っていた。
生まれたときから何度も入退院を繰り返してきた大樹と違ってミーちゃんは今回が初めての入院で、初めてのリハビリだった。彼女にとって大樹は頼りになる先輩だった。不安と戸惑いで一杯のミーちゃんのことを大樹はいつも気遣っていた(彼は沙希や他の大人たちに対してはいつも尖っていたけれど、他の患児たちには別人のようにひどく親切でやさしかった)。たぶんミーちゃんのほうも、同じ苦しみを知っている大樹になら何でも胸のうちを明かすことができたのだろう。彼女は笑顔の愛らしい人懐こい女の子で、大樹の顔を見るたびに、大樹お兄ちゃん、大好き、と顔を綻ばせていた。
チャペルで奇跡のピアノのお披露目リサイタルを開く計画が立てられているという話はもう小児科全体に広まっていた。子供たちや小児科のスタッフたちもその話題で持ち切りで、正式な発表を今か今かと待ちかねている状態だった。
貴宏はすでに院長からの許可を取り付けていて、いつでもピアノ工房へ出向いていって計画を進める用意ができていた。
ただ——これは貴宏と沙希との間だけの暗黙の了解だったのだが——肝心の大樹がリサイタルに出ると言わない限り、話を前に進めるわけにはいかないという気持ちがあった。
落下し始めた砂時計の砂は確実に減り続けていた。
すでに由美には大樹の転移のことは伝えられていた。大樹の父、小檜山隆は貴宏との面談にも姿を現さなかった。何ヶ月ぶりかで息子の見舞いに病院を訪れてみると、屋上であり得ない出来事に遭遇したのだ。またしばらく病院から足が遠のいたとしても不思議ではなかった。
その午後、沙希はもう一度大樹にリサイタルの話をしてみるつもりでいた。彼は相変わらず一切チェロに触れていなかったけれど、小児科全体がリサイタルのことで盛り上がっているのを前にして、本当は心変わりしていて内心ではリサイタルに出たくなっているのに、跋の悪さから言い出せずにいる、という可能性もないわけではなかった。
沙希は壁の時計に目を遣った。リハビリの時間まであと十五分くらいあった。本当は個室で彼と話がしたかったのだが、由美がいる前では何となく話しづらかった。
「そろそろリハビリの時間だね。送っていってあげる」と沙希は言った。
大樹は、ありがとう、と言って頷いた。
三人で個室を出た。車椅子を押してリハビリセンターのある東病棟へ向かった。少し後ろから由美が付いて来た。エレベーターに乗って二階まで降り、そこから西病棟と東病棟を繋ぐ連絡通路を進んでいった。
車椅子を押しながら、このまま話してしまおうか、と沙希は少し迷った。辺りは騒がしく、たぶん後ろから来る由美には聞こえないだろう。というか、隠すような話ではないのだから別に聞こえたって構わないのだが——。
そう思っていると、後ろから声がした。
「あの」由美が言った。「ちょっとお部屋に忘れ物をしてしまったので取ってきますね。先に行ってもらっててもいいですか?お願いしてしまって申し訳ありませんけれど」
「わかりました。大丈夫ですよ」
由美は小さく会釈すると、また西病棟のほうへ小走りに戻っていった。
沙希は腕時計に目をやった。まだ一〇分くらい時間があった。東病棟に渡ってリハビリルームの手前まで来ると大樹に向かって言った。
「まだちょっと早かったね。ラウンジで待ってようか?」
大樹は振り返ってじっとこちらに視線を向けた。それから黙って頷いた。何か気配を感じとったのかもしれない。つくづく鋭い子だ、と思った。
ラウンジの中央まで車椅子を押していって、廊下から見えやすいところに腰を下ろした。由美が戻って来る前に話をしてしまいたかった。さっそく切り出した。
「あのね、この間の話だけど——」
大樹は顔をあげてこちらを見た。
「あなたがチェロをやめてしまった理由のこと」
「ああ」
「本当は、私のせいなんだよね?私のことを怒っているからなんだよね?」
大樹は黙ったままどこかへ視線を向けた。
「謝って済むことじゃないって、そう思ってる。謝って赦してもらえるとも思ってない。でも、謝りたいっていう気持ちが少しずつ芽生えてきたんだ。難病を患ってる可哀想な子供オーラ出してるって言ったこと。それから、あなたの顔を何度も叩いてしまったこと。それからこの間、生きてる意味ないって言ってしまったこと。全部謝る。ごめんなさい」
大樹のほうを向き直ると、沙希は膝につくくらいに頭を下げた。
顔をあげると大樹はじっとこちらを見ていた。顔には何の表情も浮かべていなかった。やはりこんなことをしても無駄なのかもしれない。
「リサイタルで私と一緒にデュオを演奏してもらえないかな?」と沙希は言った。
「沙希さんと僕が、デュオを?」
「うん。やっぱり嫌かな?」
大樹はまた視線を逸らすと何かを考えているようだった。
「仲直りのしるしとか、そんなんじゃないよ。そんなんじゃなくて、ただ——」
そこで言葉が詰まった。実際、彼と一緒に演奏しなければならない理由なんて何もなかった。それどころか、そもそも音楽を奏でること自体、何の意味もないことだった。どうしてそんなことに拘っているのだろうか。もう諦めよう。そう思った。
大樹が不意にミーちゃんのことを口にし始めたのはそのときだった。何の予告もなかった。聞きながら、どんどん胸がざわついていった。
「実は、ミーちゃんと…」
「ミーちゃん?」
「うん。ミーちゃんと約束したんだよ、毎日一緒にリハビリ頑張ろうって」
「そうなんだ」とひとまず返事をした。なぜ突然ミーちゃんの名前が出て来たのか、頭の中が混乱した。ただ、二人に多くの共通点があることにはすぐに気づいた。彼女は自分の担当ではないからあまり詳しいことは知らなかったが、いくつかの共通点はすぐに思い浮かんだ。もちろん一番は二人が同じ病気を患っているということだった。
「でも」と沙希は続けた。「レッスンは週に一回だし、一日くらい一緒じゃなくても…」
「まあ、それはそうなんだけど…」
彼の胸にはまだ何かがつかえているようだった。無理に言わせたくはない。だが気になって仕方がなかった。いったいどういうことなのだろうか。
「まだ何かあるんだね?言いたくなかったら言わなくていいんだよ。でも嘘はつかないでほしいな。ていうか、わたしに言われたくないか」
無理やり笑みを浮かべる。すると彼は苦しそうな顔をして言った。
「ミーちゃん、駆けっこが速かったんだ」
何のことかわからず、頭の中に疑問符が並ぶ。
「幼稚園の運動会でも、いつも一番だったって言ってたよ。パパもママも体育の先生で、自分も将来体育の先生になりたいって、ミーちゃん、そう言ってたよ」
次の瞬間、すべてが腑に落ちた。
そこか——。思わず心の中で声が漏れた。
もう駆けっこができなくなってしまったミーちゃんに彼は気兼ねしていたのだ。
自分だけ好きなチェロのレッスンに出かけていくことが、彼にはどうしてもできなかったのだ。
後頭部を重たい鈍器で叩かれたような感じがした。
それからふと、以前に由美から聞いた話が脳裏を掠めた。彼は物心ついたばかりの頃からいつも世の中の重圧——由美はたしかそう言っていた——と戦って来たのだった。健康でなきゃダメだよ、という健常者たちが知らず知らずのうちに発しているメッセージ。憐憫三、非難七くらいの割合で大上段から振り下ろされるハンマーのような圧力。非難しているくせにやさしげに憐れみもするという世の中の曖昧な態度。彼はいつだってそんな世間の理不尽さに戸惑い、どうしたらいいのかわからず、苦しめられ、それでも小さな身体で精一杯戦ってきたのだった。そういったことが、ようやくはっきりとイメージできたような気がした。
そしていま、彼は世間だけでなく神様とも戦っているのだ、と思った。
初めて彼とチェロのことを話したときのことが蘇ってきた。
「でもそのうちに弾けなくなるに決まってる」
「そのうち腕に転移するに決まってるし」
「遅かれ早かれ時間の問題。唯一の生き甲斐もきっとそのうち奪われる」
「もし神様がいるのなら、初めからこんな身体になってないし」
神様は彼に生き甲斐のチェロの演奏を残してくれた。けれどミーちゃんからは生き甲斐の駆けっこを奪ってしまった。なぜ自分だけが神様の恵みを受け、なぜミーちゃんは神様に見放されてしまったのか。彼はそう感じているのではないか。神様がじきに彼からも生き甲斐を奪おうとしていることを知らない彼は、きっとそう感じているのではないか。
いや、もしかすると彼はもうすでに転移に気づいているのかもしれない。気づいていて、あえて自分に残されたわずかな時間のあいだ神様と戦うことを選んでいるかもしれない。
そんなことが子供にできるはずがない。だが彼は普通の子供ではなかった。
本来ならば担当看護師である自分こそが、そんな世の中の不条理な態度から患児たちを護らねばならなかった。しかし自分は正反対のことをしてしまった。
彼に向かって言ってしまった愚かな言葉を思い浮かべると、いまさらのように気が遠くなった。粉々に割れて散乱した器の破片を拾い集めるような心境で、沙希は大樹の様子を窺った。
大樹は俯いたまま床を見詰めていた。
すると突然、背後からガチャンという金属的な物音がした。
驚いて振り返ると誰かが廊下に倒れていた。
ピンク色のジャージ姿で、ニットの帽子を被っていた。すぐそばに車椅子があって、その背後にいた女性が驚いて女の子に駆け寄ろうとした。けれど彼女は自分を抱え起こそうとする女性を制して、床に這いつくばったままこちらに向かって顔をあげた。どうやら自分からわざと床に倒れたようだった。
「大樹お兄ちゃん」とミーちゃんは言った。これ以上ないほどの笑みを浮かべている。
「見ていてください。ミーちゃん、もう一人で立ち上がれます」
彼女はそう言うと、近くに転がっていた松葉杖を掴んで体勢を整えた。それからゆっくりと両手を踏ん張り、松葉杖を支えにして身体を起こし始めた。
ぐらぐらと杖が震え、今にも転倒しそうな状態で何とか持ちこたえていた。いつの間にか、ラウンジにいた人たちや廊下を通りがかった看護師たちが動きを止め、固唾を呑んで見守っている。
ミーちゃんは小さな眉間に皺を寄せ、歯を食い縛りながら体を持ち上げようと必死だった。そして少しずつ時間をかけて、ようやく片方の膝が床に着地した。それから最後の力を振り絞るようにして一気に立ち上がった。
その瞬間、大きな拍手が沸き起こった。見守っていた誰もが笑顔を浮かべて手を叩いている。
大樹は車椅子を走らせてミーちゃんのそばに駆け寄った。
「ね?本当でしょ?」ミーちゃんは大樹に向かって言った。彼女はまた大きな笑みを浮かべた。
「ミーちゃん、もう一人でも大丈夫です。大樹お兄ちゃんがいなくても、ミーちゃん一人でちゃんとできます」
大樹は何度も頷いた。
「ミーちゃん、頑張って絶対に体育の先生になります。だから大樹お兄ちゃんもチェロのレッスン頑張ってください。ミーちゃん、大樹お兄ちゃんが看護師さんと一緒にコンサートで演奏するの楽しみにしています」
大樹はミーちゃんの頭を撫でながら大きく頷いた。彼がいまどんな表情をしているのか、沙希の位置からは見えなかった。
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