第13話

 目を開けると、真っ暗だった。

 部屋の中はひどく寒かった。カーテンを捲って外の様子を窺った。粉雪の舞う情景が脳裏を過ったが、橙色の街灯に照らされた通りに雪は降っていなかった。

 沙希はベッドの上に身体を起こした。それからエアコンのリモコンを手に取って温度をあげた。

 時計を見ると、夜の九時をまわったところだった。静寂に耐えられずテレビをつけた。暗闇の中に光が灯り、バラエティ番組の笑い声が部屋の中に木霊した。どういうわけか余計に静寂が増したような気がした。

 謹慎三日目の夜だった。

 コーヒーテーブルの上には書きかけの便箋とペンが置かれていた。

 この三日間、一、二行認めては眠りに落ち、目覚めるとまた一、二行書く、の繰り返しだった。夜中に目覚めることもあれば、早朝に耳元で誰かが囁く声がして目を覚ますこともあった。

 毎晩、貴宏からメールが来た。

 懲戒免職は避けられそうだという連絡が来たのは昨日の晩だった。病院側が事情を調査したところ、大樹の「度を過ぎたイラヅラ」が発覚し、病院を訴えると言って憤慨していた大樹の父も溜飲を下げたのだという。一週間の謹慎処分は覆らないが、それが済んだあとには特別に職場に復帰させることを病院側も決めたらしい。「驚いたことに——」とメールは続けていた。大樹の両親は、職場復帰後に引き続き沙希に大樹の担当看護師を続けてもらいたいと病院側に申し出ているとのことだった。特に大樹の父にはこれまで被災者のために活動してきたという強い自負があって、息子のしでかした「愚かしい行為」に大きなショックを受けている様子だという。

 どこか遠い異国の地で起こっているニュースを読んでいるようだった。何もかもがどうでもいいことにしか思えなかった。「職場に復帰するとき」など来るはずがなかった。それまで時が流れ続けているとは到底思えなかった。


 何度も同じ夢を見た。

 階段の踊り場で、足を止めて上の方を見上げていた。コンクリートで覆われた細長の空間が空に向かって伸びていた。その上の方から降り注ぐ光の渦の遥か向こう側に、クレヨンで書き殴ったような青が浮かんでいた。階段を昇ろうとしているのに、金縛りにあったように足が動かなかった。光の向こうから誰かが呼んでいる声が聞こえてきた。声は、早くおいでよ、と囁いていた。行きたいのに、足が動かないの、と誰かが遠くで呟くのが聞こえた。どうして?と光の向こうからまた声がした。だって、空が眩しすぎるから、と遠くの声が呟いた。光の向こうからクスクスと笑い声が聞こえた。何がおかしいの?とまた遠くの方で声がした。空が眩しすぎるからって——ふざけてるのかい?と声が囁いた。どうしてそんなこと言うの?と声が呟いた。すると突然、扉が閉ざされ光の渦が消え去った。そしてコンクリートの空間は真っ暗な闇に包まれるのだった。


 気がつくとまた眠りに落ちていた。スマホが振動する音で目が覚めた。

 待ち受け画面には、佐藤貴宏、と表示されていた。メッセージではなく電話だった。出るかどうか少し逡巡したあとで沙希はスマホのボタンを押した。出ないとかえって心配して家まで押し掛けてくるかもしれなかった。そのほうが厄介だった。

「もしもし、沙希ちゃん?」

「うん」

「元気——なわけないか?」

「別に——普通だよ」

 余計なことは言わず適当に切るつもりだった。長引けばきっと貴宏は何か感じ取るに決まっていた。

「そうか——」と彼は言った。

「何か用?」

「いや、用ってほどでもないんだが——」

「私のために、いろいろありがとう」

「いや、全然——」

「復帰したら一から出直すから——」

「ああ」

「大樹君とも、またやり直すから——」

「ああ」

「だから心配要らないよ」

 そこで会話が途切れた。それくらい言っておけば貴宏も安心して電話を切ると思っていた。心の中でもう一度彼に礼を述べた。それから、じゃあ、と言ってボタンを押そうとすると、貴宏が引き留めた。

「ちょっと待って——」

 沙希はスマホを持ちかえて続きを待った。

「怒ってるんだろ?」

「何のこと?」

「オレが大樹に円谷のことや、彼の弟の話をしちまったことだよ」

「どうして怒るの?」

 それから沈黙に落ちた。

 普通の状態なら怒っていたかもしれない。だがもうどうでもよかった。

「遅かれ早かれ、あの子には知られていたでしょ?ツンツルのせいじゃないよ」

 返事はなかった。もう切ろうと思った。何も言わず、ただボタンを押せばいい。

「死ぬつもりなのか?」

 唐突な言葉にも不思議なほど冷静だった。やはりわかっていたかというありふれた感慨が浮かんだだけだった。

「さあ、どうかな」とだけ言った。

「そんなら最後に一〇分だけ時間をくれないか?」と声がした。

「どういうこと?」

 そう言いながら、まずい、と思った。本気で会話してしまっている。

「ちょっと外を見てくれないか?」

 まさか、と思いながら、上半身をベッドに横たえながら手を伸ばして窓のカーテンを少しだけ捲った。

 真っ暗な空に三日月が浮かんでいるのが見えた。それから下の通りへ目を向けると、街灯に照らされた電信柱の蔭に佇む人影があった。すぐそばにエンジンを掛けたままのタクシーが停まっていた。

「見えるか?」

 人影はこちらへ向かって手を振った。

「どういうつもり?」

「最後にどうしても話したいことがある。一〇分だけでいいんだ」

「どうしてここがわかったの?」

 また、まずい、と思った。些細な事柄を口にする度に、どうでもいい物事が本気で気になり出すものだ。澄み切っていた透明な水が濁り始め、何かに絡み取られるように足下がどんよりと重くなっていく。

「前に飲んだときに帰りに送っただろ?覚えてないのか?」

 やはりそうだったのか。それほど昔のことではないのだが、もうずっと過去のような気がするのが不思議だった。

「本当に一〇分で帰る。さっき電話があって、これから病院に戻って緊急オペがあるんだ」

「そんな嘘、信じるわけないよ」

「本当だよ。死のうとしている人間に普通そんな嘘つかないだろ?いいか?行くぞ」

「こんな夜更けに、女子の家に入れてもらえると思ってるの?」

「いいぞ、その調子だ。どうでもいい俗世の道徳が戻って来たみたいだな。じゃ、いまから行く」

 そう言うと貴宏は一方的に電話を切った。

 少しの間、スマホの画面を見つめたまま暗闇の中でじっとしていた。それから徐に腰を上げ、テレビのボリュームを絞った。灯りは消したままにしておいた。テーブルの上の書きかけの便箋が目に入り、表紙を閉じてペンと一緒にベットの下に押し込んだ。それから床に転がっていたパーカーを羽織った。完全にスッピンであることが頭を過り、馬鹿みたい、と自分に向かって呟いた。

 玄関のベルが鳴った。内鍵のチェーンを外し、ドアノブを回して扉を押した。

 街灯の灯りを浴びて白衣姿の貴宏が立っていた。

「間に合ってよかった」

 貴宏は玄関に入って後ろ手でドアを閉めながら言った。靴を脱ぎフローリングの板の間に上がり込むと、自分の家のように何の断りもなく廊下を抜けてリビングに入っていった。

「灯りくらいつけたらどうだい?」

 貴宏は二人掛けのソファに腰を下ろすと、暗い部屋の中を見回した。音を絞ったテレビ画面から放たれる灯りだけが貴宏の顔を照らした。

「この暗さじゃ死に神だって見つけらんないぜ。正真正銘の孤独死だよ」

 沙希は貴宏の向かいの絨毯の上に体育座りのような姿勢で腰を下ろした。

「話ってなに?」

「もちろん、大樹のことだよ」

「そう」

「この期に及んで冷静を装うんだな」

「別に、普通だよ」

「あいつのことで死のうとしてたのにか?」

「別にあの子のことで死のうとしてたわけじゃないよ」

「じゃあ何のことでだよ?」

「さあ。よくわからないよ」

「ずいぶん適当なんだな。理由もわからないのに死のうとしてたのか?」

「そうだよ。別に普通だよ。みんなそうだよ。理由なんか何にもわからないまま、みんな死んでいくんだよ。人が死ぬのに、いちいち理由なんて必要ないんだよ」

「看護師失格だな」

「とっくの昔に失格してた。看護師になる前から失格してた。人の命なんて全く信じてないのに看護師になっちゃった。母に憧れてただけだった。でも私には無理だった。あんなことが起こったあとで、人の命なんて何の意味もなかった。母は幸せだった。命に意味があるって、最後まで信じてられたんだから」

「そうか。しかし少なくとも、自分の考えが間違いだったって悟るまでは看護師を続ける義務があるな」

「じゃあいったい中畑さんは何故亡くなったの?彼女の死の意味は何だったの?」

「HN5が重症化した」

「馬鹿みたい。原因と理由を混同するなんて」

「原因と理由は同じことだよ」

 沈黙が暗い部屋の中に染み渡った。テレビ画面の映像だけが闇の中で唯一動いていた。

「あいつ」貴宏が沈黙を破った。「沙希ちゃんに叩かれて、目を覚ましたみたいなんだ」

「そう」

「沙希ちゃんに謝りたいって言ってるよ」

「悪かったのは私のほうなのにね」

「いまさら善悪の問題じゃないだろ」

「謝るって善悪の問題でしょう?」

「謝るって、礼を述べるみたいなもんだろ?礼を述べるのに善悪は関係ないだろ?」

「こじつけはいい加減にしてよ」

「とにかく、あいつ、人から叱られたのも、叩かれたのも、初めてだったらしいよ」

「可哀想な難病患児だったんだから当然だよ」

「いままで味わってきたどんな腫瘍の痛みよりも、沙希ちゃんの掌のほうが痛かったらしいよ」

「……」

「たしかに人が死ぬ理由なんてないのかもしれない。でも、生きてる理由はあるよ。それだけは絶対にある。掌の痛みがその証拠だよ」

 再び長い沈黙が部屋を覆った。沙希は膝の間に首を垂れたまま、じっとテレビ画面に映るバラエティ番組を見詰めていた。

「もうとっくに一〇分経ったよ」

 沙希の言葉に貴宏が腰をあげた。リビングを抜けて真っ暗な廊下の途中で立ち止まった。

「奇跡のピアノをうちで引き取ろうと思ってる」

 沙希は顔をあげた。貴宏は背中をこちらに向けたまま続けた。

「修復が終わったら、チャペルでコンサートを開くんだ。そしたらあいつと一緒に演奏してやってくれないか?」

「修復が終わったらって——いったいいつ終わるの?」

「わからない」

「そんな約束できないよ。それまで生きてるかもわかんないのに…」

「約束なんてしなくていい。もしもピアノが直って、もしも沙希ちゃんがまだ生きていて、もしもあいつもまだ生きてたら、そのとき、一緒にコンサートで演奏してやってくれればいい」

「もしもだらけだね。全く叶いそうもない」

「そだな」貴宏は向こうを向いたまま苦笑しているのがわかった。「でも、あいつのために、もう少し生きていてやってほしい。あいつが生きている間だけは、頼むから、沙希ちゃんも生きていてやってほしい」

 暗闇の中で貴宏が靴を履く気配がした。それからドアが軋む音がして、街灯の灯りを背にして貴宏がこちらを向いたまま立ち尽くしているシルエットが浮かんだ。どんな表情をしているのか暗くて見えなかった。

「あいつ、転移してたんだ。今度は右腕だった」

 ドアが閉まった。しんとした暗闇に取り残されると、本当に貴宏が来ていたのか自信がなくなった。

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