第12話
それから数日は何事もなく過ぎた。そのまま日常を取り戻すかに見えた。
沙希は大樹とのことを誰にも言えずにいた。言い出すタイミングを完全に逃してしまったのだ。蒸し返すのには余計にエネルギーが必要になる。時間が経てば経つほど、なぜこんなに遅くまで黙っていたのかという叱責の声が強くなっていく。その分ますます言い出しにくくなった。
とにかく本人にだけは謝るつもりでいた。翌日も、そのまた次の日もチャンスを窺っていた。だがどういうわけか、なかなか二人きりになることができなかった。
朝の検温時、普段なら個室には彼以外誰もいない。だが翌日の朝は、よほど息子のことが心配だったのか、すでに由美がやって来ていた。昼食の配膳のとき、午後の処置のあとのリハビリまでの僅かな時間、リハビリのあとの夕暮れ時も、いつになく由美が大樹のそばに付き添っていて、時おり彼女がその場を離れると、不思議と貴宏や他の看護師たちが姿を現し、ようやく訪れたと思ったチャンスを奪われた。そうこうするうちに数日が経ち、そうなるともう言い出せなくなってしまった。
ただ、大樹は誰にもその話はしていないらしく、するつもりもないようだった。由美や貴宏の態度は普段と何も変わらなかった。本当はすでに知っていて、こちらが言い出すのを待っているのかとも考えたが、どう見てもそうは見えなかった。
一番気掛かりだったのは、大樹の元気が戻らないことだった。
あれほど頑張ってたった一人で墓を建て、地球の裏側の小さな魂を手厚く供養してあげたのだから、きっと彼の気持ちも吹っ切れるのではないか——皆そう思っていた。しかし、数日後に再びチェロのレッスンの日がやって来たとき、時間が来ても大樹はベッドから起き上がろうとしなかった。その様子を見ると、由美は沙希に向かって心配そうに小首を傾げた。
レッスンに行かないだけでなく、彼はチェロの練習も再開しようとしなかった。チェロそのものをやめてしまったみたいだった。生き甲斐だとまで言っていたのに——。
理由は一つしか考えられなかった。やはり彼は沙希が言った先日の言葉を気にしているのだ。そうとしか考えれなかった。もしかしたら、気にしているふりをして自分を苦しめようとしているのかもしれない。それもあり得ないことではなかった。
何とかしなければならない。このまま何事もなかったかのようにやり過ごしていいはずがない——そう思っているのに、謝るチャンスも訪れぬまま時間ばかりが過ぎていった。そしていよいよ焦燥が募りはじめた頃、あの日がやって来た。
左大腿の手術のあと、大樹は週一回、東病棟で放射線治療を受けていた。
普段は午後の処置が始まる一三時半に沙希が大樹を車椅子に乗せて東病棟まで連れて行くのだが、その日はいつも治療を担当している放射線専門医に所用があり、普段より一時間遅らせて一四時半から治療を始める予定になっていた。
他の患児たちの世話を終えて、沙希は一四時半になる少し前に大樹の個室のドアをノックした。
部屋に入ると、ベッドに大樹の姿がなかった。不審に思って枕元まで近づくと、オーバーテーブルの上に小さな紙切れが置いてあるのが目に入った。沙希は手を伸ばして紙片を摘まみ上げると、そこに書かれている文字に目を向けた。大人びた感じの美しい書体だった。
「見せたいものがあります。西病棟の屋上へ来てください。大樹」
メモを見てまっさきに思い浮かんだのは、由美さんはどこだろう?という考えだった。そう言えば、その日は朝から由美の姿を見ていなかった。昨日まではあれほど付きっきりで大樹のそばから離れようとしなかったのに、肝心なときに彼女は居てくれない——そんな身勝手な考えが脳裏を過って、また情けない気持ちになった。
いずれにしても、屋上まで行かないわけにはいかなかった。ただ、そう思った途端、足もとから途轍もない恐怖が込み上げて来た。
聖マリア病院の屋上には西病棟も東病棟もちょっとした庭園が築かれており、天気のよい日には陽の光を求めて数多くの患者たちが徘徊する——その話は同僚のスタッフから何度も聞いていた。そんな憩いの場所なのに、沙希は病院に勤務し始めてからまだ一度も屋上に足を運んだことがなかった。
思い返してみると、この半年ほどの間に屋上にあがるのが自然な状況が何度かあったような気がするが、その度に自分でも無意識のうちに何やかやと理由をつけて屋上に出るのを避けてきたような気がする。しかし今日だけはどうしても避けられそうもなかった。早く大樹を見つけ出して東病棟に連れて行かなければならない。
個室を出ると、念のため面会ラウンジやプレイルームの辺りを覗いてみた。やはり由美の姿はなかった。エレベーターに乗り込む前にナースステーションに立ち寄ってドア口から中を覗くと、机に向かって佳奈が何かの書類に向き合っていた。気配を感じた佳奈が顔をあげた。
「沙希ちゃん、どうしたの?何かあった?顔が真っ青だよ」
「どこかで大樹君のママを見かけませんでしたか?」
「えっと——」佳奈はボールペンの先で頭を掻きながら言った。「そういえば、今日は朝からずっと大樹君ママは見てないな。本当に、何かあったの?」
佳奈はそう言って腕時計に目を遣った。
「たしか大樹君、今日は二時半から放射線じゃなかったっけ?大丈夫?」
一緒に屋上へ行ってほしいと彼女に頼むかどうか、沙希は逡巡した。だが、佳奈の前に積まれた書類の山を目にすると気がひけた。
「それなら大丈夫です。大樹君がママにも一緒に放射線に来てほしいって言ってるので——。お邪魔してすみませんでした」
そう言って無理やり笑みを浮かべると、ナースステーションを離れた。そしてエレベーターに向かいながら、必要もなかったのになぜそんな意味もない嘘までついてしまったのだろうかと訝しい気持ちになった。まるでうっかり転んでできた小さな傷口をわざわざ自分で広げようとしているみたいだった。
エレベーターに乗り込むとRというボタンを押した。指先が微かに震えていた。シュルルルルルというエレベーターが上昇する音に合わせて胸の鼓動が激しく波打つのがわかった。
屋上に着くとドアが開いた。
恐る恐る足を踏み出してエレベーターから降り立った。庭園へ出るドア口から強烈な陽光が差し込んでいて、エレベーターホールの箱形の空間が暗い蔭のなかに沈んでいる。その瞬間、沙希は激しいデジャブに襲われた。大樹のメモを見たときから腹のそこに沈殿していた恐怖心が一気に身体の中を駆け上がり、心臓から頸椎を突き抜けて頭部へ達した。顳顬に焼き鏝を当てられたみたいに頭が熱かった。
屋上のアスファルトの上に足を踏み出すと、秋晴れの真っ青な空が視界に飛び込んできて、不意に腹の底から吐き気が込み上げて来た。
庭園は広く、四方を取り囲むフェンスの手前に植木が立ち並んでいるせいで、ビルの屋上に特有の殺伐とした感じがなかった。フェンス際に等間隔で設置されたベンチの多くに高齢の患者と看護師が腰掛け、静かに談笑しながら日光浴を楽しんでいた。
見渡す限り、大樹らしき患児の姿はなかった。
沙希はハンカチで口を覆い、額から噴き出す汗をスクラブの袖で拭いながら、ゆっくりと庭園の奥へと進んでいった。そして中央の大きな植え込みを回り込んで、それまで遮られていた視界が開けると足を止めた。
屋上の一番奥のフェンスの手前で、車椅子に座ったままこちらに背を向けて佇んでいる患児の後ろ姿が見えた。ちょうどその正面の僅かな部分だけフェンス際の植え込みが途切れており、その隙間から遠くのほうに水平線が輝いているのが見えた。
沙希はアスファルトの上を足を引きずるように進んでいった。まるで両足に鉛の球をつけられた囚人みたいだった。途中何度も逃げ出したい衝動に駆られた。だがその度に、生前の母の口癖が耳元に蘇っては自分を励まし続けた。
「もし誰かが苦しんでいたら、しっかりと手を差し伸べる。絶対に見捨てない。最後まで寄り添い続ける——」
少年から数メートル手前のところまで歩を進めると、沙希は立ち止まった。
「大樹君、もう放射線の時間だよ。見せたいものっていったいなに?」
大樹は海のほうを向いたまま動かなかった。返事もない。
沙希は恐る恐る近づいて、車椅子背後の握りをそっと掴んだ。
「さあ、もう行こう。いい?」
すると大樹がようやく沈黙を破った。
「ずいぶん時間がかかったんだね。正直、怖くてここまで来られないかと思ってたけど——」
その言い方には、いつにも増して冷たい、凍てついた嘲りが混じっていた。
「怖いって——」沙希は口籠もりながら言った。身体が震えているのが自分でもわかった。「どうして知ってるの?」
「知りたい?」と大樹は言った。それから徐にハンドリムに手を掛けるとフェンスに向かって一メートルほど車椅子を進め、それからくるりと向きを変えてこちら側に向き直った。案の定、彼の顔には消し忘れた落書きのような薄笑いが浮かんでいた。
「この間の御礼に、ちょっと調べさせてもらったから」
沙希は眉間に皺を寄せた。
「この間って——この間のこと?」
大樹の白くあどけない顔に無数の皺が寄ってくしゃくしゃになった。見開かれた大きな眸が喜びで震えていた。まるで薄暗い取調室の中で容疑者を詰問することに無情の喜びを感じているベテラン刑事のような眼をしていた。
「看護師が難病の一〇歳児にあんなことを言って、そのまま逃げられると思ってるの?」
背後から鋭い刃物で心臓を抉り抜かれたような痛みが走った。何百メートルも遠くの藪の中から音もなく飛んできた吹き矢に撃ち抜かれたみたいだった。目の前が真っ白になり、経験したことのないような真っ黒な恐怖と後悔が押し寄せた。
気がつくと、沙希はコンクリートの上に両膝を突いていた。
そんなことをしたって彼は許してくれないのはわかっていた。そう感じながらも身体が勝手に動いていた。命の危険を感じた小動物が反射的にできる限りの自己防衛手段をとってしまうみたいに、冷たいアスファルトに両手両膝をついて、少年の前で頭を垂れていた。
「本当にごめんなさい。何度も謝ろうと思ったんです」それは自分の声のように聞こえなかった。その声には、何か別の生き物が身体を乗っ取って口を開かせているような圧倒的な遠さがあった。「でもチャンスがなかったの。本当です。どうか許してください」
「まだ質問に答え終わってない」
大樹はこちらの言葉が全く聞こえなかったかのように言い放った。沙希は思わず顔をあげて目を細めた。
「どうして屋上が怖いか知ってるかっていう質問——」大樹は続けた。「ネットって本当に怖いよね。時間をかけて調べさえすれば、どんな情報だって何かしら見つかっちゃうんだから」
咄嗟に耳を塞ぎたい衝動に駆られた。彼の口からどんな言葉が放たれようとしているのか、一瞬のうちにおおよその見当がついた。だがショックのあまり、両手を突いて首を垂れた姿勢のまま身体が動かなかった。
「天翔って、本当に能天気な名前だよね。何様のつもりでそんな名前つけたんだろ?」
耳を疑った。いろいろ覚悟はしていたとはいえ、大樹の口から彼の名が飛び出してくるとは——。
そして何よりも、彼に向けられた嘲りの言葉に背筋が凍り付いた。
「本町第二小の屋上で津波に呑み込まれる最後の瞬間、たくさん動画が上がってるの、知ってるよね?丘の上の公園から撮ったやつがたくさんアップされてるよ。佐藤先生も最後の瞬間を公園から見てたって言ってたよ。それでひょっとしたらと思ってちょっと調べて見たら、もうわんさか出て来ちゃって。自分だって見てたんでしょ?天才少年指揮者か。新聞記事もついでにたくさん見つかったよ。震災の翌日の卒業式でピアノの伴奏をするはずだったんだよね?仲よしの彼がそんな目に遭ったんだから、突然そっくりさんが現れたら誰だって頭がおかしくなって幽霊だって勘違いしちゃうよね?あ、そうそう、ついでに母親の記事も出て来たよ。地元の新聞に載って有名人だったみたいだね。なんか偉そうなインタビューで意味不明なことばっか言ってたけどさ」
彼の声を聞きながら、自分は試されているのだ、と沙希は思った。
病魔に冒された彼の痩せ細った身体の中には、この世界のあらゆる不条理に対する怒りが詰め込まれているのだ。由美の話が正しいとすれば、彼はそんな世界の不条理を幼い頃からすべて自分のせいだと感じて背負い込んできたのだった。理不尽な苦しみを自分に与え続ける世界と対峙したとき、小さな魂はその理不尽さの全責任を背負い込むことによってしか、きっと世界を理解できなかったのだ。自分自身がその原因だと思い込むことによってしか、彼にはこの世に存在する痛みや苦しみの意味が見いだせなかったのだ。
そしていま、彼は無性にこの自分に苛立っているのだ。この世の中に自分よりももっと真っ黒な無を抱えた人間がいるかもしれないということに、彼は密かに動揺しているのだ。そんな真っ黒な無に、世界の痛みや苦しみが呑み込まれてしまうことが彼には怖くて仕方がないのだ。彼に牙を剥かせているのはきっとそんな焦燥に違いない。人を苦しめることでしか、彼には自分の存在意義を確かめることができないのだ。
沙希は無言のまま立ち上がった。
自分が試されていることに気づくと、かえって気持ちが軽くなった。あらゆる感情も考えも消え去って、もう何も感じなかった。そうだ。これが本来の自分なのだ。皮肉にも、少年は自分を苦しめようとして、かえって意味も苦しみももうそんなことはどうだってよかったことを思い出させてくれたのだ。
沙希は踵を返すと、大樹に背を向けたままエレベーターホールに向かって歩き始めた。もう自分の体重の重みすら感じなかった。宙に浮いているように身体が軽かった。どういう罰が待ち受けていようと、もうどうでもいいとしか思えなかった。
しかし、そんな振る舞いさえ彼は許そうとしなかった。数歩進んだところで背後から声がした。
「ちょっと待ってよ」
立ち止まってはいけなかった。振り返るべきではなかった。ただそのまま立ち去らねばならなかった。
しかしそう思ったときにはもう遅かった。
振り返った沙希に大樹は言った。
「なんで難病患者を置き去りにして行っちゃおうとしてるんだよ?見せたいものがあるって言ったでしょ?まだ見てないでしょ?」
そう言って大樹はハンドリムに手を掛けて車椅子を半分ほど回転させると、半身の姿勢で植え込みが途切れて海を臨んでいるフェンスに向かって指さした。
沙希は痩せ細った指の指す方向に視線を馳せた。遠くのほうで銀色の水平線が陽光を浴びて輝いていた。それ以外には何も見えなかった。
しかし——。次の瞬間、視界のずっと手前のほうで何かがひらひらと揺らめいているのに気がついた。
沙希はカメラレンズを絞り込むように手前のほうに焦点を合わせていった。セロテープか何かで紙切れのようなものが金網に貼り付けられているのが見えた。もう一滴の情動すら残っていないと思っていた身体の奥のほうから、沸たぎるような感情が黙々と立ち上ってくるのがわかった。
沙希はフェンスに向かって歩き出した。大樹のよこを通り過ぎ、フェンスのすぐ手前まで進んだ。金網に顔を近づけた。ネット上の画像をプリントアウトした印刷用紙が二枚、横に並べて貼り付けてあった。
一枚は天翔の写真だった。定期演奏会の翌日、地元の新聞の一面に掲載された写真だった。
もう一枚は、母・明子の写真だった。同じ新聞の企画で、地元の病院に勤務する看護師にインタビューをする特集が組まれたときの写真だった。
どちらの写真にも二人の顔の部分にマジックで落書きがしてあった。二人とも、額のあたりに漫画に登場する幽霊がつけている三角頭巾の絵が塗り込まれていた。
それを見た瞬間、世界から音が消えていった。沙希は振り返った。再びフェンスを離れ、大樹のすぐ前まで歩み寄った。それから右手の掌を頭の上まで振り上げると、目の前のその小さな白い頬を力一杯張った。
次の瞬間、白い頬はまだそこに浮かんでいた。その頬は、宙に移ろう白い花弁のようにまだそこに浮かんでいた。もう一度、思い切り頬を張った。するともう止まらなくなった。
気がつくと、背後から脇の下に手を回され強い力で身体を押さえつけられていた。
顔をあげると、目の前に由美が口をあけて立っていた。身体をねじ曲げて背後へ振り返ると、会ったことのない男性の顔が見えた。
男性は両手で沙希の両腕の手首を握り締めた。掌がもげて落下しそうなくらいに男性は指先に力を込めた。
ふと、男性が付けていた腕時計が目に入った。針は一四時四六分を指していた。
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