第11話
大樹の様子がおかしいことに気づいたのは、それから数週間後のことだった。
週に一度のチェロのレッスンの日だった。いつもなら、午後の処置が終わると彼は外出用の服に着替えて出掛ける準備を始めるのだが、その日はベッドの中に横たわったまま、じっとどこかを眺めているだけだった。
沙希が部屋に入っていくと、枕元の椅子に腰掛けていた由美が顔をあげて心配そうな表情を浮かべた。
「あれ?大樹君、今日もレッスンに行かないの?」と沙希は言った。
前の週も大樹はレッスンを休んでいた。あれほど楽しそうに通っていたチェロのレッスンを休み始めたのだから、何か余程のことがあったのかもしれない。考えてみれば、ここのところ夕暮れ時に大樹の部屋からチェロの音が聞こえなくなったような気もする。レッスンに行かなくなっただけでなく、彼はチェロの練習自体をやめてしまったということだろうか。由美が心配するのも当然だった。
問いかけに、大樹はいつものように何も反応しなかった。枕元まで近づいていってぼうっとどこかを見詰めている彼の顔を覗き込むと、大樹は大きく寝返りを打ってこちらに背を向け、また布団を被って固まってしまった。
沙希は由美と一緒に個室を出ると、面会ラウンジのテーブルに腰を下ろした。
「ここのところ、大須賀さんだけでなく、他の看護師さんたちにもほとんど口をきかなくなってしまって——」
向かい合うとすぐに由美は切り出した。
「そうなんですね」と沙希は気落ちした声で言った。
大樹が他のスタッフにどんな接し方をしているのか、最近あまり見たことがなかったのだが、どうやらこれまで彼が冷たい態度を取っていたのは自分だけだったらしい。そう思うと、どんよりとした気持ちになった。
「大樹君、他の人とはちゃんとお話していたんですね」
精一杯の笑顔を取り繕いながら言った。
「ごめんなさい」由美はハッとした表情を浮かべて言った。「ご存じかと思っていたものですから…。そうなんです、他の方とはわりと普通にコミュニケーションを取っていたのですけれど——」
由美は跋の悪そうな顔をしながら苦笑した。「わりと普通に」という言葉が妙に胸に突き刺さった。
「でも」沙希は気を取り直して言った。「あんなに楽しそうだったレッスンに急に行きたくなくなるなんて、大樹君、音楽教室で何かあったのでしょうか?」
「さあ、どうかしら?」由美は小首を傾げていった。「私の知る限り、特には何も——」
「チェロの先生と何かあったとか、そういうことではないのですね?」
「レイコ先生とは、少なくとも二週間前までは普通に接していました。でも、何かあったのかしら?レッスン中は私も同じ部屋で見ているのですけど、特に変わったことはなかったと思いますが——」
「そうですか」
ふと、由美が口にしたレイコ先生という名が気になった。
ひと月ほど前に大樹がレッスンに通い始める際、由美に外出許可用の書類を提出してもらったが、そのときはRainbow Music Clubという教室名が記されているだけで、指導者名までは書かれていなかった。だが本来なら、当然そこまで調べておくべきだったと今頃になって気づく。
レイコ——。その名を聞いて真っ先に思い浮かぶのは、もちろん、帰りの会で貴宏を追及した、あのレイコだ。そして、本町第二小時代、彼女が管弦楽クラブでチェロを演奏していたことも同時に記憶の淵から浮かび上がった。
由美と話しながら、密かに背筋に冷たいものを感じた。虫の知らせだろうか。いや、どちらかと言えば、嫌な予感だ。
「それ以外で」と沙希は続けた。「他に何か変わったことはありませんか?病院内でのこととか」
何もない、という返事を期待していたのだが、意外にも由美は返答に窮する様子を見せた。
「何かあるのですか?」
「いえ」と由美は言った。「たぶん気のせいかなっていう感じもしていて…」
「どんなことですか?何でも仰ってみてください」
「そうですね」と由美は言って、しばらく沈黙に落ちた。言葉を探しているようだ。
「あのう」ようやく由美は言った。「どうやらペットの犬が亡くなったようなんです」
「ペット?大樹くんのですか?」
「いえ、そうではなくて…ごめんなさい、どこからお話ししたらいいのかわからなくなってしまって。インターネットでのことです。どなたかのペットです。お国はどちらだったかしら?アメリカやイギリスではなかった気がします。英語ではなかった気がしますので。ドイツだったかしら」
「ブログか何かのお話ですね?」
「ええ、そうです。どなたかが動画つきでアップなさっている感じの。何日か置きに更新されていたみたいで。アッシュビーっていう名前のジャーマン・シェパードでした。あの子、読書に疲れるといつも楽しそうな顔をして動画を見ていました。でもここのところチェックしていないみたいだったんですね。それで気になって自宅のパソコンでそのブログを覗いてみたんです。そうしたら一週間くらい前に亡くなっていて——。ちょうどあの子の元気が亡くなったのもそのくらいからでしたので、もしかしたらって…」
「そうだったんですね。全然知りませんでした」
自分は彼のことを本当に何も知らないのだ。その事実に改めて愕然とする。
「でも本当にそのせいなのかどうか、よくわからないんです。本人に訊いても何も言ってくれないですし。あの子、もう最近は思っていることを全然話してくれなくなってしまって。そんなことまでいちいち気にかけて、親バカだなって自分でも思うのですけれど…」
「親バカだなんて、全然そんなことありませんよ」
咄嗟にそう反論しながら、由美の言葉に内心で微かに励まされもした。いまの大樹は自分の周りに砦を築いてあらゆる人間を排除しようとしているのだ。親の由美でさえそうなのだから、少し前にどこからともなくやって来た新米看護師の自分なんかに心のうちを明かしてもらえるわけがなかった。そう考えると、いくらか気持ちが楽になった。
「いずれにしても、私のほうからもそれとなく大樹くんに訊いてみますね」
「何から何までお世話になってしまって、申し訳ありません」
由美は頭を下げた。
「私が訊いても、たぶん何も言ってくれないと思いますけど——」
そう言いながら自嘲気味な笑みを浮かべているのが自分でもわかって、沙希はどこか情けない気持ちになった。
その日の夕方、手が空いた隙をみてナースステーションのパソコンでRainbow Music Clubで検索をかけた。
主催者名はすぐに見つかった。竜石堂礼子(たついしどうれいこ)。礼子という女性は無数に存在するだろうが、竜石堂という姓を持つ人はごく僅かのはずだ。ホームページに簡単な経歴が掲載されていた。それによると、東京の音大を卒業後、五年ほど前に教室を開いたらしい。本人の年齢や顔写真は載っていなかったが、おそらく彼女であるのは間違いなかった。
何とも言えない不穏な気持ちを抱えたままナースステーションを離れ、その足で大樹の個室へ向かった。廊下を通り抜けながら、一五年前の帰りの会の光景やクリスマスイブの夕暮れの情景が脳裏に蘇ってきた。
看護師になって初めて担当した患児が、よりによってあの女に指導を受けていたとは——。それだけではない。あの女が一五年前に盗みの嫌疑をかけて苦しめた人物が、いまその同じ患児の主治医をしているのだ。奇妙な巡り合わせに頭の中が混乱している。
どう理解したらよいのかわからぬまま、とにかく大樹の顔を見て確かめたいという衝動が突き上げてくる。しかし自分はいったい何を確かめようとしているのだろうか。そんなことより、はたして貴宏はこのことをすでに知っているのだろうか。
大樹の個室のドアをノックした。例によって返事はなかった。そっとドアを開けて中へ入っていくと、彼はいつものようにベッドに横たわって本を読んでいた。
「また勝手に入ってくるし——」
大樹は本から目を離さずに言った。普段通りの冷たくて棘のある言い方だった。これでは元気がないのに気づくはずもない。
「ここ、座ってもいいかな?」
枕元に近づくと彼に向かって言った。
「ダメって言ってもどうせ座るんでしょ?いちいち訊くなよ」
大樹は前を向いたまま言った。
「そだね」苦笑しながら腰を下ろした。「ありがとう」
重苦しい沈黙が二人を覆った。大樹はいっこうに本の頁を捲らなかった。きっと目を向けているだけで内容は頭に入ってこないのだろう。
「あのね、大樹君」と沙希は言った。「最近、何かあった?」
大樹はまっすぐに本を見詰めたまま反応しない。
「お母さんが、大樹君の元気がないって心配してるよ。チェロのレッスン、生き甲斐じゃなかったのかな?先週もお休みしたよね?ひょっとして、音楽教室の先生と何かあったのかな?」
そこまで言って大樹の様子を窺った。相変わらず微動だにせぬまま、手に持った本のどこか一点を凝視し続けていた。
「病院の中はどう?他のお友達たちと何かあったとか?」
相変わらず反応はない。そのまま続けた。
「あのね、お母さんがアッシュビーのことを気にしてるよ。少し前に亡くなっちゃったんだよね?そのせいで、大樹君が辛い思いをしてるんじゃないかって、お母さんが心配してるんだ」
本を持つ大樹の手がかすかに震えていた。やはりアッシュビーのことで気落ちしていたのだろうか。珍しく彼はいまにも泣き崩れるのではないか、と身構えた。
しかし、結果はその逆だった。そんな中途半端で感傷的な慰めの言葉を彼は許してはくれなかった。ようやく返ってきたその返答はどこまでも辛辣で、およそ子供離れしたものだった。
「あのさ」大樹はオカルト映画に登場する人形のように、ゆっくりと首だけを回してこちらを見た。「どうしていつもそうなんだよ?」
声のトーンに息をのんだ。完全に不意を突かれ、いざとなれば泣き崩れる患児を抱擁する用意さえしていた自分の愚かさに瞬時に気づかされた。
「どうしていつも人の心のなかに入って来ようとするんだよ?どうしていつもそうやってうわべばっかり繕って、人のことを気遣ってるみたいな顔をするんだよ?」
「そんなこと…」
「気がつかないのかな?自分は思いきり心を閉ざしてるくせに、人の心だけこじ開けようとするの、やめてよ」
「ちょっと待って…」
「過去に何があったのか知らないけどさ、自分は世界で一番可哀想な人間だみたいな顔するの、やめてくれよ」
「私、そんなことちっとも思ってないよ」
「思ってるよ。思ってるって顔に書いてあるの、気づかないんだ?病院の他の人たちだって、みんなそう思ってるよ。みんなどう接したらいいのかわからなくて困ってるの、気づかないんだ?」
機関銃か何かで全身を滅多打ちにされた兵士みたいだった。いまにも床の上に崩れ落ちそうになるのを必死で支えていた。自分の身体のような気がしなかった。
後から思えばそのままじっと耐え忍んでその場を離れるべきだった。しかし、倒れまい、泣き出すまいと必死に堪えているうちに、足下から激しい怒りが込み上げてきた。意識が飛んで、周りの世界が遠のいていくみたいな感じがした。
一番言ってはいけない言葉が口をついて出てしまった。口にしながらもう後悔していた。だが止められなかった。
「あたなだってそうじゃない」
大樹は口を開けたまま、眼球が飛び出しそうなほどの驚きの顔を浮かべた。
「あなただって、世界で一番可哀想な難病患児オーラをいつも発してるじゃない」
二人は氷像のように凍りついたまま互いを睨み合った。
音という音が消え去り、冷たい静謐さが病室を埋め尽くした。ずいぶん長いあいだ二人は固まったままだった。
ふと、大樹が大きな瞬きをひとつした。それに合わせて再び世界が動き始めた。
彼は手に持っていた本を頭上に振り上げると、思い切り腕を振り下ろして沙希に向かって本を投げつけた。本は脇を擦り抜けて窓の横の壁にぶつかって床の上に落ちた。ドスンという鈍い音が病室の中に木霊した。
大樹はベッドに横になると背を向けて布団の中に潜り込んだ。
のたうちまわるくらいの後悔に一晩じゅう苦しめられた。
翌日は一週間ぶりの休日だった。だが居ても立ってもいられなくなって、沙希は午後から病院に出勤した。
正面ラウンジを抜けて西病棟へ向かう。同僚のスタッフたちと擦れ違うと、彼らは皆、おやっという表情を浮かべて通り過ぎていった。
エレベーターに乗り込み八階まであがる。
大樹は昨日のことを他の誰かに話しただろうか。擦れ違う同僚たちが不審そうな顔つきで自分を見ていたのは、きっと彼が昨日のことを病院側に伝えていて、そのことが他のスタッフたちにも伝わっているからではないだろうか。少なくとも彼は由美にだけは話したかもしれない。
看護師として最低の言葉をたった一〇歳の患児に向かって言ってしまったのだ。事情はどうあれ弁解の余地はなかった。どんな結果が待っていようと受け入れるしかない。ただその前に、とにかく大樹に会って謝りたかった。土下座して謝っても許してもらえないかもしれない。そうだとしても、この胸の苦しみをどうにかするにはとにかく謝るより他になかった。
エレベーターを降りて大樹の個室に向かって廊下を進んでいくと、向こうから由美がやって来た。ひどく慌てているのが一目でわかった。由美はこちらに気づくと駆け寄ってきて言った。
「大須賀さん、大樹を見ませんでしたか?」
「大樹君、どうかしたんですか?」
「さっきリハビリが終わって部屋に戻ってきて、私、少しの間、東病棟の売店に買い物に出ていたんです。それで、部屋に戻ってきたら大樹の姿が見えなくて。プレイルームとか、他の場所も探したんですけれど、どこにも居なくって。部屋に車椅子も松葉杖もないんです。あの子、どこかに出掛けていったんだと思います」
「わかりました。一緒に探しましょう」
由美と共に再びエレベーターに乗り込んで一階まで降りる。由美は心配そうな表情を浮かべて、階数を告げるエレベーターの表示画面を見詰めている。自分に対する彼女の接し方に特別変わったところはないようだ。やはり昨日のことはまだ聞いていないのだろうか。こちらから切り出すのなら今しかない。ただ何と言って切り出したらいいのかうまい言葉が見つからずにいると、そのうちに一階についてしまった。
エレベーターのドアが開いた。すると目の前に貴宏が立っていた。
「おや、お二人お揃いで、どうかしましたか?」
貴宏は陽気な笑みを浮かべて言った。
「佐藤先生、大樹君が行方不明なんです」と沙希は言った。
「行方不明?」
「リハビリが終わって、少し部屋を離れているあいだにどこかに行ってしまって…」と由美が続けた。
「どこかって、どこにですか?」
「わかりません。でもたぶん外に出て行ったような気がするんです。車椅子も松葉杖も、それから長下肢装具もなくなっていて…」
「そうですか。じゃあ皆で探しましょう」
正面玄関で警備員の男性に尋ねると、その男の子なら少し前に車椅子で中庭に出て行きましたよ、と返事が返ってきた。
三人は病棟周辺の小道を三方に別れて探し回り、やがて中央の噴水の前で合流した。大樹の姿はどこにも見当たらなかった。
「じゃあ、あっちに行ってみましょう」
貴宏はそう言って噴水の前を通り抜けると、さらに東に向かって小道を進んでいった。彼のあとに必死についていく。少し遅れて由美もついてきた。
やがて木々の間から水平線が見え始めた。貴宏は無言のまま黙々と前へ進んでいった。彼がどこを目指しているのかはもうわかっていた。
あの場所が見えた。小高く盛り上がった土の上に真っ赤に紅葉した桜が並んでいる。三人はふと足を止めた。
ちょうど大樹が丘の前で車椅子をとめて、松葉杖を使って立ち上がろうとしているところだった。三人は少し離れたところから大樹の姿を見守った。由美は頻りに額の汗をハンカチで拭った。
大樹は石畳の階段を昇り始めた。三段ほどの小さな階段に過ぎなかった。だが彼は左足に長下肢装具をつけていて、膝を曲げることができなかった。だから一段昇るたびに松葉杖に全体重を預けて、石段の段差の分だけ身体を引き上げる必要があった。そのせいで一段あがるだけでも長い時間がかかった。
彼はついに最後の一段を昇りきったように見えた。しかし数日前に振った雨のせいで地面が泥濘んでいたらしく、彼は足を滑らせてバランスを崩すとそのまま長い時間をかけて昇った石段を転げ落ちた。彼は下に停めてあった車椅子に勢いよく衝突した。車椅子は吹き飛ばされて数メートル小道を転がった。
「大樹」
貴宏が叫び声をあげて小道に倒れ込んだ大樹のもとに駆け寄った。沙希と由美も後に続いて彼に近づいた。すると大樹が叫び声をあげた。
「来ないで」
大樹はそばに転がっていた松葉杖を引き寄せると、それを支えにして自力で立ち上がった。それからまた泥濘んだ石畳の階段を一段ずつゆっくりと時間をかけて昇った。
階段を昇りきった彼は丘の上に立つと遠く海を見やった。
日が傾き、水平線が赤く染まり始めていた。潮風が大樹の被ったニット帽の毛玉を微かに揺らした。
彼は松葉杖を支えにして泥濘んだ地面の上に腰を下ろし始めた。長下肢装具をつけた左足を曲げることができないので、立ち上がるよりも地面に座るほうが難しいのだ。それでも彼は、我慢強く、時間をかけてゆっくりと地べたの上に腰を下ろした。
彼は肩に背負っていたショルダーバッグからシャベルを取り出した。それから横向きの体勢で地面を掘り始めた。土を掻き出す音が夕暮れに染まった木々の間に木霊した。
一〇センチほどの深さの穴ができた。大樹はショルダーバッグの中から何かの切り抜きのような紙切れを取り出した。そしてそれを穴の底に丁寧に横たえると、再びシャベルを使って穴の中に土をかけていった。
すべてが終わると、彼は再び松葉杖を支えにして丘の上に立ち上がった。それから海に向かって顔を向けた。耳を澄ますと潮の音が微かに聞こえた。夕陽に染まった水平線が眩しかった。
大樹は胸の前で骨張った小さな掌を組み合わせた。それから眸を閉じて俯くと、ずいぶん長いあいだ海に向かって首を垂れていた。
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