第15話

 貴宏は菅野ピアノ工房の前でタクシーから降り立った。

 閑静な住宅街はひっそりとしている。銀杏並木の紅葉がピークを迎えていて、通りはさながら金色のトンネルのようだ。海側の貧しい漁村で育った貴宏が町のこの辺りを訪れるのは生まれて初めてのことだった。

 貴宏は蔦に覆われた四角い建物の前に立った。菅野ピアノ工房と書かれた表札を確認して、ドアをノックする。菅野には今朝電話を入れて、午後に伺いたい旨を直接伝えてあった。少しすると、はーい、という声が聞こえた。

 ドアが開き、中肉中背の初老の男性が現れた。頭にいくらか白い物が混じっている。

「お待ちしておりました。汚いところですが、どうぞ」

 黒縁の眼鏡の奥から人の良さそうな黒い瞳が微笑んでいる。

「失礼します」

 貴宏は玄関口を抜けて、奥の作業場へ通された。入り口そばの壁一面に修復されたピアノが映った写真が何枚も飾られていた。随分古いものもあれば、最近撮影されたばかりのものもあるようだった。菅野と並んで幼い少年が映っている写真も何枚かあった。はにかんだ笑顔。目元が菅野とそっくりだ。一目で息子さんだとわかった。

 裏庭に面した作業場は天井が高く、広々とした気持ちのいい空間だった。中央に工具がびっしりと並べられた背の高い棚があり、大きな作業スペースを二つに仕切っている。

「まずは御覧になりますか?」と菅野は言った。

「と言いますと?」貴宏は小首を傾げながら言った。

「奇跡のピアノです。今日はその件でお越しになられたのではありませんか?」

「いえ、仰るとおりです。でもよくお分かりになりましたね」

「先日不在中にも別の方に病院からお越し頂いたようですから。えっと、何という御名前でしたか——」

「大須賀、ですかね?」

「あ、そうそう、その方ですね。御連絡差し上げずにすみません」

「いえいえ、こちらこそ」

「どうぞ。こちらです」

 菅野は棚の裏側の作業スペースに置かれているグランドピアノを指さしながら言った。

 貴宏は恐る恐る数歩前に歩み出た。一段高くなった作業台の上に、いくらか前方に傾いた状態で黒いピアノが静かに横たわっている。真っ先に目に飛び込んできたのは、側板表面の大きな傷だった。先の尖った金物で背中全体を引っ掻かれてできた裂傷のようで、ひどく痛々しい。まるでICUの処置台の上で呻き声をあげている患者を前にしているようだ。まずは応急処置としてこの大きな傷を何とかしたい。貴宏はそんな衝動に駆られた。

 ゆっくりと前方へ回り込むと、貴宏の目にさらに痛々しい姿が飛び込んできた。鍵盤には白鍵も黒鍵もほとんど残っておらず、内側の木製部位が剥き出しになっていた。こちらはさながら内部組織が露出した複雑骨折のようだった。開かれた屋根の中を覗き込むと、あちこちが破損し、中央の板には大きなひびが入っていて、何本もあったはずの弦はそのほとんどが千切れて失われている。貴宏は、患者の病が手の着けられないほど進行しているのが分かったときのような、激しい落胆と遣る瀬なさに襲われた。

「なるほど、わかりました。ありがとうございます」

 貴宏は冷静を装いながら言った。「もしも」の一つが早くも危機に瀕していた。このピアノが患者だったとしたら、そもそも治療を引き受けるかどうか自分なら躊躇するかもしれない。仮に直ったとしても何らかの後遺症は避けられないのではないか。しかしこのピアノはすでにマスコミに騒がれ、誰もが当然のことのように修復を期待していた。そんなプレッシャーの中で作業を続けている菅野の心中を思いやると、貴宏は内心同情の念を禁じ得なかった。

 しかし彼は相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま、

「よろしいですか。ではこちらへどうぞ」

 と静かに言って、作業場奥のこじんまりとしたオフィスへと貴宏を招き入れた。

 名刺交換を済ませると、貴宏は二人がけのソファに腰を下ろした。菅野はテーブルを挟んだ向かい側に座った。裏庭に面したガラス窓から午後の日射しが差し込んでいる。耳を澄ますと、遠くから鳥の囀りが聞こえてくる。静かな午後だった。

 ふとオフィスの入り口に人の気配がして、すらりとした細身の男性が現れた。エプロン姿で、湯飲み茶碗を二つ載せたトレーを持っている。貴宏には一目で彼だとわかった。沙希が言っていたとおり、たしかに円谷天翔の面影がよく漂っている。もし彼が生きていたら、きっとこんなふうになっていただろうと納得してしまう。沙希が狼狽するのも無理はなかった。

「どうぞ」

 健翔はそう言って茶を差し出すと、菅野の隣に腰を下ろした。

「こちらはいま店を手伝ってもらっている円谷君です。一緒にお話を伺いたいと申しておりまして」と菅野は言った。

「円谷と申します。無理を言って申し訳ありません」

「いえいえ、こちらは全く構いません」

 貴宏はそう言って、頭を下げている健翔の横顔を覗った。色白で、まるで歌舞伎役者のようなきれいな顔をしている。これで人柄もよく、しかも地元で随一の資産家の息子となると、沙希でなくとも世の中の女性たちは皆放っておかないだろう。そんなことを考えながら、貴宏は小学校時代に天翔を前にしてよく感じたある種の気後れが、何十年ぶりに心の中に兆すのを感じた。そして知らず知らずのうちに彼と自分を比べていることに気づいて、その滑稽さに内心苦笑した。

「早速で何ですが」と菅野が言った。「あのピアノのことで、どういったご用件でしょうか?」

「はい」と貴宏は応じた。「ちなみにあのピアノは、修復後どうなるかもう決まっているのですか?」

「修復後、ですか?」

「ええ」

「そうですねえ…」と菅野は口籠もった。「うちも市から依頼を受けて修理しているだけですから正確なことはわかりませんが、私の知る限りでは、特にまだハッキリとは決まっていないと思います。ただですねえ…」

「ただ?」

「まだ完全に元通りに直るかどうかもわからない状態ですからねえ…」

 どこか歯切れの悪い返答にもどかしさを感じながら、貴宏は思いきって切り出すことにした。何はともあれ、今日はそのためにやって来たのだ。

「ではまあ、あくまでもしも直った場合の話として聞いて頂きたいのですが——」

 貴宏は、修復後に病院でピアノを引き取り、小児科の子供たちを中心にチャペルでお披露目リサイタルを開きたい旨を説明した。中には難病を患い闘病生活が長期に及んでいる子供たちもいて、コンサートは彼らにとって大きな励みになるはずであると。それから、リサイタルには復興を風化させない意味もあることにも簡単に触れた。場合よっては地元の新聞にも声をかけたいこと、上手くいけば、再び全国ネットのテレビ局も来てくれるのではないかと考えていることなども伝えた。

「なるほど、そういうことですか」じっと耳を傾けていた菅野はそう言って大きく頷いた。「それはいいお話ですね」

「ありがとうございます」

「たしか、小檜山さんの息子さんもそちらに入院されていませんか?」

「ご存知なんですか、大樹のこと?」

「知っているというほどではありませんが、小檜山さんのブログを時折拝見しておるものですからね。息子さんの話が時々出てきますから、それでちょっと」

「なるほど、そういうことですか。実は自分が小檜山大樹の主治医でして。小さい頃からチェロをやっていまして、もうかなりの腕前です」

 菅野は小さく相槌を打った。貴宏は続けて、この間ここに来た大須賀沙希と一緒にとりを任せるつもりだと言いかけて言葉を濁した。健翔がいる前で沙希の話をすることに何となく気遅れしたのだ。コンサートの一番の目的が大樹にあることも伏せておくべき事柄のように感じられた。

 するとそれまで黙って話を聞いていた健翔が不意に口を開いた。

「あのう、そういうことでしたら、自分が面倒をみている施設の子供たちも一緒に参加させてもらえないでしょうか?楽器をやっている子供たちが大勢いるんです。親御さんたちもきっと喜ぶと思いますし。皆そういう場に飢えているんですよね。もちろんもし可能であればということですが」

「ああ」と菅野が即座に応じた。「それはまた妙案かもしれないね。どうでしょう先生、そんなことができそうですかね?」

「ええ、もちろんです。いいですねえ。うん、とてもいい考えだと思います。皆で盛り上がれたら、きっと楽しくなりますよね」

 貴宏の言葉に、健翔は漫画か何かのキャラクターのように瞳を輝かせながら大きな笑みを浮かべで何度も頷いた。

 それから三人で思いつくままに様々なアイデアを口にして、話は大いに盛り上がった。さすがに菅野だけは「いやまあ、あくまでピアノが直ればの話ですが」という言葉を添えるのを忘れなかったが、それでもすっかり乗り気になっているのは明らかだった。

 健翔のほうは終始笑顔を絶やさず、時には冗談を交えて賛意を表し、終いには貴宏に向かって何度も感謝の言葉を口にした。貴宏は彼の勢いに圧倒され、今にも手を握り締められるのではないかと内心ハラハラしながら彼の様子を観察していた。そして、障害児たちの奮闘ぶりを熱く語る彼の話にそのうちに引き込まれ、気がつけばすっかり意気投合していた。

 貴宏は、参ったな、と内心で独りごちた。健翔は子供のように純真で、大の子供好きの人物のようだった。兄のようなオーラはないが、そのぶん人間味があるというか、外見は派手なのに威圧感がなく、どこか気さくで人懐っこい印象が伝わって来るのだ。

「いずれにしても、そういうことなら是非協力させて頂きたいですね」と菅野は言った。

「ありがとうございます。そう言って頂けると心強い限りです」

「ただ先ほども申しましたように、うちはただ市から依頼を受けているだけですから、基本的には直接そちらと交渉して頂かなければなりませんがね」

「わかりました。では、それについては役所に問い合わせてみます」

「いやー、楽しみですねー。きっと素晴らしいコンサートになりますよ」

 健翔が興奮気味に言った。

 貴宏はすっかり気分をよくして、そろそろ腰をあげるタイミングを窺っていた。正直なところ、ここまでうまく話が進むとは思っていなかった。万事順風満帆に見えた。次の瞬間までは——。

 オフィスのドア口に人影があった。上品そうなきれいな服装をした若い女性がいつの間にか佇んでいた。

「ああ、いらっしゃい」と女性に気づいた菅野が言った。「すみません、話に夢中で気がつきませんでした。でもちょうどいいところへいらっしゃいましたね。いまこちらの先生から、素晴らしいお話をお伺いしていたところなんですよ。聖マリア病院の佐藤先生です」

 貴宏はソファから腰を浮かせると、どうも佐藤です、と言って女性に向かって会釈した。

 女性はそれに応えて深々と御辞儀をした。ゆったりとした落ち着いた物腰から、いかにも育ちの良さが伝わってくる。

「先生、こちらは竜石堂礼子さんです。市内で音楽教室を開いておられて、うちでもよくお世話になっておりまして」

 貴宏は竜石堂礼子という名を耳にして内心少なからず動揺した。ドア口に佇む彼女の姿が目に入ったとき嫌な予感がしたのだが、予感は見事に的中した。貴宏は必死で冷静を装いながら言った。

「先生、いつも大樹がお世話になっております」

貴宏の言葉に礼子は一瞬ハッとしたような表情を浮かべた。彼女も貴宏のことに気づいたようだった。

「ああ、そうか」と菅野が膝を叩いた。「小檜山さんのお坊ちゃんは礼子先生の教室に通っているわけですね。言われてみればそれはそうか。いま市内で音楽教室を開いているのは礼子先生のところくらいなものですから。そうでしたか。お二人はお知り合いでしたか。いやー、これはまさしく奇遇というやつですね」

「いや、知り合いというほどではありません。大樹が先生にチェロを習っていることはもちろん以前から知っておりました。主治医として外出許可を出す立場ですから。ただ直接お会いしたのは——」

 貴宏はそこまで言ってから、ふと、初めてです、という言葉を呑み込んだ。言葉に詰まったまま何と言ったらよいのかわからない。礼子の視線を浴びていると、小学校時代、彼女や彼女を取り巻く一軍のクラスメートたちと同じ空間の中にいることで感じた息苦しさが蘇って来るようだった。目の前に、あの帰りの会の日に見えた礼子の横顔がちらつき始めた。珍しく自分が緊張しているのに気づく。難しいオペの最中でさえ緊張しことなどほとんどないのだが——。

「ただ、直接お会いしたのはほとんど初めてですね」

 貴宏は意味不明なことを言っているという自覚はあったが、嘘をつくのが嫌いな性分からすれば、そうとでも言うより他になかった。

 会話が途切れ、跋の悪い間が生じかけたところで礼子が口を開いた。

「そうですね、たしかにこれまで直接お会いしたことはありませんでしたね。お目にかかれて光栄です」

 何の躊躇もなくきっぱりと事実を曲げる礼子の潔さに、貴宏は内心奇妙な感動を覚えた。そのあとで、もしかすると彼女は自分のことに気づいていないのだろうかという安堵と失望が混じり合ったような不思議な感覚に満たされた。だが彼はすぐさま考えを改めた。やはりそんなはずはない。彼女はきっと気づいていながら初対面の振りをしているに違いない。いまさっき一瞬見せた驚きの表情が何よりの証拠だ。

「佐藤先生にはいつも大樹君がお世話になっております」

 礼子はあたかも親権を争う母親のようにそう続け、再び上品に腰を折って頭を下げた。まるで子供を引き取る資格があるのはより育ちの良い人間のほうだとでも言わんばかりだった。

「いえ、こちらこそ」

 貴宏は頬を強ばらせて無理やり微笑んだ。声が上ずっているのはどうしようもなかった。

「大樹君、この何週間かレッスンをお休みしていますが、何か変わったことでもあったのでしょうか?」

「いえ、特には何も——」貴宏は言葉を濁した。「化学療法のせいで少しだけ体調を崩しておりまして。心配は要りません。深刻なものではありませんから」

「よかった。実は、ちょっと心配していたんです」

 その言葉におそらく嘘はなかった。彼女は初めて本心からの表情を浮かべた気がした。

「そういえば、前に大樹君が言っていました。最近は新人の看護師さんに御執心だとか」

 礼子は口元に手を当てて小さく笑った。

「あいつ、そんなこと話しているんですか?子供のくせして、全く何てヤツだ」

「先生、それはもしかして先日の——」と健翔が口を挟んだ。

「ああ、なるほど。そういうことなのですね」と菅野が言った。

「いやいや、全然違いますよ。勘弁してください」

 貴宏は慌てて否定すると、大袈裟に頭を掻くポーズをしながら苦笑した。

 礼子の一言ですっかり話がおかしな方向へ脱線しかけたことで、彼は動揺を募らせ始めた。彼女が口を開くといつも、石の投じられた水面のように場が漣立つのだ。それはあの一五年前の帰りの会のときも同じだった。

 貴宏の胸の内に色々な記憶が次々と蘇って来た。彼は礼子の表情をちらりと盗み見た。彼女は菅野と健翔の笑い声に同調するかのように静かに微笑んでいた。しかし目は少しも笑っておらず、冷ややかに場の様子を観察しているようだった。

 貴宏の視線を感じたのか、礼子の瞳がふと彼のほうに向きを変えた。貴宏は慌てて目を逸らした。鼓動がどんどん激しくなってきた。

「レイちゃん、聞いてください」ようやく笑いが収まると健翔が言った。「いま佐藤先生から、病院のチャペルでお披露目リサイタルをするのはどうかというお話を伺ったところだったんですよ。奇跡のピアノのお披露目コンサートです。あのピアノが直った暁にです」

 礼子は視線を健翔に向けると、

「ええ、そのようね。ごめんなさい、盗み聞きするつもりはなかったのですけれど、ちょっと聞こえてしまって——」

 と言った。

「どうです?素晴らしい考えではありませんか?町の復興にとってもいいアピールになりますしね」

 菅野が相好を崩したまま言った。礼子の即座の賛同を信じて疑わぬ様子だった。

 三人の男性の視線が集中するなか、意外にも礼子の口元に湛えられていた柔和な笑みがスッと消えた。礼子は言葉を探して逡巡している。不穏な間が後に続いた。

「その件で、わたくしのほうからもちょっとお話が…」

 礼子の言葉を耳にした瞬間、貴宏の脳裏に一五年前の帰りの会の光景が浮かんで来た。

 あの日、四色ペンをなくしたという礼子の報告を受けて、朶先生は事を荒立てずそのまま帰りの会を終わらせようとした。しかし礼子は食い下がった。朶先生は驚きの表情を浮かべた。そのあとだ。礼子は戸惑いがちに、しかしハッキリとした落ち着いた声で言った。

「お願いがあるんです」

「お願い?どんなお願いですか?」

「持ち物検査をしていただけないでしょうか?」

 それは、その後何年間も貴宏の胸のうちに巣作ることになった光景だった。夜、夢に見て魘されたことも何度となくあった。持ち物検査という言葉を耳にすると、彼はいまだに背筋が冷やっとした。

 礼子は再び逡巡した。跋の悪い間をわざと引き伸ばして楽しんでいるのではないかと疑りたくなるほど長く不自然な間だった。貴宏は溜まりかねて思わず口を開いた。

「お披露目リサイタルというかたちに、何かまずいところでもございますか?」

 礼子は真正面から貴宏を見据えた。貴宏は自分の視線が彼女の口元、正確には口と顎の間の辺りにぼんやりと向けられていることを意識せずにはいられなかった。人の目を見て話せない子供時代の話し方が何十年ぶりに復活してしまったらしい。相手をひどく居心地悪くさせる、自己肯定感の低い人間の特徴だと後に大学の講義で学んだ、あの嫌な話し方だった。

「いえ、まずいということではないのですけれど、ただ…」

「ただ?」と菅野が言った。

「菅野さん」礼子は菅野に視線を戻して言った。「すっかりお忘れになってしまったようですね」

「忘れた?」菅野は口を開けたまま何か思いを巡らしている。「えっと、何か御約束でもしていましたかね?」

「約束というかたちではなかったかもしれませんが、何度かお話はさせて頂いたかと思います」

「それはつまり、市民ホールでのコンサートの件ではないのですかね?」

「よかった」と礼子は小さく溜息をついた。安堵の笑みを浮かべている。「菅野さん、完全にお忘れになってしまったのかと思いました。ええ、その件です」

「いやいや、すみません。話があちこち前後してしまいまして。口下手でして、物事を順番立てて説明するのはどうも苦手です」

 菅野は苦笑しながら貴宏のほうに向き直ると続けた。

「佐藤先生、実は前々から、こちらの礼子先生からですね、あのピアノがもし直ったら市民ホールでコンサートを開きたいという、そういうお話があった次第でしてね。わたしも直るかどうかもまだわからないものですから、ハッキリとした御返事はしておらなかったのですがね」

「なるほど、そうでしたか」

 貴宏は内心まずいことになったと思いつつ、ひとまず相槌を打った。

「いやしかし」と菅野は笑顔を浮かべて続けた。「先生のお話を聞いて、わたしもようやく心が決まったと申しますか、是非ともあのピアノを直さねばと思った次第です」

「はあ…」

 貴宏は曖昧な返事をするのが精一杯だった。礼子のほうも、菅野の真意を掴みかねているらしく、じっと続きを待っているようだった。

「それで結局」空気を読んだかのように健翔が口を挟んだ。「あのピアノが直ったらどうするんですか?病院のチャペルでリサイタルを開くのか、それとも市民ホールでコンサートをするのか?」

「いやだから」と菅野は意外そうな表情を浮かべて言った。「両方一緒にやればいいでしょう。わたしの心が決まったというのはそういう意味です。小児科の子供たち、円谷君の施設の子供たち、それから礼子先生の教室の子供たち——あちこちの子供たちに皆一緒に参加してもらうんですよ。皆それぞれ立場は違えど、色んな意味で一番つらい思いをしてきたのは子供たちなんですから。震災のことだって、子供たちに伝えていかねばならんですしな。いやあ、いい集いになるでしょう。ねえ、先生方、それでいいでしょう?そのためにわたしも命懸けで一肌脱がしてもらいますよ」

 工房の小さなオフィスは沈黙に落ちた。健翔も、貴宏も、そして礼子も、菅野の熱弁に気後れして言葉を失っている。窓から差し込む日射しが心なしか弱くなった気がした。

「えっと、つまり」と健翔が恐る恐るといった口調で沈黙を破った。「演奏会はどちらかの場所で行うということですかね?」

「それはそうでしょう、円谷君」と菅野は言った。「皆一緒にっていうのがみそですから」

「なるほど」と健翔は言った。「それで、チャペルでですか?それとも市民ホールでですか?」

「もちろんチャペルでです。さっきからそういうつもりでお話しておったのですがね。やっぱり口下手はダメですなあ」

「そうですか」と貴宏が口を開いた。チャペルでという言葉を聞いて、内心大きな溜息が漏れた。

「だって先生、そうでしょう?小児科のお子さんたち大勢で市民ホールで演奏会っていうのはちょっと無理じゃないですかね?難病の子もいるわけですし」

「仰るとおりです」と貴宏は言った。彼は心の中で菅野にひどく感謝した。懸念していたことを菅野がすべて説明してくれたのだ。

 しかし、ちょっと待ってください、という声がして、三人は一斉に礼子のほうに向き直った。

「先ほどからお話したかったのはその点に関してなんです」

 礼子は言った。いくらか躊躇いがちに、しかし真っ直ぐに自分の考えを述べるときの、あの芯の強い口調だった。それは朶先生に持ち物検査をお願いしたあのときと同じ口調だった。

「礼子先生」と菅野は表情を曇らせながら言った。「やはり何かお気に召さないことがありますか?」

「いいえ、気に入るとか入らないとか、そういうことではないんです。ただ…」

 再び三人の視線が礼子に集中する。しかしまたしても彼女の言葉はなかなか出てこない。どうやら余程言いにくいことのようだ。

「あのう」礼子は顔を上げると、ようやく迷いが吹っ切れたとでも言わんばかりに、三人の顔をしっかりと見据えて言った。「こんなことを申し上げるのは本当に心苦しいのですけれど…」

「この際ですから、遠慮なく仰ってみてください」と貴宏は言った。

「ありがとうございます、佐藤先生。では申し上げますね」礼子は息苦しそうな表情を浮かべて言った。「本当にお気を悪くなさらないで頂きたいのですが、聖マリア病院のチャペルだと、音響の面で最善とは言えないと思いまして…」

「あ、なるほど」と健翔が真っ先に声をあげた。「そこですか」

「ええ」と礼子は続けた。「せっかくのお披露目コンサートですから、最高の環境であのピアノを弾いてあげたいんです」

「いやしかし、礼子先生」と菅野が口を挟んだ。「あそこのチャペルはもともとオルガン演奏のことも考えて作られていますから、結構しっかりとした音がしますよ。わたしも何年もあそこのピアノを調律して来ましたから、自信を持って言えることですがね。どうでしょう、礼子先生、一度ご自身で足を運んで試しに聞いてみては?」

 礼子は菅野を見つめたまま首を振った。「実は、以前に一度何かの演奏会にご招待頂いて、実際に聞いたことがありまして。たしかにとてもいい音がしていたと思います。ふつうの演奏会なら、十分に満足できる音だと思います。でも、今度の演奏会ではちょっとどうかしら…」

「今度の演奏会は、ふつうの演奏会ではないと?」

「ええ。皆さんはどうお感じかわかりませんが、少なくともわたくしの中では特別な演奏会になると思います。ですから音の面だけでは、何があっても絶対に妥協したくないと思いまして。そうでなければ、生き残った者として申し訳ない気がしてしまって…。ごめんなさい、昼間から心気臭いお話になってしまって——」

「なるほど。心につかえていたのはそういうことでしたか」菅野はしんみりとした声で言った。「いやいや、たしかに言われてみれば礼子先生の仰ることもよくわかります」

 少し間を置いて、菅野はぼんやりと窓のほうに顔を向けた。それから徐にソファから腰を上げると、窓際のキャビネットの上に立てかけられていた額縁を手に取った。

 菅野は掛けていた黒縁の眼鏡を片手で浮かせると、額縁に顔を近づけて、無言のままじっとフレームの中の写真を見つめた。狭いオフィスが一瞬の間しんとした。まるで彼の凝視に合わせて世界全体が静止するかのようだった。

 菅野は再びキャビネットの上に額縁を戻すと、心なしか、軽く洟を啜って再びソファに戻った。

「いやあ、すみません」と菅野は言った。

 貴宏はキャビネットの上に戻された額縁に目を遣った。だいぶ離れているが、かろうじて写真の中の光景を理解することができた。

 美しいグランドピアノを背景にして、カメラに向かって微笑む四人の子供たち。肩を組みながら胡座をかいて床の上に座っている仲の良さそうな二人の少年。ピースサインをして一際大きな笑みを浮かべているのが健翔だというのは一目でわかる。もう片方の、照れ臭そうにはにかんだ表情をしているのは——工房の入り口の壁に飾ってあった写真と同じ少年のようだ。やはり微笑んだ目元が菅野にそっくりだった。

 そしてピアノに手をかけて、いくらか半身の体勢で大人びた笑顔を浮かべている男女。ふわっとウェーブのかかった長い黒髪。天鵞絨の髪留め。礼子はカメラを見つめながらも、隣にいる天翔のことを意識している。そんな気配が伝わって来た。

一五年ぶりに見る天翔は、相変わらずと言うべきか、写真の中でさえ子供らしからぬどこか浮世離れした独特のオーラを放っていた。彼の周りだけ世界が浮いていた。心ここにあらずとでも言わんばかりに、彼はカメラに向かって孤高な視線を投げかけている。しかし彼の目には何も映っていないのがわかる。いったいこの少年はどこを見ているのだろうか。あの頃の彼の目には、いったい世界はどんなふうに映っていたのだろうか。

「うーん、しかし困りましたな」菅野は眼鏡を額の上に載せながら言った。「礼子先生、あなたの音楽に対する姿勢には本当に敬服しますがね、しかしチャペルでというのはどうしても無理ですかな?」

 礼子はさすがに菅野から視線を逸らすと、キャビネットの上の額縁に目を遣りながら言った。「本当にごめんなさい」

 ふうっと菅野が長い溜息をついた。それから、いや、すみません、と彼は言った。

「だったらやはり、皆一緒に市民ホールでやるのはどうでしょう?」と健翔が言った。「佐藤先生、どうですかね?病院スタッフを総動員して、小児科の子供たちの面倒を皆で見れば何とかなるんじゃないでしょうか?場合によっては、全員は無理だとしても楽器をやっている子供たちだけでもいいわけですし」

「そうですねえ…」

「先生、わたしからもお願いします」と菅野が言った。「どうやらそれしかなさそうですしな」

「わかりました。帰って院長と掛け合ってみましょう」

「そうですか」と菅野は相好を崩した。

「よかった」と健翔が歓喜の声をあげた。「ありがとうございます、先生」

 再び窓から光が差し込み、また世界が回転し始めたかに見えたそのとき、再び礼子が口を開いた。

「あのう…」

 三人の男性の視線がまた礼子の顔に釘付けになった。

「説明が足りませんで、本当にごめんなさい」

「それもダメなんですか?」と菅野が驚いた様子で声をあげた。「市民ホールでもダメですか?」

 礼子はすぐには応えずに、俯いてまた言葉を探している。

「もしかすると」と健翔が言った。「レイちゃんは子供たちに演奏させることに反対なんじゃないですか?」

「いいえ、そういうわけではないんです」と礼子はそれにはすぐに反応した。それから少し間を置いて「大樹君には是非とも演奏してもらいたいと思っています。あの子はうちの教室でも一、二を争う器ですし、もう既にどこに出しても恥ずかしくない演奏をしてくれると思います」

「ああ、なるほど」と健翔が大きく頷きながら言った。「そうかそうか。それはそうですよね。礼子さんの一番のプライオリティはそこなんですね。まあ、言われてみれば当然かもしれません。音に拘るというのは結局そういうことですから。ただそうすると、僕の施設の子供たちもやっぱりアウトだなあ」

「さあそれはどうかしら…。演奏を聴いてみないことには何とも言えないでしょう?」

「ははは」と健翔はセリフを棒読みする役者のような笑い声を上げた。「それは聴くまでもありませんよ。彼らの演奏は、まあ良くても幼稚園児の発表会といった感じですから」

「ごめんなさい」礼子は健翔から目を逸らしながら言った。「それからもう一つ、いいかしら?」

「まだありますか」健翔は再び高笑いをあげた。「これだけレイちゃんのパンチを浴びて、もうノックアウト寸前ですけどね。ええ、勿論どうぞ」

「本当にこれだけはと思っていたのだけど、許してもらえるかしら…」

「うーん、怖いなあ。何だろう?」

「施設のお子さんたち、演奏会の間、静かに座って聴いていられるかしら…」

「ああ、そこですか」

「本当にわたし、こんなことを言って嫌な人間だってわかっているの。でもね、大きな声を上げてしまったり、通路を走り回ってしまったり…そういうことが起こらないか、どうしても心配で——」

「えっと」と健翔は大きな苦笑を浮かべながら言った。「あの子たち、とてもしっかり躾けられているんですよ。なので、たぶん大丈夫だと思います。ただ僕もレイちゃんの気持ちもわかりますし、絶対に大丈夫かって言われたら、ちょっと自信はないというか。彼らだって人間ですからね。何かの拍子に声をあげてしまうとか、そういうことが絶対にないかなんて、そんな約束はできないですよ」

「ごめんなさい、ケンちゃん。そういうつもりで言ったわけではなかったのだけど…」

「いやいや、いいんですよ。レイちゃんの言うことも尤もなんですから」

 オフィスは再びしんとした。途切れた糸を再び繋ぎ合わせる言葉を互いに探しているのだが、なかなか見つからなかった。

 しばしの沈黙のあと、泥沼の中を掻き分けるようにして、うーん、困りましたね、と菅野がいくらか芝居がかった唸り声をあげた。「礼子先生のお考えと我々の考えとでは、まるで主旨が違うということですか。ただね、そうは言っても底にある気持ちだけは同じだと思いますよ。要するにね、皆それぞれに誰かのことを思っているんです」

「わがままを申し上げて、本当にごめんなさい」と礼子は三人に向かって深々と頭を下げた。

「わがままだなんて、とんでもない」と菅野は言った。「こちらとしても、先生のお気持ちは痛いほどよくわかっているつもりですから」

「あのピアノの最初のコンサートだけは、どうしても市民ホールで開かせて頂きたいんです。来月ヤノフスキーも来日公演を開くことになっていますし、あのホールの音は、復興支援で国からも多くの援助を得て建て替えただけあって、世界的に見ても本当に素晴らしいものですから。うちの教室の子供たちも誰でも参加させるつもりはないんです。あのホールで、大勢の観衆の前で、きっとマスコミも来てくれると思いますが、そういう舞台に出しても恥ずかしくない子供たちだけに演奏させるつもりです。ええ、そうです。復興をこのまま風化させない意味も込めて、やはりあのピアノはできるだけ大勢の観衆の前でお披露目するべきではありませんか?病院のチャペルは人数的にも最善とは言えない気がしませんか?佐藤先生、そうお思いになりませんか?」

 礼子は堰を切ったようにそこまで一気に吐き出すと、ピタッと止まった。それから深い沈黙に沈んだ。まるで、ぽちゃんと音をたてて濁った水底に沈んでいく小石のようだった。

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