第7話
「さっきはありがとう」
そう話しかけられるまで沙希は天翔のことを特に意識したことはなかった。
天翔はクラスの中心的存在で、いつも他の一軍メンバーたちに取り囲まれていた。足が速く、サッカー、水泳、陸上、そして勉強も含めて、何をやらせても常に他の生徒より自然と秀でてしまうような男子だった。
ただそれでいて人前にしゃしゃり出るような素振りは微塵もなく、むしろ、有り余る能力が出過ぎてしまぬように常に控えめに包み隠そうとする気遣いが感じられた。小学六年生にしては背が高めで、すらっと細身なのに威圧感がまったくなかった。授業で当てられると、どちらかといえばおっとりとした口調で返答し、思いもしないような独創的な物の見方が示されて、思わず教師が顔を綻ばせてしまうことがよくあった。照れ隠しのためなのか、そんなとき彼は決まってはにかみながら微笑んで、口元からきれいに並んだ白い歯が零れるのだった。
天翔の家は代々続く地元の名家だった。先祖はみな医者か音楽家のどちらかで、時期が来ると後を継いで政治家になるらしかった。大きな自宅の庭には倉があるという話を耳にしたこともあった。
要するに、天翔は沙希とは別世界の人間だった。
名もなき下軍選手の目からすれば、毎日同じ教室で見かけはするが、とても現実とは思えないような遠い存在だった。実際、ツンツルのことで声を掛けられるまで、沙希は一度も彼と言葉を交わしたことすらなかった。
ただ、まったく接点がないというわけでもなかった。
本町第二小は、昔から音楽が盛んな学校として県内でも知られていて、四年生から六年生まで約五十名の部員が所属する管弦楽クラブがあった。さらにそれとは別にコーラス部があって、そこにも三十名程度の部員がいた。
天翔は管弦楽クラブに所属していた。そしてすでに四年生の時から年に二回ある定期演奏会で指揮者を務めていた。
小学生オーケストラとはいえ、オケはオケだ。数十名から成る楽団を一つに纏めあげるには明快な楽譜解釈から始まって、様々な技術が必要とされた。普通なら小学生にはまったく無理な大役なのだが、物心ついた頃からプロの指揮者を目指して英才教育を受けてきた天翔にとって、それは全く普通のことのようだった。指揮だけは代々顧問の教師が務めていたのだが、早くから天翔の才能を見抜いた今の顧問が、ではこれからは円谷君にお願いしましょう、といって異例の抜擢をし、それ以来すっかり天翔の才能に惚れ込んでしまっているような状態だった。
実際、天翔の指揮には人の心を掴む何かがあった。
定期演奏会の客席では、所詮子供のすることだろうと高を括っていた大人たちがその流れるような身体の動きにすっかり目が釘付けになって、ふと気がつくと心を奪われ、込み上げてくる感情を抑えきれずに洟を啜っているということがよくあった。そして天翔を前にして演奏をしているオケのメンバーたちも、演奏しながら涙を流していることがよくあった。
正確に何であるのかはよくわからなかったが、天翔の指揮には見ているだけで人を癒すような、懐かしい想いで胸が一杯になるような何かがあった。それは決して気のせいではなかった。しかし言葉で説明するのはほとんど不可能だった。
沙希自身はコーラス部に所属していた。歌うほうではなく、もっぱらピアノの伴奏を担当していた。そして管弦楽クラブとは時々一緒に練習をすることがあって、秋の文化祭などでは天翔が特別ゲストとしてコーラスの指揮をすることもあったし、反対に沙希が管弦楽クラブに呼ばれてピアノを演奏することもあった。定期演奏会ではコーラス部が「前座」として管弦楽クラブの演奏の前に合唱するのが習わしになっていた。
沙希はそんな天翔のことをいつも遠くから眺めていた。それは、スタンドからステージの上の豆粒のようなロックシンガーを眺めるのと同様の視線でしかなかった。
いや、あの日までの沙希はどちらかといえば天翔のことを冷ややかな目で見ていただろう。出来過ぎの男子生徒に対して微かな反感すら感じていたかもしれない。いずれにしても、彼への関心はゼロといってよかった。
仲のいいクラスメートの香苗が、天翔君、すごくいい、絶対的に推し、と興奮している姿を目にする度に、何の接点もない相手にどうしてそこまで関心を抱けるのか、沙希には不思議で仕方がなかった。
しかしあの日、ツンツルのおかげで二人の間に接点が生まれたのだった。
愛の反対は憎しみではない。無関心だ。
前にどこかでそんな言葉を目にしたことがあった。
では——と沙希は問わずにはいられなかった——無関心の反対とは何だろうか。
——予感?
そんな言葉が頭を過った。
あの日以来、沙希のなかで何かが変わってしまった。
いや、正直なところ、何もかもが変わってしまった。何もかもが、何かを予感させるものになってしまったのだ。
それまでの沙希にとって学校とは、寝たり、起きたり、御飯を食べたり、顔を洗ったり——単にそういった行為の延長線上のものでしかなかった。生きるために呼吸をしなければならないのと同じように、毎日の通学はその行為の意味を問うこと自体が無意味なくらい、ほとんど無意識の動作に過ぎなかった。
それなのに——あの日以来、学校へ行くことが意識的な行為に変わってしまった。意味を持ってしまった。何かが起こるかも知れないという予感で、毎朝心がざわつくようになってしまった。
鏡を見る回数が増えたことに自分でも気づいていた。目元が父親に似て少し垂れているのが気になり始めた。スーパーでシャンプーを選ぶ時間が前よりも長くなった。母に洗濯を頼まれたとき、こっそりと少し多めに柔軟剤を入れるようになった。このあいだは生まれて初めて小遣いでリップを買った。
自分でも馬鹿だなと感じていた。それは否定しなかった。
しかし、あらゆる日常が非日常に感じられてしまうのだった。あらゆるアンリアルがリアルに見えてきた。予感という息吹が吹き込まれるだけで、あらゆる無意味に意味が芽生え、あらゆる無意識が意識され始めてしまった。
ただそうはいっても、具体的にはまだ何も起こっていなかった。
声を掛けられてからもう数週間経っていたけれど、あれ以来一度も天翔と言葉を交わしていなかった。彼は相変わらずステージの上の手の届かない存在だった。状況的には以前の生活と何も変わってはいなかった。
それにもかかわらず、それは以前とは似ても似つかぬ状態だった。切っ掛けさえあれば、誰とでも言葉が交わされる可能性があるのだ。それを知ってしまった以上、もうあの日以前の自分が何を考え、何を感じながら生きていたのか、沙希にはうまく想像することすらできなくなってしまった。
「一度言葉を交わした相手とは、その後も言葉を交わし続けなければならない。破った者は懲役十年に処す、みたいな法律があればいいのになあ」
あるとき、香苗と登校途中、うっかり思っていたことがそのまま口から出てしまったことがあった。
「何それ?」と彼女は噴き出しながら言った。「そんな法律があったら、間違いなく世界は沈黙に覆われるよ。だってこの世には一生一言も口をききたくない人のほうが圧倒的に多いもん」
「たしかに」と沙希は頷いた。「そんな法律があったらたまらないかも。だって、何も起こらないからこそまた起こるかもっていう予感に震えるんだから。それってたぶん、本当のことしか話しちゃいけないっていう法律があったら、世界が沈黙に覆われるのと同じかも。すべてが真実だってわかっていたら、きっと言葉を発する意味がなくなるもん」
香苗は口を開けたまま唖然とした表情を浮かべて沙希を見た。
「でもね、ほら、二度あることは三度あるって言うじゃない?それはそれでいいんだけど、でも一回目と二回目の間ってどうなってるのかな?私的には、そこのところをもっとはっきりさせて欲しいんだけど…」
香苗は突然何かを思い出したかのように立ち止まった。すると沙希の頭に顔を近づけて、クンクンと匂いを嗅いた。それからいくらか腰を屈めて胸元にハートの刺繍が入った白いTシャツを嗅ぎ回り、首筋に手を伸ばしてTシャツの襟をひっくり返すとネームタグをチェックした。
「ちょっと、何なの?」
「それはこっちのセリフだよ」と言って彼女は正面から沙希を見据えた。「あんた、最近シャンプー変えたよね?柔軟剤も前より多め。それからこの前着てたTシャツ。かわいいなって思ってたけど、あれもユニクロじゃなかったよね?」
沙希は跋の悪い笑みを浮かべて彼女から目を逸らした。目が泳いでいるのが自分でもわかった。
香苗は何度も激しく瞬きを繰り返した。それから、あ、と声を発した。
「わかった。この間の帰りの会だ」
目の内を覗き込もうとする香苗を振り払うようにして沙希は歩き続けた。
「うそっ。まさか」
取り合うまいと意を決し、香苗を置き去りにして歩いていく。
「ちょっと待ってよー。ねえ、もしかして通学路変えようって言い出したのって——。途中の家にかわいいイヌがいるからってのいうも、ひょっとして嘘なの?」
香苗は小走りで沙希に追いた。ちょうどそこにT字路の向こうから数人の男子と一緒に天翔が歩いてきて、二人の前を通り過ぎた。
沙希の心臓は激しく波打った。耳が熱くなった。
もちろん言葉が交わされたりはしない。もちろん何も起こらない。
だが、何も起こらないということが起こっていた。
「えー」と香苗が悲鳴をあげた。「いま、一瞬あんたのこと見たよね?嘘でしょ?私の推しが——。ねえ、ちょっと、やだよー」
香苗はその日以来、ずっと沙希に腹を立てていた。普通ならアウトかもしれないが、下軍同士ほとんど唯一の友達で、お互いぼっちになるのが怖くて一緒にいざるを得ないのだ。その状況に漬け込んで沙希は友人に甘えていた。それは自分でもわかっているのだが、でもどうしようもなかった。
だいぶ長い間、予感は単なる予感であり続けた。何も起こらないということが常に起こっている。そんな状態がしばらく続いた。
例えば、授業中。
窓際の一番後ろの席から前を見ていると、もう視線は教壇の上の先生や黒板にまで届かなかった。教室中央のただ一点にだけ注がれていた。どちらかといえば線の細い後ろ姿。時には寝癖のついた襟足。端正な目鼻立ちに不相応なほど大きな福耳。ほんのりと赤らんだ頬骨。引き締まった小さな顎先。
授業時間は幸福の時に変貌した。このまま永遠に続いてほしい。そう思っていると、あっという間にチャイムが鳴った。天翔が席を立って教室を出ていく。休憩時間ってホント無意味だ。内心そう呟きながらまた次の時間を待ち望んだ。
そんな日々がもうしばらく続いたあと、あの日がやって来た。
朝目覚めると、下半身に湿り気を感じた。何となく下腹のあたりが重苦しかった。
トイレに行くと、思った通り、だいぶ前に学校で女子生徒だけを集めて保健の先生が説明してくれた例のものらしかった。
沙希は台所で朝食の支度をしている母の明子にそっと小声で事情を伝えた。彼女は掌に載せた豆腐を切る手を止めて顔を上げた。
「あらやだ。お母さん、うっかりしてたわ」
鍋の中に豆腐を流し込むと明子は慌てて台所から出て行き、すぐに小さなポーチを持って戻ってきた。
「とりあえず、お母さんのだけど、これ使って。使い方、わかる?」
「たぶん大丈夫。学校で教わったから」
「そう。じゃあ帰りに自分用のを買ってきて」
明子はそう言って財布から千円札を一枚抜き取った。
「でもお母さんと一緒のほうがいいかな?今日は遅勤だからちょっと遅くなっちゃうけど、一緒に買いに行く?」
「一人のほうがいい」
沙希は首を振りながら素っ気なく言った。言ったあとで、微かにトゲのある言い方に後悔した。一人で大丈夫、と言うべきだった。
ポーチと一緒に札を受け取って、沙希が再びトイレを目指そうとすると、ちょっと待って、と明子が呼びとめた。
沙希は振り返った。「なに?」
「せっかくだから、御赤飯炊こうかしらね?」
咄嗟に頭の中にピンク色の御飯粒が思い浮かび、何故かはわからないが沙希は頬が赤くなった。
「絶対やめて」
反射的に強い言葉が零れ出た。自分でも驚くほど冷たい言い方だった。悪気はなかった。だが子供じみた受け答えが自分でも全く気に入らなかった。
明子は苦笑した。まるで十二歳の娘の扱いに手を焼いている母親のような表情を浮かべた。そして現実にそうであることに沙希は愕然とした。
昼休みに香苗に打ち明けると、彼女はもうとっくに来ていた。今まで話題にならなかったのが嘘のようだった。
「一緒に行ってくれないかな?」
「今日の放課後?」
「うん」
「ごめん、今日ちょっと用事があってすぐ帰らないといけないんだよ」
沙希は香苗の瞳を覗き込んだ。この間の仕返しをしているようではなさそうだった。
「はあ?親友のことを疑ってるの?」
「そんなことないけど」
沙希は咄嗟に作り笑いを浮かべて誤魔化した。
「あのさ、駅前に薬局があるでしょ?あそこがいいよ。スーパーとかだといろんな人に会いそうで嫌だし。あそこの薬局の店員さん、若めの女性の店員さんがいるんだけど、すごく親切で、こちらが気になることをピンポイントで説明してくれるんだ。あそこに行くといいよ」
放課後、沙希は言われるままに駅前の薬局に向かった。
店に入る前に辺りを見まわし、誰かに見られていないか何度も確かめた。心細くて仕方がなかった。生まれて初めて生理用品を買うときにまでなぜ自分はぼっちなのだろうか。朝、母と交わした会話が頭を過ぎり、後悔の念が押し寄せた。
幸い店内に他の客はいなかった。カウンターに進むと若い女性店員が、いらっしゃいませ、と微笑んだ。香苗が言っていたのはこの人に違いない。
「あの——」
事情を伝えると、女性店員は、わかりました、心配しなくても大丈夫ですよ、と言って愛想良く微笑んだ。その顔を見て少しだけ気持ちが落ち着いた。たしかにやさしそうな人だ。
それから彼女はカウンターの上に一つ一つ商品を並べながら丁寧な説明を始めた。サニタリーショーツ、ナプキン、タンポン、月経カップ。それぞれの特徴と使い方のコツなどがわかりやすい表現で次々と解説されていった。香苗の言っていた通り、女性店員は本当に言葉使いが巧みで、どんどん引き込まれていった。
気がつくと、沙希はすっかり話に夢中になっていた。隙だらけの状態で、いつの間にか他の客がうしろに並んでいるのにも気づいていなかった。
指先でやさしく肩を叩かれた。
「はい?」
沙希が振り返ると、すぐ目の前にあの白い歯が零れていた。
「え」
頭の中が真っ白になった。
「こんにちは」
いつも後方からしか見ていなかったあの顔が、いま、正面から自分のことを見詰めていた。白く整った顔全体に笑みが溢れていた。
そして——近かった。彼の体から発せられている生暖かい匂いがはっきりと嗅げるくらい、彼はあまりにもすぐそばに立っていた。これが人と話すときのこの人の距離感なのだろうか。
もわっとした男子の匂いがした。いい匂いなのかどうかはわからなかったが、とにかく心臓が高鳴り、軽い目眩すら感じた。初めて嗅ぐ彼の匂い。単なる気のせいかもしれないが、さっきよりお腹の痛みが増した気がした。
早く返事をしなければと焦るせいで、かえって言葉が出てこなかった。長いあいだ待ち焦がれていた瞬間がまさに訪れたというのに——。そうなのだ。この瞬間が再び訪れたという事実、そのことが沙希にはただただ信じられなかった。
しかし何故いまなのだろうか。何故ここでなければならなかったのだろうか。
沙希の胸に、歓喜と絶望が同時に押し寄せた。嬉しくて身体がバラバラになりながら、奈落の底へと転落していくみたいだった。
何も起こらないことが起こっているだけで自分は幸せだった。
そう痛感した。何かが起こってしまえば物事は先へ進まざるを得ないのだ。
「おはよう」
もう全てが手遅れだと自覚しつつ、かろうじて声を絞り出した。ついにまた言葉が交わされたのだ。
「こんなところで会うなんて偶然だね。大須賀さんもどこか具合が悪いのかな?今日は一日中顔色がよくなかった気がするし」
わが耳を疑うとはこのことか。あの薄く形のよい唇から自分の名前が発せられるのを沙希は確かに耳にした。それだけでもすでにメーターの針は振り切れそうになっているというのに、あの澄んだ瞳に自分が映っていたというのは——しかも一日中——いったいどういうことなのだろうか。
嬉しさと戸惑いで、沙希は気が変になりそうだった。
ちょうどそのとき、女性店員が、ではこちらですね、と言って茶色い紙袋と一緒にお釣りとレシートを差し出した。
沙希に向けられていた天翔の視線が横をすり抜けていった。顔がすぐ目の前にあるせいで、彼の視線がカウンターの上に散乱したありとあらゆる生理用品に対して一つずつ移動していくのが手に取るようにわかった。次の瞬間、彼の頬はりんご病の子供のように紅潮した。リトマス試験紙のような見事な色の変化に感動すら覚えた。
「僕は、弟が急に熱を出しちゃって、それで薬を買いに来たんだけど…」
目のやり場に困った視線というものを、それほど間近で、それほどの密度で観察したのは初めてだった。
「そう。大変だね」
沙希はそう言って店員から紙袋を受け取った。中は見えないが、何が入っているのか当然察しがついた。
もう開き直るしかない——咄嗟にそんな考えが頭を過ぎった。いや、実際は考える間もなく勝手に身体が動いていた。沙希は紙袋を胸に抱えたまま天翔のほうに向き直ると、じゃあまたね、と言って微笑んでみせた。
大袈裟に映らない程度に微かに小首を傾げ、自分が一番よく見える表情が驚くほど自然に溢れ出た。毎朝鏡を覗き込みながら幾度も繰り返してきたこの動作は、実はいまこの瞬間のための練習だったのだと気づかされた。人間いざとなると驚くほど大胆になれるものだと他人事のように感心した。
レジを離れ店の出口へ向かって数歩進んだところで、ちょっと待って、と後ろから声が聞こえた。
立ち止まって振り返ると、天翔が言った。
「ちょっと話があるんだ。悪いけど、少しだけ表で待っていてもらえないかな?」
話?一軍のスタープレーヤーと無名の下軍選手との間にいったいどんな話があり得るのだろうか。きっと彼はあまりの跋の悪さにこのまま別れるわけにはいかないと感じているのではないだろうか。そしてそれは自分にとっても同じだった。
沙希は無言で頷くと表に出て店頭の商品棚の蔭に身を埋めた。
何人もの通行人が前を通り過ぎていった。もう誰かに見られるかどうかは問題ではなかった。一番見られたくない人に見られてしまった後では、世界は基本的に終わっていた。それなのに相変わらず心細くて仕方がないのが不思議でならなかった。
このまま行ってしまおうか——。
沙希はふとそんな衝動に駆られた。もうこれ以上生き恥を晒したくはなかった。なぜ言いなりになってわざわざいま一番会いたくない人のことを待っているのだろうか。一刻でも早くこの場から立ち去らねばならない。
頭の中は冷静にそう命じているのに、なかなか体が動かなかった。胸のうちではもっと彼と話がしたいという気持ちがマグマのように煮えたぎっていた。一度晒してしまった生き恥などいくらでも晒し続ければいい。あの彼が自分に向かって待っていて欲しいと言ってくれたのだ。永久にでも自分はここで彼のことを待っていなければならない。沙希はそう自分に言い聞かせた。
それにしても、天翔はなかなか店から出て来なかった。風邪薬を一つ買うだけなのに何故それほど時間がかかっているのだろうか。もしかすると、あの女性店員が彼にまで一つ一つ生理用品を説明しているのではないだろうか。人のいい天翔はそれを断れずに最後まで話に付き合っているのではないだろうか。
そんな妄想が止めどなく脳裏を通過していった。また不安が込み上げてきた。自分は彼の言葉を聞き違えたのかもしれない。もう限界だった。やっぱり立ち去ろう。
沙希は紙袋を抱える手に力を込めた。そして商品棚の蔭を離れて路上に一歩踏み出した。
すると店頭でキョロキョロと周囲を見まわしていた天翔と目が合った。
「よかった。帰っちゃったかと思ったよ」
そう言って彼は沙希に歩み寄った。今度もまた近かった。おそらくほんの数センチくらいの差なのだろうが、普通の人より間隔が狭いせいで、こちらの空間に侵入されている感じがするのだ。
「待たせてごめんね。丁寧に風邪薬の説明をしてくれて、なかなか断れなくて」
他の誰かなら耐えられないだろうが、彼だからそんな近さも許せてしまうのだった。それどころか、嬉しくてたまらないというのが正直な気持ちだった。また彼の匂いがした。また心臓が高鳴った。
「話って?」
「ああ、そうだった」と天翔は微笑みながら言った。「あのボールペンのことだけど」
「ボールペン?」
「そう」
「この間の帰りの会の?」
「うん」
「ボールペン、見つかったの?」
「いや、たぶんまだだと思う」
「たぶん?」
「うん、このあいだレイちゃんと話したときはそう言ってた。僕、彼女とはよく話すので。いや、ただの知り合いってことだけど。親同士が知り合いなので、それでちょっと…」
跋の悪そうな彼の表情を覗いながら、何も訊いていないのに何故そんなに言い訳めいたことを口にするのだろうかと沙希は心の中で訝しく感じた。レイコのことなどそれまで一度も考えたことすらなかった。しかしいま、彼が彼女のことを意識しているのを知って、自分も彼女のことを意識し始めてしまった。
レイちゃんという彼の言葉が耳元に蘇った。体のどこか深いところがザワザワと蠢いた。胸の奥で小さな羽虫が動き回っているような、心が掻き乱される感覚が沙希を苦しめた。
「気になってるんじゃないかって、ちょっと気になっちゃって」と天翔は続けた。
「気になるって、何を?」
「ボールペンのこと。見つかったのかどうか、気になってるんじゃないかなって」
「うん。そうだね。気になってた」
彼はおかしそうな顔をして笑った。
「あれ?もしかして僕の勘違いだったのかな?」
「え」
「大須賀さん、あの日以来ずっと僕のことを…何て言うか、見ていたような気がしたから」
顔が紅潮するのが自分でもわかった。いくら遠くからとはいえ、四六時中眺められていれば誰でも気がつくに決まっていた。
「そうなんだ…ずっとあのペンのことが気になっていて、本当は声をかけて訊きたいなって思ってた」
単なる成り行きに過ぎないが、こうなったらそういうことにするしかないと覚悟を決めた。
「やっぱりそうだよね?」とまた白い歯が零れた。「じゃあもし見つかったら知らせるよ」
「ありがとう」
「よかった。じゃあメアドを訊いてもいいかな?」
「え」
「学校だといろいろ話しにくいしね」
「あ、はい」
「それで沙希ちゃんも——あ、沙希ちゃんって呼んでもいいかな?」
苗字だけでなく下の名前まで知っているとは——。
「やっぱり大須賀さんのほうがいいかな?」
「大丈夫」
天翔は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ沙希ちゃんも、もし何かわかったら知らせてくれるかな?」
「わかった」
「僕は佐藤君とあまり繋がりがなくて——。沙希ちゃんは友達でしょう?彼のほうでも何かわかったら知らせて欲しいんだ」
「友達?」
「うん」
「私とツンツルのこと?」
「違うの?いつだったか、図書室で見かけたことがあるけど」
沙希は再び耳を疑った。たった一度だけツンツルと言葉を交わしたあの遣り取りを彼がどこかで見ていたとは——。
「別にあの子とは——」
友達なんかじゃない、と言いかけて沙希は愕然とした。
「ん?やっぱり違うのかい?友達だからこの間も助けてあげたんだと思ってた。それですごく感動して、僕も黙っていられなくなってしまって——。ごめん、もしからしたら余計なことだったかもしれない」
「余計だなんて、全然そんな——。すごく嬉しかった。こちらのほうこそ御礼言いたいって、ずっと思ってた。助けてくれて、本当にありがとう」
天翔は大きく微笑んだ。指揮をしているときに時折浮かべるあの笑顔だ。自分の汚れた言葉とは正反対の透明な笑顔だった。
「そうだよ」と沙希は続けた。「佐藤君とはずっと同じクラスで、ずっと友達だよ。真面目で、他人思いで、すごくいい子なんだ」
そう言いながら腹部がまたぐっと痛くなった。
「だよね?」と天翔は嬉しそうに言った。「佐藤君とは今年初めて同じクラスになったけど、僕もずっとそう思ってた。あまり目立たないけど、努力家で、まっすぐで、やさしい奴だなって。彼は人のものを盗むような人間では絶対ないって」
自分の薄汚さを棚にあげて、それでもまるで自分が褒められたかのように思わず顔が綻んだ。虫が良すぎるのはわかっている。それでも無性に嬉しいことに変わりはなかった。
天翔はポケットからケータイを取り出すと画面を開いた。それからボタンを操作して、沙希に向かってケータイを差し出した。
沙希はクラスメートたちに内緒で天翔とメール交換するようになった。
最初のうちは、週に一度くらい、ボールペンのことで簡単な遣り取りをする程度だった。放課後、家に向かって海岸線の一本道を歩いているときや、夜、歯を磨き終えてベッドに潜り込もうとしているときなどに、ふとケータイが着信のベルを鳴らした。通知画面にはT.TSUBURAYAと表示されていた。
正直なところ、ツンツルとは相変わらず口をきくことはなかったので、いつまで経とうとボールペンのことは何もわかりそうもなかった。天翔のほうも本気で真相を突きとめようとしているのか、よくわからないところがあった。レイコは帰りの会でもう一度よく探してみますと言っていたが、それ以来クラスの誰かがボールペンのことを口にしたことは一度もなかった。そんなことはもう皆すっかり忘れてしまっているように見えた。
そのうちにすっかり肌寒くなって、管弦楽クラブとコーラス部合同の秋の定期演奏会が迫っていた。
天翔との遣り取りは相変わらず続いていた。だがその頃までにはボールペンの話題は立ち消えて、代わりに演奏会のことや、好きな音楽、将来の夢などについて、取り留めのない話をするようになっていた。
それは現実とは思えない状況だった。大した意味もなければオチもない普通の話を同い年の男子と自然にできるだけでも信じがたいのに、相手は自分が憧れていた一軍のスタープレーヤーだった。オチのない無意味な会話。それは親密さの証に違いなかった。
メールの頻度もぐっと増えた。気がつけば二人が遣り取りしない日はほとんどないくらいになっていた。ちょっとしたことで一日に何度もメールを送り合うことももう珍しいことではなかった。
休み時間には、天翔はいつも教室の中央で一軍のメンバーたちに取り囲まれていた。ある日、沙希が窓際の一番後ろの席からその様子を眺めているとケータイが光った。通知画面を見るとT.TSUBURAYAとあった。他のメンバーたちと楽しそうにおしゃべりをしているはずなのに、いつの間に打ったのだろうか。沙希はメッセージを開いた。
「いよいよ今日で通し練習も最後だね。最初は皆バラバラだったけど、だんだんとアイロンをかけた真っ白なシーツみたいになってきたね。放課後が待ち遠しいな」
沙希はすぐにメールを打って送信ボタンを押した。
「(笑)ホントにそうだね。円谷君の白いタクトで皆の心が洗濯されていく感じかな。どんどん汚れが落ちていって、ふとお日様が現れて、すごく癒やされる(笑)」
少しして彼がさりげなくこちらへ振り返った。ほんの一瞬、目と目が合った。彼は口元に小さな笑みを浮かべた。
眩しかった。何メートルも離れているはずなのに、彼はすぐ目の前にいるように感じられた。教室の喧騒が遠のき、彼の息づかいが聞こえ、彼の匂いが蘇った。
しかし手を伸ばしても彼に触れることはできなかった。そんなに近くにいるのに、彼との間には果てしない距離が横たわっていた。彼との距離はどんどん縮まっていくのに、縮まれば縮まるほど遠く離れていくような感じがするのが不思議でならなかった。もどかしさで気が変になりそうだった。
例年通り、定期演奏会は市民ホールで行われた。
市民ホールは沙希が生まれる遙か前、バブル時代と呼ばれている遠い昔に市が巨額の資金を投じて建てたものだった。地方の小さな田舎町のコンサートホールとは思えないくらいに音響がよかった。有名な音楽家たちが招かれて演奏会が行われることも少なくなかった。
天翔の指揮は素晴らしかった。彼が指揮台の上に立って顔を上げると、メンバーたちのざわついた気持ちがすっと静まりかえった。白いタクトに導かれ、コーラス部の歌声も管弦楽クラブの演奏も、澄んだ水のように流れ出た。
満員のホールはいつまでも大きな拍手に包まれた。閉演後、天翔は地元の新聞のインタビューを受け、翌日には写真付きの大きな記事で紹介されていた。「天才少年」という見出しが躍っていた。
師走に入るとぐっと気温が下がり、授業中、窓の外に目をやると白い粉雪が舞っているのが見えた。
沙希はふと、先生の話に耳を傾けている天翔の背中に視線を馳せた。
こうして彼を見ていられるのもあと数ヵ月だった。年が明け春になれば離ればなれになるのかもしれなかった。たとえ同じ中学になれたとしても、同じクラスにはなれないかもしれなかった。彼のいない教室。彼に会えない毎日。そんな日が本当に来るとはとても信じられなかった。
その日、二時間目の授業が終わって休み時間になると、沙希のケータイが光った。
「突然ごめん。ちょっと話したいことがあって、会いたいです。今日の昼休み、屋上で待ってる。来て欲しい」
本当に突然のメールに沙希はひどく動揺した。
天翔とは薬局で出会った後、一度だけ学校帰りに海沿いの公園まで散歩したきりだった。それ以来、長い間会いたくてどうしようもなかった。苦しくて仕方がなかった。ようやくその苦しみが本当は幸福の徴なのだと思えるようになってきたところだった。そんな矢先に、まるでハンバーガーでも注文するみたいにあっさりと会いたいですだなんて——。
「本当に突然で、ちょっとびっくり(笑)。でも必ず行きます」
返信ボタンを押してから、沙希は視界の中に映る彼の反応をこっそりと覗った。クラスメートたちとの話に花が咲いているようで、いつものようにさりげなくこちらに向かって微笑んではくれなかった。そのうちにチャイムが鳴って次の時間が始まった。
給食の時間が終わると、天翔のもとに集まってくる一軍メンバーたちの間をすり抜けるようにして彼が教室を出て行くのが見えた。それを見届けてから沙希も席を立った。
廊下にはすでに大勢の生徒たちが溢れ出て、バスケットボールや縄跳びの縄を手にしながら、階段を駆け下りて校庭へと向かう流れができていた。沙希は二階と三階を繋ぐ階段の踊り場で一人流れに逆らって上の階を目指して階段を昇っていった。上の階からは男子生徒たちが物凄い勢いで階段を駆け下りてきた。危うく衝突しそうになるのを壁に張り付くように端へ寄り、ぎりぎりかわしながら上がっていった。
三階と四階の踊り場まで来ると、用のない者の立ち入りを禁ず、というプラカードが行く手を遮っていた。一瞬立ち止まって振り返り、誰も見ていないのを確認すると、沙希はプラカードの横を擦り抜けて、屋上へと向かう最後の階段を昇り始めた。
両側をコンクリートの壁に囲まれていて窓がないせいで、屋上までの最後の二十段ほどの空間は、ハッとするくらい暗い蔭に包まれていた。
見上げると、階段を上り詰めた先のドアが開かれていて、真っ青な冬空が輝いて見えた。太陽がいま真上にあって、強い日射しが降りそそいでいるのがわかっ。朝、粉雪が舞っていたのが嘘のようだった。
屋上に出ると、思った通り真っ青な空に太陽が燦々と輝いていた。本当に気持ちのいい日だった。
天翔はだだっ広い屋上の一番奥のフェンスのそばに立っていた。金網に手をかけて海のほうを眺めていた。
沙希はそっと近づいていった。心臓が破裂しそうなほど鼓動していた。
数メートルのところまで行くと彼が振り返った。
「突然ごめん。来てくれてありがとう」
白い歯が零れた。秋の初めに公園を散歩して以来もう数ヵ月経っていた。
天翔はフェンスを離れて沙希に近寄った。薬局の店先で話したときのように彼はプライベートな空間に侵入してきた。そしてそれ以上近づいたら沙希のほうが後ずさりしそうになるギリギリのところで彼の足が止まった。沙希のすぐ目の前に再び彼の白い歯が零れていた。
「話って、なに?」
いくらか上ずった、自分でも呆れるほど無愛想な言葉が出た。
「今日、帰りの会で卒業式の曲目を決めることになっているよね?」
彼の口から卒業式という言葉が出てくるのを聞いて、またアイスピックで胸を突かれた感じがした。本当にあと数ヵ月でお別れなのだ、と思った。
「朶先生、この前そう言ってたね」
平常心を装って声を絞り出した。
「うん。それで何か提案しようと思っていろいろ考えていたんだけど——昨日の晩、何となく父のレコード・コレクションを漁っていたら、これを見つけたんだ」
彼はそう言って、ポケットからケータイを取り出した。ケータイにはイヤフォンのコードが繋がっていて、彼は画面を開くと片方のイヤフォンを自分の耳に差し込み、もう片方を沙希に向かって差し出した。
突然の出来事に戸惑うことしかできなかった。漫画か映画みたいなことが本当に起こっていた。なかなか手を出せずにいると、イヤフォンを持った彼の手が動いた。
呆気に取られたまま目の前にある天翔の顔を見上げた。
視界の端のほうから彼の手が伸びて来て沙希の耳にイヤフォンを差し込もうとした。だが耳の中にうまく収まらなかった。
すると彼はもう片方の手を伸ばして両方の掌で沙希の左右の頬を包み込んだ。
「ちょっと——」
あの白いタクトを握る彼の掌の感触が伝わってきた。温かくて柔らかかった。彼の息づかいがすぐ耳元で聞こえた。
イヤフォンがようやく左耳の中に収まった。もう片方は天翔の右耳に繋がっていた。
「アナログだから、ちょっと音悪いけど——」
彼はそう言ってそっとケータイのボタンを押した。カチッという音がして、ざーっと砂が流れるような音が流れ始めた。パチパチと焚き火するような破裂音が入り乱れた。昔ながらのレコードプレーヤーらしかった。バイオリンとピアノの伴奏が始まると、すぐにショパンの『別れの曲』だとわかった。
女性の声による合唱が始まった。おそらく十人くらいのコーラスだろうか。かなり古い録音のようだった。
緑に赫(ただよ)う夢何処
リラ散りぬ
両手に溢れし幸
はやも失せて
ああ霙(みぞれ)すすれば 還り来ぬ恋の詩
別れの言葉も 吹かれてちぎれて
ああ落葉は汝が肩に 今ぞかかれり
ああ今ぞ悲しき 我が胸の火の想い
別れの言葉も 吹かれてちぎれて
ああ落葉は汝が肩に 我が頬に涙も
涙も 涙も
天翔は瞳を閉じて合唱に耳を傾けていた。右手の指先が拍子を刻んでいた。
やがてサビの部分が訪れ、女性たちが哀愁に満ちた高い声音で、別れの言葉も 吹かれてちぎれて、と歌い上げた。拍子を取る二人の指先が微かに触れ合った。一瞬が引き伸ばされて、時が停止したような感じがした。
やがて曲が終わり、再び時が流れ出した。
「何だかよくわからないんだけど、いいなあと思って——」
沙希は目を一杯に開いたまま天翔の顔を凝視し続けた。瞬きすると大量の涙が溢れ出そうだった。頷くことすらできなかった。
「帰りの会で提案しようと思っているんだけど、どう思う?」
胸が詰まってなかなか言葉が出て来なかった。ただじっと彼の顔を見つめた。
「やっぱりちょっと古臭いかな?」
「ううん、すごくいいと思う」
ようやく声を絞り出すと沙希は咄嗟に彼に背を向けた。その瞬間、大粒の涙が目の端から溢れ出た。
「だよね?よかった」と天翔は言った。
沙希は彼に気づかれないようにジャンパーの袖で涙を拭った。それから振り返って言った。
「天翔くん——」
「ん?」
天翔は沙希に視線を向けたままその続きを待っていた。ぎこちない沈黙が漂った。
「どうかした?」
「何でもない」
昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが鳴った。
「そろそろ戻らないと——」
天翔はそう言って、近くのベンチの上に置いてあった薄い冊子のようなものを手に取った。楽譜のようだった。
「これ、よかったら」
彼はそう言って古びた冊子を差し出した。沙希は礼を言って受け取った。
冊子の表紙には『Le Cygne』とあった。頁を捲ると、サン=サーンスの『白鳥』がピアノ用にアレンジされたものだとわかった。だいぶ年季の入ったもののようで所々色褪せて紙が変色していた。
「父の楽譜棚の中にあったんだ。同じものが二冊あったから、訊いたら一つくれるって言って」
譜面を目で追いかける沙希の頭の中でピアノが音を奏で始めた。それに合わせて、深い森に囲まれた湖の情景が湧き上がった。
誰もいない湖畔に微かに風が渡り、きらきらと水面がさざめいた。湖は碧く深かった。光り輝く水面に向かって、湖の底から無数の水泡が上がっていく。
やがて主旋律が始まり、水の上を一羽の白鳥がゆっくりと滑っていった。白鳥は傷つき、戸惑っていた。勇気を振り絞り、痛んだ翼を広げ飛び立つべきなのか。それとも空を舞うことなど諦めて、このまま仲間たちと地上に留まり、水面を彷徨い続け痛みを分かち合うべきなのか。白鳥は迷い続けていた。
気がつくと天翔が沙希のすぐ後ろに立っていた。彼は沙希の肩越しに楽譜を覗き込んでいた。水面を漂う白鳥に合わせて、彼の右手がゆったりとした拍子を刻んでいた。コンクリートの白と冬空の青に囲まれながら、ピアノの旋律が二人を包み込んだ。やがて最後の小節が訪れ、彼の指先が静かに止まった。
屋上のドアを潜って階段の踊り場に出ると、ふと天翔が立ち止まった。
「ごめん。沙希ちゃん、先に行って——」
沙希は黙って頷いた。それから階段を降り始めた。
階段を降りながら、振り返ってまた会えるかどうか尋ねたい衝動に何度も駆られた。だがそんな約束をしてしまうと、不思議ともう二度と会えなくなってしまうような気がしてならなかった。ドラマでもアニメでも、そんな約束をするといつだってもう会えなくなってしまうのだ。だから沙希は必死に堪えた。
だが三階へターンする踊り場のところに来ると、沙希ちゃん、ちょっと待って、と声がした。
沙希は足を止めた。振り返って上を見上げた。ドアから差し込む陽光が眩しかった。人の形をした黒ずんだシルエットが見えるだけだった。彼の表情までは見えなかった。
「なに?」と沙希は言った。
「もうあまり会わない方がいいかもしれない」
突然の宣告に沙希は言葉を失った。
次に会う約束をするどころではなかった。彼は反対のことを考えていたのだ。自分の愚かさに沙希は気が変になりそうだった。
「そうだね。わかった」
屋上から降り注ぐ光の中に向かって、沙希はこれ以上ないほどの嬉しそうな笑みを浮かべた。もしこれが彼と会う最後の瞬間だとしたら、一番いい顔をしていたい——。咄嗟にそんな考えが思い浮んだ。
「ごめん。本当はこんなふうでなかったらいいのにな」
光の渦の中で、黒いシルエットがじっとこちらを見下ろしていた。
「でも迷惑をかけそうで怖いんだ」
沙希には彼が言っていることが理解できなかった。もう一度小さく頷くとまた階段を降り始めた。
「ごめん」
また上の方から声がした。だがもう振り返らなかった。
帰りの会で天翔がショパンの『別れの曲』を提案すると、一軍のクラスメートたちが、さすが、かっこいい、などと声をあげそのままあっさりと決まった。
すると生徒たちの遣り取りを聞いていた朶先生が立ち上がって、
「ではそうしましょう。歌詞はどうしましょうかしらね?」
と言った。
「『別れの曲』はいくつか歌詞があるはずですよ。今までも何度か卒業生が歌ってきましたので——。円谷君、何か考えはありますか?」
「はい」と天翔は言った。「実はここに用意してあります」
そう言って彼は立ち上がった。
さっき屋上で聴いたあの曲を流すのだろうか。沙希の脳裏をそんな考えが過ぎったが、そうではなかった。
天翔は鞄の中から一枚の紙を取り出すと、教室の前のほうに歩み出た。そして朶先生に向かって言った。
「黒板に書いてもいいですか?」
「ええ。もちろん」と朶先生は言った。
すると天翔は白いチョークで黒板に歌詞を書き始めた。皆の視線が黒板に釘付けになった。いくらか丸みを帯びた、やさしいきれいな字だった。
堀内敬三作詞
春の日 よそ風
花散る みどりの丘
梢を 楽しくわたる鳥の
かげよ いずこ
野路には 木枯らし
別れの 雲は暗く
過ぎし日 心にいだきて
はるばる 寂しく
越え行く 山や川
せめても われとあれ
忘れじの わが歌
天翔は書き終わると席に戻った。朶先生は教卓の前に立つと改めて黒板を眺め、
「先生はよいと思いますが、皆さんはどう思いますか?」
と言ってクラス全体に視線を向けた。
教室はしんとしたまま反応がなかった。すると廊下側の前のほうの席で手があがった。レイコだった。
「とてもよいと思います」
彼女はよく通る滑舌のいい声でそう言った。
「では」と朶先生が続けた。「この曲と歌詞でよいと思う人はもう一度手をあげてください」
沙希は迷わず手をあげた。天翔の提案が通ったことが嬉しかった。そしてそれ以上に、屋上で聴いた歌詞とは違う歌詞を彼が卒業式の合唱に提案したことが無性に嬉しかった。あの古いレコードの曲は二人だけの秘密なのだ。きっと彼もそう思っているに違いなかった。
「それじゃあ」と朶先生が続けた。「伴奏は大須賀さんにお願いしてもいいかしら?」
そう言って先生は沙希に視線を向けた。急の問いかけに不意を突かれつつ、
「わかりました」
と沙希は答えた。
「指揮は円谷君でいいですね?」
朶先生は今度は天翔のほうを向いて言った。
「はい。大丈夫です」と彼は言った。
「では今日はこれで終わりです。早速来週から練習を始めましょう。大須賀さんは一緒に職員室まで来てください。楽譜を渡しますので」
職員室で朶先生から楽譜を受け取ると、沙希は下駄箱へ向かった。頭の中は『別れの曲』のことで一杯だった。早く帰って早速練習しよう。そう思って胸を躍らせているときだった。
片足の爪先に鋭い痛みが走った。靴を手に取って中を見ると、小さな画鋲が転がり出てきた。
天翔の言っていた言葉を沙希はようやく理解した。
沙希は海岸線の一本道をとぼとぼと家に向かって歩いていった。
明日もまた学校へ行かないわけにはいかなかった。そのことを考えると腹の底から真っ黒な恐怖が込み上げて来た。
ツンツルの肩を持ってしまったことで、沙希はすでにクラスの中で孤立寸前の状態に陥っていた。あからさまな嫌がらせを受けるまでには至っていなかったとはいえ、香苗以外のクラスメートで沙希と言葉を交わそうとする者は誰もいなくなっていた。
そんな状況の中で、天翔のことがついにクラスメートたちに知られてしまったのだ。この先、どんな仕打ちが待ち受けているのだろうか——。それを思うと不安と恐怖で居ても立ってもいられなくなった。
沙希は道端で立ち止まり、ケータイを取り出すと珍しく電話をかけた。何回かの呼び出し音のあと、香苗の声が聞こえた。
「もしもし、どうした?電話なんて珍しくない?なんかあった?」
沙希は事情を伝えた。すると香苗は言った。かなり強い口調だった。
「うちのクラス、まったくちっさい奴らが多いんだよな。そんなんで負けちゃダメだよ。いざとなったら私が守ってやるからさ。あんたは安心してドンと構えてりゃいいよ」
沙希は彼女の語気の強さに驚かされた。でも嬉しかった。同時にやましい気持ちが押し寄せてきた。
天翔と薬局で出会ったことも、彼とメールの遣り取りをしていることも、沙希は香苗に伝えていなかった。もちろん、その日の昼休みに彼と屋上で会ったことも、彼女には言えなかった。
翌週から『別れの曲』の練習が始まった。
一週間ほど教室で歌詞を覚えながら歌ったあと、冬休みに入る少し前から給食後に皆で体育館へ移動して、指揮と伴奏をつけて練習を始めた。
それ以前にも天翔の指揮に合わせて伴奏をしたことは何度もあった。だが今回はいままでとはまるで違う緊張感があった。
画鋲の一件があって以来、沙希はクラスメートたちの視線を意識するようになっていた。クラスの誰かから天翔とのことについて実際に何かを言われたことは一度もなかったし、蔭で誰かが自分の噂話をしているのを耳にしたこともなかった。学校での毎日は前と全く変わりないように見えた。しかし、全く何も起こっていないにもかかわらず、たくさんのことが起こっている。そう感じていた。
体育館の舞台の上で、整列した生徒たちの前に天翔が立つ。指揮し始める前、彼はいつも両手をだらりと垂らしてクラスメートたちを正面から見据えた。その途端、誰もが黒い大きな瞳に釘付けにされた。それから彼は一度だけ仲間たちに深呼吸をさせるのだった。彼が両方の掌を上に向けて腰の辺りからゆっくりと上昇させるのに合わせて全員が深く息を吸い込み、掌が返って下降するのに合わせて息を吐き出す。それが彼のいつものルーティーンだった。それから彼の瞳が静かに閉じられ、ほんの数秒間、舞台が静寂に包まれる。縺れていたクラスメートたちの意識が、紡がれたばかりの一本の糸のように結ばれる。再び彼の瞳が開かれると、白いタクトが振り上げられた。
彼は上体をくねらせてピアノのほうに向かって伴奏を促す合図を送り、それに合わせて沙希は鍵盤を叩き始めた。そのとき決まって、ほんの一瞬、二人の目と目が合うのだった。
それはほんの一瞬であったが、ずいぶん長い一瞬でもあった。そんなはずはないのに、沙希はいつも焦げつくような視線を感じた。もう皆、二人の間の秘密に気づいていて、自分のことを暗に咎めているのではないだろうかという考えに苦しめられた。そして、動揺を押し隠そうとすればするほどかえって意識してしまい、魂を抜かれた縫いぐるみのような表情を浮かべているのが自分でもよくわかった。伴奏の手が震えることも珍しくなかった。
体育館で練習を始めて三日目。教室に戻ると、沙希は机の横にかけてあるはずの自分の鞄がないことに気づいた。辺りを見まわすと、鞄は教室のうしろのゴミ箱の中で埋もれていた。上から給食の残りの野菜スープが掛けられていて、ニンジンやキャベツの切れ端が鞄の上にへばりついていた。
沙希は咄嗟に香苗を探した。
彼女は自分の席に着席していた。両耳にイヤフォンをして、まっすぐに前を向いて座っていた。こちらへ振り返るつもりはないという強い意志が伝わってきた。
沙希は、ふと天翔の視線を感じた。一軍の生徒たちに取り囲まれながら心配そうな表情を浮かべていた。教室は喧騒に包まれていた。沙希はゴミ箱から鞄を拾い上げて、ハンカチでスープを拭った。クラスメートたちは何事もないかのようにお喋りを続けていた。そのうちに先生が教室に入ってきて午後の授業が始まった。
靴の中に画鋲が入っていた日以来、沙希は天翔にメールを送るのを少しずつ控えるようになっていた。彼にまで何か迷惑がかかってしまうのが怖かった。彼からもあまりメールが来なくなっていた。だがその日だけはどうしても彼と話がしたかった。できれば彼の声が聞きたかった。
海岸線の一本道を歩きながら、迷った末に沙希は天翔にメールすることに決めて、ケータイを取り出して画面を開いた。
するとメールが届いていた。見たことのないアドレスだった。そのまま消去するかどうか迷った挙げ句、結局気になってメッセージを開いてしまった。
「調子にのるなよ」
たった一行、そうあった。心臓がずきんと音を立てた気がした。
急いでメールを消去すると再び一本道を歩き始めた。
何も考えちゃダメ——。何度もそう自分に言い聞かせた。ただ黙々と前を向いて歩き続けた。
だがそのうちに我慢の限界が訪れた。気が緩んだ瞬間に、いったい誰からだろうという考えが浮かんでしまった。クラスメートの中で自分のアドレスを知っているのは香苗と天翔くらいしかいなかった。
——まさか。
中学受験のための勉強が忙しいからと言って、香苗はだいぶ前から沙希と別行動するようになっていた。画鋲が入っていた日より少し前くらいからだ。登下校も別々になって、昼休みも彼女は図書室で勉強するようになっていた。
親友に裏切られたということだろうか——。咄嗟に浮かんだ疑問を沙希はすぐさま打ち消した。全くそうではなかった。
親友を裏切ったのは自分のほうだった。自分のほうこそ彼女を傷つけ、そしてそのことに気づきさえしなかったのだ。
自分は天翔とのことでどうしようもなく調子に乗っていた。頭の中が浮かれていて、きっとそれは表にも現れていたに違いない。下軍の名もなき女子が何かを勘違いして舞い上がっている。きっと誰の目にもそんなふうに映っていたに違いない。そして実際そうだったのだ。
足下から恥ずかしさが込み上げてきた。このまま消えてしまいたかった。
午後の日射しを浴びて青白く輝く海を沙希は見つめた。
どうしてせめて香苗だけには最初から本当のことを打ち明けなかったのだろうか——。
それから数日後の休み時間のときだった。
廊下で集まってひそひそと話をしている一軍選手たちの脇を通り抜けようとする沙希の耳に、会話の断片が漏れ聞こえてきた。
「天翔って、中学から東京に行くって本当?」
「東京の音大付属に通うらしいよ」
「本格的に指揮者を目指すみたいだな」
「オレたちとは違う人種だからね」
その話を聞いて、沙希の頭の中は真っ白になった。彼が東京へ行ってしまう。いざとなればいつだって会えると思っていた彼が本当に遠くへ行ってしまうのだ。
もう限界だった。どうしてももう一度だけ彼と会って話がしたい。その気持ちをもはや抑えきれなかった。
三時間目の授業中、沙希は天翔の背中をじっと見つめていた。
彼が東京へ行ってしまうのはまだ三ヶ月以上も先の話だった。けれど年が明けると彼はもうそこにいないような気がしてならなかった。単なる妄想に過ぎないことは自分でもよくわかっていた。だが年が明けると、世界は闇に覆われ、太陽が消滅し、灰が降り積もってしまう。気が動転しているせいか、そんな暗いイメージがさっきから頭の中をぐるぐると回っていた。
沙希は頭の中でカレンダーを捲った。明日は祝日で学校は休み。そして二学期は明後日で終わってしまう。十二月二四日、金曜日。その日は午前中の終業式だけで学校は終わる予定だった。そのあと少しだけなら、このあいだみたいに屋上で会えるかもしれない。
四時間目の授業中、沙希はこっそりとノートの切れ端にメモを書き記した。
「ごめんなさい、少しだけお話がしたいです。終業式のあと屋上で待っています。五分だけ時間をください。大須賀沙希」
昼休みになって給食が終わった。沙希は校庭へ飛び出していく生徒たちに紛れて一階の玄関口まで降りていった。天翔の下駄箱の前に立った。幸い、周囲には誰もいなかった。
下駄箱の取手に手を伸ばした。そしてそこでふと我に返った。
また同じ間違いを繰り返そうとしている。そんな考えが脳裏を過ぎった。こんなことまでして、もし彼が来てくれなかったらどうするのか。どうしてわざわざ余計に惨めになるようなことをしているのか。
沙希は伸ばした手を引っ込めた。誰かに見られる前に早く立ち去らなければならない。だが足が動かなかった。もしかしたら彼は来てくれるのではないかという気持ちをなかなか振り払うことができなかった。随分長い間、下駄箱の前に佇んでいた。何人ものクラスメートがすぐ横で靴を履き替えて出たり入ったりする間、沙希はじっと俯いたまま逡巡し続けた。
そして十二月二四日の朝がやって来た。冷たい朝だった。家を出るとき軒先に氷柱がはっていた。
学校に着くと、沙希はいつものように一番後ろの自分の席に着席した。いつものように一人ぼっちだった。それからチャイムが鳴り、朶先生がやって来て朝の会が始まった。そのあと先生から一人一人に通信簿が手渡され、それが終わると全員で体育館に移動した。
教室の前で先生から通信簿を受け取って振り返ったとき、体育館でクラスごとに整列しているとき、ほんの一瞬だけ天翔と目が合った。その度に彼の表情がパッと明るくなって笑みが漏れた。そしてその度に、下駄箱にメモを残さなかったことを後悔した。勇気を出していれば、やはり彼は来てくれたのではないか。だがもう遅かった。
終業式が終わった。全員で教室へ戻り、二学期最後の帰りの会も閉会した。生徒たちが教室から出ていく。天翔は一軍の仲間たちに取り囲まれていた。
沙希は教室を出ると、人目につかぬようにして屋上への階段を昇っていった。あの美しい秋晴れの午後、彼と二人で真っ白なコンクリートの上に佇んで、古いレコードの歌を聴いたあの場所をもう一度見ておきたかった。そして——もしかしたら奇跡が起こるのではないか。そんな考えをどうしても捨て去ることができなかった。
空には灰色の雲がこれ以上ないほどに立ち籠めていた。太陽はどこにも見えなかった。時折、屋上のコンクリートの上を冷たい風が吹き抜け、空に埃が舞い上がった。
沙希は悴んだ手を息で温めながら、時化て白波を立てている海をいつまでも眺めていた。
全身が氷水に浸かったように冷たかった。背筋の寒気が我慢できなくなって、もたれ掛かっていたフェンスから手を離した。すると、開けっ放しにしてあった屋上のドアが軋む音がした。
咄嗟に振り返った。ドアまではかなりの距離があった。階段の踊り場に誰かが佇んでいるのが見えた。暗がりの向こうからじっとこちらを見ていた。
「円谷君?」
思わず声が漏れた。人影は無言のままこちらを見つめていた。そのうちに沙希は彼の名を呼んでしまったことを後悔し始めた。彼ならそんなところにいつまでも立ち止まっているはずがなかった。
人影が微かに動いた。そしてコンクリートの上に二、三歩歩み出た。
「ツンツル?」
なぜ貴宏がそこにいるのか理解できなかった。ただ一つはっきりしたことがあった。やはり奇跡など起こらなかったのだ。
「円谷君ならもう帰ったよ」
貴宏はセリフを棒読みするような声で言った。
二人はいくらかの間、黙ったままぼんやりと互いを眺めていた。冷たい風が二人の間を吹き抜けて埃が宙に舞った。
貴宏は半袖姿で、着古したオーバーコートを手にしていた。何か言おうとしているのにいつまで経っても言葉が出てこない。そんな顔をしていた。
「ありがとう」
ようやく沙希が沈黙を破った。何に対して礼を述べたのか、自分にもよくわからなかった。
家に帰ると沙希はベッドに突っ伏して泣いた。
一頻り泣くと少し気分がすっきりした。それから衝動に駆られるまま自転車に乗って家を出た。
気がつくと、町の反対側を自転車で彷徨っていた。丘の斜面に立派な家が建ち並ぶ閑静な住宅街だった。もう日が暮れかけて辺りはだいぶ暗かった。気温が下がり、薄暗い空に雪が舞い始めていた。
彼の家のことは何度か噂で聞いたことがあった。屋根が緑色の三階建ての洋風の家、庭には倉がある——たしかそんな感じだった。
少しするとそれらしい家が見つかった。四方が高いフェンスで囲まれた立派な家だった。正面の門は先の尖った黒い鉄格子で閉ざされていて、インターフォンのカメラとボタンが埋め込まれていた。その横に金色の文字で円谷と彫り込まれた表札があった。
沙希は門の手前で自転車を停めるとフェンスの奥の屋敷を見上げた。二階の窓に灯りが点っていた。
インターフォンのボタンに手を伸ばし、指先に力を込めた。だがなかなかボタンを押すことができなかった。いったい自分は何をしに来たのだろうか。今頃になってそんな考えが頭に浮かんだ。
結局、沙希はボタンを押すことができぬまま、惨めな気持ちで自転車を押して歩き始めた。すると前から走ってきた車と擦れ違った。
それは黒塗りの高級車だった。車は門の前で停まった。運転手が降りてきて後ろのドアを開けた。すると車の中から自分と同い歳くらいの女子が道端に降り立った。青いドレスを纏い、長い髪を後ろでアップにしていた。手には小さなブーケを持っていた。すぐにレイコだとわかった。
沙希は自転車のハンドルを握ったまま彼女のほうを眺めていた。門柱の灯籠が放つ灯りに照らされた青いドレスが眩しかった。レイコはもう立派な大人の女性のように見えた。たったいま絵本の中から抜け出して来たばかりのお姫様みたいだった。洋風の家が建ち並ぶ異国情緒すら漂う夕闇の中、浮いているのは自分のほうだった。ディズニーのロゴがついたジャンパーに母が編んでくれたピンク色のマフラー。比べちゃダメ。沙希は咄嗟に自分に向かって呟いた。比べたら余計にみすぼらしくなるだけだよ。
レイコはインターフォンのボタンを押すと、マイクに向かって何か声を発した。少し間を置いて黒い鉄格子が左右に開き始めた。
視線を感じたのか、レイコはふと沙希のほうに顔を向けた。二人の視線が交わった。薄灯りに照らされたレイコの顔に驚きの色が浮かぶのが沙希には見えた。
レイコは無言のまま不思議そうな顔をして沙希を見つめていた。インターフォンから誰かの声が聞こえた。レイコは我に返ったように二、三度瞬きをすると、門の中に消えていった。
沙希は灯りの点った二階の窓を再び見上げた。カーテンの向こうで人影が行き来するのが見えた。さっきより雪は強くなって、うっすらと地面に積もり始めていた。
沙希はひどい寒気を覚えて額に手を当てた。着けっぱなしにしたストーブのようにひどく熱かった。
年が明けた。
世界は闇に覆われることも灰が降り積もることもなかった。また学校が始まって、またいつもと変わらない毎日が再開した。
天翔は二月が近づくとほとんど学校に来なくなった。東京の音大付属を受験するために、毎日のように東京と地元の間を往復しているらしい——そんな噂がクラスには流れていた。
ケータイの画面に彼へのメッセージを打ち込むのが、その頃の沙希の習慣になっていた。
ただ打つだけだった。決して送ったりはしない。自分には彼の邪魔をする権利も資格もありはしない——それがその頃の沙希の呪文になっていた。
「おはよう。『別れの曲』の練習は相変わらず毎日続いています。円谷君がお休みのときは朶先生が指揮をしてくれています。先生の指揮は大らかで温かい感じがするんだよ。卒業まで残り少なくなった時間を皆と一緒に大切にしたい、先生のそんな気持ちが伝わってきて、私も伴奏をしながらジーンと来てしまったりします。円谷君の指揮のように、アイロンをかけたシーツみたいにはならないけどね(笑)。クラスの皆も先生の気持ちに応えようと一生懸命に歌っているよ。だから安心していて大丈夫です。円谷君がいないのは、苺を乗せ忘れたショートケーキみたいで、世界の真ん中にぽっかりと穴が空いてしまったみたいだけど(笑)。でもあなたは何も心配せずに、まっすぐに自分の夢を追いかけてください。ではまたメールするね」
打ち終えてから文面を何度もチェックする。誤字脱字はないか。なれなれしすぎないか。よそよそしすぎないか。重すぎないか。軽すぎないか。(笑)の字を使いすぎていないか——。大丈夫。すべてOK。
それからようやく消去ボタンを押した。
がらんとした日々が続いた。誰もいない古びた映画館の客席で、たった一人、スクリーンに映し出される無声映画を眺めているみたいに毎日が過ぎていった。世界はしんとしていた。色もなく、音も匂いもしなかった。スクリーンに映る世界に自分は映っていなかった。
唯一の居場所はピアノだった。現実味のない世界にギリギリしがみつくみたいに、暇さえあれば沙希はピアノに向かった。家でも学校でも、昼休みも放課後も夕食のあとも。鍵盤に触れている間だけは、自分の中の空白が広がるのを食い止めることができるような気がした。
天翔からもらった『Le Cygne』の楽譜。もうとっくに暗譜して、細部の解釈にまで気を遣うようになっていた。弾き込めば弾き込むほど、湖の水面を漂う白鳥と自分の姿とが重なり合っていった。
傷ついた白鳥は時折翼を広げて空を見上げた。だが水面を離れて空へと飛び立つ力はもう残っていなかった。瞳を閉じ、長い首を横たえて静かに最後の時を待っていた。終わりの時はもう間近に迫っていた。
二月中旬の月曜日だった。その日も天翔は欠席していた。
放課後、沙希はまた一人で屋上にあがった。空はまた曇っていた。くすんだ景色の中に灰色の海が浮かんでいるように見えた。
ベンチに腰を下ろすと、鞄の中から小さな透明の袋を取り出した。何度も失敗しながら初めて焼いたチョコレート。迷った末に、このあいだはありがとう、とだけ記した小さなグリーティングカードを入れてあった。
もし今日彼が学校に来たら、そしてもし二人だけになれるチャンスがあったら——。
もしかしたらそんなことが起こるかもしれないと本気で考えていたつい昨日の自分のことが、沙希にはもう全く理解できなかった。頭がどうかしていたとしか思えなかった。何だかおかしくて笑いが込み上げて来た。
沙希はジャンパーのポケットからプレーヤーを出してイヤフォンを着けた。再生ボタンを押す。ネットで見つけてダウンロードした『Le Cygne』のピアノ二重奏が流れ出し、頭の中に深い森の情景が浮かび上がった。湖畔に風が渡り、きらきらと水面がさざめく。主旋律が始まり、深い碧色の水の上を傷ついた白鳥が滑っていく。
古いアナログ録音の音が郷愁を誘った。目を閉じると、天翔と二人でここで楽譜を辿った日のことが目蓋の裏に蘇った。譜面から立ち上がる旋律に、二人で耳を澄ませたあの日。そんなことが本当にあったのかどうかさえ、もう自信がなかった。夢だったのかもしれない。そんな気さえしてくるのだった。
沙希はふと背後に人の気配を感じて目を開けた。イヤフォンを外して振り返ると、また貴宏が立っていた。
彼は今日もまた、オーバーコートを手に持ってTシャツ姿で立っていた。この前は、風邪引くよと言って差し出してくれたのを断ってしまった。素直に受け入れて着ていれば熱を出して寝込んだりしなかったかもしれない。
「だから風邪引くよって言ったのに」
貴宏はそう言いながらコートを差し出した。
「ホントそうだね」と沙希は微笑んだ。「でも大丈夫。もう行くから——」
そう言って立ち上がると、沙希は慌ててチョコレートの包みを鞄の中に仕舞い込んだ。もう見られてしまったかもしれない。恥ずかしさが込み上げた。
「元気出して」と貴宏は言った。「もうすぐ受験も終わるよ。そうしたらまた会えるから、元気出して」
恥ずかしさのあまり、沙希は一刻でも早くその場を立ち去りたくて、Tシャツ姿の貴宏の横を通り抜けて屋上のドアへと向かった。だが不意に真っ白なコンクリートの上で足を止めた。妙な考えが脳裏を掠めた。沙希は振り返った。貴宏は棒立ちしたまま海のほうを眺めていた。
「ツンツル」と沙希は声をかけた。
振り返った貴宏は少し驚いた顔をしていた。沙希は鞄の中からチョコレートの袋を取り出すと言った。
「これ、よかったら——」
沙希は立ち尽くす彼に向かって袋を差し出した。そして小さな声で言った。
「このあいだは、ありがとう」
三月になった。卒業式はもうすぐそこに迫っていた。
心なしか風も春めいて来たようだった。大須賀家の庭の桜の木が小さな蕾をつけ始めていた。咲くのはまだだいぶ先のことだったが、沙希は前よりは気持ちが軽くなったように感じていた。
三月に入ると天翔が学校に戻ってきた。
朝、教室へ入っていくと、一軍のクラスメートたちが彼を取り囲んで大きな声で冗談を言い合いながら盛り上がっていた。いつもの見慣れた光景に沙希は胸が熱くなった。人だかりの隙間から彼の後ろ姿が目に入ると、涙が出そうになるのを必死で堪えた。
彼とのメールは相変わらず途絶えたままだった。一度遣り取りしなくなってしまうと、間に生じた断絶を埋めるのはもう不可能なように感じられた。まるで大雨で橋の流された川の土手に立ち尽くしているみたいだった。
時々は天翔と目が合ったが、彼が何を考えているのか沙希にはわからなかった。彼のほうから声を掛けて来そうな気配はなかった。楽譜をもらったことにまだちゃんと礼を言えていないことも気になっていた。そして何よりも、そもそもなぜ彼は自分に楽譜をくれたのか——沙希はそのことを反芻し続けていた。
天翔が戻ってきて『別れの曲』の練習が本格的に再開し、気がつくと卒業式まであと三日になっていた。
その日、最後のクラス練習が体育館で行われた。
伴奏に入るとき、沙希は一瞬だけ天翔と目を合わせることができた。胸がキュッと締めつけられた。こんなふうに彼と一緒に演奏できるのも、もう翌日の全体リハーサルと卒業式本番だけになっていた。
思い切って想いを告白すべきなのだろうか——。
沙希はもう何日もずっとそのことばかり考えていた。しかし考えれば考えるほど無理に決まっていた。今さらという感じもした。ほんの一瞬だったにせよ、彼と一緒に過ごせた思い出だけでもう十分なはずだった。
それなのに——どうしてももう一度だけ、彼の声を聞きたいという気持ちがますます強くなっていった。どうしてももう一度だけ、彼の匂いを嗅ぎたくて仕方がなかった。そしてそんな自分が嫌でならなかった。いっそ自分を絞め殺してしまいたいくらいだった。ただの下軍選手のくせに、どこまで思い上がっているのだろうか。世界中の人々に土下座して謝りたい衝動に何度も駆られた。そしてその度に、もう一度だけ彼と会って話がしたいという思いがいっそう募った。
合唱の練習が終わった。翌日の午前中に予定されている学校全体での予行練習について朶先生からいくつか注意が与えられ、それが終わるとクラスメートたちがぞろぞろと体育館のステージを降り始めた。
沙希は一軍選手たちに囲まれながら去っていく天翔の背中を目で追いかけた。彼はこちらへ振り返ることもなく、ステージを降りてドア口の方へ向かって去っていった。
溜息が漏れた。諦めて、ピアノの蔭に置いてあった荷物を纏め、いつものように指揮者用の譜面台をステージの脇へ運ぼうとしたときだった。
譜面台の上に置き去りにされた白いタクトが目に入った。心臓が大きな音を立てた。沙希はタクトを手に取った。そこにはT・Tというイニシャルが刻まれていた。
沙希は咄嗟に顔を上げ、体育館のドア口から出て行くクラスメートたちの後ろ姿を目で追った。天翔はまだ体育館の中を歩いていた。
呼び止めてタクトを渡さなければならない。卒業式で振る大切なタクトを早く彼に届けなければならない。そう思っているのに声が出なかった。あってはならない怪しい考えが沙希の脳裏を掠めた。
一晩だけ、ほんの一晩だけでいい。彼のタクトを持っていたい。
たったそれだけのことだった。翌日に返せば何の問題もないはずだった。
譜面台に置き忘れていったと言って返せばいい。それなら胸を張って彼と言葉を交わすことだってできる。今晩メールを送ることだってできるだろう。タクトを返したいから明日会って欲しい、と連絡する口実にもなる。たったそれだけのことだ。
顔をあげて、もう一度天翔の姿を目で追った。彼はちょうど体育館から出て行くところだった。
沙希は肩から下げていた鞄の中に白いタクトを滑り込ませた。心臓が破裂しそうだった。
タクトを返せなくなることなど、そのときの沙希には想像もできなかった。
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