第6話
夏の終わりのよく晴れた午後だった。
まだまだ油断できないくらいに日射しは強い。だが、蝉の鳴き声が数日前より少し弱まったような気がする。湾から流れて来る海風の潮の香りも少し変わったような気がする。秋の気配が院内にも兆し始めているのがわかる。
いよいよ今日から大樹がチェロのレッスンに通い始める。
手術のために数ヶ月間中断されていた彼の生き甲斐。朝の検温の時から珍しくそわそわしていて、朝食を済ませるとすぐに楽譜を開いて生き生きした目で音符を追っていた。
車椅子に乗った大樹と一緒に沙希はエレベーターで一階の玄関口まで降りた。チェロはもう一台の車椅子に乗せて貴宏が運んでくれた。
玄関口では由美が車を横付けにして待っていた。大きめのワンボックスカーで、後部座席全体が後ろに倒れ、車椅子を折り畳まずにそのまま乗り込むことができるスペースがあった。
運転席から由美が降りてきて、二人に向かって深々と頭を下げた。
「この間はありがとうございました」
由美はそう言って頭を下げた。
「いえいえ、全然そんな——」
沙希は手を振って答えた。貴宏は何か言いたげな表情を浮かべたが、何も言わず二人を見ていた。
由美が運転席へ戻り後部座席の自動ドアを開けると、貴宏が先に車椅子とチェロを車内に乗せ、それから沙希に支えられながら大樹が車に乗り込んだ。
「大樹、楽しんで来いよ」
貴宏はそう言って大樹に向かって拳を差し出した。大樹は俯き加減のまま何も言わずに貴宏の拳に向かってグータッチを返した。表向きはふて腐れているように見えても、やはり今日は気分が高揚しているのに違いなかった。いつもなら貴宏が拳を出してもただ無視をするだけだった。
「大樹君、何かあったらすぐ連絡してね」
沙希はそう言って、大樹の頭を撫でる真似をした。本当は実際に彼の身体に手を触れたかったが、拒まれるのが心配で撫でる真似をするので精一杯だった。大樹は何の反応もせず、ただこちらの顔を見上げていた。
後部ドアが自動で閉まり車が動き出した。病院の門を出て行くまで目で車を追った。後部座席から大樹がこちらを眺めているのが見えたので、両手を掲げてさよならのジェスチャーをした。
「さてっと——」貴宏が呟いた。「今って休憩中だろ?そこら辺を散歩でもどうだ?」
腕時計に目を遣ると、休憩時間はまだだいぶ残っていた。実際、大樹を見送ったあとそのまま中庭をぶらつこうとケータイや財布を入れたポシェットも肩から掛けて持って来ていた。
「いいお天気だし、少しだけなら大丈夫かな」
「じゃあオレ、飲み物買ってくる。ウーロン茶でいいか?」
「うん。ありがとう」
貴宏は親指でオーケーのサインをしながら西病棟のロビーに設置された自動販売機のほうに向かって走って行った。
少し前に比べると中庭にはだいぶ多くの人影があった。
ナースに付き添われ車椅子に乗って日向ぼっこをしている高齢患者の姿があちこちに見える。院内の庭園は地元の住人にも開かれているため、犬を連れて散歩している人たちもいる。ベビーカーを引いて散歩に訪れた若い母親たちが噴水のそばのベンチに座って話に花を咲かせていたりもする。
どこか腰掛けられそうな場所を探して歩いていくが、どこも誰かがすでに座っていた。
「こんなことって珍しいな」
そう言って貴宏は庭園中央の噴水を過ぎて海のほうへ向かって歩いていく。沙希は貴宏のあとからついていった。
少し心臓が鼓動しているのがわかった。まさか意図的にではないだろうが、貴宏はどうやら庭園の一番奥の桜の樹が植えられたあの一角を目指しているようだった。
あそこへはあの日以来近づいていなかった。
製薬会社の営業マンに出会ったあの日。いや、本当に営業マンかどうかはわからなかったが、とにかく円谷天翔に瓜二つの男性に出会ったあの場所。あれ以来、何となく近寄るのが怖くなっていることにようやくはっきりと気づいた。
貴宏はどんどん先へ進んでいく。樹木の間から前方に海が見え始めた。枝葉の隙間を縫って庭園の小道に差し込む午後の日射しが目に眩しい。貴宏を呼びとめてどこか他の場所を提案しようか迷うが、他にいい場所も思い浮かばなかった。どうしようと焦り始めたところで、ふと貴宏が足を止めた。呆然と立ち尽くしてどこかを見つめている。
「ごめん、沙希ちゃん、ちょっと待っててくれ」
貴宏はそう言うと、海へと向かう道とは逆方向の細い脇道の中に入っていった。
黙って彼の背中を目で追いかけた。砂利道の少し先に人影が見えた。だいぶ腰が屈んでいるが、薄いブルーの制服にキャップを被っている。病院の清掃スタッフのようだ。空き缶やペットボトルの詰まった大きなビニール袋が地面に横たわっていた。小道には長方形の白いコンクリート材でできたゴミ箱が設置されている。その中にプラスチック製の縦長のゴミ箱が差し込まれているのだが、どうやら腰が屈んでいるせいでその箱がうまく引き抜けないらしかった。
貴宏は清掃スタッフの後ろから手を伸ばすと易々とゴミ箱を引き抜いた。それから地面に転がっていたビニール袋を拾い上げると、ゴミ箱を横に振りながら空き缶やペットボトルを袋の中に出している。その横で清掃スタッフが屈んだ腰をさらに屈ませて地面に顔がつきそうなほど何度も頭を下げている。どうやらお婆さんのようだ。「先生」「いつも」「ほんとに」「もったいないこと」——途切れ途切れにお婆さんの言葉が聞こえてきた。貴宏は終始笑顔で何か言葉を掛けていた。
貴宏は小学校の頃もよくあんなふうにして誰かに手を貸していたことを思い出した。ふと懐かしい気持ちに包まれた。
「ごめん、ごめん」
貴宏が走って戻ってきた。
「休憩時間、五分ロスしたな。悪い悪い」
そう言って貴宏はまたあの場所のほうへ向かって歩いていく。
「あの婆ちゃんも全部流されちまったんだ」
貴宏は前を向いたままいくらか叫ぶように言った。気のせいだろうか、海に向かって叫んだような気がした。
桜の樹の木陰に置かれた丸太のベンチには人影はなかった。
貴宏は砂利で固められた数段の石畳をあがってベンチに腰を下ろした。沙希は彼の隣に座った。
前方には青い水平線が浮かんでいた。周囲は土砂降りの雨のように蝉の声で覆われている。深い静けさに包まれているのが不思議だった。
「あのときのこと、覚えてるか?」
海のほうを向いたまま貴宏が言った。
「あのとき?」
前を向いたまま問い返した。もちろん「あのとき」がいつのことかはよくわかっていた。
「帰りの会のときのこと」と貴宏は続けた。
「覚えてるよ」と言った。「四色のボールペン、でしょ?」
「ああ」貴宏は握っていたペットボトルのキャップを捻って喉を潤した。それから言った。「今まで誰にも言ったことなかったけどさ、あれは母ちゃんにもらったんだ」
沙希は目を細めて貴宏の横顔に視線を向けた。彼は前を向いたまま動かなかった。
「正確にどこで見つけたのかは訊かなかったけど、どこかのゴミ箱に入ってたって言ってた。オレさ、さっきの婆ちゃん見かけるとつい母ちゃんのこと思い出しちゃってさ。いつも放っとけなくなっちまって」
貴宏はまっすぐ前を向いたまま笑った。
「ただオレ、あのとき皆の前でそれを言うのが恥ずかしくてさ。だから誰にもらったか言えませんって。自分の親の仕事のことを人前で胸を張って話せないような小っさい人間だったんだよなオレは。しかもクラスの誰だってうちの母ちゃんの仕事のこと知ってるのはわかりきってたのにな」
彼の横顔に浮かんだ自嘲気味な笑みから目が離せなくなった。彼や彼のことを自分が見下していることに気づいたときの、あの、つんと鼻を突く嫌な気持ちが蘇ってきた。
「どうしても医者になりたかったのはそのせいもあったと思うな。誰にでも胸張って言える仕事っていうかさ。本当に人のことを助けたくてこの仕事に就いたのかどうか、いまでも時々自信なくなってさ。オレってひょっとしてとんでもない偽善者なんじゃねえのかなって。東北人の血筋みたいなものってあるだろ?とにかく世のため人のために潔く生きる、みたいなさ。そういうのが小さいときから身体に染みついてるっていうか。でも本当は、ただ人からよく思われたいっていう、ただそれだけなんじゃねえのかって。それでいい人ぶってるだけなんじゃねーのオレって不安になるっていうか。いまだにすんげー小っせい人間なんだオレは」
彼の言おうとしていることは沙希にもわかる気がした。
この世界にはもう何も残されていないと感じているのに、それでもなお前を向き、何かを信じている振りをして世間が希望と呼んでいるものを探し求める自分を演じているみたいな感覚がいつもあった。もう立ち止まりたくて仕方がないのに、それでもまだ目に見えぬ巨大な力によって歩かされているみたいな感覚が身体に染みついていた。一枚皮を剥げば、いつだってそんな感覚が身体中から染み出してきそうだった。
何か言いたかった。けれど、胸の中で幾重にも絡み合った言葉のほつれを正確に解きほどくのは不可能なように感じられた。
いくらか逡巡したあとで沙希は言った。
「いいじゃん、偽善者だって」
「え」
「偽善者だっていいよ。ツンツルはいい偽善者だよ。それって素敵だと思う」
「何だそれ?」
彼はそう言って苦笑した。それからふと真顔になって言った。
「いずれにしても、あのときオレのことを信用してくれたのは、沙希ちゃんと円谷だけだった」
貴宏の口から円谷という名前が出てきたのを耳にして内心ひどく動揺した。
「やっぱり朶先生もオレのこと疑ってたよな?」
「さあ、どうかな」
「いまさらだけど、ありがとう。すごく嬉しかった」
貴宏はこちらを一瞥すると小さく頭を下げた。何と言っていいかわからずに曖昧な笑みを浮かべて首を振った。
再び蝉の声に包まれた。二人とも黙ったまま海を見つめていた。
するとどこか遠くのほうから重たい大砲のような音が空高く響き渡った。
「花火か」と貴宏は空を見上げながら言った。「そういえば、今年は盆踊りやるのかな?だいぶ感染も落ち着いて来たところだしな」
「あ」
貴宏の言葉を聞いて思わず声が漏れた。
「ん?」
「思い出した」
「何を?」
貴宏の口から円谷という名前を耳にして頭の中が一気にあの頃へとタイムトリップしていたせいかもしれなかった。空に響き渡った重たい爆発音のせいで、三月十四日の午後、二度目の爆発のニュースを聞いて父と兄と三人で軽トラックに乗って慌てて避難所を後にしたときのことが脳裏に蘇った。
目にしたこと自体を自分でも忘れていた記憶。心の片隅にあるのを知っていながらいつも見て見ぬ振りをしてきた記憶。そう感じられた。それは、道路に転がる無数の瓦礫を大人たちに混ざって一心不乱に路肩に積み上げている少年の姿だった。
軽トラックは瓦礫が散乱した商店街の通りをのろのろと障害物を避けながら進んでいった。そして途中、あちこち破けて泥だらけになったソファの残骸が道を塞いでいた。すると数名の大人たちがすぐに駆けつけて泥だらけの瓦礫を路肩へ移動してくれたのだった。少年もその中に混ざって手を貸していた。
沙希は軽トラックの助手席からぼんやりとそれを眺めていた。運転席の父と窓側に座る兄の間に挟まれて、シートに深く身体を沈めながら虚ろな目で少年が瓦礫を運ぶのを眺めていた気がする。もうあのときには、どんなにいろいろな物が瞳の中に映っても、何も見ていなかったと思う。何も見えていなかったと思う。
だからあのとき少年がちらりとこちらのほうへ目を向けたとき、もしかするとあのとき自分は少年と目が合ったのかもしれなかったが、自分には少年の姿は見えていなかったのだと思う。
心の中で貴宏への謝罪の言葉を何度も呟いた。だが言葉にはならなかった。彼だってもう忘れているに決まっていた。
「思い出したって、何を?」
「何でもない。小さい頃、よくお母さんと一緒に浴衣着て盆踊りに行ったなあっと思って」
「ああ、あのお母さんか」
貴宏はそう呟くとまた海のほうへ視線を向けた。
ふと、前に貴宏が、震災後は施設にいた、と言っていたのを思い出した。あれ以来ずっと気になっていたが、尋ねる機会がないままになっていた。
「そういえば——」
そう言って貴宏のほうへ向き直った。すると貴宏もこちらへ向き直りながら言った。
「電話」
「え」
「ケータイ鳴ってる」
貴宏はそう言って背中に下げていたポシェットを指さした。
「あ」
慌ててポシェットのベルトを引っぱって身体の正面に持ってくるとファスナーを開けて中からスマホを取りだした。
画面には、小檜山由美、と表示されていた。
「もしもし大須賀です。何かありましたか?」
「沙希さん、ごめんなさい。いまレッスンが終わったところなのですが、久しぶりだからよっぽど楽しかったみたいで、もう少しやりたいって言ってるんですよ。もう三十分弾きたいから電話して許可してもらってほしいと言っていて——」
「なるほど。そういうことですか」ホッと肩をなで下ろす。「わかりました。いまちょうど佐藤先生が横にいらっしゃるので訊いてみますね。ちょっとお待ちください」
沙希はそう言うと、スマホを手で押さえるような仕草をしながら、
「大樹君、レッスンを三十分延長したいそうです。特に体調に変化はないみたいです。許可していただけますか?」
と言った。
「うん、わかった。いいよ」
貴宏はどこか上の空といった様子で返事をした。貴宏の突然の無関心ぶりを訝しく思いつつ、沙希は再びスマホに戻って言った。
「佐藤先生、オーケーだそうです」
「そうですか、よかった。では戻るのが少し遅くなりますけど、よろしくお願いします」
「わかりました。他のスタッフにも伝えておきますので、気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
電話が切れた。安堵の溜息をついた。施設のことを訊くのはまた今度にしようと思いながら貴宏に視線を戻した。
だが彼は明らかに様子が変だった。気のせいか、額に汗が噴き出しているように見える。彼の視線はさっきからどこか一点へ向けられている。視線の先は——。
そこでようやくポシェットの口が大きく開かれたままになっていて、中が丸見えになっていることに気づいた。
ポシェットの中は三つのポケットに分かれていた。手前のポケットには財布が入っていた。真ん中のポケットには簡単な化粧道具を入れていた。そして奥のポケットは内側にカードケースがついていて、そこにはキャッシュカードやクレジットカードなど数枚のカードが収まっていた。その間のスペースにハンカチとポケットティッシュが横たわっていた。貴宏の視線の先はそのハンカチとティッシュの下のほうへ向けられていた。
ポシェットの中を凝視していた貴宏がその中へそっと手を伸ばした。沙希は内心、悲鳴をあげた。だがもう遅かった。
貴宏はポシェットの奥へ指先を伸ばすと、触れてはいけない昆虫の標本にでも触れるにようにして、象牙でできたその細長い棒をそっと摘まみ上げた。
それから彼は沈黙に落ちた。自分の指先で鈍い輝きを放っている白い物体にしばらく見入った。
額から汗が珠のように噴き出していた。信じられないといった様子で、口が半分開いたままだった。
十五年間肩身離さず持ち歩いてきたタクトには、コルクでできたグリップの部分にT・Tというイニシャルが彫り込まれていた。
「これって——」
ようやく彼は沈黙を破った。それから顔をあげてこちらの眸を覗き込んだ。
沙希は堪えきれず目を逸らした。水平線の先へ曖昧に視線を向けた。目が泳いでいるのが自分でもわかった。
「ごめん、ツンツル」と小さな声で言った。「いままで隠してて、ごめん」
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