第5話

 東病棟にあるリハビリテーション・センターに行くと、大樹はすでに理学療法士に介助されながら歩行練習を始めていた。およそ一ヶ月前に受けた左大腿への手術は無事に成功し、数週間の化学療法を終えて今日からリハビリが始まったのだ。

 大樹は数年前に右大腿への手術も受けていた。そのときは今回のように骨の周りの筋肉にできる筋肉腫ではなく骨そのものにできる骨腫瘍であったため、ガンに侵された大腿骨の一部を切除して、代わりに人工関節を埋め込まなければならなかったと聞いていた。

 いま、大樹の左脚には長下肢装具と呼ばれる義足のような補助器具が装着されており、太腿から爪先まで全体が保護された状態になっている。理学療法士が大樹の背中に張り付くようにして腰の辺りを支えながら彼が一歩一歩前に向かって足を踏み出すのを介助しているのだが、装具をつけていないあの右脚の太腿の辺りにはチタン合金でできた人工の棒が埋め込まれていて、単に両端を縫って本物の骨に繋げているだけなのだと考えると、彼が右脚に体重をかけた瞬間に縫い合わせた太腿が折れてしまわないかと、全くの素人のようにハラハラせずにいられなかった。

 沙希はしばらく入り口のドア近くから遠目に見守っていた。

 大樹はゆっくりとではあるが、理学療法士に付き添われながら一〇歩歩いた。それから彼は理学療法士の掛け声に合わせてゆっくりと体の向きを反転させた。そしてふと顔を上げたとき、ドアのところに立っていた沙希と目があった。

 大樹はこちらに気を取られたのかバランスを崩して前に倒れ込んだ。理学療法士も不意を突かれて支えきれず、大樹は床の上に激しく転倒してしまった。

 装着具の金具の部分が床に当たって大きな音を立てた。倒れた勢いで被っていたニット帽が脱げ、ほぼ完全に脱毛してツルツルの状態になった頭が露わになった。

「大樹君」

 思わず叫び声を上げて駆けつけようとしたが、誰かが後ろから自分を追い抜いて、大丈夫か、と大声を上げながら彼を抱き起こした。

 貴宏だった。大樹が歩く姿に夢中になっていて気がつかなかったが、いつの間にか彼も立ち寄ってどこかから眺めていたらしい。

 大樹はいつものふて腐れた表情を浮かべながら、床に落ちていたニット帽を拾い上げると頭に被った。

「おいおい、せっかく助けてやったんだからもう少し有り難そうな顔をしろよ」

 貴宏は大樹の頭をチョップする真似をして声を出して笑った。

 大樹は何も言わなかった。沙希がそばに駆け寄ると妙に仰々しく顔を背けた。

「お前、まさか沙希ちゃんの姿を見てわざと倒れたんじゃないだろうな?」と貴宏は言った。「本当は沙希ちゃんに助けてもらいたかったとか?」

「んなわけないでしょ」と大樹は吐き捨てるように言った。

「あ、図星だ」

「先生さ、もう少しまともな医者らしい言動ができないかな?」

「わかった。その代わり、お前ももう少し十歳の患児らしく振る舞え。いいか」

 そんなふうに大樹と接することができる貴宏の姿に沙希は密かに感心していた。

 貴宏の言葉はまっすぐだった。裏も表もなく、ただ思ったことをそのまま言葉にしているだけだった。それなのに、いや、きっとそれだからこそ、すっと心の中に入ってくる感じがした。

 言い方はキツいが、貴宏と大樹がやり合っている姿を見れば二人の間に信頼関係があるのがよくわかった。大樹もきっと内心では貴宏のまっすぐな性格に惹かれているに違いなかった。

 ふと、あの、小学校五年生だったとき、仙台駅の前で財布の中から十円硬貨を取り出して、苦しそうにしていたホームレスの老人に差し出したときの貴宏の姿が目蓋の裏に蘇った。

 真っ暗な穴の底にいるようなときでさえ、彼は自分以外の人のことを考えることができる人間だったのだ。あの時すでに彼の小さな身体の中には人を思う気持ちがしっかりと根づいていて、地面から小さな芽を出して成長し始めていたのだと思う。そしていまその芽は成長を遂げて大きな花を咲かせているのだ。これまで数え切れないほどの雨風に晒され、あちこちボロボロに破れかけてきたのに違いないが——。

「大樹君、凄いね、いきなり十歩も歩くなんて」

 彼は相変わらず無反応だった。沙希は恐る恐る彼の腕に手を添えて平行棒まで歩くのを手伝った。腕を振り払われるのではないかと思ったが、さすがに彼も歩くのに必死でそこまではしなかった。すると貴宏がすかさず言った。

「沙希ちゃん、そんなにやさしくすると、こいつ勘違いするからダメだよ」

大樹は鼻を鳴らした。「先生、もしかして嫉妬してんの?」

「なんでオレが十歳児に嫉妬するんだよ、こら」

 貴宏はそう言って大樹の頭をゲンコツする真似をした。


 その日、沙希は大樹の母、小檜山由美と面会ラウンジで面談をした。

 今回の入院でかれこれ二ヶ月近く休んでいたチェロのレッスンを再開するために話しておかなければならないことが数多くあった。

 大樹は幼い頃から市内の音楽教室にチェロを習いに通っていた。レッスンを再開するにあたって先生に病院まで来てもらうのは不可能に近かった。第一、院内にはチェロの演奏ができる防音の部屋もない。結局、週一度、由美が車を運転して大樹を教室まで連れていくことになった。

 主治医の貴宏からも許可が降りていたが、まだ化学療法は続いていて大樹の体調は万全ではなく、外出中に万一具合が悪くなった場合に備えて、様々な注意事項を由実に伝えておかなければならなかった。

 一頻り話を伝えると、由美は居住いを正して「本当に、色々とありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。

 由美は小柄で可愛らしい女性だった。おそらく自分より一回りくらい歳上なのだろうが、言われなければ十歳の子供がいるようにはとても見えない若々しさがあった。色白で化粧っ気はほとんどないのに目鼻立ちがはっきりとしていて、沙希の目にはいくぶんか母、明子の若い頃を思い出させた。いつも派手さを抑えた清楚な感じのする服を身につけており、ふんわりとウェーブのかかった髪から覗く耳元のパールのピアスがよく似合っていた。

 ラウンジには他に誰もいなかった。傾いた西陽が窓のブラインドから差し込んでテーブルに置かれた注意事項を纏めたプリントの上に静かに落ちている。

 由美とはこの一月ほどの間に何度も顔を合わせていたが、まとまった話をするのはこれが初めてだった。会話が途切れ一息ついたところで、由美が申し訳なさそうな表情を浮かべて頭を下げながら言った。

「あの子が色々と失礼な態度をとってしまって本当に申し訳ありません」

 突然の謝罪にどう反応してよいのかわからなかったが、あからさまに否定するのも白々しい気がして、「いえいえ、わたしのほうこそ色々と至らないことが多くて申し訳ありません」と言って沙希は頭を下げた。「でも大樹君って、本当に聡明なお子さんですよね?何か特別な教育とかなさって来られたのですか?」

 それは本心から出た言葉だった。あの強烈に屈折した性格も含めて、前々から由美に訊いてみたいと思っていたのだった。

「ありがとうございます」と由美は恐縮しながら言った。「いまはすっかり反抗期という感じなのですけど、親の口から言うのもなんなのですが、根はとてもやさしい子なんです」

 おそらくそれは本当なのだろう。普通の子ならば中学生くらいになってから訪れるような反発の時期が、あの子の場合はすでに一〇歳にして訪れているのかもしれない。

「もう少し小さい頃は本当に素直な子だったのですが——。その頃はこちらが学ばされることのほうが多いくらいだったんです」

 そう言うと、由美は握っていたハンカチを口元に押し当てて沈黙に落ちた。思わず視線が白いハンカチに吸い寄せられる。レースの縁取りがされ花柄とブランド名の刺繍が縫い込まれた、どうやら普通のハンカチのようだ。

「あの子がまだ小学校の一年生だったときのことなのですけれど」由美は目を細めて徐に語り始めた。「ようやく数ヵ月の退院が終わって学校に復帰したんですね。それで、体育の時間は、まあ当然参加できませんので、いつも校庭の端っこで見学していたんです。たしかあのときはかなり大きな手術の後でしたので、車椅子に座って他の子供たちが縄跳びをするのを見ていたのだと思います」

 沙希は黙ったまま頷いた。由美は続けた。

「それで、時期的には七月の初めくらいだったと思いますが、もう結構暑くて、その日は特に日射しが強かったんですね。そのせいで熱中症になってしまって。退院してからも強い薬を呑み続けていたせいもあったと思うのですが、とにかく気がつくと車椅子の上で汗を搔いてぐったりしていたらしんです。それで縄跳びをしていた生徒が気づいて、先生もパニックになって急いで救急車を呼んで、当然授業はストップしますよね。校庭に救急車が駆けつけましたから一時は学校中が騒然となったみたいです。結局あの子は軽い熱中症で一晩入院しただけで済んだのですが——」

「そんなことがあったんですね——本当に小さい頃から頑張ってきたんですよね」

 特に意味もない相槌程度の言葉だったが、由美は小さく小首を振ってどこかに漂っていた視線をこちらに向けた。言いたいことは他にあるようだ。

「ええ」と由美は小さく頷いてから続けた。「それで、その晩のことだったのですが、看護師さんと少しお話して部屋に戻ると、大樹がベッドの上でしくしく泣いていまして——。一歳、二歳のころからずっと治療を続けてきましたが、あの子は本当に滅多なことでは泣かない子だったんです。どんなに痛い治療でもいつもグッと歯を食いしばって、できる限り平然として表に出さないようにしていました。いつだったか、大ちゃん、大丈夫?痛かったら泣いてもいいんだよって言ってみたんです。そうしたら、でも大ちゃんが泣いたらママもパパも悲しいでしょって。私、その言葉を聞いて涙が出そうになって思わず抱きしめてしまったのですけれど——でもその後は時々泣くようになりました。ちゃんと話したことはないのですけれど、たぶんあの子、わざと泣いているのだと思います」

「わざと?」

「ええ——痛いのに痛くない振りをしている姿もこちらにとっては辛いんだってことがわかってしまったからです。ですから時々、言葉は悪いですけど一種のガス抜きみたいな感じで泣くんじゃないかと思って。時々泣けば泣いてない他のときはそれほど痛みはなくて大丈夫なのかなってこちらは少し安心するじゃないですか?こちらをそうやって安心させるために時々わざと泣くんじゃないかって」

「はあ」

 感嘆の溜息が漏れた。そんなこと、普通の子供なら絶対にあり得ない。だが、あの少年ならそんなこともあり得たのかもしれない。

「ホントに凄い子ですね、大樹君は」

「それで、その泣き方もまったく芝居がかった感じはしなくて、どう見ても普通に泣いているようにしか見えないんですけど——いえ、やっぱり本当に普通に泣いているんだと思います。ただ、子供は痛いときには泣くのが自然だから泣いているっていうか。泣くのが自然だって思ってしまった時点でもう自然じゃなくなるはずなのですけど、それでもあの子は本当に自然に泣いている気がしたんです。ちょっと何て言ったらいいのかよくわからないのですけど…」

 言葉を失ったままただ頷くしかなかった。

「それで、話を戻しますと——」と由美は続けた。「その熱中症で倒れてしまった晩のことなのですけれど、もう小学校に入る頃までには本当に偶にしか泣かなくなっていましたから、あれ、珍しいなって思いまして。どうしたの、どこか苦しいのって言ってみたんです。そうしたら珍しく思っていることを言ってくれたんですよ。めったに心の中で感じていることを口にする子ではないのですけどね——。どうもその日体育の時間に縄跳びのテストがあったらしいのですが、五十回だったかな、縄跳びを連続で跳ぶテストがあって、順番に先生の前で飛んでいくんですね。それで、いつも教室で隣に座っている女の子がいて、毎日放課後にその日のテストのために必死に練習していたらしいのですが、どうやらその前の日くらいにやっと五十回飛べるようになったみたいで。でも結局自分が倒れて授業が中断してしまったのでその子はテストを受けないまま終わってしまって、とにかくそれが申し訳ないと言ってそれで泣いていたらしんです」

「でも病気なんですから仕方がないですよね?」驚いて思わず強い口調で反論した。ほとんど叫び声に近かった。「それって、大樹君が罪悪感を覚えるようなことじゃ全然ないですよね?」

「ええ」と由美は頷いた。「まあ、大人から見ればそうなのでしょうけど——いいえ、たぶん健康な人から見ればって言ったほうがいいのかもしれません。私も長い間あの子と接してきてようやく分かるようになってきた気がするのですが、凄い重圧があるみたいです」

「重圧?」

「ええ。健康でなきゃダメだよっていう世の中の重圧っていうのかしら——。たぶん健康な人はあまり気づいていないのだと思いますが、社会のあちこちにそういう感じのメッセージが溢れているのですよね、きっと。それで、大樹みたいにどう頑張っても健康になれない人間からすると、凄いプレッシャーになっているのだと思います」

「そんなあ——」

 余計な御節介をして人から疎まれたときのような、モヤモヤとした気持ちが胸に押し寄せた。自分も普段そんなプレッシャーを大樹や他の子供たちに与えてしまっているのだろうか。彼らの目には、自分の姿は単なる独りよがりの偽善者みたいにしか映っていないということなのか。

「特にその隣の席の女の子がいつも大樹によくしてくれていたみたいで。それでせっかく頑張って練習していたのに本当に申し訳ないと言って——。その時の涙は、何て言うか、ちょっといつもと違う感じがしたんです。その時の涙は本当に正真正銘の本物の涙だったと思います」

 沙希はどんよりとした気持ちで黙って頷いた。

「それから小学校二年生の誕生日のときにも——」とそこまで言いかけて由美はハッとしてこちらの様子を覗った。「やだ私、調子に乗って長々とお話してしまって——」

 沙希は小首を振って、時間は大丈夫ですのでどうぞお聞かせください、と言った。

なかなか人には言えない話が山のように胸のうちに積もっているに違いなかった。保護者たちの心理的負担を和らげるのも小児科看護師の大切な仕事の一つなのだ。というか、それもそうなのだが、何より自分自身が大樹のことをもっと知りたいという気持ちで一杯になっているというのが正直なところだった。

「本当に大丈夫ですか?えっと——」

 由美はウーロン茶の入った紙コップに手を伸ばして喉を潤すと続けた。

「あの子が小学二年のときの誕生日だったと思います。珍しくそのときは入院していないときだったので、自宅で誕生日パーティーを開いたのですね。それで、同じクラスの仲のいいお友達を全部で十人くらいだったかな、うちへ呼んで、ケーキを食べたりゲームをしたりして、あの子もとても楽しんでいる様子で、よかったなあと思って見ていたのですけど——」

 由美はそこで一息ついて手に持った紙コップの中に視線を落とした。当時のことをじっと思い出しているようだ。

 沙希は静かに由美の言葉を待った。ブラインドを照らす夕陽がさっきよりいくらか赤みがかったような気がする。由美は再び話し始めた。

「それで、パーティーの終わりのほうになって、お友達たちが皆めいめいに大樹に誕生日プレゼントを渡し始めたんですね。別にそういう約束とかをしていたわけではありませんし、お友達たちも皆で事前にプレゼントを持ってくるように話していたのかどうかもよくわからなかったのですが、とにかく一人ずつ順番に大樹にプレゼントを渡し始めたんです。まあ、だいたい皆、鉛筆一本だったりシール一枚だったり、そのくらいのもので、子供らしい感じの贈り物でした。でも中には凄く立派な箱にリボンのついたプレゼントをくれた子もいました。中身が何だったか忘れてしまいましたけれど——。それで、大樹も、ありがとう、ありがとう、と言って嬉しそうに贈り物をもらっていたのですが、最後に一人だけ何も持ってこなかった男の子がいたんです。他の子たちは、その子の順番なのにいつまでも椅子に座ったままじっとしているので、何かしーんとして気まずい空気が流れ始めて。それで大樹もその子が何も持ってこなかったことにすぐに気がついたようで、皆、ありがとう、とても楽しかったです、と言ってお誕生日会を終わりにしようとしたんです。すると一人の男子がその男の子に向かって、お前、なんで何もプレゼント持ってこないんだよって責め始めたんです。そうしたら他の子たちも堰を切ったように、そうだよ、そうだよ、大ちゃんが可哀想じゃないかって大きな声でその子のことを責め出してしまって——。結局その子はじっと下を向いたまま固まってしまって何も言わずに帰っていきました。きっと胸が詰まって何も言えなかったのだと思います。何か言おうとしたらたぶん涙が溢れてきそうなのでじっと我慢していたみたいです。私はただ黙って横から見ていただけだったのですけど、帰り際にその子がまだずっと俯いたままだったので大樹も玄関先で何かその子を慰めるような言葉をかけたかったみたいです。様子を見ていてそんな素振りがわかりました。でもあの子も車椅子に乗っていて自由に動き回れないですから、結局その子に声をかけられないまま皆帰っていきました」

 由美はそこまで一気に話すと再びウーロン茶に手を伸ばした。ふと、その男の子が帰りの会で盗みの嫌疑を掛けられた小学校時代の貴宏の姿と重なった。

「それで大樹君は、それも自分のせいだって、そう感じたんですね?」と沙希は言った。

「ええ、そうです」と由美は言った。「皆が帰ったあと、自分の部屋に閉じこもってずっと落ち込んでいました。さすがに今回は泣いてはいませんでしたが、でも皆にプレゼントを持って来させるような雰囲気を、いえ、あの子は自分でオーラって言っていたと思いますが、きっと自分が知らず知らずにそういうオーラを出してしまっているからいけないんだ、と言って自分を責めていました」

 また口から溜息が漏れた。

「それから、大ちゃんが可哀想じゃないかって言われたこともずっと気にしていましたね。自分ではそんなつもりはないのに、やっぱり周りからは可哀想に見えるんだなって、それも凄くショックだったみたいです。本当にもう嫌になってしまうくらいひ弱で感じやす過ぎるっていうか——」

「そんなことないですよ」と沙希は咄嗟に口を挟んだ。「大樹君、本当に繊細でやさしい子なんだと思いますよ。素晴らしいことですよ」

 そう言いながら、じつは内心嬉しく感じていた。毎朝出勤するのが憂鬱になるくらい自分を苦しめているあの少年にそんな時期があったのだ。それを知っただけで不思議と少し気が楽になった。次に会ったときには今までと違ったふうに彼のことを見られるかもしれない。

「ありがとうございます」と由美は口元にハンカチを当てながら言った。「でも、最近は本当にちょっと心配していて」

「大樹君の身体のことをですか?」

「それもそうなのですけど、あの子の、その、感受性っていうのかしら。むしろそちらのほうがちょっと心配で。正直言うとちょっと怖いくらいです」

「はあ」

「ごめんなさい、何のことだかよくわからないですよね」と由美は言った。「本当に馬鹿げた話なので笑わないでやって頂きたいのですけどね、あの子、どこかで震災のことに対して罪悪感を抱いているみたいなんです」

「は?」

「えっていう感じですよね?震災のことを知ったのはもうだいぶ前のことですが、それ以来暇さえあればインターネットで当時の情報を検索していて——。動画とかも何度も何度も見ているようですし、とにかく片っ端からいろんな情報に目を通しているみたいです。それで、はっきり口にしたことはないのですけど、何かふとした拍子に、言葉の端々っていうのかしら、震災が起きたのは自分のせいなんだ、みたいな感じのことを仄めかすっていうか」

「ちょっと待ってください」と沙希は言った。「大樹君、いま十歳で、震災は彼が生まれる五年前のことですよね?どうしてそれが彼のせいになるんですか?まだ生まれてもいないのに」

「本当に馬鹿げた話なのですけど、でも本人がそう感じてしまっている以上、どうしようもありませんよね?」

「うーん」

 思わずうなり声を上げた。由美は続けた。

「あのう、ほら、さっきも申しましたでしょう、世の中の重圧っていうこと。これは私の勝手な想像なのですが、そういうところから来ているのかなあって思ったりしています」

「うーん、どういうことなのかあまりピンとこないですが…」

「つまりその、あの子みたいな立場の子は、世の中に迷惑をかけているんじゃないかっていう、恐怖心みたいなものかしら、そういう気持ちを常に抱いているんです。それはきっと、健康でいなきゃダメですよっていう世の中からのメッセージに対する裏返しの気持ちでもあるんです。健康でいられなくてごめんなさい、皆に迷惑をかけてしまってごめんなさいっていう気持ちです。それで、そういう気持ちがどんどん積み重なっていって、そのうちに自分が生まれる前のことすら自分が迷惑をかけたせいなんじゃないか、自分の身体が弱いせいなんじゃないかって、そういう錯覚が生じてくるんじゃないかなって——」

 沙希は無言のまま紙コップの中のウーロン茶に目を落とした。

 手術の前の晩に大樹の部屋に寄ったとき、パパにもママにもいつも迷惑ばっかかけてるし、と彼が突然呟いたときのことが今ようやく腑に落ちた。彼の内心にはそんな罪の意識が巣作っているのかと想像すると、アイスピックで心臓を突かれたような痛みが走った。

「特に、皆さん」由美は顔を上げてこちらの様子を覗いながら、いくらか逡巡した後で続けた。「何ていうのかしら——まだ傷が癒えていらっしゃらない方がたくさんいらっしゃるでしょう?普段は皆さん、心のうちに仕舞っていらっしゃるからわかりませんけど。でも、あの子、人の心のうちを読む能力っていうのかしら、小さい頃からそういうところがすごくあって、いつも自分が辛い思いをしているせいもあると思いますけど、いろいろな方の辛い気持ちとか、心の傷とか、けっこう感じ取ってしまうんじゃないかと思います。それでね、自分も相手にそういう気持ちを引き起こさせた原因の一部なんじゃないかって、過去と現在が重なり合っていくって言ったらいいのかしら。うまく言えないのですけど——」

 由美の思いがけない言葉に激しく動揺する自分を沙希はどうすることもできなかった。まだ傷が癒えていない人々——。どう見ても自分もその一人だった。

 アンパンマンのスクラブを着て毎日どんなに笑顔で頑張っていても、心の奥のどれほど深い場所に鍵をかけて仕舞い込んでいるとしても、そこに膿んだ傷がいまなおぽっかりと口を開けているのを否定することはできなかった。

 そしてその傷口の奥には底なしの喪失感が漂っていた。無、とでも言ったらいいのだろうか。プレイルームで子供たちと遊んでいるときや、検温で部屋から部屋へ移動する間に廊下の窓からふと海が目に入ったとき、何かの拍子に無の詰まった箱が唐突に開かれ、その中に吸い込まれそうになることがいまでも頻繁にあった。吸い込まれてしまいたいという衝動に駆られている自分がいまなおいる、と言ったほうが正確かもしれない。あの日以来、傷はほんの少しも癒えてなどいなかった。たぶん一生癒えないだろうと、いつも心のどこかで思っているのだ。

 しかし、こちらのそんな傷跡をあの少年が自分のせいだと感じて心を痛めているのだとしたら——。こちらの心の傷や空白を感じ取ってしまったことを隠すために、わざとあんな態度を取らざるを得ないのだとしたら——。

何とも言えない徒労感に全身が包まれた。空気を抜かれたビニール人形のように心が萎れそうになった。

「あの、本当に失礼なのですけど——」沙希はほとんど衝動的に相手の砦の中に飛び込んだ。「小檜山さまは被災なさったのですか?いえ、あの、すみません。いちおうお聞きしておいたほうがよいかなと思っただけなのですが…」

「大丈夫ですよ」と由美は表情を変えずに言った。「主人は被災しています。でも家を流されただけで身内は無事でした。それって最近では被災のうちに入らないのは承知しておりますが——。私は地元の人間ではありませんので、被災していません。震災後にボランティアでこちらに来ていて、そのときに主人と知り合ったのです。あの人もいろいろあって大変だったのですが、他の人たちのために走り回っていて、その姿にちょっと感動してしまって」

「そうだったのですね。立ち入ったことをお訊きして、申し訳ありません」

「いえいえ。たぶんお話しておいたほうがいいと思いますし」

 今度は自分が訊かれる番かもしれない、そうしたら何と答えようかと内心身構えた。いや、由美はもうこちらのことを知っているのかもしれない。一度も調べたことはなかったが、母の明子は一度地元の新聞のインタビュー記事を受けて新聞に載ったことがあり、彼女のその後の消息がどこかネット上で報道されていたとしても不思議はなかった。さっきまだ傷が癒えていない方がたくさんいらっしゃると言ったのも、決して当て付けとかそういう意味ではないとしても、こちらのことを意識して言った言葉だったのかもしれない。

「あのう、実はもう一つずっと気になっていることがあるんです」と由美は改まった様子で言った。「これも凄く馬鹿な考えっていうか、大きな声では言えないようなことなんですけれど——」

「大樹君のことで、ですか?」

「ええ、まあ、そうなのですが——」

「もしよろしければお聞かせください」

 由美は顔をあげてこちらを見つめた。それから躊躇いがちに言葉を選びながら続けた。

「さきほども申しましたように、震災後に主人と出会いまして、意気投合っていうのかしら、ほら、あの当時、やはりちょっとどこか国中がなにかこう差し迫った感じがしていたっていうか、本当に明日自分の身に何が起こるかわからないっていうか、そういう空気があったと思うんです。それで出会ってから三ヶ月もしないうちに一緒になることになりました。私はもともと東京の人間なので、付き合っているときも私のほうから週末に新幹線でこちらに会いに来ていた感じだったのですが、結婚するということになってどこに住もうかという話にまあ当然なりますよね。実は、夫は震災後ずっと避難区域のギリギリのところに家を借りて住んでいたんです。さすがに避難区域内は無理だったのですけど、そこから通りを一本挟んだところのマンションを借りて住んでいました。他の住民の方はほとんど皆さんどこか他の場所へ避難されていたのですが——。もうお耳に入っていると思いますが、主人は現代アートのアーティストをしております」

「はい、お聞きしています。大樹君からハンカチも見せてもらいましたよ」

 由美は微かに目元に笑みを浮かべながら続けた。

「ええ。それで、主人はちょくちょく避難区域の中に入っていって荒れ果てていく町並みなんかを写真に撮ったり、津波の後の残骸なんかをモチーフにオブジェを制作してみたり、マンションの一室をアトリエにしてそういう活動をしていたんです。それで結婚するという話になったとき、私はどこか違うところに引っ越して新居を構えるものとばかり思っていました。新しい門出っていうのかしら、何となくそんなイメージが自分のほうにはあったんですね。まあ、こちらの勝手な早合点だったわけですが、そのうちに主人にはそんな考えは全くないことがわかりました。このままここに住むのではダメかなっていう感じでね。最初にその言葉を聞いたときは、正直ちょっと耳を疑ったというか、びっくりしたのですけど、でもね、ほら、わかるかしら、まだ若かったですしね、出会ったばかりですし、意気投合して、なんていうのかしら、すごく盛り上がっている感じでしたし、私もこの人についていこうってもう心に決めていたこともありましたし、まああまり深く考えないようにしてそのままそのマンションに住み続けることになったんです」

 由美はそこで一息ついて窓のブラインドに目を遣った。夕陽はもうだいぶ赤みがかっていた。

「私の両親は強く反対しました。まあ当然ですよね?そんな危ないところに、ましてや新婚早々にどうしてそんなところに住む必要があるんだって、父も母も理解できない様子でした。正直その当時は私自身にもよく理解できなかったものですから、話していても要領を得ないっていうか——。しまいには両親は、いえ、特に父のほうですが、結婚そのものを考え直したほうがいいんじゃないか、と言い出してしまって——。まあ父はもともと夫のことがあまり気にいっていなかったということもあったと思います。アーティストなんていう浮ついた職業で、いったいどうやって食べて行くんだって。父は古い人間ですし。それで最後には親の反対を押し切って無理やりこちらに来てしまったんです。だからいまだに父からは結婚を許されていなくって——。家を飛び出したまま一度も実家には帰っていませんし。母からは時々電話がありますが、大樹の顔も両親はまだ一度もじかに見たことがないんです。こちらのほうからは時々写真なんかを送ってはいるんですが——。父も母も本当は会いたくて仕方がないと思うのですけどね。ましてやあの子がこんな身体で、いつ何があるかもわからないですから、なおさらだと思います」

 沙希はまた黙って頷いた。正直、何と言ったらいいのかわからなかった。

「ごめんなさい、本当に長くなってしまって——。それで、ここからがやっと本題なのですが、両親とそのことで色々と話をしているときにですね、父がよく口にしたことがあったんです。子供ができたらどうするんだって、父は何かにつけてそのことを気にしていました。そんなところで暮らしていて、生まれてきた子供に万一のことがあったらどうするんだって——。そのときは私も、そんなことないから大丈夫よって反論していました。だってそんなのおかしいでしょう?避難区域の中に住んでいるのならまだしも、国が安全だと指定した区域に住んでいるんですから万が一なんてあるはずがないって、当時は私もそう自分を無理やり納得させていました。でもやっぱり不安はありましたから、まだ籍を入れていない頃だったと思いますが、私もそれとなく夫に尋ねたことがあったんです。地元に住むのは構わないけど、もう少し避難区域から離れたところじゃダメなのかしらっていう感じで。そうしたら、避難区域のすぐそばでないと意味がないんだよ、と言われました。意味って、何の意味?って私も思ったのですが、あの人も一度言い出したら聞かないところがあって、それで私も折れてしまいました。もともと主人も私も子供は欲しがっていたんです。それでいつだったか、子供のこと、心配じゃないの?って訊いてみたんです。そうしたら、まあ、その時はその時だなって——。そんな具合に結局そのマンションに私のほうが引っ越していって新生活が始まりました。たしかにマンションは避難区域の外にはあったのですけど、通り一本挟んでいるだけでしたから、実質的に区域内と大差なかったのだと思います。やっぱり線量はかなり高くて、私も暮らし始めた頃は気になって毎日のように測っていたのですが、そのうちに止めました。そんなこと気にしていたら暮らせませんものね。だからもう諦めるしかないって思って——。それからあっという間に数年が経って、そんな中で大樹を身ごもったんです」

 そこまで話を聞いて、これから由美が言おうとしていることがぼんやりと予想できた。それはできれば耳にしたくないことだった。だが、耳を塞いではいけないことなのかもしれなかった。正直なところ、どうしたらいいのかよくわからなかった。

 こちらの気配を感じ取ったのか、由美は戸惑いがちに自分でも手探りするように言葉を紡いだ。

「ごめんなさい、私、すごく馬鹿げた嫌なことをお話ししているのは自分でもよくわかっているんです。ただこの頃特に、あの子の病気の原因はやはり私たち夫婦にあるんじゃないかって、そう思ってしまうんです。そんなことはないっていくら科学的に説明されても、心のどこかでひょっとしたらって思ってしまっている自分がいるんです。父の言っていた通りのことが起こってしまったんじゃないかって——。そのことを考え始めると本当に胸が締めつけられて苦しくって…」

 由美は息を詰まらせて手に持ったハンカチを握り締めた。

沙希は腕を伸ばして由美の手の甲にそっと掌を重ねた。由美はいくらか微笑んで続けた。

「それで、私、本当に嫌な人間なんですけど、自分でもそれはよくわかっているんですけど、でもどうしても嫌な考えがどんどん芽生えてきてしまって——。主人がどうしてあそこまで避難区域のそばに住むことに拘っていたかっていうことなのですが。当時主人はあまり売れていなかったんです。いえ、それはまあ今もあまり変わりはないのですが、でもあのマンションに住み始めて、原発アートをやり始めてから——世間では主人の作品はそう呼ばれているのですけど——それからネット上なんかでちょくちょく取り上げられるようになったんです。それで、言葉は悪いのですが、味をしめたっていうか——。たしかにもともと正義感の強い人ではありました。でもそこまで大々的に社会批判みたいなことまでする人だったかどうかはちょっとよくわかりません。それで、最近は子供の身体が悪いことも公にしていますし、アートですのでもともと曖昧なものなのですが、子供の病気の原因は原発にあるんだっていう、そういうメッセージを発しているって解釈できる作品をけっこう発表していたりして——。そしてそれがまたネットで話題になったりするものですから、ますます主人も調子に乗ってしまっているというか。いつでしたか、かなり最近のことなのですが、私がうっかり主人に向かって、あの子を利用している、みたいなことを言ってしまったことがあって、すごい口論になってしまってしまいました。子供の病気をネタにして金儲けする親がどこにいるんだよってすごい顔で、主人も泣きそうな顔をして怒鳴り声をあげて怒っていました。まあそれはそうですよね、妻にまでそんなことを言われて——。実際、主人とは口が裂けても円満にいっているとは言えない状態なんです。本当に、お恥ずかしいことなのですが、大樹のことで延々と口論が絶えないんです。大樹もそのことはよく知っています。でも知らない振りをしてくれていて——。そうなんです。たぶんあの子にとって本当に一番つらいのは、きっとそこなのだと思います」

 由美はそう言って少し間をおいた。それからまた続けた。

「前に児童発達の本を何冊か読んでみたことがありました。大樹が幼稚園に入った頃のことです。痛いはずなのに泣かずに平気そうな顔をしているのがちょっと心配になったものですから——。それでいろいろ読んでいるうちにこういう考えに出会ったんです。五歳の子供は世界に生じる悪はすべて自分に責任があると感じる、という考えです。五歳児って、自分が世界の中心にいると思い込んでいるんですよね。だから自分と無関係の事柄が世の中で起こっているっていうことが理解できないらしんです。自分の身の周りで何かよくないことが起こっていると、それはすべて自分のせいだと感じてしまうんですね。だから親が近くで夫婦喧嘩をしていると、五歳の子供はひどく傷つくそうです。実際、その頃から大樹のことで夫とよく口論になっていたと思います。それであの子もたくさん傷ついてきたと思うのですけど、でも普通は年齢があがると、全部自分のせいなんだ、なんていう考えは消えていくと書いてありました。自分とは無関係の世界が存在していることを理解できるようになるからです。でもあの子の場合、いつまでも色々なことを自分のせいだと感じ続けている気がするんです。さっきも申しましたように、あの子の病気の原因はもしかしたら私たちのほうにあるかもしれないんです。親の私たちがあんなところにずっと住み続けていたせいであの子があんなふうに生まれてしまったのではないかって——。でも、あの子はむしろ反対に感じているみたいなんです。自分の身体が悪いせいでパパやママにいつも喧嘩をさせてしまって申し訳ないって、どうやらそんなふうに感じているみたいなんです。そんなことないよ、そんなふうに考えなくていいんだよっていつも言っているのですけれど——。でもやっぱり、そういうふうに感じてるんだと思います」

「そうかもしれないですね」と沙希は相槌を打った。「この間も大樹君、そういう感じのことを口にしていましたよ。パパやママにはいつも迷惑ばかりかけているって——」

「そうですか」と由美は溜息まじりに頷いた。

「でも」と沙希は続けた。「大樹君は決して五歳児の精神状態のままなんじゃないと思います。何でも自分の責任だと感じてしまうっていう、そういうところがあるのはそうかもしれませんが、でもそれは大樹君の個性なんだと思うんです。あの子には本当にちょっと普通の人には考えられないような感性があるのだと思うんです。それって素晴らしいことだと思います。生意気なことを言ってごめんなさい。でもお母様もそういうふうに受けとめてあげて欲しいんです。決して精神的に未発達とかそういうことではないと思うんです」

 そう捲し立ててしまってからふと我に帰った。由美への言葉はそのまま自分に向けた言葉でもあった。

あの少年の分厚い負の衣に包まれた皮膚の裏側には、世界中どこを探しても見つからないような繊細な血が流れているのだと、何より自分自身がそう信じたくて仕方がなかったのだ。

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