第4話
「あんな怖い顔をして、いったい誰を探してたんだい?」
西病棟最上階のカフェテリアはまだランチタイムで混雑していた。偶然窓際の席が空いたので二人は飲み物を手に腰を下ろした。すると貴宏が訊きたくてうずうずしていたかのように言った。
「さっきのことですか?」
沙希は惚けた声で言った。できればその話には踏み込みたくなかった。
「うん」貴宏は屈託のない笑みを浮かべた。「ほんと、すごい顔してたよ」
何と言って誤魔化そうかと必死に考える。
「製薬会社の営業さん?」
自分のほうから訊き返すような曖昧なトーンで言ってみた。
「え?」貴宏は苦笑した。「自分でもよくわからない人を探してたってわけか」
「ちょっと知り合いに似てた気がしたので——」
「ふーん」
それ以上突っ込まれたら嫌だなと思ったが、幸い貴宏は尋ねてこなかった。
正直、内心ほっとした。円谷天翔にそっくりの人を見たなどと言えるわけがなかった。天翔がもうこの世にいないことは貴宏も当然知っているはずだった。それに、貴宏のことを思い出したのも天翔に似た人を見かけたせいであの頃の思い出が一気に蘇ったからだなどと、やはり貴宏にも失礼な気がして口にはできなかった。
窓の外に目を遣ると眼下に庭園が広がり、その向こうに銀色の色鉛筆で線を引いたように水平線が輝いている。この病院は元々高台にあったため津波はここまで達しなかったと聞いていた。
「震災のあと——」貴宏はふいに真顔になって言った。「たしか県内のどこかへ避難したって聞いた気がしたけど——」
「はい——」沙希は頷いた。「郡山のそばの避難所に一〇年くらいいました」
「そうか——」
貴宏はそういって窓の外へ目をやった。それから沈黙に落ちた。
震災後、東北人同士の会話で生じるようになったいつもの間だった。それ以上詮索せずにそっとしておくべきか。自分の身を守るために時の経過の中で少しずつ心の周りに築かれた砦の中に分け入って、たとえ気休め程度であったとしても互いの傷を分かち合うべきか。もちろん相手が砦の中に入れてくれる保証はない。固く閉ざし続けている人のほうが圧倒的に多かった。
「皆さん、ご一緒に?」
貴宏はこちらに視線を戻して言った。彼の選択は後者だった。
「父と兄と三人で——」と沙希は言った。それから庭園を見下ろしながら続けた。「母と弟はまだ行方不明で——」
貴宏は目を細め、少し間を置いてから「そうか」と呟いた。それから何かを思いだしたように微笑んで、「あの、沙希ちゃん、敬語、いいよ」と言った。
「え?」
「二人だけのときはタメ口でいいよ。なんか緊張するし」
「あ、はい。わかりました」
貴宏は爽やかに苦笑した。
彼の変わりようには目を瞠らずにいられなかった。これがあのいつも苦しそうな顔をして下を向いていた少年だとは本当に信じられない。
「ツンツルは、震災後どうしてたの?」
「ん?」
そう言ってから、頭の中がすっかり小学校時代に戻ってしまっていることに気づいた。
「ごめん、佐藤君は震災後どうしてたの?」
貴宏は誇張気味に笑い声をあげた。
「いいよ、ツンツルで。その調子だよ」
「ホントごめん」
「いいって別に」貴宏は続けた。「オレは震災後、県外の施設に世話になってた」
「施設?」
「ああ」
震災後の彼がどうなったのか一度も考えたことがなかったことに気づいて申し訳ない気持ちになった。と同時に、天翔以外のことを考える余裕などまるでなかったあの頃の自分の姿が胸に蘇ってきた。
施設とは何のことだろうか。訊き返さなければと思っているのに声にならなかった。貴宏がそうしてくれたように、自分も彼の砦の中に飛び込まなければならない。そう感じているのに、どういうわけかそういう気になれなかった。相手の中に飛び込むのにはパワーがいるのだ。いろいろあったせいか、今日はもう気力が残っていなかった。
そんな戸惑いの色が表情に表れていたのかもしれない。貴宏はこちらの胸の内を見透かしたように微笑んで言った。
「いいよ、無理して訊かなくても」
人はこんなに変貌できるものだろうか。こちらの目を覗き込むようにして笑っている貴宏を見つめ返しながら、そう思わずにいられなかった。
相手の口元に視線を落とすあの嫌な癖もすっかりなくなっていた。茶色に染めた髪をワックスで固めた今風の髪型やポロシャツの襟を立て胸元にシルバーのネックレスを覗かせている姿は、垢抜けたナンパな印象すら漂わせている。小学生の頃のあの陰気なイメージは跡形もなく消え失せて、自信に満ちあふれた若き外科医に変身を遂げた同級生の姿にただただ驚く。
「とにかく」と貴宏は続けた。「オレ、いつも沙希ちゃんのことを考えてたよ」
「え」
「あの日のこと、覚えてる?」
「あの日?」
「図書室で話したことがあっただろ?」
「ああ」
「いつか一緒に働く日が来るかもしれないって——そう言ってたの、覚えてる?」
「うん——覚えてるよ」と沙希は言った。そしてあのとき彼に対して抱いた哀れみの感情が微かに蘇り、疾しい気持ちが後に続いた。
貴宏は顔を綻ばせた。
「キモすぎるのはよくわかってる。でもオレ、いつか沙希ちゃんに会えるかもしれないって、そう思ってずっと必死こいてやってきたんだ。絶対に医者になるってさ。そうすればまた沙希ちゃんに会えるかもしれないって——」
沙希は苦笑した。色々な気持ちが入り混じった曖昧な笑みだった。だがとにかく形だけでも微笑むしかなかった。
「信じられんけど、現実になった」
「たしかに——」と沙希は言った。
「てか、そんなこと言われてもふつうドン引きするよな」貴宏はそう言って笑っている。「一五年越しのストーカーってわけだ」
中途半端な笑みを浮かべたまま、手元のオレンジジュースのストローを意味もなく掻き混ぜた。どう反応したらいいのかまるでわからない。喜ぶべきなのか、嫌がるべきなのか、それすらもわからない。というか、自分の気持ちに「どうすべきか」などと考えるのがそもそもどうかしている、と思った。
沈黙が気まずくなって思わず窓の外へ視線を逸らした。すると、いままで気づかなかったが、視界の端に小さな教会のような建物が映った。
「あれって何だろう?」と沙希は言った。
「ん?」
貴宏は窓の外に目を向けながら言った。
「チャペルのことか?」
「チャペル?」
「うん。中は礼拝堂。ちょっとした舞台があって、時々プチ・コンサートをやったりする。オルガンと古いアップライトのピアノが一台ずつある」
「ピアノが?」
それを聞いてハッとした。間違いない。中畑さんが旅立つとき、きっと誰かがあのチャペルでピアノを弾いていたのだろう。チャペルは西病棟と東病棟の間に挟まれていて、救急外来のICUとちょうど隣り合わせの位置にあった。ピアノの音が微かに聞こえてきたとしても不思議はない。
同時に、胸元が激しく動悸するのを感じた。さっき天翔によく似た人を見かけたせいもあるのだろう。ピアノがあると聞いてあの頃のことが一気に蘇ってきそうだった。
「そっか」と貴宏は言った。「沙希ちゃん、ピアノ上手だったもんな」
無言のまま再び曖昧な笑みを浮かべた。そしてようやく自分が天翔の話をしたくなかった本当の理由に思い当たった。
「震災後もピアノ弾いてたのか?」
黙ったまま二、三度首を振った。そうするつもりはないのに神妙な顔つきになっているのが自分でもわかった。気持ちが内側に向かってどんどん落ちていく。やばい、と思った。
心の奥のどこか深いところに鍵を掛けて仕舞い込んであったあの秘密——何年間もどこかに封じ込めていた罪の意識がぶり返してきた。
「どうした?なんか顔色が悪いけど——」
「ううん、大丈夫」そう言って沙希は腰をあげた。「そろそろ戻らないと——」
「あんまり無理しないようにな」と貴宏は言った。「新しいことだらけで疲れが溜まっているんだよ。場合によっちゃ早退するとか、そういう手もあるからな」
「ありがとう」沙希は微笑みながら言った。「ホント大丈夫だから」
「そっか——」貴宏はそう言って腰をあげた。「大樹のリハビリ、今日からだったよな。アイツのこと、よろしく頼む。いろいろ辛い経験ばっかしていまはあんな感じだけど、根はいい奴なんだ」
黙って頷いた。それからエレベーターに乗り込んで御辞儀をした。
「オレも後で顔出すよ」
閉まり掛けたドアの向こうから貴宏がそう言うのが聞こえた。
沙希が大樹と初めて出会った数日後、彼は大きな手術を受けた。
左大腿の横紋筋肉腫切除手術——佳奈からその言葉を聞いたとき、太ももの付け根から片足が切断された彼の姿を想像して思わず胸が締めつけられた。
「ううん。昔はポンポン切断してたみたいだけど、最近は技術が進歩したおかげで腫瘍のとこだけ取り除いて患肢は温存できるようになったんだよ」
佳奈の、ポンポン、という言い方がおかしくて、不謹慎と思いつつ苦笑してしまった。とりあえず少し安堵した。
「明日、帰りに部屋に寄って声かけてあげるといいよ」と佳奈は続けた。「さすがにあの子でも、手術の前の晩は緊張してるはずだから」
「わかりました」と沙希は言った。「必ず寄ります」
「でも、いい?絶対に泣いちゃダメだよ。看護師に泣かれると子供たちすごく辛いんだから。あの子だって表向きは生意気で強がってるけど、きっと内心辛いに決まってるし」
正直なところ、部屋に行ってもろくに言葉を交わしてもらえないのではないかと思ったが、とりあえず頷いておいた。もし自分が泣くことがあるとすれば彼にイジメられて泣くということか。いい歳をしてまさかそんなことがあるはずもない。
翌日の夕方、帰りがけに大樹の個室のドアをノックした。
何の反応もなかった。部屋の中に大樹がいるのは間違いなかった。もう一度ノックした。やはり反応はなく、しばらく待ってから、入るよ、と言って扉を引いた。
部屋の奥へ入って行くと、大樹が慌てた様子で読んでいた本をベッド横の床頭台の上に置き、素早い動きでニット帽を被るのが見えた。
「何だよ、勝手に入ってきて」
「ごめん。ノックはしたんだけど…」
「返事がなきゃ、普通、入るなってことだろ」
「本当に、ごめんなさい」
佳奈に言われるままに立ち寄ってみたものの、来るべきではなかったと途端に後悔し始めた。
こんなに人から邪険にされるのは中学のとき以来だ。あの頃は避難区域から家族で逃げてきたことがどこからともなくクラスの皆に知れ渡り、うつるやら臭いやらとSNSに書き込まれて酷いイジメに遭ったのだった。この一〇歳の少年に、ちっ、と舌打ちされる度に、あの頃の嫌な気持ちが腹の底に湧き出して胃が痛くなった。
いずれにせよ、立ち尽くしていても仕方がない。何か適当な言葉をかけて早めに立ち去ろう。そう考えて恐る恐る枕元まで歩を進めた。
「あの、ここ、座っててもいい?」
大樹はベッドの背凭れに寄りかかりながら、ふて腐れた表情を浮かべて再び手にとった本に目を向けていた。ただ視線を向けているだけで、実際には読んでいないのが伝わってくる。返事はしてくれず、完全にこちらを無視している。
失礼します、と小さく呟くと枕元の丸椅子に腰を下ろした。また舌打ちされるかもしれないと身構えたが、大樹は反応しなかった。少しだけ気持ちが落ち着いた。
二人とも黙ったままぎこちない空気が部屋の中に流れた。頭の中でかけるべき言葉を探したが、うまく見つからず改めて目の前の少年に目を向けた。
抗がん剤治療のせいで脱毛しているのだろうが、チラッと目に入った感じではまだだいぶ髪は残っていて、所々抜け落ちて薄くなっている状態のようだった。ただ外見的には一番中途半端な状態で、恥ずかしく感じる患者は多い。それは十歳の患児にとっても同じなのだろう。
大樹が読んでいる本のカバーに目を遣った。『ハリー・ポッターと死の秘宝』というタイトルだった。ベッド脇の床頭台に目を向けると『ハリー・ポッター』シリーズの単行本が五、六冊平積みになっていた。この数日の間にこんなにたくさん読んでしまったらしい。個室の角に置かれたカラーボックスの中にも何冊もの本が無造作に積まれていて、『君たちはどう生きるか』なんていうタイトルもあった。
「大樹君、読書家なんだね。凄いなあ」
本心から出た言葉だった。だがやはり彼からは何の反応もなかった。両手に持った本をまっすぐに見詰めている。早く帰れという空気がぷんぷんと発せられている。
何か適当な言葉をかけて腰をあげようと思っていると、窓辺の物干しハンガーにハンカチが干してあるのが目に入った。
青い生地を背景に赤い色の細長い楕円と緑色をした三角形とが奇妙な角度で重なり合っていて、さらにその上に重なり合うように丸い円が影のように描かれている。ちょっと変わったデザインだった。
「あのハンカチ、素敵だね」
反応はなかった。
励ましのエールを送って退散しようと思っていると、大樹が不意に本から目を離してこちらに視線を向けた。たったそれだけで、脇腹の辺りにアドレナリンが噴き出す感じがした。
何を言われるのかと身構えていると、彼の口から飛び出してきたのは意外な言葉だった。
「パパの——」
「え」
「パパがデザインした」
「あ、そうなんだ」
「僕のパパ、アーティストだから」
「ああ」佳奈の言葉が脳裏を過った。「小檜山隆(こひやまたかし)さん?」
大樹は頷いた。それからハンガーに掛けられたハンカチのほうへ目を向けながら言った。
「三つの図形が重なり合った部分が〈目に見えぬもの〉を表してる。ウィルスとか放射能とか、絆とか。楕円の部分が〈かつて存りし今無きもの〉で、三角形の部分が〈今在りて消えゆくもの〉を象徴していて、背景の青は愛を意味してる」
驚きのあまり言葉を失った。そんな返事が返ってくるとは思いもしなかった。
「それって」沙希は目を丸くして言った。「大樹君が自分で考えたの?」
「んなわけないだろ」と大樹は鼻を鳴らした。「パパが教えてくれたのをそのまま繰り返しただけ」
「びっくりした」
「でもパパが伝えようとしていることはわかる気がする。政治のことはよくわからないけど、誰かが声を上げなきゃいけないっていうか——」
幼い頃から闘病生活を強いられてきた子供が早熟するというのは聞いたことがあった。だがこの子はきっとそんなレベルには収まりきらないだろう。
とにかく初めてこちらの言葉に食いついてきたのだ。慎重に話を繋げなくてはならない。
「大樹君、お父さんのことが大好きなんだね」
とりあえず言葉を紡いだ。だがそう言ったあとで、いくらか幼稚過ぎる言い方だった気がしてそこを突っ込まれるのではないかと不安になった。案の上それが気に入らなかったのか、彼はまたブスッとした顔をして視線を本へ戻してしまった。
やれやれ、と思わず内心で溜息が漏れた。すると大樹は本を見詰めたままぼそりと呟いた。
「パパにもママにもいつも迷惑ばっかかけてるし」
何と答えたらいいのかわからなかった。また居心地の悪い沈黙が流れた。
ナースたちが病室を回って夕食の配膳を始める音が聞こえてきた。夕陽が窓のブラインドを真っ赤に染めていた。
「そろそろ行かなくちゃ——」そう言ってようやく腰を上げた。「読書の邪魔をしてすみませんでした」
頭を下げてみるがやはり反応してくれなかった。
「明日、頑張ってね」
そう言い残して立ち去ろうとすると、大樹は本から視線を逸らさずに言った。
「余計なお世話」
「え」
立ち止まって振り返った。大樹は冷たい視線を浮かべて本を凝視していた。
「もう慣れてるし」
「ごめんなさい」
「会ったばっかで何にも知らないくせに、いい人ぶるな」
「……」
頑張ってという一言が気に障ってしまったらしい。たしかに安易な言い方だったかもしれないが、ここまで辛辣な言葉を浴びせられるとは思わなかった。冗談抜きで、患児にイジメられて泣き出すことだって十分あり得るかもしれない。
「この一〇年間」と大樹は続けた。まだ許してもらえないらしかった。「生まれてからずっと、毎年のように手術ばっか——だから慣れてるし」
「そう」
俯きながら言った。こちらを睨みつけている彼の目が怖くなり、つい視線を落としてしまった。すでに看護師失格のような気持ちになってくる。
「何してた?」
「え」
「この一〇年間、何してた?」
「……」
この子は心の底から怒っているのだ、と思った。一〇年もの間、病院のベッドに縛り付けられてきた怒りがこの子の小さな身体の中にマグマのように溜まっていて、きっと普段は押し隠して我慢しているのだが、何かのときにふと尖った矛先が皮膚の内側から飛び出してきて思い切り人を傷つけたい衝動に駆られるのだ。例えば、浅はかな新米看護師に出会ったときなんかにだ。
本当のことを言うべきかどうか、迷った。
この一〇年間のかなりの部分、自分は避難先の仮設住宅の四畳半の暗い部屋に引き籠もって無為な時間を過ごしていたのだった。引き籠もる切掛けは中学でのイジメにあったとはいえ、そもそもイジメられたのは自分のせいかもしれなかった。被災地から逃げてきた子供たちが皆イジメに遭ったわけではなかったのだから——。
自分が暗い部屋の中に引き籠もっている間、この少年は病院のベッドに縛り付けられ、学校に通うことも友達と遊ぶこともできず、辛い手術を何度も受け、耐え難い痛みに歯を食いしばって耐えていたのだ。そんなことも考えずに適当な言葉で都合良く彼を励まそうとするのは、たしかに少し安易すぎたのかもしれない。
最悪の空気からどうやって抜け出したらいいのかわからなかった。気を抜くと涙が込み上げてきそうだった。だが絶対に泣くわけにはいかなかった。
ふと、クローゼットの脇に立てかけられた大きな黒いケースが目に入った。楽器のケースだと一目でわかった。大きさや形状からすると、たぶんチェロではないだろうか。この間来たときにはなかったような気がする。
「大樹君、これってチェロ?」
精一杯平静を装って、これ以上ないくらいに惚けた口調で言ってみた。
大樹は肩透かしを食らって土俵を割ってしまった力士のような顔をしてこちらを見た。
部屋の中に再び微妙な空気が流れた。大樹は無言のまま小さく頷いた。
「大樹君が弾くの?」
「唯一の生き甲斐」と彼は言った。
「そうなんだ」
「でもそのうちに弾けなくなるに決まってる」
「どうして?」
「そのうち腕に転移するに決まってるし」
鋭い刃物で心臓を抉られたような痛みが走った。
「いままでは偶々ついてただけ。なぜか腕には転移してこなかった。全部足。明日の手術もここ」
大樹はそう言って布団の中の太腿のあたりを指さした。
「遅かれ早かれ時間の問題。唯一の生き甲斐もきっとそのうち奪われる」
「そんなことわからないよ」
そう言ってしまったあとで、また悪い癖が出た、と思った。性懲りもなくまたいい人ぶろうとしている。だがもう止まらなかった。
「神様にお願いしてみた?お願いすれば、きっとずっと弾き続けられるんじゃないかな?」
単にいい人ぶっているだけでなく、あまりにも幼稚で脳天気な言葉だった。自分の言葉が情けなかった。
「もし神様がいるのなら、初めからこんな身体になってないし」
大樹は独り言のように力なく言った。気落ちした口調が痛ましかった。鋭い棘が突然ボロボロと抜け落ちてしまったバラみたいだった。
息が詰まって言葉が出てこなかった。また涙が込み上げそうになるのを必死に堪えた。何が悲しいのか、もうよくわからなかった。とにかく泣くわけにはいかない。
「どっちにしても、チェロなんか弾けなくなったって大したことないし」
その言葉を聞いて懸命に堪えていた涙が目蓋の端から少しだけ漏れ出てしまった。ツンとした表情をしたまま指の先で涙を払った。
「化学療法で体調悪くてしばらくレッスン休んでた」と大樹は言った。「この手術が終わったら、また練習始めるつもり」
「そうなんだ」
「何か弾くの?」
「え」
「自分は何か楽器を弾くのかって訊いてるだけ?」
「私?」
大樹は苛立った様子で頷いた。
何故わざわざ嘘をついたのか、よくわからなかった。あまりにも色々な思いが絡まり合って説明するのはほとんど不可能なように思われた。
「私は何も弾けないよ」と沙希は言った。
それから、自分はいい人ぶった偽善者なだけじゃなく、嘘つきだ、と思った。
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