第3話

 沙希が六年間通った本町第二小学校は海岸から約三〇〇メートルのところにあった。どこにでもあるごく普通の公立小学校だったが、四階建て校舎の屋上からは目の前に広がる太平洋の碧さが眩しかった。

 玄関口から下駄箱を通り抜けて二階へあがる正面階段の壁に、大きな絵が掛けられていた。一人の少年が打ち寄せる白波を背景にして、ペットの犬を連れて浜辺を走っている絵だ。沙希はその絵が好きだった。誰が描いたのかは知らなかった。プロの画家が描いたにしては素人臭い絵だと感じていた。けれど毎朝目にする度に、その絵は不思議と自分の気持ちを新鮮にしてくれるのだった。

 それは小学校六年の帰りの会でのことで、夏休みが明けて少し経った頃のことだった。

 一分間スピーチが終わった後だった。その日、誰が何についてスピーチしたのかは全く覚えていない。沙希の記憶が始まるのは、スピーチが終わって一瞬静かになった教室に窓から西日が差し込んでいる情景からだった。

「では最後に、今日一日で何か気がついたことはありましたか?」

 朶さつきという担任教師が教室全体に目を向けながら言った。

 朶先生は三〇過ぎの女性教員だった。沙希は誰に対しても公平な態度を取る彼女の姿勢が好きだった。だがクラスメート達の中には、一部の生徒を依怙贔屓するといって嫌っている者も多かった。立場が違えば物事は全く違って見えるのだ、と沙希はよく思った。

 三〇名ほどの生徒たちは前を向いたまま無言で座っていた。沙希は窓際の一番後ろの席に座っていた。

「どんなことでも構いませんよ。小さなことでもいいですし」

 生徒たちは無言のままだった。

「何もありませんか?じゃあ、今日はこれで——」

 朶先生がそう言いかけたところで、廊下側の前から二列目の席に座っていた女子生徒が徐に手をあげた。

「あの——」

 周囲の友人たちからレイちゃんと呼ばれている一軍の生徒だった。ふわっとウェーブがかかったような長い黒髪をいつも天鵞絨の髪どめで結んでいた。

「はい、レイコさん、何かありましたか?」

「本当に、どんなことでもいいんですか?」

「はい、構いませんよ。何かしら?」

「えっと——」女子生徒は躊躇いがちに言った。「私、なくしてしまったものがあるんです」

「なくし物?何をなくしたのですか?」

「ペンです」

「どんなペンですか?」

「シャーペンと三色のボールペンが一つになっているやつです」

 レイコの父は地元の政治家だと聞いたことがあった。普通の小学生にはあり得ないような高価なペンも、彼女にとってはきっと当たり前のものなのに違いなかった。

「どこでなくしたの?」と朶先生は続けた。

「正確にはわかりません」

「用務員室の落とし物箱は見てみましたか?」

「はい」

「そこにはなかったのね?」

「はい」

「家の中は探してみましたか?」

「はい」

「見つからなかった?」

「はい」

「学校内でなくしたのは確かなのね?」

 レイコは黙って頷いた。

「わかりました」朶先生はそう言ってクラス全体に視線を向けた。「では皆さん、もしペンを見つけたら言ってくださいね。どこかの隅っことかに隠れていたりするかもしれませんので。いいですね?はい、では今日はこれで終わりです。気をつけて帰りましょう」

 帰りの会はそれで終わりかけた。だがレイコはまだ何か言いたいようだった。

「あの、先生——」

「はい?」朶先生は驚いた様子だった。「まだ何かありますか?」

 レイコは思ったことをはっきりと言う生徒だった。決して威圧的な言い方ではなく、上品に言葉を選びながら理路整然と考えを並べて見せるような話し方をした。クラスの取り決め事では最終的に彼女の意見が通ることが多かった。何かの話し合いになると、決まって最後に彼女が発言するのをクラス全体が待ち構えるようになっていた。

 ただその日、レイコは珍しく少し逡巡してから言った。

「お願いがあるんです」

 朶先生は訝しげに彼女に視線を据えた。「お願い?どんなお願いですか?」

「持ち物検査をしていただけないでしょうか?」

「持ち物検査?」

「はい」

「クラス全員の持ち物検査っていうこと?」

「そうです」

「いまですか?」

「はい——。いま、この場でです」

 レイコを見つめる先生の表情が曇り、目に憂いの色が浮かんだ。

 朶先生は沈黙に落ちた。「持ち物検査」という言葉の意味を考えているらしかった。教室全体の空気が緊張を帯びるのがわかった。

「あなた——」朶先生はゆっくりと確かめるように言った。「自分の言っていることがどういうことか、わかっていますね?」

 レイコは先生と目を合わせたまま、ゆっくり頷いた。

「全部でなくていいんです。筆箱を机の上に出して、隣同士でチェックするだけでいいんです」

 朶先生はレイコから視線を逸らすと、指先に刺さった小さなトゲを見つめる人のように黙ったままどこかをじっと見つめた。刺さってしまった以上、抜き取っても放置してもトゲは何らかの痛みを伴うだろう。

 それがレイコでなかったならば、朶先生はそんな提案を取り合ったりしなかったかもしれない。だが、彼女の言葉を簡単に無視することは担任といえども憚られるような雰囲気が日頃から出来上がっていた。

「——わかりました」朶先生は何かを決意したように語気を強めて言った。「では、こうしましょう。多数決を取って、持ち物検査に賛成の人が半分以上いたら検査します。どう?それでいいですか?」

 レイコは少し考えてから、

「わかりました」

と言った。

 朶先生は教室全体に向き直った。

「では皆さん——わかりましたね?筆箱の持ち物検査に賛成かどうか、多数決で決めたいと思います。全員机の上に顔を伏せてください」

 その言葉とともに生徒たちが一斉に机の上に腕を折り曲げて顔を伏せる。

「はい、皆伏せましたね?では、持ち物検査に賛成の人は手をあげてください」

 正確にはわからないが、気配から何人かの生徒が手をあげているのがわかった。沙希は手を挙げなかった。はっきりとした理由があったわけではない。なんとなく挙げるべきではないと感じたのだ。

「はい——」朶先生は言った。「皆さん、顔をあげてください」

 生徒たちは一斉に体を起こすと教卓に視線を向けた。朶先生は一呼吸おいて言った。

「では、持ち物検査を行います」

 その瞬間、教室全体がざわめいた。何かおもしろいことが始まるのではないかという野次馬めいた軽薄な空気が教室を包み込んだ。

「では——」朶先生はあえて感情を拭き取ったような乾いた声で言った。「皆さん、机の上に自分の筆箱を出してください」

 生徒たちは銘々に鞄の中から筆箱を取りだした。プラスチックのカラフルな筆箱。布製のお財布のような筆入れ。ブリキでできた年季の入ったペンケース。様々な筆箱が机の上にずらりと並んだ。

「出しましたね?では、隣に座っている人が相手の筆箱の中を——」

 朶先生はそこで言葉を詰まらせた。沙希は先生の気持ちがわかるような気がした。「調べる」「チェックする」「確認する」——そういう類いの言葉はどれも心苦しかった。

 生徒たちは先生の言葉を待っている。

「筆箱の中を——」朶先生は続けた。「——中を覗いてみてください」

 先生が言ったのはそれだけだった。沙希は内心安堵の息を漏らした。もちろん教室中の誰にも検査の目的はわかっていた。だが朶先生は敢えてそれ以上口にしなかったのだ。沙希は先生のそんな気遣いにほのかに感銘を受けた。

 沙希は自分の筆箱を隣の席の女子生徒に向かって差し出した。セーラームーンのキャラクターが描かれたピンク色の布製の筆入れだ。一〇歳の誕生日に母がプレゼントしてくれたものだった。

 教室全体で生徒たちが互いの筆箱の中を覗き合っている。隣の席の女子生徒が沙希の筆箱の中を覗き、沙希も相手の筆箱の中を覗いた。特に変わったことはなかった。検査はそのまま何事もなく終わるかに見えた。

 だが、窓際の前のほうの席から、あっ、という声が漏れるのが聞こえた。その瞬間、教室中がしんと静まりかえった。全員の視線が一斉に窓際のほうに向けられた。

「先生、ありました」男子生徒の一人が手を挙げながら言った。「佐藤君の筆箱の中です」

 朶先生は信じられないといった様子で、窓際の席で下を向いて俯いている男子生徒を凝視した。それから教壇を降りてゆっくりとその生徒のそばへ近づいた。クラスメート全員の視線が先生の足取りに注がれた。

 朶先生は貴宏の机の前に立つと静かに言った。

「佐藤君、先生も見させてもらいますね?いいわね?」

 貴宏は下を向いたまま何も言わなかった。朶先生は、机の上のpumaというロゴに豹の絵が描かれたあちこちが破れてボロボロになった筆箱にゆっくりと手を伸ばした。恐らく小学校に入学した頃から使っていて、一度も買い換えたことがないのではないか。

 閉じられたマグネットの蓋を開けるカチっという小さな音が静まりかえった教室の中に伝わった。しばらくじっと中を覗いていた朶先生の手が動き、一本のペンを抜き取った。先生は少しの間、ペンを顔に近づけて物色した。ピンク色の四色ペンは如何にも高価そうだった。ボロボロの筆箱とは全く不釣り合いに見えた。

 朶先生はゆっくりと廊下側の席のほうへ視線を向けた。レイコは背筋をぴんと伸ばした姿勢でじっと朶先生を直視していた。

 先生は再び教壇を横切って彼女のそばに移動した。

「あなたが言っていたペンというのは、これですか?」

 そう言って朶先生はペンを差し出した。レイコはペンを受け取ると、何度かシャーペンやボールペンのノックボタンを押したり引っ込めたりしたあと言った。

「たぶん、これだと思います」

「間違いありませんか?よく見てください」

 レイコはもう一度ペンを物色した。それから言った。

「間違いありません。これだと思います」

「本当に?」

「はい」

「わかりました」

 朶先生は再びペンを受け取ると、もう一度教室を横切って貴宏の前に戻った。それから言った。

「佐藤君、このペンはあなたのものですか?」

 クラス全体の視線が再び彼の背中に注がれた。

「はい」

 貴宏は掠れるような声で言った。朶先生は続けた。

「自分で買ったものですか?」

「違います」と彼は言った。

「では、どうしたのですか?」

「もらいました」

「誰から?」

「それは——」彼は一瞬言葉を詰まらせた。「言えません」

「どうして言えないの?」

 朶先生は訴えかけるように言った。貴宏は下を向いたまま固まって動かなかった。

「わかりました」と朶先生は言った。「答えたくないことは言わなくても大丈夫です。質問を変えますね。このペンをもらったのはいつのことですか?」

 いくらかの沈黙のあと、貴宏はぽつりと言った。

「三日前くらいです」

「わかりました」

 朶先生は廊下のほうへ向き直るとレイコに向かって言った。

「あなたがペンをなくしたのはいつのことですか?」

 レイコは少し考えてから、

「三日前の月曜日だったと思います」

と言った。

 その言葉に教室のあちこちでヒソヒソと何かを囁く声が木霊した。

 朶先生の口から小さな溜息が一つ漏れた。先生は無言のまま教壇の中央に戻り教卓の上にペンを置いた。それから前へ向き直ると虚ろな目をして教室のどこかをぼんやりと見つめた。

 朶先生はなかなか動かなかった。西日が角度を増して黒板を照らしていた。遠くの方から蜩の鳴き声が聞こえてきた。

 朶先生の葛藤が沙希にはよくわかった。ボロボロに破けた筆箱の中から恐らく一本千円くらいするピカピカの四色ペンが出てくるのは、たしかにおかしかった。彼の家が母子家庭で、そんな高価な文房具を買う余裕などあるはずがないことは皆知っていた。

 貴宏の来ている服はいつもツンツルテンだった。ズボンもシャツも体操着のジャージも、どれもとっくに小さくなり過ぎていて、ズボンの丈は膝まで届きそうなくらい短かった。クラスメートたちは、ツンツル、と渾名をつけて彼のことを馬鹿にしていた。

 貴宏には人と話すときにおどおどと俯きがちに話す癖があった。こちらの目を見ずにどこか口元のあたりに視線を据えながら話すのだが、それが相手の居心地を悪くさせるのだった。あいつキモくない?マジ陰キャじゃね?そんな言葉がクラスメートたちの口癖だった。そのせいもあってか、誰も彼に近づこうとはしなかった。休み時間の間も彼はいつも一人だった。学校が終わると校庭で遊ぶこともなくそそくさと帰宅した。彼が誰かと一緒にいるところを沙希は一度も見たことがなかった。

 だが、佐藤貴宏という男子生徒は人の物を盗むような、そんなことをするような人物ではきっとなかった。朶先生もきっと同じことを考えているのに違いなかった。

 沙希は何度か貴宏が母親らしき人を手伝って廃品回収のリヤカーを押しているのを見かけたことがあった。ついこの間の夏休みにも、夕暮れ時に川沿いの道を自転車で走っているとき、貴宏が幼い弟と一緒に河川敷でリヤカーを押しているのを見かけたばかりだった。

 沙希は自転車を停めて、少しの間土手の上から彼らを眺めていた。彼の母親は体の弱そうな小柄な女性だった。少し行くと疲れて立ち止まった彼女のもとに貴宏が駆け寄り、何か言葉を掛けていた。すると母親と弟が荷台に乗り込み、貴宏が一人でリヤカーを引き始めた。親子三人の楽しげなはしゃぎ声が河川敷に木霊した。真っ赤な夕陽を浴びた貴宏の顔が大きく綻んでいるのが沙希には見えた。彼の笑顔を目にしたのは——しかもあんなに嬉しそうな笑顔を目にしたのは——それが最初で最後だった。

そんな姿を見かけたことがあったからだろうか、沙希には貴宏が人の物に手をかけるよう人物にはとても思えなかった。そして窓際の席で西日を浴びながら俯いている彼の背中を眺めているうちに、いままで気にも留めていなかった色々なことが沙希の脳裏にぽつぽつと浮かんできた。

 五年生のとき、社会科の授業でバスに揺られて仙台の博物館に行ったことがあった。見学が終わって帰りのバスに乗り込むまでの間、一時間ほど自由行動の時間が与えられた。たいていの生徒たちは土産屋に立ち寄って家族への土産を買ったり、記念写真を撮り合ったりしながらはしゃぎ回っていた。

 沙希は仲の良かったクラスメートの香苗と二人で駅前の土産屋を回り、それから近くにあったプリクラで写真を撮った。そしてそろそろバスへ戻ろうとしているときだった。香苗が立ち止まって沙希の肩を叩いた。

「ねえ、あれってツンツルじゃない?」

 沙希は彼女が指さす方向へ目を向けた。貴宏が駅前の雑踏の中でどこかを見つめて立っていた。

「何してるんだろう?」

 二人は立ち止まってしばらく彼のことを眺めていた。すると貴宏は徐にツンツルテンのズボンのポケットから小銭入れを取り出して中を覗き始めた。

「ふーん、いちおうツンツルもお財布は持ってるんだね」と香苗は言った。

 しばらく財布の中を覗き込んでいた貴宏は一枚の硬貨を抓み出した。離れていてはっきりとは見えなかったが、色合いからして十円玉のようだった。

 貴宏はふとどこかへ向かって歩き始めた。駅の方でもバスの方でもない奇妙な方角だった。

 沙希は彼の姿を目で追った。彼は雑踏の端の植え込みのところまで歩いていくと、少し膝を曲げてどこかへ向かって手に握っていた十円玉硬貨を投げ込むような仕草をした。彼の唇が小さく動くのが見えた。頑張ってください、と言ったような気がした。それから彼はそそくさとバス乗り場のほうへ向かって行ってしまった。

 沙希と香苗は恐る恐る雑踏の植え込みに近づいてみた。

 具合の悪そうな高齢の老人が植え込みの蔭に段ボールを敷いて横たわっていた。コンクリートの地面に置かれたプラスチックカップの中には十円硬貨が一枚だけ入っていた。

 それ以外にも、貴宏が駅の階段やどこかの歩道橋でお年寄りの手を取ったり荷物を抱えた妊婦を助けたりしているのを見かけたときの記憶がいくつも蘇ってきた。何年か前、まだ低学年だった頃に学校で飼っていたウサギが亡くなって皆で墓を建てて埋めたとき、彼がいつまでも啜り泣いていたことも沙希は思い出していた。

 たしかに彼の家はお金のことで追い込まれているのかもしれなかった。だが彼が人の物を盗むということが沙希にはどうしても想像できなかった。

 貴宏のことで、沙希にはもう一つ思い出があった。その時になるまで、そんなことがあったことすら忘れていたのだが。

 給食を食べ終わると、貴宏は昼休みの残りの時間をいつも一人図書室で過ごしていた。沙希は借りていた本を返しに行ったとき、何度か彼の姿を見かけたことがあった。そんなとき彼はいつも窓際の席に座ってせっせと何かを書いていた。そばを取り過ぎるときにそっと後ろから覗き込むと、算数の数式や最近習った漢字などがチラシ広告の裏紙にびっしりと並んでいるのが見えた。

 勉強の代わりに、貴宏は本を読んでいることもあった。

 それは六年生になって少し経ったころ、昼休みに沙希がある本を借りにいったときのことだった。『十三歳のハローワーク』という本だった。

 その頃、沙希はうっすらと将来のことを考え始めていた。彼女には幼い頃からピアニストになりたいという夢があった。

 三歳から始めたピアノはかなりの腕前になっていた。だがプロとしてやっていくには余程の才能がなければ無理であることも知っていた。少しずつ迷いが生じて、母の跡を継いで看護師を目指す道もあるのではないかと考え始めていたのだった。それで、どこかで耳にしたことがあったその本を読んでみようと思ったのだ。

 図書室のコンピュータ画面で検索すると、その本は貸し出し中にはなっていなかった。だが書架の棚を見るとあるはずの場所にその本はなかった。

 諦めて教室へ戻ろうとしたとき、貴宏が窓際のいつもの席で本を読んでいるのが目に入った。

 もしかしたらと沙希は思った。音を立てないように彼の背後に近寄った。そして肩越しにこっそりと覗き込んでみた。

 やはりそうだった。頁上の余白に、一三歳のハローワーク、と小さく印字されているのが見えた。沙希は諦めて踵を返そうとした。だがそのとき、ある文字が沙希の目に飛び込んできた。

 それは、医師、という文字だった。机の上に開かれていたのは、医療・福祉に関する分野、という頁だった。

「うそっ」

 沙希の口から声が漏れた。貴宏は驚いた様子で慌てて振り返った。二人は無言のまま向かい合った。

 気まずい空気が流れた。彼は目を合わせず、こちらの口元のあたりに視線を向けていた。沙希は居心地の悪さに何か言わなければと必死に言葉を探した。

「佐藤君——お医者さんになりたいの?」

 ようやく絞り出した言葉だった。答えなど期待していなかった。ただ気まずい空気から逃れようとしただけだった。

 しかし返事が返ってきた。しかも、思いもしない返事だった。

「うん」と彼は言った。そしてほんの一瞬だけだったが、こちらの目に視線を合わせながら彼は力を込めて続けた。「絶対に医者になる」

「そう」

 沙希はそう相槌を打つとまた言葉を失った。でも、お医者さんになるにはたくさんお金がかかるよね?あなたの家ではちょっとつらいんじゃないかな?

 そんな言葉が頭の中でグルグルと渦巻いていた。だがそれは口にすべきでない言葉だった。

「大須賀さんは——何になりたいの?」

 今度は貴宏が沈黙を破った。沙希は彼が自分の名前を覚えていたことにまず驚いた。そしてそれが実際に陰キャの彼の口から発声されたことに一層の驚きを感じた。

「私は——」

 沙希は言葉に窮した。その問いはこの数日の間ずっと自問自答していた問いだった。私はピアニストになりたい。彼のように堂々とそう言えない自分に戸惑うしかなかった。素直にそう口にする勇気はなかった。それほどの才能が自分にあるとは到底思えなかったし、何よりプロのピアニストになるにはおそらく医者になるのと同じくらい金がかかるにちがいなかった。貧しいとまでは言わないまでも、自分の家にそんな余裕があるとは思えなかった。

 貴宏はこちらを見つめたまま沙希の返事を待っていた。無理に答える必要など全くないことはよくわかっていた。だが、彼の真剣さに打たれたせいか、何か言わないといけないと沙希は感じた。

「私は——」沙希は噛みしめるように言った。「看護師になりたいの」 

「へえ」と彼は言った。強ばった表情が微かに緩むのがわかった。

「お母さんが看護師をしてるの。それで、私もお母さんみたいになりたいなあと思って——」

 するとさらに意外な答えが返ってきた。

「知ってるよ」

「えっ」

「大須賀さんのお母さんのこと、オレ、知ってるよ」

「うちのお母さんと会ったことあるの?」

「ううん。新聞に出てたから」

「新聞?」

「家族なのに読まなかったの?」

「何のこと?」

「この間、地元の新聞にお母さんのインタビュー記事が出てたんだよ」

「そうなんだ。それは知らなかったな」

「いいことが書いてあったよ」

「ふーん」

「あんなお母さんがいて、大須賀さんは幸運だね」

「え、うん」沙希は意外な展開に戸惑いながら言った。「ありがとう」

「同業者だね」と貴宏は続けた。

「え」

「オレたち、いつか、どこかで一緒に働く日が来るかもしれないね」

 彼の言葉に自分が何と答えたのか、沙希はもう覚えていなかった。ただ、そのとき自分が愛想笑いを浮かべてうっすらと微笑んだことはまだ覚えていた。意識はしていなかったにせよ、あのとき自分は彼のことを哀れんでいたのではなかったのだろうか。そんな日が来るはずがないよ。そう思いながら無邪気な夢を口にする彼のことを可哀想だと感じていたのではなかったのか。

 そうだ——。きっとそうに違いなかった。あのときピアニストになりたいという本当の気持ちを素直に言わなかったのは、貴宏のことを心のどこかで馬鹿にしていたからに違いない。あのときは気づいていなかったのかもしれないが、自分は彼に対して見栄を張ったのだ。身の程を弁えず夢を語るほど自分は追い込まれてはいないよ。私はあなたとは違うよ。自分はあの時きっとそう感じていたのだ。そしてその気持ちを曖昧な笑みに忍ばせて彼に伝えようとしていたのだ。

 看護師になりたいというのは決して嘘ではなかった。それなのに彼とのやり取りの後で自分は彼に嘘をついたと感じたのは、彼のことや彼の母親のことや彼の弟のことを心のどこかで見下していたからなのだ。

 朶先生はまだ沈黙したままだった。ほんの一分かそこらに違いなかったが、それは酷く長い時間に感じられた。

 凍りついた沈黙を破ったのはアケミという名の女子生徒だった。いつもレイコと一緒に行動をともにするグループの一人だった。

「先生——」アケミは手を挙げて言った。「提案があります」

 朶先生は驚いた様子でアケミのほうに目をやった。

「提案?」

「はい」

「どんな提案ですか?」

「校長先生に知らせるのがよいと思います」

「知らせるって——何をですか?」

「このことをです」

「この——ペンのことをですか?」

「そうです」

「どうして校長先生に知らせるの?」

「だって」アケミは意外な反応に戸惑うように言った。「先生がどうしたらいいのかわからなそうだから——」

 朶先生の口からまた一つ、さっきよりも大きな溜息が漏れた。

「校長先生に決めてもらうほうが楽じゃないですか?」アケミは語気を強めて言った。「そうすれば、先生も責任を負わなくて済むじゃないですか」

 アケミの言葉に教室全体がざわめいた。それっていい考えじゃない?そんな声があちこちから聞こえた。

「皆さん、待ってください」朶先生は動揺して言った。「校長先生に知らせるなんて——余程のことがない限り、そんなことはしません」

「でも——」アケミは続けた。「盗みって、余程のことだと思います」

 そうだ、そうだという声が教室中であがった。

「ちょっと待って——」朶先生は生徒たちを落ち着かせようと必死になった。「まだ盗みがあったと決まったわけではないでしょう?偶然同じペンを持っていることだってあるわけだし——」

「そんなの、先生、ずるくないですか?」アケミは苛立ちを隠さなかった。

「ずるい?どうして先生がずるいのですか?」

「だって、先生だってさっき佐藤君が盗ったかのような質問の仕方をしたじゃないですか?」

 朶先生は言葉を詰まらせた。

「先生だって、佐藤君が盗ったと思ったから、だからずっと黙ってどうしようか迷っていたんじゃないんですか?」

 アケミ、よく言った。えらい。さすがアケミ。そんな言葉がクラス中に飛び交った。

 どうしてかはわからない。後で振り返ってみると、貴宏に対して負い目があったせいかもしれなかった。いずれにせよ、気がつくと沙希は手をあげて叫んでいた。

「ちょっと待ってください」

 窓際の最後列目がけて皆が一斉に振り返った。こんなに大勢の強い視線を浴びたのは初めてだった。

「私は佐藤君じゃないと思います」

 声が震えているのが自分でもわかった。一軍のレイコや彼女と行動を共にするアケミたちに意見するのは勇気のいることだった。下手をすれば自分がターゲットにされるかもしれなかった。それでも何か言わないといけないという衝動を抑えることができなかった。

「佐藤君はそんなことをする人ではないと思います」

 教室の後ろの方から飛んできた唐突な叫び声に、クラスの誰もが何が起こったのかわからないといったふうに静まりかえった。普段はまるで目立たない下軍の女子が何故そんな大胆な発言をするのか意味がわからないというふうに。

 だが次の瞬間、教室中がどっと笑い声に包まれた。うけるー。バクショー。マジすか。乾いた笑い声が響き渡り、お前、ひょっとして、ツンツルのことが好きなのかよ、と誰かが叫んでいるのが聞こえた。

 お祭り騒ぎのような喧騒のなかで、貴宏が振り返ってこちらを見ているのが目に入った。絶対に医者になる、と言ったあのときと同じように、大きな黒い瞳が自分のほうを凝視しているのが沙希には見えた。

 何人かの男子が立ち上がって手拍子をしながら煽り立て、教室全体が、サ、ト、ウ、ド、ロ、ボー、サ、ト、ウ、ド、ロ、ボー、の大合唱になった。朶先生は呆気にとられたまま立ち尽くしていた。貴宏は肩を落として俯いたままだった。

 そのときだった。

 教室のちょうど中央の席で静かに様子を眺めていた男子生徒が音もなくスっと起立した。それからよく通る澄んだ声で言った。

「皆、もう十分じゃないかな」

 その瞬間大合唱がぴたりと止んだ。それまでの狂乱が嘘のように教室がしんと静まりかえった。

「先生も困っていらっしゃるの、皆、わかるよね?」

 立ち上がって騒いでいた男子生徒たちは跋の悪そうな顔をして銘々に着席した。

「僕も、佐藤君はそんなことをするような人ではないと思います」

 やさしい声だった。調子に載って盛り上がってしまったクラスメートたちを非難するような響きは微塵もなかった。心の中の考えが、深い森の潺(せせらぎ)に湧き出る水のように何の濁りもなくただ言葉となって現れただけの、そんな透明な響きだった。

 男子生徒の後ろ姿を目で追いながら、沙希は涙が零れそうになるのを必死に堪えていた。大逸れたことをしてしまった心細さから思わぬ形で解放された安堵が胸に押し寄せた。と同時に、男子生徒の誠実さに打たれ、その純真さに心を奪われた。

 それは円谷天翔(つぶらやてんしょう)という名の一軍の男子生徒だった。

 いや、いつも一軍グループに取り囲まれているだけで、彼は本当はそこには属していないのかもしれない。沙希は咄嗟にそう感じた。

「レイちゃん——」天翔は廊下側の席のほうへ向き直って言った。「もう一度よく家の中を探してみたほうがいいんじゃないかな?」

 レイコは天翔を見つめたまま何も言わなかった。

 天翔は今度は教壇の朶先生に向かって言った。

「先生、校長先生に知らせるのはそのあとでも遅くはないと思います」

 朶先生は口元に微かな笑みを湛えながら、「そうですね。先生もそう思います。レイコさん、もう一度よく家の中を探してみてはどうですか?」と言った。

 レイコの顔に偽りとも本心とも判断がつかないような大きな笑みが浮かんだ。それからゆっくり頷いて彼女は言った。

「わかりました。円谷君がそう言うのなら、もう一度よく探してみます」

 ようやく帰りの会が終わった。ガタガタと音を立てて生徒たちが散っていった。ふと見ると、貴宏ははまだ俯いたまま固まっていた。

 沙希は声をかけようか逡巡した。だが勇気が出ぬまま鞄を背負って教室から廊下に出た。すると誰かが後ろから呼びとめる声がした。

「大須賀さん——」

 振り返ると天翔が立っていた。やさしげな笑みがすぐそばにあった。

「さっきはありがとう」

 そう言うと、天翔は腰の辺りで小さくさよならのジェスチャーをして行ってしまった。

 ありがとうって——。それはこっちのセリフだよ。

 沙希は感動で胸を震わせながら、そう心の中で呟いた。

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